オーストリア代表 (2018年)
サッカーオーストリア代表 (サッカーオーストリアだいひょう、Österreichische Fußballnationalmannschaft)は、オーストリアサッカー協会 (ÖFB)によって構成される、オーストリア のサッカー のナショナルチーム である。ホームスタジアムは、首都 ・ウィーン にあるエルンスト・ハッペル・シュターディオン 。
歴史
1890年代 - 1900年代
オーストリアへ19世紀後半に入ってきたサッカーが発展したのは1890年頃である。ウィーンのロスチャイルド家 に仕えていたイギリス 人庭師たちがよくサッカーに興じていたことから、ウィーンの人々へ広まったとされる。[1]
1894年にファースト・ヴィエナ・フットボールクラブ1894 とウィーン・クリケット・アンド・フットボールクラブ (de:Vienna Cricket and Football-Club )(1892年に在ウィーンイギリス人が“Vienna Cricket Club Wien”という名で始めたクリケットクラブが改名)が、オーストリア初のサッカークラブとしてウィーンに設立された。また1904年にはオーストリアサッカー協会 が組織された[1] 。
その中で、オーストリア代表が最初に試合を行ったのは1902年10月12日のハンガリー代表 戦で、5-0で勝利した。1918年まで両国はオーストリア=ハンガリー帝国 を形成しており、「ウィーン対ブダペスト の都市対抗戦」としてのゲームだった。その後現在に至るまで、サッカーにおけるオーストリアとハンガリーのライバル関係 (en:Austria–Hungary football rivalry )は続いており、両国は世界で2番目に多く国際試合をしている組み合わせである[1] [2] 。
1902年当時、オーストリア=ハンガリー帝国で単一の協会やナショナルチームは結成されず、この時点でのオーストリア代表は、オーストリア・ハンガリー帝国内のオーストリア地域(オーストリア帝冠領 )を代表するものであった。なお、このオーストリア地域にはボヘミア やモラヴィア といった現在のチェコ に相当する地域の他、クライン州(現在のスロベニア )、ポーランド の一部を含んでいる。1903年にはボヘミア代表がハンガリー代表と試合を行っており、オーストリア内部でも統一性が保たれていたわけではない。第一次世界大戦 後、オーストリア=ハンガリーは分裂し、後継国家のナショナルチームとしてチェコスロバキア代表 、ポーランド代表 が誕生した。またオーストリア代表は、現在までとほぼ同じ地域を代表するナショナルチームとなった。
1930年代 - 1940年代
大戦間期、特に1930年代前半においてオーストリアは“ヴンダーチーム ”と呼ばれ世界最強チームの一角とみなされていた(ただしイングランドが国際大会に登場しない限りにおいてである)。1934年のワールドカップイタリア大会 は、ベニート・ムッソリーニ が極めてファシスト らしいやり方で大会を演出し、イタリア を優勝させた大会として名高いが、ヴンダーチームはイタリアに準決勝で敗れて4位に終わった。
1938年のワールドカップフランス大会 でも、イタリアへの対抗馬としてオーストリアに対する期待感は非常に高いものがあった。ところがワールドカップの同年に、ナチス・ドイツ によりオーストリアがドイツに併合 (アンシュルス)されたため、オーストリア代表は出場権を失った。そして、アドルフ・ヒトラー は元オーストリア代表の面々に対してドイツ代表に加わる事を強いた。オーストリアに代わって俄かにドイツが優勝候補に祭り上げられたが、選手のモチベーションは上がらず、ドイツは初戦で敗退した。
第二次世界大戦 後、オーストリア代表はまもなく再建され、1945年8月にはブダペストにてハンガリー代表と2回対戦している。プラーターシュターディオン が修復されると、同年12月6日に8年ぶりとなるホームゲームを行った。フランス代表 とのこの歴史的な試合にオーストリアは4-1で勝利し、チームは“ヴンダーチーム ”と呼ばれた頃を彷彿とさせる好調期に再び入る。
1950年代 - 1960年代
そのハイライトとも言えるのが1954年のワールドカップスイス大会 である。予選でポルトガル を圧倒したほか、続くグループリーグではスコットランド に1-0で勝利、チェコスロバキア に5-0という大勝を収めた。オーストリアサッカー史で最も有名な試合とされているスイス との準々決勝では、ゴールキーパーのKurt Schmied (de:Kurt Schmied )が開始後すぐに熱中症にかかるも交代が許されず、マッサージ師のPepi Ulrich氏がゴール裏に控えてサポートするアクシデントが発生、またPK を失敗するなどスリリングな内容ながら7-5で勝利した。ワールドカップでの3点差からの逆転勝利は1966年大会 の準々決勝の北朝鮮 戦で5-3で勝ったポルトガル と共に最高記録である。準決勝で西ドイツ に6-1で敗れたものの、3位決定戦 でウルグアイ を3-1で破り、銅メダルを獲得した[3] 。
1958年ワールドカップスウェーデン大会 でのオーストリア代表は1954年のチームとは比較にならず、グループリーグでブラジル に0-3、ソ連 に0-2で敗れ、イングランド に2-2で引き分けたことで最下位となり早々に敗退した。その後20年間に渡ってオーストリアは予選敗退を繰り返し(1962年のチリ大会 は資金不足のために棄権)、ワールドカップ出場は叶わなかった[4] 。
1970年代 - 1980年代
20年ぶりのワールドカップ出場となったアルゼンチン大会 では、1次リーグでブラジル、スペイン 、スウェーデン と強豪と同グループになるも首位で突破。ベスト8に進出する。しかしオランダ やイタリア に敗れ、決勝進出には至らなかった。その後行われた西ドイツ戦は、敗退が決まっていたオーストリアにとっては消化試合だったが、西ドイツにとっては勝てば決勝進出、引き分けても三位決定戦進出の可能性がそれぞれある試合だった。蓋を開けてみると、ハンス・クランクル の2得点の活躍や、フランツ・ベッケンバウアー に代わって今大会から新たな西ドイツ主将 となったベルティ・フォクツ のオウンゴールなどもあり、オーストリアが3-2で逆転勝利した。47年ぶりに隣国を下したこの試合は、オーストリアではコルドバの奇跡 (de:Córdoba 1978 )と呼ばれ、広く知られている[5] 。
チリ 、アルジェリア 、西ドイツと同グループとなった1982年ワールドカップスペイン大会 1次リーグでは、オーストリアはチリとアルジェリアにそれぞれ1-0、2-0で勝利し、西ドイツ戦を残して2次リーグへの出場はほぼ確実となった。のちにヒホンの恥 と呼ばれる一戦は、西ドイツにとっては2次リーグ進出のために勝利が絶対条件となっていた。また同グループの他試合が終了していたため、3点以上の差で負けない限りはオーストリアの敗退はなく、西ドイツが1点あるいは2点差で勝利すると、両国揃って第2グループに進出できることが確定していた。
試合は西ドイツが前半に先制するも、それ以降は両チームともに無難なボール回しに終始し、そのまま0-1でオーストリアが敗北。結果的にオーストリアと西ドイツが2次リーグに進出する。しかし両チームは互いに試合をコントロールしたとして、西ドイツの得点によっては2次リーグ出場の可能性を残していたアルジェリアや開催国のスペインをはじめ、世界中から大きく非難されることになる。またこの試合を受けて、1984年のUEFA欧州選手権 と1986年のワールドカップメキシコ大会 から、国際大会のグループリーグの最終戦は同時開催されることになった。その後オーストリアはフランスに敗れ、2次リーグで敗退した[6] 。
1990年代 - 2000年代
のちにオーストリア代表歴代最多得点をマークすることになるアントン・ポルスター や、“アルプスのマラドーナ ”の異名を取ったアンドレアス・ヘルツォーク など、国際レベルの若手選手がA代表として活躍するようになり、1990年のワールドカップイタリア大会 にも出場が決まるが、グループリーグでイタリアとチェコスロバキア にそれぞれ0-1で敗れ、アメリカ には2-1で勝利するも敗退した。
1998年ワールドカップフランス大会 では、予選で強豪のスウェーデンを下すなど、危なげなく大会の切符を勝ち取る。しかしカメルーン とチリ にそれぞれ1-1で引き分け、優勝候補のイタリアに1-2で敗れ、またしてもグループリーグで姿を消すこととなった[7] 。続く2002年ワールドカップ日韓大会 の予選ではプレーオフでトルコ に敗戦を喫し出場権を逃した[8] 。
なおEURO 本大会には縁遠く、2008年大会 をスイスと共同開催し、開催国特権で予選を戦わず本大会へ初出場した。しかし実力が十分ではないとしてサポーターの一部が大会の参加辞退を求める嘆願書の署名運動を行い、一万人を超える署名が集まる事態となった[9] 。結果はポーランドに引き分けたが、クロアチア 、ドイツに敗れてグループリーグで敗退した。
2010年代 - 2020年代
EURO2016年大会 は予選 で9勝1分の好成績を残しグループリーグを首位で通過、2015年のFIFAランク で10位まで上り詰め、本大会での期待も大きかった。しかし大会本番では1勝もあげられず、グループステージを最下位で敗退した[10] 。
1年延期されたEURO2020年大会 では北マケドニア 戦で大会初勝利を記録。2位で初めてグループステージを突破しノックアウトステージへ進出するも、ベスト16で優勝国のイタリアに敗れた[11] 。
2022年ワールドカップカタール大会 予選ではヨーロッパ予選グループF 4位に終わったものの、UEFAネーションズリーグ2020-21 の成績要件によりプレーオフ に進出したが、パスA準決勝でウェールズ に敗戦を喫し出場権を逃した[12] 。このように、日韓大会からカタール大会まで6大会連続でワールドカップから遠ざかっている。
UEFA EURO 2024 では、EURO優勝経験国であるオランダとフランス、ポーランドと同居する比較的厳しい組み合わせに入った。初戦でフランスに1-0で敗れるも、第2戦でポーランドに3-1で勝利し、第3戦ではオランダに3-2で勝利した。裏の試合でフランスがポーランドに引き分けたため、EURO優勝経験国2ヶ国を凌いで1位通過が決定した[13] 。
成績
FIFAワールドカップ
UEFA欧州選手権
歴代監督
歴代選手
主要大会のメンバー
主な代表選手
歴代記録
出典[14]
脚注
関連項目
外部リンク
各列内は五十音順。* UEFA加盟およびFIFA 未加盟 現存 廃止