森島 寛晃(もりしま ひろあき、1972年4月30日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。1998年、2002年のFIFAワールドカップメンバー。現在はセレッソ大阪運営会社「株式会社セレッソ大阪」代表取締役社長を務める。
「日本一腰の低いJリーガー」といわれた。Jリーグの開幕連続得点記録保持者(7試合連続)、オールスターゲーム最多得点記録保持者(通算6ゴール。2024年現在、オールスターゲームは事実上廃止状態にある)。現役時代にはリーグ戦だけで140得点を記録した(セレッソ在籍時に最も得点を取った選手)。
広島県の大河FCから、静岡県の東海大学第一高校(現:東海大学付属静岡翔洋高校)へ進学し、1991年に、当時JSL2部のヤンマーディーゼルサッカー部に入団。入団当初からプロ選手として契約し、高卒1年目から出場機会を得て、2年目以降は完全に主力へ定着した。
1994年には、Jリーグ入りを目指してセレッソ大阪へと改称したチームを引っ張り、プロ化1年目での昇格を達成。またこの年、JFLオールスターサッカーに出場し、ゴールを決めた[2]。Jリーグに参入した1995年には、チームの中心として50試合に出場、11ゴールを挙げ、Jリーグベストイレブンに選出された。同年、加茂周監督により日本代表に初招集。加茂政権下では一時期レギュラーにも定着したが、中田英寿の登場と共に控えとなり、岡田武史への監督交代後も主にスーパーサブ的な起用をされ、1998年のワールドカップ フランス大会日本代表にも選出、1試合に出場した。
2000年には主将としてC大阪の快進撃を支えるも、ステージ優勝まであと1勝と迫った試合で敗れ、クラブの初タイトルを逃した。この年に1stステージMVPと2度目のベストイレブン選出[3]。更に、フィリップ・トルシエの監督就任後遠ざかっていた日本代表にも再び選出され、C大阪のチームメイトである西澤明訓と共に日本の攻撃陣を牽引し、2000年のハッサン2世国王杯、アジアカップ、2001年のFIFAコンフェデレーションズカップなどで日本の上位進出に貢献した。
2001年、C大阪がJ2に降格。他クラブからのオファーもあったがそれを全て断り、C大阪に残留[4]。1年でのJ1復帰に貢献した。
2002年の日韓ワールドカップには、西澤と共にJ2クラブからの代表選出を果たし、スーパーサブとして3試合に途中出場。グループリーグ第3節・チュニジア戦では先制点を挙げ、日本の決勝トーナメント進出に貢献した。この試合の会場は、C大阪の本拠地・長居スタジアムであり、「自国開催のワールドカップで、所属するクラブのホームスタジアムで得点を挙げる」という記録でもあった。
2003年以降は代表からは遠ざかるも、クラブでは引き続き主力として活躍。「セレッソの象徴」としてサポーターから特別視されるようになる。
2005年もチームの中心選手の1人として活躍、12月24日の天皇杯準々決勝ガンバ大阪戦では先制点を決め、3-1の勝利に貢献、この年最後の得点であった。やや得点から遠ざかっていたが、年間9得点を決めた。
2006年、C大阪は2度目のJ2降格を喫する。西澤、大久保嘉人ら多くの主力選手が抜ける中、またも残留を選択。しかし、この頃に原因不明の首の痛みを発症。サッカーどころか日常生活にも苦労する状況に陥り、2007年はわずか5試合の出場で0得点と、自身初の年間無得点に終わる。
2008年、復活を期してリハビリ・治療に励むも首痛は完治せず、試合出場は叶わなかった。10月30日、現役引退を発表[5][6]。翌31日に行われた記者会見では、引退後もクラブに残りサッカー普及や広報活動を行う「アンバサダー」に就任することや、将来は監督として指揮を執りたいとの希望を表明した[7][8]。
12月6日、J2最終戦 第45節 vs愛媛FC戦ロスタイムに、自身が後継者として指名した香川真司に代わり現役最後の公式戦出場を果たした。出場した時間はわずか28秒であった。試合後、スタジアムにて最後の挨拶を述べ、家族から花束をプレゼントされた後、チームメイトから胴上げされた。その後、場内を1周している途中に香川真司に8番のユニフォームを渡し、グラウンドで現役生活最後のゴールを狙いにいくが、シュートが外れたり、クロスバーに嫌われたりするなど、4本シュートを打って結局入ったゴールは、コロコロと転がるボールをゴールしただけだった。その後、香川真司をフィールドに呼び、香川のアシストを受けた森島は、ゴールを決め、ゴールを決めた時に見せる飛行機ポーズを披露した。最後に、全員で記念撮影をし、引退セレモニーが終了した。森島が長年背負った背番号8はセレッソを象徴する背番号となり、後に香川真司、清武弘嗣、柿谷曜一朗といったセレッソの中心選手に引き継がれている。
2009年からは、セレッソの「アンバサダー」として、テレビ・ラジオ番組やイベントなどへ頻繁に出演。その一方で、将来のトップチーム監督就任を視野に、A級ライセンスを取得した。また、セレッソがチーム統括部を新設した2016年からは、同部のフットボールオペレーショングループに配属。当面は、「アンバサダー」の活動と並行しながら、チームの編成やスカウティングにも携わる[9]。
2018年12月株式会社セレッソ大阪の代表取締役社長に就任[10]。
現役時代は、「日本一腰の低いJリーガー」と呼ばれていた[11]。
2004年7月に丸坊主にして、選手を引退して社長に就任して以降も丸坊主である[12]。
練習熱心で、ヤンマー入団時の監督だった吉村大志郎(ネルソン吉村)は、2002年のインタビューで森島に対しては練習をやらせることを考える必要はなく、逆にいかにして練習しつづけるのを止めさせるかを考えなければいけないと語っている。実際、森島は2000年のアジアカップ後に、オーバートレーニング症候群と診断されたこともあった。
尊敬する人物として、広島出身の同郷人であり、大河FCの先輩でもある木村和司を挙げており、1994年の天皇杯準決勝で、当時、横浜マリノス所属の木村と初めて対戦した。森島の座右の銘「心・技・体」は木村の座右の銘でもある。高校時代から現在まで欠かさず、毎年1年の始まり、1月1日の大河FCの初蹴りには必ず参加している。木村同様、森島も36歳で現役を引退した。
原水爆禁止2002世界大会と同時に開催された青年の平和集会である「ピースジャム2002・ヒロシマ」に賛同メッセージを送ったことがある。
現役引退後は、セレッソ大阪のアンバサダーとして、テレビ・ラジオ番組へ定期的に出演(主に関西ローカル)。
2012年2月、新潟県三条市下田地区の水害復興支援でサッカー教室を開催した[13]。
2018年7月に発生した西日本豪雨災害から1年を迎えたJ1リーグ第18節サンフレッチェ広島vsセレッソ大阪戦(エディオンスタジアム広島)で、広島の小学生を対象にした広島復興支援ふれあいサッカーに参加した[14]。
2020年7月の豪雨災害で被害を受けた熊本県人吉市と球磨郡の中高生にサッカーの練習着を寄贈した[15]。
セレッソ大阪一筋でプレーしたため、現役時代は一度もタイトルに手が届かなかった。勝てば優勝という試合を落とし、リーグ優勝を1回、天皇杯を2回、ステージ優勝を1回目前で逃した。サカマガの個人インタビューで「準優勝3つくらいで優勝にしてくれないか」という趣旨の発言もしている。
現役時代に「『頑張ります』ばかり言っていたため『頑張ります禁止令』が出た」といっている。
長居スタジアムでセレッソの公式戦を開催する時には、FM NAGAI(場内FM)のセレッソサポーター向け番組にもレギュラーで出演。