木村 和司(きむら かずし、1958年7月19日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者、サッカー指導者[2]。現役時代のポジションはミッドフィールダー(攻撃的MF)、フォワード(ウイング)。元日本代表。日本サッカー元祖10番[3]。
日本サッカー協会公認S級ライセンス所持。国際Aマッチ6試合連続ゴールは日本代表連続得点記録(2020年時点)。
広島市立大河小学校[4][5](広島大河FC)[注釈 1]–広島市立翠町中学校を経て[4][5]、県立広島工業高校(通称:県工)に進学[7][注釈 2]。攻撃的サッカーで名を馳せた県工の右ウイング[2]、中心選手として1975年度の高校選手権でベスト4の成績を残した。
1977年、明治大学二部政治経済学部へ入学し、サッカー部に所属[7]。同期には佐々木則夫がいる[8]。 当時の明大サッカー部は関東大学サッカーリーグの二部[7]。同年、U-19サッカー日本代表としてAFCユース選手権出場[2]。1979年明大2年で全日本(日本代表)入りし、日本で開催された第2回ワールドユース選手権に「ワシより年下でうまい選手なんかおらんで」と、国立競技場にマラドーナを見に行った[3]。当時の代表監督・渡辺正と同郷でもあったため、大学卒業後は新日本製鐵サッカー部入りが確実とされた。他にも読売からオファーが有り、読売入りに傾いていたが、日産自動車サッカー部の加茂周監督と面会したことで[9]、1981年(昭和56年)に高校の先輩・金田喜稔も所属していた日本サッカーリーグ(JSL)二部の日産へ入団した[10]。
日産では社員として、サッカー以外の時間はデスクワークなどをこなしていた[11]。1981年4月5日の富士通戦でデビュー[12]。チームのJSL一部再昇格に貢献[2]。加入後やや伸び悩んだが、1983年(昭和58年)に加茂監督により、右ウイングから攻撃的MFにコンバートされるとゲームメーカーとしての才能が開花し、大きく成長を遂げた[2][12]。また、チームも優勝を逃したものの、前年度の8位から2位へと躍進、同シーズンの天皇杯決勝ではゴールチャンスを演出し、ヤンマーを2-0と破り初タイトルを獲得した[13]。
1983年、1984年(昭和59年)と二年連続フットボーラー・オブ・ザ・イヤー受賞[7]。元毎日新聞東京本社運動部長でスポーツライターの石川泰司は1985年当時、日本プロ野球界の若きスーパースターで、木村と誕生日も3日しか違わない同世代の原辰徳を引き合いに出し、「木村和司君と電車に乗り合わせたとき、『アッ、サッカーの木村だ』と気がつくのは『狂』の字のつくサッカーファンに限られるだろう。例えば巨人軍のハラタツ君(原辰徳)だったら、お騒ぎになることうけ合いだ。この木村君も釜本(釜本邦茂)なき日本サッカーのエース、世が世なら、つまり日本にプロサッカーがあろうものならスーパースターであるべき人なのだ。二年連続のフットボーラー・オブ・ザ・イヤー、つまりMVPとはハラタツ君など及びもつかない実績(中略)サッカー途上国の日本を見限って外国プロになる選手もいる時代。しかし26歳にして二女の父『一番大事なのは家庭』という木村君は西ドイツからの誘いを断った(中略)メキシコ・オリンピック3位直後のサッカー・ブームをとり戻すためには、第一に日本が国際レベルで勝たねばならない。そして第二に皆さんが、なかなか男前のこの顔を『サッカーの木村だ』と知らなければならない」などと書いた[7]。
1986年(昭和61年)、当時導入されたのプロサッカー選手登録制度「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の第1号選手となる[2]。「奥寺(康彦)さんがプロのまま日本リーグに戻ってくるなら、わしもプロにしてくれ」と木村自ら名乗り出たものだった[14]。年俸は1200万円[15][注釈 3]。しかしこの頃から不調に陥り精彩を欠くようになり、日本代表からも外れた。1986年1月1日の天皇杯決勝、フジタ工業戦では先制ゴールを決め、チームに優勝をもたらした[12] 。日産の日本リーグ・JSLカップ・天皇杯の三冠達成、木村自身も復調し、1988-89シーズン、11節の全日空戦では、木村としては珍しいヘディングでのゴールを決め[注釈 4]。1989年の日本リーグ年間最優秀選手賞に5年ぶりに返り咲き健在をアピールしたが、日本代表に再び招集されることはなかった。1990年、日本サッカーリーグ25周年を記念して開催されたバイエルン・ミュンヘンとの親善試合では、日本選抜としてクラウス・アウゲンターラーをかわして先制ゴールを挙げた[18]。同年のJSLカップ決勝、古河電工戦ではチームの3点目を決めて優勝に貢献した[19]。
1991年、これまでレギュラーを務めてきたが、前期でチームは低迷したため、後期のリーグ戦ではオスカー監督がチームのテコ入れを図るため、ベンチスタートにさせることもあった[20]。清水監督が就任すると再びレギュラーに返り咲き、1992年元旦、天皇杯決勝の読売戦では、延長戦に入りこぼれ球をペナルティーエリア外からのボレーシュートで決めて、これが決勝点となった[21]。1993年元旦、第72回天皇杯決勝の読売戦では、1点目の水沼のゴールのきっかけを作ると、延長戦ではCKで神野卓哉の決勝ゴールをアシストした[22]。
1993年、Jリーグ発足に伴って横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)と契約。「ミスター・マリノス」と呼ばれた[14][23]。Jリーグ開幕戦となったヴェルディ川崎戦では先発フル出場、ショートコーナーからエヴァートンの同点ゴールをアシスト[24]、更にディアスの決勝ゴールの起点となった[25]。6月30日の浦和レッズ戦で巧みなループシュートから、Jリーグ初ゴールにしてJリーグでは唯一のゴールを決めた[26]。7月17日にはJリーグオールスターサッカーに7番を着用して先発出場[27]、スルーパスで三浦知良のゴールをアシストした[28]。後期の開幕戦となったヴェルディ戦では、スルーパスでディアスのゴールをアシストして3-0で勝利、(当時拮抗した試合が多かった両チームの対戦としては)記録的大勝に貢献した[29]。この年、怪我離脱することも多かったが、特にディアスと良いコンビネーションのプレーを見せるなど[30]、年間を通じてパスやFKから多くのアシストを決めた。
1994年11月5日のサンフレッチェ広島戦で63分から出場[31]、その後もベンチ入りはするも、この試合がリーグ戦での最後の試合出場となった。天皇杯では1回戦の北陸電力戦で現役最後のゴールを挙げ、準決勝まで勝ち上がり、準決勝のセレッソ大阪戦に先発出場したが、大きな見せ場を作れないまま、85分に山田隆裕との交代となった[32]。この試合は1-2と破れ、これが現役最後の公式戦となった[12]。同年12月27日、ひらめいたという理由で現役引退を発表した[12]。引退会見では引退という表現を嫌い、卒業という言葉を用いた[12]。「もっとサッカーが上手くなりたいです」という言葉を残し、その飽くなき向上心は記者・ファンに強い印象を残した[33]。1995年7月30日、三ツ沢公園球技場でライバルチームであったヴェルディ川崎(現役選手やジョージ与那城らOBからなる)との引退試合が開催された[34]。
1979年(昭和54年)、明治大学2年で日本代表入りすると、同年5月27日のフィオレンティーナとのフレンドリーマッチで先発出場、初出場を果たし[35]、以降代表チームの常連となった。1982年1月20日のゼロックス・スーパーサッカー、ディエゴ・マラドーナを擁したボカ・ジュニアーズ戦では直接FKからゴールを奪った[3][12][36][37][38]。1983年(昭和58年)のロサンゼルス五輪予選前までは、右ウイングのスペシャリストとしてプレーしたが、所属クラブと同様に攻撃的MFとなり、攻撃の核となって80年代半ばの日本代表を支えた。1984年、アウエー韓国で開催された第12回の日韓定期戦では直接FKで得点を挙げ、アウエーの地では初となる日韓戦の勝利に貢献した[39]。
1985年2月23日メキシコW杯アジア1次予選では、第1戦シンガポール戦でCKから直接ゴールを挙げた[40]。4月30日に平壌で開催された北朝鮮戦では、相手選手との競り合いで脳震盪を起こし、口からは泡を出すなど、約40分間意識が戻らず、救急車で病院に運ばれ入院した[41]。5月18日の第4戦シンガポール戦から、同年10月26日メキシコW杯アジア最終予選第1戦韓国戦まで、1985年の1年間だけで国際Aマッチ6試合連続ゴールを成し遂げた。これは未だに日本代表連続得点記録である(2011年時点)[42][43]。1987年(昭和62年)のソウル五輪予選前に、プレー振りが低調であったため、石井義信監督は悩んだ末に木村を外す決断を下した[44]。
1989年には5年ぶりに日本リーグの年間最優秀選手賞に返り咲くなど復調したが、代表に招集されることはかった。1993年にドーハで開催されたワールドカップアジア最終予選時、代表監督を務めていたハンス・オフトはラモス瑠偉の控えとして招集を検討していたが、実際に選出される事はなかった。ラモス瑠偉は仮にワールドカップ出場権を得られても代表引退を考えていたこともあり、出場権を得れば、オフトが自分の代わりにワールドカップ本大会のメンバーに木村を招集するだろうと考えていた。しかし、出場権を得られなかったことを前述の理由もあり謝罪したという[45]。
引退後は指導者をめざし、1997年(平成9年)にS級ライセンスを取得。2001年(平成13年)にはフットサル日本代表の監督を務めた[2]。また、夫人とともに有限会社シュートを設立し(夫人が社長)、サッカーの解説業(主にNHK BS1「Jリーグ」解説)やサッカースクールなどの運営を行った。2007年(平成19年)には横河武蔵野FCのスーパーバイザーを務めた。
2010年(平成22年)シーズンより横浜FMの監督に就任[2][46]。自身初の監督業挑戦となった。1年目は8位に留まり、2年目の2011年(平成23年)はシーズン中旬まで優勝争いをしていたが秋に入ってから失速し5位に終わる。同年12月29日の天皇杯準決勝で敗れ翌年のACL出場が消滅し、翌12月30日に解任された。
一方で2011年のリーグ戦5位という成績は横浜FMが最後に優勝した2004年以降では最高の成績で、賞金圏内は2007年以来4年ぶりであったが、後半戦の失速を立て直せなかったことや、結果に拘るために守備的なサッカーをしたことが「内容がない」と判断され解任となった[47][48]。その後、うつに襲われるようになったという[49]。
2012年よりサッカー解説者として活動しており、NHK BS1「プレミアリーグ」で「ゲスト解説」扱いで務めており、2014年から正式に専属解説に復帰した。
2015年1月に体調不良を訴え、脳梗塞で病院に運ばれたことが、同年3月になって公表された[50]。同年8月、NHKBS1 ドイツ・ブンデスリーガ開幕節「ドルトムント×メンヘングラートバッハ」の解説より復帰した。
2020年9月10日、これまでの日本サッカー界への功績が評価され、日本サッカー殿堂入りすることが発表された[51]。
・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 7回出場:1982年、1984年、1986年、1987年、1989年、1991年、1992年
・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 4得点:1982年、1984年、1989年、1992年
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