遠藤 保仁 (えんどう やすひと、1980年 1月28日 - )は、鹿児島県 鹿児島郡 桜島町 (現:鹿児島市 )出身の元プロサッカー選手 、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF) 。元日本代表 。現在はガンバ大阪 のコーチを務める。
実兄の遠藤彰弘 も元プロサッカー選手。日本代表 国際Aマッチ 出場数最多記録保持者[ 2] 。2009年アジア年間最優秀選手 。2014年JリーグMVP 。また、Jリーグではアシストの統計 をとっていないため、公式記録ではないが、2018年シーズン終了時点での通算Jリーグ最多アシストを記録している[ 3] 。
来歴
プロ入り前
鹿児島県鹿児島郡桜島町に三人兄弟の三男として生まれ、6つ年上の長男・拓哉と4つ年上の次男・彰弘 に影響され、物心ついた頃から自宅の庭でボールを蹴り、高校選手権やワールドカップのビデオを見ては、気に入ったプレーを真似していたという[ 4] 。鹿児島実業高等学校 では1年生時の1995年 に高校選手権 優勝。2年生時の1996年 には高円宮杯 優勝、高校選手権 では準々決勝でPK戦で敗れたものの大会優秀選手に選ばれ、U-18日本代表にも選出された。また、2年時には当時鹿児島実業サッカー部を指導していたブラジル人コーチのジョゼ・カルロス の勧めで1カ月ブラジルに短期留学し、サンパウロ州のECサンベント の練習に参加した[ 5] 。
横浜フリューゲルス
高校卒業後の1998年 に横浜フリューゲルス へ加入。監督のカルロス・レシャック から才能を見いだされ、リーグ開幕戦の横浜マリノス 戦でいきなりプロデビューを果たす。8月1日の鹿島アントラーズ戦でプロ初得点を挙げ、1年目でリーグ戦16試合に出場するなど順調な滑り出しを果たした。
京都パープルサンガ
しかし、同年限りでクラブが消滅したため、手島和希 、大島秀夫 、辻本茂輝 ら他の新人選手とともに1999年 に京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C. )へ移籍。当時のチームメイトには三浦知良 、パク・チソン 、松井大輔 等がいた。京都ではレギュラーに定着するも、翌2000年 にチームは年間15位となりJ2 降格となった。
ガンバ大阪
2001年 、ガンバ大阪 に完全移籍。翌2002年 に監督に就任した西野朗 の下、攻撃的なスタイルを標榜するチームの中心選手になり、移籍3年目の2003年 に初めてJリーグベストイレブン を受賞する。2005年のナビスコカップ 決勝のジェフユナイテッド千葉 とのPK戦では立石智紀 相手にプロ入り以来初めてPKを失敗してナビスコカップ優勝を逃すも[ 6] 、この年自身初のシーズン2桁得点を記録し、リーグ最終節 の川崎フロンターレ 戦では、PKを決めてG大阪にとって初タイトルとなるJリーグ優勝 に貢献し、自身にとっても初となるJリーグ優勝を経験。
2006年 からは、二川孝広 ・橋本英郎 に加えこの年新加入した明神智和 とで構成された抜群のパスワークで相手を圧倒する中盤は「黄金の中盤 」と称され[ 7] 、G大阪の攻撃陣を牽引していたが、10月に日本代表 でのインド遠征中に発熱してから体調が戻らず、後にウイルス性肝炎 と判明したことで[ 8] 、シーズン終盤は1ヶ月以上の戦線離脱を余儀なくされた。12月2日に行われたリーグ最終節の浦和レッズ 戦で復帰するも、チームは敗れリーグ連覇を逃した。2007年 はシーズン通して大きな体調不良もなく、リーグ戦全34試合にフル出場し、ナビスコカップ 優勝にも貢献。
しかし、2008年 6月末にウイルス性感染症により、再び1ヶ月以上の離脱を余儀なくされ[ 9] 、オーバーエイジ 枠でのメンバー入りが確実視されていた北京オリンピック 日本代表 を辞退することとなった[ 10] 。さらに遠藤離脱後、G大阪はリーグ戦で不振に陥った。それでも、復帰後のACL ではアシストを連発し、特に準決勝の浦和戦では2戦合計2ゴール2アシストと全得点に絡む活躍でクラブ初のアジア制覇に貢献し、大会MVPを受賞した。同年11月には、イングランド2部 のプリマス・アーガイルFC からオファーを受けるが、家族のことなどを考慮してG大阪に残留した。同年12月に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップ でも、準々決勝のアデレード・ユナイテッド 戦では決勝ゴールを挙げ、準決勝のマンチェスター・ユナイテッド 戦ではチームは敗れるも試合終盤にPKでゴールを挙げ、決定的なパスを前線に供給するなど攻守に活躍を見せた。この活躍により、同大会を優勝したマンチェスター・ユナイテッド監督のアレックス・ファーガソン からは「キト (決勝で対戦した南米王者)には遠藤と同じくらいのクオリティーを持った選手はいなかった。」と賞賛された[ 11] 。さらに、同年度の天皇杯 優勝にも貢献し、ガンバでは2005年のアラウージョ 以来となる日本年間最優秀選手賞 を受賞した。
2009年 11月にはAFC から日本人では1993年の三浦知良 、1995年の井原正巳 、1997年、1998年の中田英寿 、2002年の小野伸二 以来5人目(6度目)となるアジア年間最優秀選手賞 を受賞した(ちなみに、この前年も最終候補まで残っていたが受賞はならなかった)。リーグ戦では自身5年ぶりとなる2桁得点を記録し、2010年1月1日に行われた天皇杯 決勝の名古屋グランパス 戦では、2ゴール1アシストと圧巻の活躍を見せG大阪の天皇杯連覇の立役者となった[ 12] 。なお、この頃からポジションを代表と同じボランチに移すようになった。
2010年 は代表との過密日程で開幕からコンディションが安定せず、2月27日に行われたゼロックススーパーカップ の鹿島アントラーズ 戦では、PK戦で枠を外す失敗をしてしまい[ 13] 、自身の不調と比例するかのようにチームもリーグ戦で低迷。それでも、南アフリカW杯後の復帰初戦となった浦和戦では試合終了間際に決勝ゴールを挙げ[ 14] 、その後は安定した活躍を見せた。
2011年 、Jリーグ開幕戦となったセレッソ大阪 との大阪ダービー で、プロ14年目にして初となる開幕戦ゴールを決めた。7月には3試合連続得点を記録するなど、優勝争いを続けるチームを牽引していたが、8月以降右内転筋痛によりプレースキックを蹴れない状態が続き[ 15] 、さらにクラブ・代表の過密日程により十分な休養が取れないまま強行出場を続け、最終的に発熱で欠場した1試合を除くリーグ戦33試合に出場したが、シーズン終盤まで完治しなかった。11月26日、J1第33節仙台 戦で史上7人目となるJ1通算400試合出場を達成[ 16] 。
2012年 、前年に移籍した山口智 に代わりG大阪の副主将に就いた。6月23日、J1第15節札幌 戦で、三浦淳宏 の記録を抜く当時のJリーグ歴代1位となる通算16得点目の直接フリーキックでゴールを決めた[ 17] 。7月21日、カシマスタジアム で行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチ では、サポーター投票で最多の320,709票を集め[ 18] 、Jリーグ選抜の一員として出場した。この年、ガンバは極度の不振に陥り、自身は代表との過密日程ながら5年ぶりにリーグ戦全試合に出場したが、京都時代以来のJ2降格となった。
2013年 、J2降格となったG大阪に残留。また、明神智和 から引き継ぎプロ入り以来初の主将に就いた。自身初のJ2でのプレーとなったこの年、日本代表との並行日程でリーグ戦の約4分の1ほどを欠場したが、終始安定したプレーを発揮し、G大阪のJ2優勝と1年でのJ1復帰に貢献。シーズン終盤には、フォワードとしてやや高い位置でプレーしながら、この年チーム最多得点を記録した宇佐美貴史 をサポートする役割を担った[ 19] 。シーズン終了後のJリーグアウォーズ では、サポーターの投票で選出されるJ2最優秀選手賞にあたる「J2 Most Exciting Player」を受賞した。
2014年 、開幕当初は前年の後半戦同様、前線で起用されたが4月以降は今野泰幸 とダブルボランチを形成。しかし、開幕当初はミスが目立ちチームも前半戦は極度の不振に陥り、ブラジルW杯 による中断前は降格圏の16位に低迷。それでも、中断期間の休養を経て後半戦は調子を取り戻し攻撃の起点となり多くのアシストを記録し、前半戦不振に陥っていた今野の復調も支え、チームの後半戦躍進を加速させた[ 20] 。11月のナビスコカップ 決勝のサンフレッチェ広島 戦では、前半35分で2点のリードを許す苦しい展開となるも、その3分後にパトリック の得点をアシストし、後半の逆転劇を手繰り寄せ7年ぶりのナビスコカップ優勝を達成[ 21] 。シーズン終盤はカップ戦も勝ち進んだことで過密日程になるも、リーグ戦はフィールドプレーヤーでは唯一の全試合に出場し、FKとPKではそれぞれJ1最多記録に並んだ。先発メンバーに多くの若手選手が名を連ねるようになった中、不動の平常心でチームを牽引し[ 22] 、J1昇格1年目で9年ぶり2回目のリーグ優勝を果たし、さらにはクラブ史上初の国内三冠を達成。Jリーグアウォーズでは11度目のベストイレブンと自身初となるJリーグ最優秀選手賞 を受賞した[ 23] [ 24] 。
2015年 4月18日、J1.1st第6節・湘南戦でJ1でのPK通算27得点目を決め、福田正博 を抜きPK得点単独トップに立った。10月17日のJ1.2nd第14節浦和戦でJ歴代最年少でJ1通算500試合出場を達成[ 25] 。この年もリーグ戦全試合にフル出場。CS準決勝 浦和戦では延長後半にフリーキックから浦和ディフェンスの意表をつきパトリックのダメ押しゴールをアシスト。決勝の広島戦では第1戦・第2戦共にセットプレーから今野のゴールをアシストしたが、いずれも勝利には結びつかず後一歩でリーグ連覇を逃した。2015年シーズン最後のタイトルがかかった天皇杯決勝・浦和戦では後半にコーナーキックからパトリックの決勝ゴールをアシストし、天皇杯連覇に貢献。優勝セレモニーではこの年限りで移籍した明神智和 のユニフォームを着て壇上に上がり、長年プレーした明神への感謝を示した[ 26] 。
2016年 10月29日、2ndステージ第16節のアルビレックス新潟 戦で史上13人目、MF登録では藤田俊哉 以来2人目となるJ1通算100得点を達成[ 27] 。
2017年 4月に行われたACL ・江蘇蘇寧足球倶楽部 戦での失点に絡むミス[ 28] やアデレード・ユナイテッドFC 戦でのPK失敗[ 29] など、不調が続き4月30日に行われた第9節の横浜FM戦ではルーキーイヤー以来19年ぶりのベンチに入ったものの出場なしで試合を終えた[ 30] 。しかし、5月5日に行われた第10節の清水戦ではチームが負けている状態で途中出場し、存在感を発揮し、チームを引き分けへと導いた[ 31] 。8月9日、第21節の広島戦では20年連続で得点を決めて、藤田を抜きMF登録で歴代最多得点を記録した[ 32] 。
2018年 2月23日、開幕戦の名古屋グランパス 戦で得点を挙げ、21年連続ゴールを達成[ 33] 。11月10日、第32節の湘南ベルマーレ 戦ではフィールドプレーヤー史上初となるJ1リーグ通算600試合出場を達成した[ 34] 。また、シーズン終了後に放送されたTBS 「スーパーサッカー 」(2019年2月10日放送)で番組で統計したJリーグ通算アシストランキングの1位にランクインした[ 3] 。
2019年シーズン開幕戦に先発出場し、Jリーグ(J1・J2を含む)史上初の20年連続開幕戦先発の単独記録となった。ちなみに昨シーズンまで並んでいた中澤佑二 は昨シーズンをもって引退している[ 35] 。4月20日、第8節の大分トリニータ 戦で22年連続ゴールを達成。8月2日、第21節のヴィッセル神戸 戦で日本人選手としては初となる公式戦1000試合を達成した[ 36] 。
2020年7月4日、第2節のセレッソ大阪 戦でJ1史上最多となる632試合に出場した[ 37] 。同試合後には「選手である以上はスタメンで出たい。常にアピールしていきたい」と口にしていたが、J1リーグ第20節終了時点で出場はJ1リーグ11試合363分、ルヴァン杯 2試合100分のみで、J1リーグ開幕戦こそフル出場したものの、新型コロナウイルス感染拡大の影響 による中断から再開後は先発出場したリーグ戦2試合、ルヴァン杯1試合を含め全て途中交代にとどまり、J1リーグ第12節・第13節では2戦連続のベンチ外も経験。
ジュビロ磐田
10月5日、出場機会を求めて同シーズンのJ2リーグ で13位に低迷しているジュビロ磐田 へ期限付き移籍 することとなった[ 38] [ 39] 。10月10日、移籍後初の試合となった第25節の松本山雅FC 戦で先発フル出場を果たすと、10月25日、第29節のザスパクサツ群馬 戦で公式戦5年ぶりに直接FKを決め、移籍後初得点を上げた。加入後、15試合に先発出場し、チームは18試合で僅か3敗と最終的に6位まで立て直し、低迷していたチームを活性化させた。
2021年5月15日、第14節のザスパクサツ群馬戦において決勝点を挙げ、自身が持つJリーグシーズン連続ゴール記録を24年に更新した。1998年のプロデビュー以来毎シーズンのゴールであり、ゴールを記録したシーズン数も歴代1位の24年となり同2位の三浦知良 の23年を上回った[ 40] 。シーズンを通して主力として活躍し、チームのJ1昇格、J2優勝に貢献した。12月27日、2022年シーズンより磐田に完全移籍することが発表された[ 41] 。
2022年3月12日、移籍後初の古巣ガンバ大阪との対戦では、G大阪に在籍経験のあるチームメイトの鈴木雄斗 、大森晃太郎 との連携で先制点を演出した。10月29日に行われたG大阪との試合では、G大阪のホームスタジアム・パナソニックスタジアム吹田 のピッチに移籍後初めて立った。チームはG大阪に敗れてJ2降格が決定。奇しくもG大阪はこの試合後に残留を決めて、遠藤は元ホームスタジアムで降格を味わった。試合後には、スタジアムを一周して古巣のサポーターに挨拶をした[ 42] 。遠藤はその後1年プロを続けたのちに引退したため、結果的にこれが現役最後のパナソニックスタジアムでのゲームとなった。シーズンを通してレギュラーとして出場を続けていたが、自身はキャリア初のシーズン無得点に終わり、チームも僅か1年でJ2降格を喫した。
2023年はシーズンを通して中盤まではレギュラーとして多く試合に出場していたが、シーズン中盤以降はスタメンを外れベンチスタートやベンチ外になることも多くなったが、チームは最終節で栃木SCに勝利して自動昇格を争うライバルの2位清水を抜いてリーグ戦2位に浮上して1年でのJ1復帰を決めた。
2024年1月9日、2023シーズンをもっての現役引退を発表した[ 43] 。遠藤の引退により、横浜フリューゲルス に在籍経験のある選手が全員引退した。
現役引退後
引退発表と同時にガンバ大阪のトップチームコーチ就任が発表された[ 43] [ 44] 。
日本代表
1999年、U-20日本代表 としてナイジェリアで開催された第10回ワールドユース選手権 に出場し、日本代表の準優勝に貢献。この代表メンバーは後にJリーグやフル代表の中心的存在となる選手が多かったことから「黄金世代 」と呼ばれている[ 45] 。同年、シドニーオリンピック予選のU-22日本代表 にも選出され、アジア1次予選、最終予選はスターティングメンバーとして戦ったが、2000年 のシドニーオリンピック 本大会では、予備登録メンバーとして選出されるも、出場機会はなかった。
2002年 、当時の日本代表監督ジーコ によってフル代表 に初招集され、11月20日のキリンチャレンジカップ ・アルゼンチン 戦で初出場を果たし、以降、代表レギュラーの座を勝ち取る。翌2003年 には、FIFAコンフェデレーションズカップ2003 に全試合スタメン出場。同年8月20日のナイジェリア 戦で待望の代表初ゴールを挙げる[ 1] 。当時のボランチは同期の小野伸二 や稲本潤一 、中田浩二 といった海外組を始め、同じ国内組の福西崇史 などがいたため激戦区であったが、2004年のアジアカップレギュラーとして日本代表の優勝に貢献した。翌年、中田英寿 のボランチへのコンバート志願のあおりを受け、再び控えに回る事になり、2006年 のドイツW杯 ではフィールドプレーヤー(GK 以外の選手)で、唯一ピッチに立つことがなかった[ 46] 。
ドイツW杯後、新監督イビチャ・オシム からの指導でプレースタイルに磨きをかけ、代表の中心的存在に登りつめ[ 47] 、ドイツW杯を最後に現役を引退した中田の背番号7を引き継いだ。オシムジャパン ではボランチではなく、オフェンシブハーフ として起用されたのが特徴である(ガンバ大阪では同様の起用法は頻繁に見られるが、日本代表では主にボランチで起用されていた)。
2007年 12月、オシムが病に倒れ退任、急遽監督に就任した岡田武史 は、当初、オシムのチームを引き継ぐという立場であったため、遠藤もオシム時代同様にオフェンシブハーフでの起用が多かったが、岡田が「俺のやり方でやる」と宣言した2008年 の南アフリカW杯アジア3次予選から、長谷部誠 とダブルボランチを形成。守備陣と攻撃陣のパイプ役を担って、南アフリカW杯予選 突破に貢献し、岡田からは「チームの心臓 」と称された[ 48] 。その後も、代表でのレギュラーの座を不動のものにしていたが、W杯直前にリーグ戦やACL 、さらには日本代表戦など、連戦による過密日程をこなすことで大きくコンディションを落とし、2010年 2月の東アジア選手権 や親善試合のセルビア 戦では低調なパフォーマンスに終わり、クラブに戻っても数試合は休養を取らざるを得なかったほどに疲労に苛まれていた。
2010年5月10日に南アフリカW杯のメンバー に選出され、6月の本大会 ではグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の全試合に司令塔としてスタメン出場を果たした。6月25日のグループリーグ 第3戦のデンマーク 戦では直接フリーキック を決めてW杯初得点を挙げ、4試合トータルでチーム1の走行距離を記録するなど、日本代表初のアウェーでのベスト16入りに大きく貢献した。このフリーキックについて遠藤本人は、「(本田圭佑 が蹴る事を希望していたが)圭佑は1本目決めてたんで、俺に蹴らせろみたいな感じ」で自身が蹴る事にしたと語っている[ 49] 。尚、本大会は公式ボールが無回転シュート 向けの特性を持ち、横回転を掛け難い“ジャブラニ ”が採用されたため、多くのカーブ系のキックを得意とする選手が悪戦苦闘する事態になった。そんな中、遠藤はジャブラニを自在に操り、前述のフリーキックだけでなく起点としてもカメルーン戦の本田のゴール、デンマーク戦の岡崎のゴールを演出。岡田監督が「このチームの心臓」と評したとおりの活躍を見せ期待に応えた。ちなみにW杯で1試合2本のフリーキック成功は44年ぶりである[ 50] 。
2010年10月12日、親善試合の韓国 戦で、井原正巳 、川口能活 、中澤佑二 に次ぐ4人目、GKとDF以外のポジションの選手では初となるフル代表100試合出場を達成[ 51] 。
南アフリカW杯後に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニ からもレギュラーとして起用され、2011年 1月に開催されたアジアカップ では全6試合にスタメン出場を果たし、チーム最年長、チーム最多CAP選手として若いチームを引っ張り、中盤の底から決定的なパスを何本も供給し、ゲームをコントロールし続けた大車輪の活躍で、日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に大きく貢献し[ 52] 、大会MVPに輝いた本田圭佑 は、MVPについて感想のコメントを求められ「個人的にはヤットさん(遠藤)だと思う。ああいう人がいなかったら勝負は紙一重だった」と遠藤を讃えた[ 53] 。
2011年3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン! 」では、先制点となるフリーキックを決めた[ 54] 。
2012年10月12日、フランス との国際親善試合にフル出場し、井原正巳が持っていた日本代表の国際Aマッチ最多出場記録の122試合に並ぶと[ 55] 、続く16日のブラジル 戦にも出場し、最多出場記録を13年ぶりに更新[ 56] 。さらに翌2013年9月10日のガーナ 戦に出場したことで、それまで東アジア諸国の国際Aマッチ最多出場記録を持っていた韓国 ・洪明甫 の136に並び、10月11日のセルビア との欧州遠征第1戦に出場して137試合目となり、東アジア最多出場記録を更新した。
2014年5月、ブラジルW杯 代表に選出され、日本代表では唯一ドイツ大会から3大会連続選出となった。本大会では、クラブで調子を落としていたことから直前でレギュラーから外され、第1戦コートジボワール 戦、第2戦ギリシャ 戦ともに長谷部誠 に代わり後半から出場。第3戦コロンビア 戦は出場機会がなくチームも敗れグループリーグで敗退した。
ブラジルW杯以降、ハビエル・アギーレ 体制となってからは代表から外れていたが11月に代表復帰。同年12月、AFCアジアカップ2015 の代表メンバーに選出され、日本代表としては初のアジアカップ4大会連続選出となった。グループリーグ第1戦パレスチナ 戦では先発出場で先制ゴールを決め、三浦知良 が持っていたアジアカップの日本代表最年長ゴール記録(29歳9カ月)を34歳11カ月に更新、さらにアジアカップの出場数も通算最多となった[ 57] 。続く第2戦イラク 戦にも先発出場し、国際Aマッチ150試合出場を達成した[ 58] 。
ヴァイッド・ハリルホジッチ 体制後からは代表に選出されておらず、ハリルはその理由を最初の代表発表の場で「遠藤は日本のレベルを上げてくれた。でもリストには入ってない。私はW杯ロシア大会の準備のために日本に来ている。メンバーは、今までのリストを中心に、さらに自分の考えを加えて作成している。遠藤はこれまで、日本のために貢献してくれた。敬意を表したい。」とロシアW杯時の年齢を配慮し選出しない事を宣言している[ 59] 。
2013年9月6日に行われたグアテマラ 戦で遠藤がFKで決めた得点以降[ 60] 、日本代表は直接FKでの得点は2018年11月に原口元気 が決めるまでの約5年間無かった。
プレースタイル
ボランチ としてボールキープが巧みで[ 61] タメをつくることができ、正確なパスを散らすゲームメーカー [ 62] 。短距離〜やや長い浮き球のパスを得意とし、中央からの散らしに関しては足元・スペースを正確に突く、特に短距離のパスは相手の重心と反対の方向へ出すことでカットされにくく、日本でも屈指の精度を誇る。G大阪の戦術上、中・長距離のパスは用いることは少ないが、こちらも非常に高い精度を持つ[ 62] 。
ポジションは主に攻撃的MF およびセントラルMF 。スピードやフィジカルに頼ったプレーやヘディング は得意としていないが[ 63] 、プレースキック の精度が高く、直接得点したりアシストする場面が頻繁に見られる。直接フリーキック はプロ入り初期はそれほど蹴っていなかったが、日本代表に選出された後、監督のジーコ からプレースキッカーの役割を担うよう提言を受け、以降はクラブや代表でもプレースキックを任されることが多くなった。強い回転系のシュートを得意としており[ 50] 、ペナルティエリアやや外くらいからゴールマウスを的確にとらえられる高精度のミドルシュート を持つ。また、テクニックタイプではあるがボディーコンタクトも強い。 [独自研究? ]
元々遠藤は運動量がそれほど多くなく、中盤の底からゲームメイクをするバランサータイプの選手であったが、2006年に日本代表監督に就任したイビチャ・オシム から「チームのために走りなさい」と指導され、以降は自らドリブル突破やゴール前でのワンツーからの飛び出しなど仕掛ける動きが目立つようになり、攻撃的な役割を担う部分が多くなった[ 46] 。オシムの指導によって豊富な運動量も遠藤の武器となり、 [独自研究? ] 南アフリカワールドカップ で計測された4試合389分での走行距離は47.02 km。同大会に出場した日本代表選手での中で本田圭佑(45.48 km)、長友佑都 (45.43 km)らを抑え最長を記録した[ 64] 。また、状況判断力にも長け、パスを供給する位置やタイミングを自在に把握する広い視野と戦術眼も併せ持っており[ 65] [ 66] 、本人の何事にも動じない落ち着いた性格からどんな状況でも常に慌てることなくプレーできるなど精神面も強い[ 65] 。
各年代の評価
オシム からは「常に自分をコントロールし、チームメイトや対戦相手もコントロールする。その知性はチームに大きなプラスアルファをもたらす。彼がいれば監督は必要ない」と高い評価を得ている[ 67] 。遠藤保仁はクラブ・日本代表双方において必要不可欠な存在とされており、様々な見地から「遠藤保仁不在」が不安視されていた[ 65] [ 68] 。日本代表における遠藤の後継者候補に挙げられていた選手には柴崎岳 [ 69] 、扇原貴宏 [ 70] 、家長昭博 [ 71] 、柏木陽介 [ 72] 、高橋秀人 [ 73] がいたが、いずれも候補止まりであり、ポスト遠藤の評価を得るまでには至っていない。
2020年4月、イギリスメディアの選ぶ21世紀の日本代表ベスト11に選ばれた[ 74] 。
ペナルティーキック
遠藤はPK を蹴る際、しばしば遅めの球速で蹴る場合がある。ボールがピッチ上をコロコロと転がりながらゴールマウスに向かう様子からメディアやファンからは「コロコロPK 」と呼ばれている[ 75] 。助走時間を長く取ってゆっくりとボールに近づき、ボールは一切見ず相手ゴールキーパー の動きを最後まで見ることで相手の重心の動きを見極め[ 6] 、ゴールキーパーが動いた方向とは逆方向にインサイドキックでボールを転がすように蹴る[ 76] 。もしゴールキーパーが動かなかった場合はサイドに強く蹴る[ 76] 。近年では詳細が知れ渡ってしまったため、上記のキックをしないことが多い。
リーグ戦でのPK成功率は9割以上であり[ 75] 、J1での通算PK得点(30得点、2015年シーズン終了時点)はJ1最多記録である。さらに、2008年のFIFAクラブワールドカップ 準決勝のマンチェスター・ユナイテッド との対戦では、コロコロPKで元オランダ代表 のファン・デル・サール からゴールを奪い[ 75] 、2010年のFIFAワールドカップ 決勝トーナメント1回戦のパラグアイ 戦でも、1人目を任されて成功させる(ただし、この時はジャブラニ がコロコロPKに合わないという理由でサイドに鋭く蹴った)[ 77] など、代表での試合を含め国際大会においても成功率は高い。
エピソード
憧れの選手はという問いには「2人の兄」を挙げており[ 78] 、6つ上の長男・拓哉は次男よりも憧れの選手で、鹿児島実業高校 では前園真聖 と同期で背番号10を背負ってプレーし、高校選手権 では2年 、3年 と連続して優秀選手に選ばれ、[ 79] 大学選抜や実業団(九州サッカーリーグ 、鹿児島県社会人サッカーリーグ などに所属した京セラ川内サッカー部)で活躍。4つ年上の次男・彰弘 は横浜FM や神戸 で活躍し、アトランタオリンピック では10番を背負ったなど、サッカー界では有名な「遠藤3兄弟 」として知られている[ 78] 。
夫人は高校時代の同級生で[ 80] 、4人の子供(娘2人、息子2人)がいる[ 81] 。
夫人と長男は2010 FIFAワールドカップ に帯同。長男が「ゴール決めてね」といった後、父親・保仁は本当にゴールを決めた(デンマーク戦)。
フジテレビ 『ポンキッキシリーズ 』のマスコット「ガチャピン 」と容姿が瓜二つである。スタジアムでポンキッキーズ ガチャピン のイラストや人形を掲げて応援するサポーターも多数[ 82] 。2005年 9月24日 放送の「ポンキッキーズ 」に出演した際、本物のガチャピンと共演し、「僕に似てるって言われるでしょ」と質問をされ、「昔は良く似てるって言われてました」と答えた[ 83] 。2010年には所属するガンバ大阪 やフジテレビKIDSで、遠藤とガチャピンのコラボ グッズが発売された[ 84] 。2010年9月8日にはガンバのホーム万博記念競技場 へガチャピンが来場し[ 85] 、2011年9月25日にはガンバの練習場に訪れたガチャピンにサッカーを教えた[ 86] 。2011年12月4日に万博記念公園 で行われたファン感謝祭では、自らガチャピンの着ぐるみを着て登場し、「本物です」「(似ているといわれて)嬉しいです」と答えた[ 87] 。
一番好きな食べ物はレバ刺し。ゴルフ が趣味であり、時間があったらもっとのめり込んでいたかもしれないと話している。また、スポーツ全般に興味があり、ゴルフの他には野球にも興味がある[ 88] 。
サッカー選手になっていなかったら、漁師 になっていたかもしれないとインタビューでは答えており、昔は釣りをするために海に出かけることもよくあった。
性格はマイペースでおっとりしているところがあり、本人曰くのんびりしすぎる時もあるのでそこが自分の弱点かもしれないと述べている[ 88] 。鹿児島実業高校時代の恩師・松澤隆司監督によると「運動能力が高く、持久走では1番になれる力がありながら、いつも3〜4番」とあまり目立とうとしないタイプで[ 89] 、親友の中村俊輔 いわく「プレッシャーをかけてもゆっくり」とのこと。本人は「緊張はしないし、慌てたりすることもない。ストレスは感じない方。人の話をあまり聞いてないところが欠点」と自己分析している[ 90] 。
趣味は競馬 。2008年スプリンターズステークス 優勝馬のスリープレスナイト の一口馬主 であった。また騎手 の福永祐一 と交友がある。
2010年の南アフリカワールドカップ での活躍で、セリエA のジェノア が獲得に乗り出したと地元メディアで報じられたが、本人は「レベルの高いところでやりたい気持ちはあるけど、イタリアの(守備的な)スタイルは嫌い」と苦笑いしていた[ 91] 。
2011年3月6日、アメーバブログ に遠藤を名乗る偽ブログが掲載される騒動が起こった。8日にガンバ側が遠藤本人のブログではないことを公表し[ 92] 、同日中にブログは閉鎖された。2014年1月15日、アメーバで公式ブログが開始された[ 93] 。2016年4月からはLINE ブログに移行している。
2012年4月13日放送の『僕らの音楽 』で、大のサッカーファンである歌手の森山直太朗 と対談した[ 94] 。
2012年4月14日に公開された劇場版アニメ『名探偵コナン 11人目のストライカー 』で声優に初挑戦した。遠藤は、主人公の江戸川コナン にフリーキックの心得を伝授する役で三浦知良 、楢﨑正剛 、中村憲剛 、今野泰幸 とともに出演した。遠藤はコナンファンであり、遠藤の家族もコナンファンだと言う[ 95] 。パンフレットの独占インタビューでも、「国民的アニメのコナンに出演するということで、とても緊張していた」ことなどを述べている。
所属クラブ
個人成績
国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ
リーグ戦
リーグ杯 オープン杯
期間通算
出場 得点
出場 得点 出場 得点
出場 得点
日本
リーグ戦
リーグ杯 天皇杯
期間通算
1997
鹿児島実高
7
-
-
-
1
0
1
0
1998
横浜F
27
J
16
1
4
0
0
0
20
1
1999
京都
14
J1
24
4
2
0
2
0
28
4
2000
29
5
6
1
1
0
36
6
2001
G大阪
19
29
4
4
0
3
1
36
5
2002
30
30
5
8
1
1
0
39
6
2003
7
30
4
6
0
2
0
38
4
2004
29
9
0
0
3
0
32
9
2005
33
10
4
0
2
0
39
10
2006
25
9
0
0
4
1
29
10
2007
34
8
8
1
4
0
46
9
2008
27
6
1
0
3
0
31
6
2009
32
10
2
0
4
3
38
13
2010
30
3
0
0
2
2
32
5
2011
33
4
0
0
0
0
33
4
2012
34
5
2
0
4
3
40
8
2013
J2
33
5
-
0
0
33
5
2014
J1
34
6
6
0
5
0
45
6
2015
34
5
3
1
4
0
41
6
2016
34
2
3
1
2
0
39
3
2017
31
1
4
0
1
0
36
1
2018
34
1
6
0
1
0
41
1
2019
28
1
5
0
1
0
34
1
2020
11
0
2
0
-
13
0
磐田
50
J2
15
2
-
-
15
2
2021
35
3
-
0
0
35
3
2022
J1
31
0
1
0
0
0
32
0
2023
J2
21
0
1
0
2
0
24
0
通算
日本
J1
672
103
77
5
48
10
797
118
日本
J2
104
10
1
0
2
0
107
10
日本
他
-
-
1
0
1
0
総通算
776
113
78
5
51
10
905
128
その他の公式戦
2006年
2007年
2009年
2010年
2015年
2016年
その他の国際公式戦
Jリーグ
タイトル
クラブ
鹿児島実業高校
横浜フリューゲルス
ガンバ大阪
ジュビロ磐田
代表
個人
その他
代表歴
出場大会
試合数
国際Aマッチ 152試合 15得点(2002年 - 2015年)[ 1]
出場
ゴール
出演
テレビアニメ
劇場アニメ
CM・広告
アンブロ
ACジャパン 「ルールブックにはないルール(2009年 -・近畿圏のみ)
スカパー! (2010年 - )
でん (2011年 - )
ウィズガス住宅 日本ガス株式会社(2012年 - 、鹿児島)
対話式進学塾 1対1ネッツ(2013年)
サイバード『バーコードフットボーラー』(2014年)
西川産業『Air』(2014年)
LION『ソフラン』キャンペーンキャラクター(2014年)
明治安田生命『Number Extra』(2015年)
関連作品
書籍
DVD
脚注
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
遠藤保仁 に関連するメディアがあります。
受賞歴
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
J1
1990年代
93: サントス , 本田泰人 , ラモス瑠偉
94: 柱谷哲二 , 北澤豪 , ラモス瑠偉 , ベッチーニョ
95: 柱谷哲二 , ビスマルク
96: ジョルジーニョ , 前園真聖 , 山口素弘 , 名波浩
97: ビスマルク , 中田英寿 , 山口素弘 , 名波浩
98: 小野伸二 , 奥大介 , 藤田俊哉 , 名波浩 , ドゥンガ
99: 中村俊輔 , アレックス , 伊東輝悦 , 澤登正朗 , 福西崇史
2000年代
00: 明神智和 , 中村俊輔 , 稲本潤一 , 森島寛晃
01: 小笠原満男 , 福西崇史 , 藤田俊哉 , 服部年宏 , 中田浩二
02: 小笠原満男 , 福西崇史 , 藤田俊哉 , 名波浩
03: 小笠原満男 , 福西崇史 , 奥大介 , 遠藤保仁
04: 小笠原満男 , 長谷部誠 , 奥大介 , 遠藤保仁
05: 小笠原満男 , 阿部勇樹 , フェルナンジーニョ , 遠藤保仁 , 古橋達弥
06: 鈴木啓太 , 阿部勇樹 , 中村憲剛 , 谷口博之 , 遠藤保仁
07: 阿部勇樹 , 鈴木啓太 , ポンテ , 中村憲剛 , 遠藤保仁
08: 中村憲剛 , 小川佳純 , 遠藤保仁
09: 小笠原満男 , 石川直宏 , 中村憲剛 , 遠藤保仁
2010年代
10: 中村憲剛 , マルシオ・リシャルデス , 藤本淳吾 , ダニルソン , 遠藤保仁
11: ジョルジ・ワグネル , レアンドロ・ドミンゲス , 藤本淳吾 , 遠藤保仁 , 清武弘嗣
12: レアンドロ・ドミンゲス , 遠藤保仁 , 青山敏弘 , 髙萩洋次郎
13: 中村俊輔 , 山口螢 , 柿谷曜一朗 , 青山敏弘
14: 柴崎岳 , 武藤嘉紀 , レオ・シルバ , 遠藤保仁
15: 金崎夢生 , 遠藤保仁 , 青山敏弘
16: 阿部勇樹 , 柏木陽介 , 中村憲剛 , 齋藤学
17: 中村憲剛 , 井手口陽介 , 山口蛍
18: チャナティップ , 家長昭博 , 大島僚太 , 中村憲剛
19: 橋本拳人 , 喜田拓也 , アンドレス・イニエスタ
2020年代
20: 家長昭博 , 田中碧 , 守田英正 , 三笘薫
21: 家長昭博 , 脇坂泰斗 , アンドレス・イニエスタ , 稲垣祥
22: 家長昭博 , 水沼宏太 , 脇坂泰斗
23: 伊藤敦樹 , 脇坂泰斗 , 山口蛍
J2
J3
ベストイレブン (GK - DF - MF - FW ) - JCB
1993年から2012年までの20年間での「ベストイレブン」(2013年にJリーグ誕生20周年を記念した企画) GK DF MF FW
ベストイレブン (GK - DF - MF - FW ) - J30
1993年から2022年までの30年間での選出 (2023年にJリーグ誕生30周年を記念した企画) ※太字 はMVP受賞者 ベストイレブン
ベストマッチ ベストゴール
ボレー/オーバーヘッド部門 テクニカル部門 ミドル/ロングシュート部門 フリーキック部門 ヘディングシュート部門 その他部門
ベストシーン
ベストイレブン (GK - DF - MF - FW ) - JCB