澤 穂希(さわ ほまれ、1978年9月6日 - )は、東京都府中市出身の元女子サッカー選手である。元サッカー女子日本代表。ポジションはミッドフィールダー。
アジア人史上初のFIFA最優秀選手賞受賞者。
6度のW杯と4度の五輪に出場。2011年FIFA女子ワールドカップドイツ大会・得点王、MVP。日本女子代表史上、出場数・ゴール数歴代1位(205試合83得点)。
経歴・人物
府中市立若松小学校、府中市立府中第五中学校、東京都立南野高等学校(現・東京都立若葉総合高等学校)卒業[2]。帝京大学文学部教育学科(現・教育学部)中退[3][4]。
日本代表になるまで
小学2年のとき、東京府中市にある「府ロクサッカークラブ」に兄とともに入団を希望した。女の子ということで入団を渋られるが、母の努力により仮入団となった。その後、地元の「狛江杯」で、コーチの勧めにより試合に出場し、いきなりゴールを決めた。このことは地元紙のニュースに取り上げられ、以後、正式に入団となった。また、チームメイトも澤を女の子として扱わなくなった。このころは練習も遊びも年上の男子ばかりであり、それが女子としては突出したキック力や技術が身に付いた理由だと本人が述べている。
中学に入学すると同時に、当時の日本代表が多く所属する強豪チーム読売サッカークラブ女子・ベレーザの下部組織であるメニーナに入団したが、当時の監督であった竹本一彦の判断で入団後わずか1か月でベレーザに引き上げられた[5]。本人は、「同じようにプレーできなかったことが悔しくて」と述べているが、そのため一人で毎日居残り練習を行い、結果として大きく実力が磨かれる。中学一年の夏、JLSL(現在のなでしこリーグの前身)に出場、3試合目に初ゴールを決めた。このあと日本代表に選出された[6]。
2011FIFA女子ワールドカップ優勝まで
1993年、15歳で日本女子代表に招集され、初出場を果たしデビュー戦で4得点を挙げた。その年のリーグベストイレブンに初めて選ばれその後も度々選出され、リーグを代表する選手となった。
1990年代末は、L・リーグに所属する企業が次々と女子サッカー部の廃部を決めた。澤はサッカーができなくなることを危ぶみ、1999年に大学を中退、米国に渡ることを決意した。1999年にコロラド・デンバー・ダイアモンズに所属。2000年にアトランタ・ビートへ移籍。このとき、米国選手との速さと体格・力の差に驚くが、同時に自分自身の技術で、生きていく道が見えたと述べている。米国でも高い技術で実力を発揮し、「クイック・サワ」との異名を取った[7]。
また、米国滞在中、結婚を考えたが、2003年9月アメリカ女子プロリーグ休止にともない、帰国する道を決断した[6]。
2004年にL・リーグに「ノンアマ (プロ契約) 選手」として復帰。同年4月に国立競技場行われたアテネ五輪アジア最終予選の北朝鮮戦では右ひざ半月板損傷をおして出場し、3-0で勝ち日本に2大会ぶりの五輪切符をもたらした[8]。同年、アジア年間最優秀選手賞を受賞。その後も日本国外のチームからのオファーを受けたが、なでしこジャパンの選手としてベレーザでのプレーを続け、チームの優勝にも貢献した。2006年、2008年にはなでしこリーグMVPにも選ばれた。なお、2004年7月に、サッカー日本女子代表の愛称が「なでしこジャパン」に決定し、記者会見を行った際、発表用に「なでしこジャパン」と毛筆で記したのは澤だった[9]。
主にトップ下で司令塔としての役割を果たしていたが、2007年に女子代表の監督に佐々木則夫が就任して以降は、ボール奪取能力の高さや展開力、予測に長けている事を評価されセンターハーフにコンバートされ、女子代表の攻守の要となった[10]。
2008年オフ、2009年開幕予定であったWPSからドラフト指名を受け、2009年1月にワシントン・フリーダムへ移籍[11]。ワシントンでは20試合に出場し、3得点を挙げた。同年8月、古巣の日テレ・ベレーザに一時的に復帰することになった[12]。
2011年、経営難の日テレからプロ契約の打ち切りを宣告され、1月5日大野忍、近賀ゆかり、南山千明とともにINAC神戸レオネッサへ移籍[13][14]。
移籍後には「サッカーに専念出来るINACに来てから凄くコンディションがいい」と語るなど、満を持して迎えた2011 FIFA女子ワールドカップではキャプテンとして出場。グループリーグ・メキシコ戦でのハットトリック(1得点目は決勝点)[15]、準々決勝ドイツ戦での決勝点のアシスト、準決勝スウェーデン戦での決勝点、決勝アメリカ戦での延長後半12分の同点ゴールの計5ゴール1アシストを記録し、日本サッカー史上初のW杯優勝に大きく貢献、自身も日本人初となるW杯での得点王とMVPの二冠を達成した[16]。
世界ランク1位のアメリカを決勝で下した試合によって、日本だけでなく,世界中のメディアが、なでしこジャパンを賞賛した。英国のザ・タイムズ紙は、「鉄の意志のチーム」と表現した。ニューヨークタイムズ紙は「復興への希望の上に築かれた勝利で、大震災で打撃を受けた国を盛り上げた」と賞賛している。また、アメリカチームを率いたスンドハーゲ監督は、「私たちは今日、観客にいい試合を見せられた。PKにまで及んだこの決勝戦を、ずっと覚えていただけるのではないか」とコメントした[6]。
なお、メキシコ戦でのハットトリックは自身の国際Aマッチでの記録としては2001年12月4日のシンガポール戦以来およそ10年ぶりのハットトリックであった。
2011FIFA女子ワールドカップ優勝以降
2012年1月9日、2011年度のFIFA年間表彰式にて男女を通じてアジア人では史上初となる「FIFA最優秀選手賞」を受賞した[17][18]。同月、全国のサッカー担当記者の投票によって選出される日本年間最優秀選手賞を、長友佑都や香川真司らを抑え、女子選手としては初めて受賞した[19]。
3月、ポルトガルで開催されたアルガルヴェ・カップ2012での遠征中に体調不良を訴え、帰国後検査を受け、「良性発作性頭位めまい症」と診断された[20]。以降、日韓女子リーグチャンピオンシップやキリンチャレンジカップを欠場し、4月22日のなでしこリーグ第2節福岡J・アンクラス戦で実戦復帰を果たした。
病のことを聞きつけたアメリカ代表のエース・ストライカーで在米時代の元チームメイト、アビー・ワンバックは、まだウォーキングしかできない澤をキャンプ地の鹿児島まで訪れ、「絶対に克服できる。また五輪で戦おう。でも次はやられないよ」と激励し、感激で号泣した澤は、復活への勇気を得た[21]。
2012年8月のロンドンオリンピックでは、決勝戦でアメリカに敗れるも、自身4度目のオリンピック出場で日本女子代表の史上初のメダル(銀メダル)獲得に貢献した。
2014年11月21日、アジアサッカー連盟(AFC)初代殿堂入りを果たした[22]。
2014年5月に開催されたアジアカップ以後、日本代表から外されていたが2015 FIFA女子ワールドカップ日本代表に選出された。自身6度目のワールドカップであり男女を通して世界史上最多出場選手となる。年齢的なこともあり選ばれない、もしくは選ばれたとしても商業的なことが主たる理由等と言われていたが佐々木監督は選考の理由として「(リーグで)誰よりも体を張って戦っており現在のパフォーマンスは問題ない。澤のプレーは小手先でなく90分集中して戦っている。なでしこの姿勢そのものであり(選手の)模範である」ことをあげた[23]。
2015年8月11日にINAC神戸を通じて、8月8日に入籍した事を発表[24]。その後の各報道機関の取材で、結婚相手が元ベガルタ仙台DFの辻上裕章であることが明らかになり、澤本人もこれを認めた[25][26]。
同年、「FIFA女子ワールドカップ最多出場(6回)」の記録が、ギネス世界記録に認定され、2016年9月10日発売の「ギネス世界記録2016」に掲載[27]。
2015年12月16日今季限りでの引退を表明し、17日都内で記者会見を開いた
[28]。現役最後の試合となった27日の皇后杯決勝vsアルビレック新潟レディースでは、スコアレスで迎えた後半33分に川澄のCKからヘディングで決勝ゴールを挙げ、有終の美を飾った[29]。
2016年3月、イギリスのサッカー専門サイト「Squawka」により「歴代最高の女子フットボーラー10傑」の1人に選出された[30]。
現役引退後
引退後は辻上のいる仙台へ転居し、同居を開始した。2016年7月19日、所属事務所を通じて第1子妊娠を発表した[31]。2017年1月9日女児が誕生した[32]。
2020年1月、警視庁・捜査一課長 正月スペシャル (テレビ朝日)サッカーコーチ玉賀友代(たまが ともよ)役で女優デビュー [33]。
競技歴
個人成績
クラブ
| |
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯
| 皇后杯 |
期間通算
|
1991 |
読売サッカークラブ女子・ベレーザ |
25 |
JLSL |
13 |
5 |
- |
|
|
|
|
1992 |
読売日本サッカークラブ 女子ベレーザ |
14 |
20 |
3 |
- |
|
|
|
|
1993 |
17 |
5 |
- |
|
|
|
|
1994 |
読売西友ベレーザ |
10 |
L・リーグ |
17 |
11 |
- |
|
|
|
|
1995 |
18 |
16 |
- |
|
|
|
|
1996 |
17 |
14 |
- |
|
|
|
|
1997 |
18 |
14 |
|
|
|
|
|
|
1998 |
読売ベレーザ |
16 |
11 |
|
|
|
|
|
|
1999 |
NTVベレーザ |
0 |
0 |
|
|
- |
|
|
アメリカ
| リーグ戦 |
リーグ杯
| オープン杯 |
期間通算
|
1999 |
コロラド・デンバー・ ダイヤモンズ |
|
Wリーグ |
|
|
|
|
|
|
|
|
2000 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2001 |
アトランタ・ビート |
8 |
WUSA |
19 |
3 |
- |
- |
19 |
3
|
2002 |
21 |
7 |
- |
- |
21 |
7
|
2003 |
15 |
3 |
- |
- |
15 |
3
|
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯
| 皇后杯 |
期間通算
|
2004 |
日テレ・ベレーザ |
10 |
L・リーグ1部 (L1) |
6 |
5 |
- |
|
|
|
|
2005 |
21 |
16 |
- |
5 |
3 |
26 |
19
|
2006 |
なでしこ Div.1 |
17 |
13 |
- |
3 |
2 |
20 |
15
|
2007 |
20 |
6 |
2 |
0 |
4 |
5 |
26 |
11
|
2008 |
21 |
7 |
- |
4 |
1 |
25 |
8
|
アメリカ
| リーグ戦 |
リーグ杯
| オープン杯 |
期間通算
|
2009 |
ワシントン・フリーダム |
10 |
WPS |
20 |
3 |
- |
- |
20 |
3
|
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯
| 皇后杯 |
期間通算
|
2009 |
日テレ・ベレーザ |
10 |
なでしこ |
4 |
2 |
- |
4 |
1 |
8 |
3
|
アメリカ
| リーグ戦 |
リーグ杯
| オープン杯 |
期間通算
|
2010 |
ワシントン・フリーダム |
10 |
WPS |
21 |
3 |
- |
- |
21 |
3
|
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯
| 皇后杯 |
期間通算
|
2010 |
日テレ・ベレーザ |
20 |
なでしこ |
- |
- |
1 |
0 |
1 |
0
|
2011 |
INAC神戸レオネッサ |
8 |
16 |
4 |
- |
4 |
0 |
20 |
4
|
2012 |
17 |
2 |
4 |
0 |
3 |
0 |
24 |
2
|
2013 |
16 |
2 |
6 |
0 |
4 |
0 |
26 |
2
|
2014 |
26 |
2 |
- |
2 |
0 |
28 |
2
|
2015 |
なでしこ1部 |
19 |
2 |
- |
5 |
1 |
24 |
3
|
通算 |
日本 |
1部
|
319 |
140 |
12 |
0 |
39 |
13 |
370 |
153
|
アメリカ |
1部
|
96 |
19 |
- |
- |
96 |
19
|
アメリカ |
2部
|
|
|
|
|
|
|
|
|
総通算
|
415 |
159 |
12 |
0 |
39 |
13 |
370 |
153
|
代表歴
出場大会
試合数
[注釈 1]
出場
ゴール
タイトル・表彰
代表
クラブ
- 日テレ・ベレーザ
- 日本女子サッカーリーグ:8回 (1991, 1992, 1993, 2005, 2006, 2007, 2008, 2010)
- 皇后杯全日本女子サッカー選手権大会:7回 (1993, 1997, 2004, 2005, 2007, 2008, 2009)
- L・リーグカップ:1回 (1996)
- なでしこリーグカップ:1回 (2007)
- なでしこスーパーカップ:2回 (2005, 2007)
- INAC神戸レオネッサ
個人
- FIFA最優秀選手賞:1回 (2011)
- 2011 FIFA女子ワールドカップ:大会最優秀選手、得点王、オールスターチーム(優秀選手)
- アルガルヴェ・カップ 大会最優秀選手:1回 (2011)
- アジア年間最優秀選手賞:2回 (2004, 2008)
- AFC女子アジアカップ 大会最優秀選手:1回 (2008)
- 東アジアカップ 大会最優秀選手:2回 (2008, 2010)
- 日本年間最優秀選手賞:1回 (2011)
- 日本女子サッカーリーグ
- 最優秀選手賞:2回 (2006, 2008)
- ベストイレブン:11回 (1993, 1995, 1996, 1997, 1998, 2005, 2006, 2007, 2008, 2011, 2012)
- 敢闘賞:2回 (1991, 1992)
- 最多アシスト:1回 (1998)
表彰
出演
テレビ番組
CM
- アクアクララ「子育てアクアプラン」 「ヒーローインタビュー」篇(2020年4月 - )
著書
脚注
注釈
出典
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
澤穂希に関連するメディアがあります。
受賞歴 |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
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1部 |
1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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2部 |
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3部 |
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MVP - 得点王 - 敢闘賞 - 新人賞 |
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1980年代 | |
---|
1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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