第二次世界大戦 (だいにじせかいたいせん 、英 : World War II 、略称:WWII )は、1939年 (昭和 14年)9月1日 から1945年 (昭和20年)8月15日 [1] または9月2日 まで約6年にわたって続いたドイツ ・イタリア ・日本 などの日独伊三国同盟 を中心とする枢軸国 陣営と、イギリス ・フランス ・中華民国 ・アメリカ ・ソビエト連邦 などを中心とする連合国 陣営との間で戦われた戦争 である。連合国陣営の勝利に終わったが、第一次世界大戦 以来の世界大戦 となり、人類史上最大の死傷者を生んだ。
概略
1939年8月23日 の独ソ不可侵条約 と付属の秘密議定書に基づいた、1939年9月1日 に始まったドイツ軍 によるポーランド侵攻 と同年9月17日 のソビエト連邦によるポーランド侵攻 が発端であり、終結後の2019年 に欧州議会 で「ナチスとソ連という2つの全体主義体制による密約が大戦に道を開いた」とする決議が採択されている[36] 。そして同月のイギリスとフランスによるドイツへの宣戦布告 により、ヨーロッパ は戦場と化した。
その後、以前から日中戦争 を戦っていた日本の1941年 12月8日 午前1時35分に開始されたマレー作戦 による、イギリスやオランダ の東南アジア 植民地 地域とオーストラリア への攻撃で、太平洋戦争 に拡大された。そして同日に行われた真珠湾攻撃 によりアメリカとカナダとの間にも開戦した。同月にドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告し、これを皮切りに交戦地域は全世界へと拡大し人類史上最大の戦争となった。
この戦争は当初枢軸国軍が優勢を保ったが、1942年中半にはヨーロッパ戦線で、1943年中半にはアジア太平洋 戦線で連合国軍が反攻に転じ、1945年5月にドイツが敗北、8月9日 にソ連が日本に参戦したことで日本が8月10日 にポツダム宣言 の受諾を決め、8月15日に戦闘停止、9月2日に降伏文書 に調印したことで終結した。
なお、1945年8月6日には原子爆弾 のリトルボーイ が広島に、9日にファットマン が長崎に投下され核兵器 の運用が行われた史上唯一の戦争となった。
参戦した国
枢軸国 とは1940年 に成立した三国同盟 に加入した国と、それらと同盟 関係にあった国を指す。一方、連合国 とは枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年 に成立した連合国共同宣言 に署名した国を指す。また、日本と中華民国のように、第二次世界大戦前より戦争状態(1937年 に始まった日中戦争 。これにはアメリカも義勇軍 という形で事実上参戦していた[注釈 4] )を継続している国もあった。
全ての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には戦地が遠いことなどを理由に宣戦を行わないこともあった。しかし1943年 にイタリアが降伏 し、大戦末期の1945年5月のドイツの降伏後には、中立国と占領地を除いた国家の大部分が連合国側に立って参戦した。
枢軸国の中核となったのは日本 、ドイツ 、イタリア の3か国で、連合国の中核となったのは中華民国、イギリス、フランス、ソビエト連邦、アメリカ合衆国の5か国である。また、フランスやオランダなどのように本国が降伏した後、亡命政府が一部の植民地とともに連合国として戦った例もある。またイタリア王国などのように、連合国に降伏した後、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国 と呼ばれ、連合国の一員とは見なされなかった。
枢軸国 の主な参戦理由は、国により異なる。
ハンガリー王国 は第一次世界大戦で領土の2/3を失っていたために奪還すべく参戦した。ブルガリア も領土の奪還のため参戦した。
両国はルーマニア に干渉を行い領土を広げた。ルーマニア国民は激怒しルーマニアも参戦した。
なお、ユーゴスラビア も参戦したが、クーデターにより中立国に戻り、ドイツに侵攻される(ユーゴスラビア侵攻 )
フィンランド はソビエト連邦 との冬戦争 で割譲したカレリア の奪還目指し参戦した。多くの国はフィンランドを枢軸国としているうえ、国際連合 の敵国条項 に含まれるが、フィンランド政府は認めていない。
戦域
第二次世界大戦の戦域は、ヨーロッパ ・北アフリカ ・西アジア の一帯(欧州戦線 )と、東アジア ・東南アジアと太平洋 ・北アメリカ ・オセアニア ・インド洋 ・東南アフリカ全域の一帯(太平洋戦線 )に大別される。
欧州戦線ではドイツ、イタリアなどを中心にイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いが、太平洋戦線では日本などを中心にイギリス、アメリカ、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド などとの戦いが繰り広げられた。
欧州戦線はドイツやイタリアを中心とした枢軸国とイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、カナダ、アメリカ、ブラジル などが戦った西部戦線 および北アフリカ戦線 、東南アフリカ戦線、南アメリカ戦線と、同じくドイツやイタリアを中心とした枢軸国とソ連が戦った東部戦線 (独ソ戦 )に分けられる。なお欧州と東南アフリカ戦線では、派遣された少数の日本軍も戦った。
太平洋戦線は連合国により太平洋戦争 と呼称され(日本側の呼称は「大東亜戦争 」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカ、ニュージーランドなどが太平洋の島々とアラスカ やハワイ 、アメリカ本土 やアリューシャン列島 を含むアメリカやその領土のフィリピン 、カナダなどで戦った太平洋戦域 (英語版 ) 、オランダ領東インド やイギリス領マラヤ 、フランス領インドシナ などで日本とタイ王国 がオランダ、イギリス、アメリカ、フランスなどが戦った南西太平洋戦域 (英語版 ) 、イギリス領ビルマ やイギリス領インド帝国 、イギリス領セイロン やフランス領インドシナ で日本とドイツがイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどと戦った東南アジア戦域 (英語版 ) 。日本とドイツがイギリスやフランスと戦った東南アフリカ 戦線。中国大陸 などで日本や満洲国 が中華民国とアメリカ、イギリス、ソ連などと戦った日中戦争 に分けられる。なお中国と東南アジア戦線では、派遣された少数のドイツやイタリア軍も戦った。
しかし、これら以外に中東 や南米 、中米 、カリブ海 、オーストラリア などでも枢軸国と連合軍の戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。戦争は完全な総力戦 となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的、物的資源の全面的な動員、投入が行われた。当時の独立 国のほとんどである世界61か国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊 に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
比較
第一次世界大戦 と比較すると、ともに総力戦 ではあったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕 戦と戦艦 、ケーブル 切断を主体に展開されたが、第二次世界大戦では航空機による空襲 、空母 と潜水艦 を用いた機動戦 、無線通信 の結果戦線が拡大した。また、無線は電信 と違い敵に傍受 されるため、暗号 による作戦伝達や、その解読 による戦果がもたらされた[37] 。
使用された兵器には、著しく発達した航空機や戦車、潜水艦などに加え、レーダー やジェット機 、長距離ロケット などの新兵器、さらに原子爆弾 つまり核兵器 という大量破壊兵器 がある。
被害
総力戦で航空機 の発達により、第一次世界大戦より徹底された。この戦争では主に航空機の進化により戦場と銃後の区別がなくなり、民間人が住む都市への大規模な爆撃 や人類史上初の原子爆弾投下 により、多くの民間人や捕虜 が命を失った。またドイツは、戦争と並行して、自国および占領地でユダヤ人 ・ロマ ・障害者 の組織的大量虐殺 を進めた。これはホロコースト と呼ばれる。これらによる大戦中の民間人の死者は、総数約5500万人の半分以上の約3000万人に達した。
また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部 や東ヨーロッパ から1200万人のドイツ人が追放 され[38] 、その途上で200万人が死亡している[38] 。またアメリカとカナダ、オーストラリアやイギリス、ブラジルなどでは、数十万人の日本人だけでなく日系人の強制収容が行われた。新たにソ連領とされたポーランド東部 ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制収容 が行われた。またソ連で捕虜となった枢軸国の将兵や市民は、戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた 。
戦後
戦争中から連合国では、国際連合 の設立など戦後の秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパと日本では戦後の国力は著しく低下しており、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出して大きくなった。この両国は戦後世界に台頭する超大国 となり、覇権争いで対立し、その対立は1990年代 に至るまでの長い間冷戦 構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。
第二次世界大戦の結果により、アジア 、アフリカ、中東、太平洋諸国にある有色人種の、欧州の植民地 であった地域では、白人 諸国家に対する民族自決 そして独立 の機運が高まり、大戦終結後数年から十数年後に多くの国々が独立した。その結果、大航海時代 以来の欧州列強 の地位は著しく低下した。
こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパ 諸国と大多数の東ヨーロッパ諸国では、大戦中の対立を乗り越え、さらに1990年代 まで続いた冷戦 を超えて欧州統合 の機運が高まった。しかし21世紀 に入ると、ソ連の継承国のロシア など一部の国はそこから外れ、かつての強国の座を取り戻そうとしている。
経過(全世界における大局)
冬戦争 、1939年。タイペレでマキシム機関銃を構えるフィンランド軍兵士(フィンランド軍司令部写真センター)。
1939年9月1日早朝 (CEST )、ドイツ国 とスロバキア共和国 がポーランドへ侵攻 。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告 した。9月17日にはソ連軍 も東から侵攻 し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。その後、西部戦線 では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争 )。一方、ソ連 もドイツの伸長に対する防御やバルト三国 およびフィンランド への領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争 )。ソ連はこの侵略行為を非難され、国際連盟 から除名された。
1940年 3月に、ソ連はフィンランドにカレリア地峡 などを割譲させた。さらに1940年8月にはバルト三国を併合 した。1940年春、ドイツはデンマーク 、ノルウェー 、ベネルクス 三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦い で連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐した。さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行ったが、大損害を被り(バトル・オブ・ブリテン )、その結果9月にヒトラーはイギリス上陸作戦(アシカ作戦 )を無期延期とし、ソ連攻略を考え始める。その9月下旬、ドイツはイタリア、そして1937年 より日中戦争 を戦う日本と日独伊三国軍事同盟 を締結した。しかしまだ日本はイギリスなどへは参戦しなかった。
1941年にドイツ軍はユーゴスラビア王国 やギリシャ王国などバルカン半島、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻した。6月にドイツはソ連への侵攻を開始し、ついに第二戦線が開いた(独ソ戦 )。これによりドイツによる戦いは東方にも広がったため、戦争はより激しく凄惨な様相となった。日中戦争で4年間戦い続けていた日本は、12月8日午前1時(日本時間)にイギリスのマレー半島 を攻撃し(マレー作戦 )、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いて午前5時(同)、アメリカのハワイ も奇襲し勝利を収める(真珠湾攻撃 )。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国 に開戦し、11日にドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、世界大戦 となる。日本軍は12月中に早くもイギリスの植民地の香港やアメリカのグアム、ウェーク島などを瞬く間に占領し、アメリカ西海岸で通商破壊戦を開始した。
1942年1月にベルリン郊外ヴァンゼーにナチス党の重要幹部が集結すると「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議が行われた。これ以後、ワルシャワなどドイツ占領下のゲットーのユダヤ人 住民に対し、7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。この年も戦勝を続ける日本軍は、イギリスの植民地のマレー半島一帯やビルマ 、オランダ領東インド 、アメリカの植民地のフィリピンを占領した。さらに日本軍による本土への空襲や砲撃を数度に渡り受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本陸軍上陸対策を検討するほどになり、2月以降はアメリカと中南米諸国を中心に日系人の強制収容 までおこなった。しかし同時期のドイツはロストフの戦い とモスクワの戦い で敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まりここ以降は劣勢となってしまう。しかし日本軍は勢いを増しインド洋 からイギリス海軍 を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカル島 まで進出し、オーストラリアのシドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。日本軍は6月にアメリカ海軍にミッドウェー海戦 で敗北するものの、同月にアラスカのアリューシャン列島 のダッチハーバー を空襲し、その後アッツ島 とキスカ島 を占領しアメリカ領土を初占領した。さらに9月にアメリカ本土への空襲 を数回にわたり行うなど勢いを増した上に、アメリカ海軍も各地で日本軍との戦いで敗北を続け、アメリカは年末には太平洋上で稼働空母が皆無になるなど各地で勝ち進んだ。
1943年に入ってヨーロッパ戦線においては同年には枢軸国が完全に劣勢となり、ドイツは2月にスターリングラード攻防戦 、5月に北アフリカ戦線 で敗北し、北アフリカを放棄。しかし日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲 を続け、また各地でイギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保った。しかし中盤になるとようやくアメリカやイギリス、オーストラリアも体勢を立て直し、ガダルカナルの戦い [39] やソロモン諸島の戦い などでは日本軍と一進一退を続けるようになる。7月には敗色が濃い中イタリアのベニート・ムッソリーニ は失脚し降伏し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権 であるイタリア社会共和国 (サロ政権)が北イタリアを支配する状況になる。またインド洋では日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍の共同作戦が活発になるが、イタリアが降伏しインド洋の潜水艦などはドイツ軍に鹵獲 される。また日本軍はアッツ島とキスカ島に逆上陸され、ガダルカナル島の戦いで敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて延び切ったため、同年後半には勢いを失い以降劣勢となり、余裕がなくなった日本軍はついに11月にオーストラリア本土への空襲を中止する。
1944年にイギリス軍が日本軍にビルマでインパール作戦 に勝利し、イギリス領インド帝国 への侵略を阻止した。6月に行われたマリアナ沖海戦 でアメリカ軍が勝利するなど連合軍の勢いがさらに増した。これに対し7月に日本陸軍が中華民国軍とアメリカ軍に対して中華民国内で行った大陸打通作戦 でかつてない大勝利を収めたが、もはや大勢には変わりなかった。1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月にバグラチオン作戦が開始され、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、さらにソ連軍はバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。またイギリス軍とアメリカをはじめとする連合軍はついにフランスに上陸し、マーケット・ガーデン作戦 など勝利を重ねオランダ、ベルギーなどを開放、ドイツに向けて侵攻を続けた。さらにソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では8月のサイパン島 陥落後、日本本土がアメリカ軍のボーイング B-29 爆撃機の戦略爆撃 の行動範囲内となる。10月に行われたレイテ沖海戦 で日本海軍は大敗北を喫するなど勢いは完全に連合軍に傾いた。冬にはアメリカ軍によるフィリピンへの再上陸と、小規模ながら日本本土への空襲 が始まった。
1945年初頭に日本軍はフランス領インドシナ に侵攻し(明号作戦 )これに成功したが、もはや劣勢を変えるには至らなかった。連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラー は4月30日に自殺 、同政権は崩壊しイタリア社会共和国 も崩壊、ムッソリーニもパルチザン に惨殺された。5月9日にドイツ国防軍 は降伏しヨーロッパにおける戦争は終結した。日本も4月以降連日アメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍機の空襲を北海道を除く全土で受けたほか、春には本土周辺の制海権、制空権をほぼ失った。さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず本土決戦を行うべく戦いを続けた。しかし6月の沖縄戦 で多くの死傷者を出し、日本との本土決戦でさらに大量の死傷者がでるとの予想に恐れた連合国軍は、8月6日に広島市 に原子爆弾投下 を行ったが、本土決戦を行うという日本の決意は揺るがなかった。しかし、8日未明の中立国かつ和平協定を持つソ連軍の参戦 という予想すらしていなかった事態に急展開し、ようやく10日からの御前会議 で降伏 を決定した。さらに9日には長崎市 への原爆投下が行われた。同14日の御前会議でポツダム宣言 を正式に受諾。15日に玉音放送 で降伏を全国民に伝え、日本軍による戦闘行為は停止された。連合国は多くの将兵や武器を残した日本への上陸を慎重に進め、降伏から2週間後の28日に初上陸し、9月2日に降伏文書 に日本軍と連合国が調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。
背景(欧州・北アフリカ・中東・南アメリカ)
ヴェルサイユ体制とドイツの賠償金
ヴェルサイユ条約の調印
1919年 6月28日、第一次世界大戦 のドイツに関する講和条約 であるヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日に同条約が発効、ヴェルサイユ体制 が成立した。その結果、ドイツやオーストリア は本国領域 の一部を失い、それらは民族自決 主義の下で誕生したポーランド 、チェコスロバキア 、リトアニア などの領域に組み込まれた。しかしそれらの領土では多数のドイツ系人種が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。
また、南洋諸島 や中国 、アフリカ などに持っていた海外領土は全て没収され、日本やイギリス、フランスなどの戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツ はヴェルサイユ条約により巨額の賠償金 が課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとなった[40] 。1921年、賠償の総額が1320億金マルクに定められた。
フランスとベルギーのルール地方占領とハイパーインフレ
1921年、賠償の総額が1320億金マルクに定められた。1922年 11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権 が発足すると[41] 、1923年 1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領 を強行[41] 。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行 が所有する金を没収し、占領地には罰金 を科した[42] 。これによりハイパーインフレ が発生し、軍事力のないドイツ政府はこれにゼネスト で対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[41] 。その結果、マルク 紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落、ミュンヘン一揆 などの反乱が発生した。
国際連盟設立
1930年、スイス ・ジュネーヴ にて開催の国際連盟 議会
一方、第一次世界大戦の戦勝国のイギリス、フランス、大日本帝国、イタリア王国といった列強 が、常設理事会の常任理事国 となり1920年に国際連盟が作られた。講和会議後に締結されたヴェルサイユ条約 ・サン=ジェルマン条約 ・トリアノン条約 ・ヌイイ条約 ・セーヴル条約 の第1編は国際連盟規約 となっており、これらの条約批准によって連盟は成立した。
戦勝国は現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、戦勝国のアメリカの当初の不参加や、新興国のソビエト連邦や敗戦国のドイツの加盟拒否によってその基盤が当初から十分なものではなく、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。
モンロー主義の動揺
ウィリアム・ボーラ やヘンリー・カボット・ロッジ ら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは、当初国際連盟に拒否するなど伝統的な孤立主義 に回帰したが、モンロー主義 は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政 に対する投資を共にしてフランスとの関係が深まった。
そこで1930年 5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、主にカナダを戦場に想定したレッド計画 が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法 も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款 も禁止された。1937年5月1日にも改正され、限時法 だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会 の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。
欧州大陸でのドイツの台頭により欧州 の情勢が激変し、1939年 レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画 において、日英独仏伊、スペイン 、メキシコ 、ブラジル をはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プラン へと発展していく。
共産主義の台頭
ロシア革命 以降、世界的に共産主義 が台頭し、これの阻止を狙った欧米 列強 はシベリア出兵 などで干渉したが失敗した[43] 。ソ連 政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察 (チェーカー )を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナ では1932年 から強制移住と餓死、処刑などで約1450万人が命を落とし(ホロドモール )[44] 、さらに1937年 から1938年 にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺 では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務人民委員部 (NKVD) と改称され、ソ連国内とその衛星国 で大粛清 を行い数百万人を処刑した。
旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年 には外モンゴル に傀儡政権 のモンゴル人民共和国 を設立、1929年 には満洲 の権益をめぐり中ソ紛争 が引き起こされた。さらに、スペイン内戦 や支那事変 等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊 )し、国際紛争 に積極的に介入。1939年 には日本との間にノモンハン事件 が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばす。
ヴェルサイユ体制下の安定
戦勝国のイタリアでは「未回収のイタリア 」問題や不景気により政情が不安定化した。このような状況でイギリスの支援[45] により勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党 は1922年のローマ進軍 で権力を掌握し、権威主義 的なファシズム 体制が成立した。しかしこの頃のムッソリーニとファシズム体制は、イギリスやアメリカなどでも「新しい流れ」だと期待され、チャーチルさえも大いに絶賛した。
同じく戦勝国の日本では議会制民主主義化が進み、1918年9月、日本で初めての本格的な政党内閣 である原内閣 が組織された。「平民宰相」と呼ばれた原敬 は1921年に暗殺 されたが、その後1922年に日本はワシントン海軍軍縮条約 に調印し、1923年 には、四カ国条約 の成立に伴い日英同盟 が発展的解消された。1925年 にはアジアで初の普通選挙 制度が導入された。政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「大正デモクラシー 」の興隆の中で外相幣原 の推進する国際協調主義 が主流となり、このまま議会制民主主義が浸透していくかに見えた。
一方、敗戦国のドイツでは、破滅の底に落ちたドイツ経済はルール占領 時には混乱したものの、1924年のレンテンマルク の導入やドーズ案 に代表される新たな賠償支払い計画とともに、戦勝国のアメリカやイギリスなどの資本も入り、一応は平静を取り戻し相対的安定期に入った。1925年にロカルノ条約 が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年 にはパリで不戦条約 が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。
世界恐慌
大暴落直後のニューヨーク証券取引所 (1929年)
しかし、1929年10月24日から起きた一連のニューヨーク証券取引所 、ウォール街から世界に広がった大暴落 を端緒とする世界恐慌 は、このような世界の状況を一変させた。
ニューヨーク証券取引所1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多かった。アメリカは1920年代 にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。また1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況であった。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれた。
世界恐慌を受けて英仏両国はブロック経済 体制を築き、アメリカはニューディール政策 を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代 中頃になってからであり、それまでに資金が世界中から引き上げられ、1929年から1932年の間に世界の国内総生産は推定15%減少し、アメリカの失業率は23%に上昇し、一部の国では33%にまで上昇した。恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴となった。
ファシズムの選択
第二次エチオピア戦争 で戦うイタリア陸軍砲兵
第一次世界大戦で戦勝し列強となった国のうち、植民地を少ししか持たなかった日本とイタリア、そして敗戦国のドイツでは、世界恐慌のあおりを受けて植民地を獲得すべく海外へ侵攻し、その結果軍事が権力を持ち、イギリスやアメリカ、フランスはこれに反発し、軍事独裁政権への移行が見られるようになる。
ファシスト党のムッソリーニ 率いるイタリアは、1935年に植民地を獲得すべくエチオピアに侵攻し 、短期間の戦闘をもって全土を占領した。敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世 は退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対して全土を占領したイタリアは、イタリア王兼アルバニア王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ )を建国させた。結果として国際連盟規約 第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だが、イタリアに対して実効的ではなかった。第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国 に侵攻したイタリア王国は1937年に国際連盟を脱退した。
五・一五事件 を伝える新聞
金解禁 によるデフレ政策を採っていた日本の状況も深刻だった。大恐慌により失業者が激増した(昭和恐慌 )。さらに黄禍論 が渦巻くアメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌と人種差別による打撃を受けてしまう。そのような中で、イタリア同様解決策を海外の植民地獲得へと向けた日本は、1931年9月の柳条湖事件 を契機に中華民国 の東北部を独立させ1932年 (昭和7年)3月1日 、満洲国 を建国した。満洲国を主導する関東軍 は陸軍中枢の言うことを聞かずなすがままにされた。さらに翌年には国際連盟 を脱退するなど軍の暴走が止まらず、中華民国に利権を持つイギリスやアメリカ、イタリアやドイツからも大きな反発を食らった。
さらに不安定な政党政治や議会制民主主義のもたらした、失業者の増加と汚職に不満を持つ軍部の一部が起こした「五・一五事件 」や「二・二六事件 」では、相次いで政党政治家と財界人が暗殺され反乱者は処罰されたが、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなる。さらに軍部のプレッシャーから広田弘毅 内閣時に軍部大臣現役武官制 を再度導入し、さらに日中戦争 が勃発。その後の近衛文麿 政権とともに政党政治を基にした政党政治家率いる議会制民主主義がわずか20年にも満たないまま終焉を迎える。
政治集会におけるアドルフ・ヒトラー (1930年10月、ヴァイマル にて)
第一次世界大戦の敗者で、総額が1,320億金マルクと到底支払うことができないと思われた賠償金の支払いを続けながら、アメリカからの投資で何とか潤っていたドイツでも失業者が激増した。
ドイツの政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、つまり大恐慌下においても第一次世界大戦の莫大な賠償金の支払いを続けることに対する反発と、さらに反共産主義を掲げるナチズム 運動が勢力を得る下地が作られた[46] 。アドルフ・ヒトラー 率いる国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙 で第二党に躍進。1931年には独墺関税同盟事件 を端緒にクレディタンシュタルト が破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1932年、その時点でのドイツの支払い額は205.98億金マルクに過ぎなかったが、国際社会の援助により、賠償金の支払いはようやく一時停止されることとなった。
国際連盟の破綻
日本とイタリア、ドイツは、イギリスやフランス、アメリカなどと違い、莫大な富と雇用を生み出す植民地をほとんど持たず、国外進出は国際連盟を脱退または国際連盟からの経済制裁を浴びることとなり、孤立し、共通点を持つ3国は1930年度に入り急接近を始める。
1931年に日本は満州事変 を起こし、1932年に建国した満洲国 の存続を認めない勧告案が国際連盟で採択された事を受け、1933年に国際連盟を脱退。同年1月にナチ党は、民主的選挙でドイツ国民の圧倒的な支持を得て政権獲得 に成功。ナチ党はその後全権委任法 を通過させ、独裁体制を確立した。英仏米など列強は圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦を牽制する役割をナチス政権下のドイツに期待していたが、ドイツは日本に次いで1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。
1935年、ドイツは再軍備宣言 を行い、強大な軍備を整え始めた。イギリスはドイツと英独海軍協定 を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策 がその後も続くと判断し、1936年7月にラインラント進駐 を強行。これによりロカルノ条約 は崩壊した。
これらに対し国際連盟は効果ある対策を採れず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年に日独防共協定 、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。また軍部が暴走した日本では1937年に日中戦争 がはじまり、ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、周辺国でドイツ人居住者が多い地域のドイツへの併合を要求した。
ドイツに対する宥和政策とその破綻
1938年9月29日、ミュンヘン会談 にて署名直前に撮影された、チェンバレン 、ダラディエ 、ヒトラー 、ムッソリーニ およびチャーノ
1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝によりオーストリアを併合 。次いでチェコスロバキア のズデーテン地方 に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談 で、英首相ネヴィル・チェンバレン と仏首相エドゥアール・ダラディエ は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。
しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ 全域を占領し、スロバキア を独立させ保護国 とした。こうしてチェコスロバキアは解体 された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。
勃発直前
1939年、独ソ不可侵条約 に署名するドイツのリッベントロップ 外務大臣。背後に立つのは、ヴャチェスラフ・モロトフ およびヨシフ・スターリン 。
ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にリトアニアからメーメル 地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセン への通行路ポーランド回廊 および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒ の回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻 が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。
4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約 を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約 を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約 を締結した。
反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、独ソ不可侵条約の締結を受けて、当時の日本の平沼騏一郎 首相は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残し、ドイツの防共協定違反という重大な政治責任から8月28日に総辞職し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。またドイツ政府と「蜜月の仲」で知られたはずの大島浩 大使も、ソ連とのノモンハン事件 が起きる中で、同盟国のドイツからこの締結を前もって知らされなかった責任を取り、即座にベルリンより帰朝を命ぜられた(帰国後の12月27日に大使依願免職した)。またイギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約 (英語版 ) を結ぶことでこれに対抗した。
1939年夏、アメリカの大統領ルーズベルト は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した[47] 。
独ソ不可侵条約には秘密議定書 が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国 、フィンランド のカレリア 、ルーマニア のベッサラビア への領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは英仏の宥和政策 がなおも続くと判断し武力による問題解決を決断し、9月1日にポーランドへの開戦を決意した。
経過(欧州・北アフリカ・中東・南アメリカ)
1939年9月1日、ポーランド および自由都市ダンツィヒ の国境検問所を取り壊すドイツ国防軍
1939年9月、ポーランド侵攻 時のブィドゴシュチュ 付近におけるドイツのI号戦車
1939年 9月1日 、ドイツ国防軍 およびスロバキア 軍が、続いて9月17日 にはソビエト連邦 軍が相次いでポーランド 領内に侵攻した。一方、イギリス では首相チェンバレン がベルリンの大使館経由で呼びかけたものの、ヒトラー からの返事がないことを理由に、またフランス も9月3日 にドイツに宣戦布告 した。なお、ドイツの同盟国の日本とイタリアは参戦しなかった。
まもなくポーランドは独ソ両国により分割・占領された。その国境線は、後の「カーゾン線 (英語 : Curzon Line)」に大きな影響を与えた。さらにフィンランド およびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争 )。そのため国際連盟 から非難・除名されたが[48] 、1940年 3月にフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国に1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合 した。
ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年 5月10日 にドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。同年6月から日独伊三国同盟 を組むイタリアが参戦 (英語版 ) し、6月14日ドイツ 軍はパリ を占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月にドイツ空軍 機がイギリス本土空爆を開始したが、航空戦 (バトル・オブ・ブリテン )で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。
1941年 6月22日、不可侵条約 を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦 が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争 )。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナ を経て同年12月、モスクワ に接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。なお日独伊三国同盟を組んだ日本が12月7日にイギリスとアメリカなどとの間に開戦。ドイツとイタリアもアメリカとの間に開戦した。
1942年 中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、インド洋では日本と共同作戦を行い、大西洋 ではドイツ海軍の潜水艦・Uボート が連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。
1943年 2月、スターリングラード でドイツ軍は大敗。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機 によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月、北アフリカ戦線 でドイツ・イタリア両軍が敗北。9月にイタリアが連合国に降伏 し、ドイツの傀儡政権 イタリア社会共和国 が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。
1944年 6月にフランスのノルマンディー に連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年 になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談 でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪 人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線 以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリン を占領。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。なお同盟国の日本は戦いを続けた。
1939年
ワルシャワを防衛するポーランド軍兵士(1939年9月)
9月1日早朝 (CEST )、ドイツ軍は戦車 と機械化された歩兵部隊、戦闘機 、急降下爆撃機 など5個軍、機動部隊 約150万人でポーランド侵攻 を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告 は行われていない。
ドイツ国総統アドルフ・ヒトラー は、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件 など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた(偽旗作戦 )。
ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87 急降下爆撃機の連携による機動戦 により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。
ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ不可侵条約 の秘密議定書 に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約 を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻 。カーゾン線 まで達した。
一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日 にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。
フランスに進駐したイギリス陸軍 (1939年10月)
一方ヒトラーも、英首相ネヴィル・チェンバレン と仏首相エドゥアール・ダラディエ はそれまで宥和政策 を行っていたため、宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線 の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争 」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍 を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。
9月3日までにアイルランド、オランダ、ベルギー、アメリカは中立を宣言した[49] 。また1937年に日独伊防共協定 を組んだイタリアと日本も参戦しなかった。
1939年、ドイツおよびソ連の東ヨーロッパ における新領土併合後に握手する両国の陸軍将校
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタイン の砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人 のゲットー への強制収容が始まった。
ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵が殺害され(カティンの森事件 )、1939年 から1941年 にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。
ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず[50] 、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春まで西部戦線に大きな戦闘は起こらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「クリスマス までには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。
11月8日、ミュンヘン のビアホール 「ビュルガーブロイケラー 」で爆発があり、家具職人ゲオルク・エルザー によるヒトラー暗殺未遂事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。その後も国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画 が何回か計画されたが、全て失敗に終わった。
ソ連はバルト三国およびフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニア と、10月5日ラトビア と、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。
スキーに銃を構えるフィンランド陸軍(1939年12月)
しかし、フィンランドはソ連の基地使用およびカレリア地方割譲等の要求を拒否。そこでソ連はレニングラード 防衛を理由に、11月30日にフィンランド侵攻(冬戦争 )を開始した。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。
1940年
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍 は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア 地方などの領土をソ連 に割譲して講和した。
さらにソ連はバルト三国 に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合 した。同時にソ連はルーマニア王国 にベッサラビア を割譲するように圧力をかけ、1940年 6月にはソ連軍がベッサラビアとブコヴィナ 北部に侵入し、領土を割譲させた。
ドイツ占領下のポーランドからリトアニア に逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており[注釈 5] 、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本の杉原千畝 領事に名目上の行き先(オランダ領アンティル など)への通過ビザを求めて殺到した。杉原の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。
なお、杉原同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山 [51] や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデス [52] がおり、ともに戦後のイスラエル の諸国民の中の正義の人 に認定されている。
デンマークのオーベンロー を侵攻するドイツ軍のI号戦車 (1940年4月9日)
4月、ドイツは中立国デンマーク とノルウェー に突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦 )。脆弱なドイツ海軍はノルウェー侵攻で多数の水上艦艇を失った。
5月10日、西部戦線 のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギー 、オランダ 、ルクセンブルク のベネルクス 三国に侵攻(オランダにおける戦い )。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアのオランダ植民地は亡命政府 に準じて連合国側につくこととなり、オランダ植民地に住むドイツ人は抑留され、外交官と婦女子のみが解放されドイツの同盟国の日本に送られた。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチル が首相に就任し、戦時挙国一致内閣 が成立した。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線 を迂回。侵攻不可能といわれていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦 で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻 )、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡 に面するダンケルク へ追い詰めた(ダンケルクの戦い )。ここで、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦 を展開する。急遽860隻の船舶を手配し、ドイツ軍は消耗した機甲師団を温存し救出作戦に投入しなかったため、イギリス空軍の活躍により多くの兵器類は放棄したものの、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を9日間でフランスのダンケルクから救出し、精鋭部隊を撤退させることに成功した。この作戦では様々な貨物船、漁船、遊覧船および王立救命艇協会 の救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(主に大型の駆逐艦)へ運んだ。イギリスの首相チャーチルはのちに出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中でもっとも成功した作戦であった」と記述している。
凱旋門を通るドイツ軍(1940年6月14日)
さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しかできず、6月10日にはパリを戦火から守るべく無防備都市宣言 をした。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告した。
6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言を行ったことで、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森 においてドイツ軍への降伏文書に調印した[注釈 6] 。
その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーがパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。その後、ドイツはフランス全土を占領し、その直後に講和派のフィリップ・ペタン 元帥率いるヴィシー政権 が樹立される。
これに対抗してフランス人の手でフランスを取り戻すべく、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴール は「自由フランス 国民委員会」を組織し、ロンドン のBBC 放送を通じて対独抗戦の継続と親独中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取りつけてフランス国内のレジスタンス運動 を支援した。
なお、フランス主要植民地のアルジェリア やモロッコ 、インドシナ 、マダガスカル などはヴィシー政権につき、それぞれドイツ軍や日本軍 との友好関係や軍の駐留を引き受けた。
7月3日、フランス領アルジェリアがドイツ側の戦力になることを防ぐため、イギリス海軍H部隊 がメルス・エル・ケビール に停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦 )。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。にもかかわらず、多数の艦艇が破壊され、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍 は9月にフランス領西アフリカ のダカール 攻略作戦(メナス作戦 )を行ったがフランス軍 に撃退された。
バトル・オブ・ブリテン 時のドイツ空軍 のハインケル He111 爆撃機
西ヨーロッパを席巻したドイツ軍は残るイギリスを屈服させるために、イギリス本土上陸作戦「アシカ作戦 」の準備に取り掛かり、ロッテルダム からル・アーヴル までに、輸送艦168隻、艀 1,910隻、タグボートや漁船419隻、モーターボート 1,600隻を揃え、25個師団を上陸戦力として準備させていた。勝利続きで意気上がるドイツ兵は、英仏海峡 をイギリス本土を望みながら「きょう、ドイツはわれらのもの、そして、明日は全世界がわれらのもの」と高らかに歌っており、ドイツ国内のマスコミを含めた世論もドイツの勝利を確信していた[53] 。しかし、強力なイギリス海軍は健在で、艀や漁船でイギリス海軍を突破し、さらに英仏海峡を渡っての敵前上陸成功の目途はついていなかった。そのため、ヒトラーはイギリスとの講和を望んでおり、7月16日にチャーチルに対して「大英帝国を壊滅させることはもちろん、傷つけることさえも私の真意ではない。だが私はこの闘争が続くならば 、その結果は両国のいずれか一方が、完全に壊滅することになると信じる者である。チャーチル氏は、壊滅するのはドイツだと信じるだろうが、私はそれは、イギリスであることを確信している」と呼びかけ、講和を促した[54] 。しかしチャーチルはヒトラーの呼びかけを敢然と拒否し、イギリス国民に対し以下の様に徹底抗戦を呼びかけた[55] 。
ヒトラーは、この島において我々を破壊しなければ、戦争に負けることを知っている。…だから、我々は身を引き締めて我々の義務を遂行し、もしイギリス帝国とその連邦が1,000年続くとすれば、人が「彼等はあのとき最も立派に戦った」というように、我々は振舞おうではないか。
講和の可能性が無くなると、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング は「アシカ作戦 」の準備のためにイギリス本土に対する航空総攻撃を命じ、ここにイギリス帝国の命運をかけたバトル・オブ・ブリテン が開始された。作戦開始時ドイツ空軍は第2、第3、第5航空艦隊の合計3,350機の作戦機を投入し[56] 、この作戦機に搭乗するパイロットの多くが、ドイツの電撃戦を空から支援した熟練パイロットであった[57] 。一方でそれを迎え撃つイギリス軍には704機の可動戦闘機しかなかった[58] 。イギリス空軍戦闘機軍団 司令官ヒュー・ダウディング 大将は、戦力が圧倒的に勝っているドイツ空軍との戦いに備えて準備に着手しており、まずはドイツ軍の戦闘機メッサーシュミット Bf109 に対抗可能な、スーパーマリン スピットファイア やホーカー ハリケーン などの新鋭戦闘機の生産強化を図った。ダウディングや航空機生産大臣マックス・エイトケン (初代ビーヴァーブルック男爵) の尽力で、4月には月産256機であったのが、その5か月後には467機と戦闘機の生産は倍増した[59] 。また、開発されたばかりのレーダー を活用し、多数のレーダーサイトを構築し早期警戒網を整備、情報を地下の防空司令部にある戦闘指揮所 で一元管理し効率的な迎撃を行える体制も構築した。これらのダウディングの準備は、この後の戦いで重要な役割を果たすことになる[60] 。
ドイツ空軍はまず、英仏海峡を航行するイギリス船団への攻撃を開始した。当初ドイツ空軍は、ボールトンポール デファイアント などの旧式戦闘機との散発的な空戦で勝ち誇っていたが、やがて、レーダーに誘導されて正確に迎撃してくるスピットファイアやハリケーンに痛撃を浴びると、8月に入ってから優先攻撃目標をイギリス軍のレーダーサイトと飛行場及び航空機工場とし、イギリス空軍の防空能力に打撃を与えることとした[61] 。8月12日には、ユンカース Ju 88 シュトゥーカ やハインケル He 111 数百機が、メッサーシュミット Bf109数百機に護衛されてイギリス上空に来襲し、それをスピットファイアやハリケーンが迎撃した。そのうちシュトゥーカがレーダーサイト目掛けて急降下を開始したが、電撃戦で猛威を振るったシュトゥーカも新鋭戦闘機の前ではひとたまりもなくたちまち31機が撃墜された、一方でイギリス軍も22機を失う。8月13日にはさらにドイツ軍機の数が増えて1,400機が来襲した。ドイツ軍機は昨日に引き続き、レーダーサイトと飛行場を攻撃し、迎撃したイギリス軍戦闘機と激しい戦いになり、ドイツ軍機45機が撃墜され、イギリス軍は13機を失った[62] 。
このように、攻撃するドイツ軍の損失の方が多いものの、イギリス軍も迎撃の度に少なくない損失を被った。さらにドイツ軍はイギリス航空機工場に対する夜間爆撃を開始、爆撃精度は高くないものの着実にイギリスの航空機生産能力に打撃を与えた。しかし、この夜間爆撃がバトル・オブ・ブリテンの戦況を大きく変えることとなる。8月24日にドイツ軍爆撃機170機がロンドン郊外にある燃料タンクの夜間爆撃に来襲したが、そのうち20機が誤ってロンドン市街地に爆弾を投下してしまった[63] 。ドイツ軍はこれまで、ゲルニカ爆撃 やワルシャワへの爆撃などで市街地への爆撃を躊躇することなく行ってきたが、ヒトラーはロンドン市街地への爆撃は許可していなかった。しかし、このロンドン空襲の報復として、イギリス軍爆撃機がドイツの首都ベルリンを爆撃すると、ヒトラーは激怒して報復のためにロンドンへの爆撃の強化を命じた(ザ・ブリッツ )。この爆撃目標変更によって、ロンドン市民に多数の犠牲が出たが、代わりに航空機工場や飛行場の損害が減って、イギリス軍戦闘機の強化が加速した。戦闘機が増加した分、パイロットが不足したが、イギリス帝国諸国のほか、ポーランド人、チェコスロバキア人、フランス人など、ドイツに国土を占領されている各国のパイロットも、義勇兵としてこの戦いに加わって活躍した[64] 。
1940年12月29日、ドイツによるザ・ブリッツ 後のロンドン
ヒトラーは報復という理由に加え、空襲によりロンドン市民に恐怖感を与えて、厭戦気分を煽るという効果も狙ったが、不自由な生活の中でもロンドン市民は一致団結してドイツ軍の空襲に対抗し、ヒトラーの目論見は外れた。また、ロンドン爆撃はドイツ空軍にとって致命的な問題を引き起こした。それはロンドンまでは距離が遠く、航続距離の短いメッサーシュミット Bf109では十分な護衛ができなかったので、護衛がつかないドイツ軍爆撃機の損害が激増した。そして、イギリス軍の損失の殆どが単座戦闘機であり、撃墜されても犠牲は1人で済んだが、ドイツ軍の損失の多くが爆撃機であり最大4~5人の犠牲が出た。損害の続出にヒトラーは9月14日に「必要な制空権確保ができていない」として「あしか作戦」はまだ実行できないと認めた。面目を失ったゲーリングは9月15日にロンドン爆撃に1,000機を投入したが、体制が整ったイギリス軍の激烈な迎撃で60機という大損害を被ってしまい、さらに27日にも55機を損失してしまう。これ以降はドイツ軍の来襲機数は次第に減少していった。ドイツ軍の攻撃が弱体化すると、イギリス軍は反撃に転じ、「あしか作戦」のために準備されていた輸送船やその他船舶の12.6%を空襲によって撃沈破した。そして10月12日にヒトラーは「あしか作戦」の延期を決め、この後の関心はイギリスからソ連に向かっていく[65] 。このバトルオブブリテンでドイツ軍は、1,918機の航空機と2,662人の熟練パイロットを失い[66] 、その無敵伝説に終止符が打たれた[67] 。一方でイギリス軍は915機の戦闘機と、他国からの義勇兵も含めて449人のパイロットを失った[68] 。チャーチルはこの戦いを「人類の歴史の中で、かくも少ない人が、かくも多数の人を守ったことはない。」 と評した[69] 。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビア からエジプト へ、10月にはバルカン半島 のアルバニア からギリシャ へ侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争 )。しかし性急で準備も不十分なままであり、11月にイタリア東南部のタラント 軍港が、航空母艦 から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃 に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍 の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有様であった。
9月27日にはドイツとイタリア、そしてまだ第二次世界大戦に参戦していないものの2国の友好国である日本は、日独伊防共協定を強化した相互援助である日独伊三国同盟 を結んでいる。また第二次ウィーン裁定 によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。
1941年
1941年8月、北アフリカ戦線 、トブルク包囲戦 の前線の塹壕を受け持つ連合軍のオーストラリア軍兵士
イギリスはイベリア半島 先端の植民地 [注釈 7] ジブラルタル と、北アフリカ のエジプト ・アレクサンドリア を地中海の東西両拠点とし、クレタ島 やキプロス など東地中海 [注釈 8] を確保し反撃を企図していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ 地方を占領し、ギリシャにも進駐した。
一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍を支援するため、エルヴィン・ロンメル 陸軍大将 率いる「ドイツアフリカ軍団 」を投入。2月14日にリビアのトリポリ に上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルク を包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日に撤退を開始。12月24日にはベンガジ がイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラ (英語版 ) まで撤退する。
中立国のアメリカは3月11日 にレンドリース法 を成立させ、自らは参戦しない代わりに、ドイツや日本、イタリアとの交戦国に対して、ソ連 やイギリス 、中華民国 などへの大規模軍事支援を開始する。
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国 (ユーゴスラビア侵攻 )やギリシャ王国 などバルカン半島 (バルカン戦線 )、エーゲ海 島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い )させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル 攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国 、ブルガリア王国 、ルーマニア王国 を枢軸国に加えた。
また中東のイラクは1932年 10月3日にイギリス委任統治領メソポタミア からイラク王国 として独立したが、その後もイギリスによる石油 支配は続き、またイギリス軍のイラク国内での自由な移動の権利も認められているなどイギリスとイラクの関係は依然として不平等なものであった。そのためその頃から汎アラブ主義 やイスラム主義 などの思想が勃興し始め、それが次第に反英闘争へと繋がっていった。そして第二次世界大戦が始まるとイラクはドイツと断交してイギリスを積極的に支援するが、それに反対した民族主義勢力が1941年 3月に革命を起こし親英政権を打倒。4月3日には反英親独派のラシッド・アリー・アル=ガイラーニー が首相 に就任し、独立以来のイギリスとの不平等な関係を打破しようとした。その結果イラクはイギリスと開戦、アングロ=イラク戦争 となった。イギリス軍は4月18日にバスラ 、ヨルダン 、パレスチナ からイラクに侵攻し、イラク軍に勝利して5月30日には首都バグダード を占領。その後ガイラーニーらは中立国のイランに逃れ、最終的にイタリア、ドイツへ亡命 した[70] 。
ソ連内に攻め入るドイツ軍の戦車
6月22日 、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、イタリア 、ハンガリー 、ルーマニア 等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦 )を開始し、独ソ戦 が始まった[注釈 9] 。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは6月26日 、ソ連に宣戦布告した(継続戦争 )。開戦当初、赤軍 (当時のソ連地上軍 の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かったウクライナ 、バルト三国 等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊 に志願した。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍 (英語版 ) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。
ドイツ軍は7月16日にスモレンスク 、9月19日にキエフ を占領。さらに北部のレニングラードを包囲するなど進撃を続け、大量の捕虜を獲得したが、ソ連はこれまでドイツ軍が打ち破ってきた西ヨーロッパ諸国の様に、軍の敗北で国家崩壊することはなく、粘り強く戦い続けた。ドイツ軍は開戦以降、初めて苦戦を強いられることとなり、ドイツ陸軍総司令官 ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ 元帥は、ドイツ軍が猛進撃をしていた7月には「ドイツ国防軍が対決した最初の手ごわい敵」と評価していた。ソ連軍は大損害を被りつつも、確実に自軍が受けた損害の何割かをドイツ軍に返しており、1941年末までのドイツ軍の死傷者は82万人と全兵力の1/4にまで達していた。参謀総長 フランツ・ハルダー 大将は、対ソ開戦前にヒトラーが「ソ連は腐った建物のようなものだ。ドアを一蹴りすれば崩壊する」などと言ったように、ドイツ軍がソ連軍を過小評価していたことを認めて「我々は巨象ロシアを甘く似ていた。彼らは全体主義国家らしく、徹底的に冷酷な戦いを遂行することを意識して戦争準備を進めていた」と語っている[71] 。
モスクワの戦いで投降するドイツ兵
ソ連軍の激しい抵抗で進撃は遅れて、ヒトラーが8月に攻略を計画していた首都モスクワ には、10月中旬になってようやく接近できた。モスクワ市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたクイビシェフ へ疎開した。スターリンは、ソ連邦首都の危機に際して、レニングラードで指揮を執っていたゲオルギー・ジューコフ 上級大将をモスクワに呼び戻し、モスクワ防衛の指揮を任せた[72] 。ジューコフは1939年5月のノモンハン事件 で大日本帝国陸軍 に対し、自らも大きな損害を被りながらも、モンゴルに侵攻しようとした1個師団に壊滅的な損害を与えて撃退し、スターリンから厚い信頼を得ていた。ジューコフは防御線を再構築し、攻勢の気配を見せていたドイツ軍を待ち構えていた[74] 。ジューコフは粘り強い防衛戦でドイツ軍を消耗させたのちに、タイミングを見計らって反撃に転じようと考えており、ノモンハンの勝利の原動力となった極東軍管区 とザバイカル軍管区 から戦車8個旅団と、狙撃兵15個師団、騎兵3個師団をモスクワ防衛戦に転用し、反撃戦力として温存していた。
やがてドイツ軍は「タイフーン作戦」と称して、11月にはモスクワを目指して進撃を開始した。ジューコフは計画通りに激しい防衛戦を展開、それでもドイツ軍はクレムリン から23㎞の距離まで達したが、甚大な損害を被って進撃は停滞していた。苦戦するドイツ軍をさらに苦しめたのが冬将軍 の到来による寒波で、冬季装備を準備していなかったドイツ軍は零下10~15°という厳し寒さのなかを薄手の夏季装備で戦わなければならなくなった。のちに、ドイツ軍の敗因はこの冬将軍の到来であったとドイツの司令官たちは弁解するようになったが、ジューコフはそのような弁解に対して「ロシアの冬は軍事機密ではない」とドイツの将軍らの弁解を一刀両断し、ドイツ軍の計画の杜撰さを批判している[76] 。また、一時混乱したモスクワには戒厳令がしかれて混乱が収まると、祖国の危機にモスクワ市民は一致団結し、老若男女問わずシャベル を手に取って陣地構築を手伝い、銃を取って軍事教練を受けドイツ軍を待ち構えた。このとき軍事教練を受けた市民が、のちにパルチザン となってゲリラ活動でドイツ軍を苦しめることとなる[77] 。
軍民挙げた激しい抵抗の前に、ドイツ軍の侵攻は甚大な損害でついに停止し、12月6日にジューコフはモスクワの北と南で、温存していた兵力で大規模な反撃を開始した。開戦以降、常に戦局の主導権をドイツ軍に握られていたソ連軍はここでようやく戦いの主導権を握ることができた[78] 。ソ連軍の反撃には、大日本帝国陸軍との戦闘で経験を積み、極寒にも耐性がある極東から来た熟練歩兵や、ドイツ軍の戦車より遥かに強力な新型戦車T-34 中戦車 やKV-1 重戦車 を含んだ、“トラの子”の40万人の将兵、1,000輌の戦車、1000機の航空機が参加した。圧倒的なソ連軍の戦力に対して、ドイツ軍は対抗することができずに大損害を被りながら撤退した。これは連戦連勝であったドイツ軍の初めての惨敗であり、ヒトラーのソ連打倒の野望はここで潰えた。しかし、この敗北でドイツ軍がソ連打倒を諦めた訳ではなく、年が明けてから態勢を立て直すと、再度攻勢に転じることとなる[80] 。この勝利には、ノモンハンで戦った極東の部隊が大きく貢献したため、ジューコフは「モンゴルで戦った部隊が、1941年にモスクワ地区に移動し、ドイツ軍と戦い、いかなる言葉をもってしても称賛しきれぬほど奮戦したことは、決して偶然ではなかったのである」と回想している。
イランに攻め入るイギリス陸軍の戦車(1941年8月)
8月9日 、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章 を発表した。8月25日 、ソ連・イギリスの連合軍は中立国イラン に南北から進撃し、占領した(イラン進駐 )。イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、米大統領ルーズベルトは拒否した。ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離を置いていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。イランを占領しペルシア回廊 を確保した上で、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。またアフガニスタンはこのような中でも第二次世界大戦の終戦まで独立を守った。
ドイツ の占領地では、秘密国家警察ゲシュタポ とナチス親衛隊 が住民を監視し、ユダヤ人 やレジスタンス 関係者へ過酷な恐怖政治 を行った。特に独ソ戦開始後、アインザッツグルッペン と呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。そのため軍部の中でヒトラー暗殺計画 を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。
12月7日 (現地時間)、日本軍 がマレー半島のイギリス軍を攻撃し(マレー作戦 )ここに大東亜戦争 (太平洋戦争 )が勃発した。またマレー半島を攻撃した数時間後に、日本軍はアメリカ のハワイにある真珠湾 の米海軍の基地を攻撃した。これに対し12月8日 にアメリカとオランダ が日本 に宣戦を布告[82] 。日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。
ドイツの対アメリカ宣戦布告については、日本がソ連に宣戦布告を行わなかったように、ドイツに参戦の義務があったわけではないが、ヒトラーの判断によって決定された。このヒトラーの決断のタイミングは、常勝であったドイツ軍がモスクワ前面でその看板を打ち砕かれたときであり、ドイツが危機を迎えている最中に、なぜヒトラーが新たな危機を抱え込む決断をしたかは不明である。合理的な解釈では、ヒトラーは参戦各国をレンドリース で支えるアメリカとはいずれ戦わねばならないと考えており、しばらくの間は地球の反対側で日本がアメリカを引き付け、ドイツの戦争を邪魔しないようにしてもらうためには、日本とアメリカが協調する可能性を完全に断ち切る必要があり、日本を確実に枢軸国側に引き止めるため参戦はやむを得なかったというものであるが、もっと単純に、これまでヒトラーが散々行ってきたように、自らの退路を全て断ち切って、腹を据えてこの難問を乗り切ろうとしたという推定もある[83] 。
このモスクワ強攻と対アメリカ宣戦以降、ヒトラーはこれまで以上に戦略や作戦遂行の細かい部分にまで立ち入る様になり、致命的な判断ミスを次々と犯すようになっていく。そしてその失敗の責任を全て部下の将軍らになすりつけて解任していった。責任をなすりつけたヒトラーは自己反省することはなく、誇大妄想に苛まれ、自分は絶対に間違いを犯さないと信じるようになり、今後続いていく敗戦から目を逸らすように、新たな戦場、新たな敵を求めてさらに敗北を重ねていくようになった。そして最終的には戦争の目的を見失って、ユダヤ人の殲滅などという戦局には何の影響もない犯罪行為に力を注いでいくこととなる。そして、この独裁者の犯罪的なエネルギーで最も被害を受けたのが、ヒトラーを支持したドイツ国民であり、破滅の一歩手前まで追いやられることとなっていく[84] 。
1942年
第二次世界大戦のヨーロッパ戦域の動画
開戦直前の1939年1月の政権掌握6周年記念演説でヒトラーはユダヤ人に対して下記のような恐ろしい予言をしていたが、ヨーロッパの大半を手中に収めた今となって着々と実行に着手していた[85] 。
もしヨーロッパ内外で国際的に活動するユダヤ人資本家が諸国を再び戦争に突入させることに成功しても、その結果起こるのは世界のポルシェヴィキ化でもユダヤ人の勝利でもない。ヨーロッパユダヤ人の絶滅だ。
ポーランド侵攻を皮切りにしてドイツはたちまち200万人の東欧ユダヤ人をその支配下に置き、ヒトラーはヨーロッパ大陸の人種構成を塗り替える機会を手にしてしまった[86] 。ヒトラーは親衛隊のハインリヒ・ヒムラー を「ヨーロッパの新たな人種的秩序の設計者」に任じ、ヒムラーはヒトラーの“信頼”に応えて積極的に行動した。まずは戦争により獲得し、新たにドイツに併合された地域から数百万人のポーランド人とユダヤ人を追放し、ドイツ系住民を入植させた[87] 。
ポーランドのゲットーに入れられたユダヤ人(1942年4月)
1939年からドイツ国内では、「T4作戦 」と称し、反政府運動家や精神障害者を相手に安楽死 処分が行われていたが、当初は国外のユダヤ人に対しては大規模な虐殺は行われておらず、ワルシャワ・ゲットー など、各地に設けられたゲットー に押し込めるか、文字通り国外に追放していた。しかしその人数が膨大な数に及ぶと、次第にドイツはユダヤ人を持て余すようになり、ヒムラーは東部戦線の最前線にユダヤ人250万人を移送し、塹壕 を掘削させるなどの強制労働に従事させることを真面目に検討したこともあった[88] 。その後も、ユダヤ人をマダガスカル島に押し込めるマダガスカル計画 や、新たに独ソ国境となったルブリン にユダヤ人保留地を作ってそこにユダヤ人を集めるといった「一定の領域に押し込めることで解決」を図ろうとする計画が検討されたが、マダガスカル島はマダガスカルの戦い でイギリスに奪われて計画は白紙となり、他の大規模移送計画も輸送力等の面から実行は断念された。しかし、仮にこれらの計画が実行されても、食糧を得る手段も乏しい地帯に放逐されたユダヤ人数百万人が死ぬことは確実であった[89] 。
ウクライナのリヴィウ で殺害されたユダヤ人(1942年5月)
ユダヤ人問題は棚上げされ、各地のゲットーでは約200万人のユダヤ人が栄養不良のまま放置されていた。一方でドイツは国内でのT4作戦 や、独ソ戦で大量に獲得したソ連兵捕虜の虐殺などで、“虐殺技術”を進化させており、これをユダヤ人問題の“最終的解決”に活用しようという流れができていた[90] 。1942年1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにナチス党の重要幹部が集結すると「ユダヤ人問題の最終的解決 」について協議したヴァンゼー会議 が行われた。これ以後、ワルシャワなどドイツ占領下のゲットー のユダヤ人住民に対し、7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウ やトレブリンカ 、ダッハウ などの強制収容所 への集団移送が始まった。まずは、強制収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、強制労働に従事できない高齢者や子供、身体障害者などをガス室 を使って大量虐殺することとし、まもなく普通の男女へとその対象は広がった。その後、3月6日と10月27日に2度の最終解決についての省庁会議が行われている。
その後ドイツみならず占領下のポーランドやチェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニア、ウクライナ 、フランス、オランダ、ベルギー、ギリシア、ルクセンブルク 、ノルウェーまた同盟国のイタリアでも行われた大量殺戮は「ホロコースト 」と呼ばれ、1945年5月にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の強力な支持または黙認の元に継続され、ユダヤ人虐殺について連合国が騒ぎ立てるのは、第二次世界大戦後のことであった。
また、日本や汪兆銘政府などの同盟国に対しても在留ユダヤ人への殺戮を行うように、ドイツ政府は在日ドイツ大使館付警察武官兼SD代表のヨーゼフ・マイジンガー を通じて依頼したが、ユダヤ人に対する差別感情がないばかりか、日露戦争時にユダヤ人銀行家に世話になった恩義のある日本政府はこれを明確かつ頑なに拒否している[91] 。結果的に日本やその占領地では終戦までユダヤ人に対する殺戮は行われていないばかりか、ユダヤ人をドイツの殺戮から徹底的に保護している。
最終的に、上記の地域におけるホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人 や同性愛 者、身体障害者、精神障害 者、共産主義者を含めた政治犯 など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、600万人に達するといわれている。
ブラジル のヴァルガス大統領とアメリカのルーズベルト大統領
日本とドイツ、イタリアと開戦したアメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、ブラジル のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス 大統領は1月に連合国として参戦することを決定し、ドイツやイタリア、日本との間に国交断絶、参戦したが、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ドイツとイタリアなどと戦うヨーロッパ戦線に参戦した。また在ブラジルの日本人と日系人を沿岸から内陸地へ強制的に集団移住させたり、日本語新聞の発禁などの行動をとった。なお隣国でドイツやイタリア、スペインと友好関係を保っていたアルゼンチン は中立を保った。
北アフリカ戦線 でのドイツアフリカ軍団司令官エルヴィン・ロンメル
北アフリカ戦線 では、エルヴィン・ロンメル 将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、1月20日に再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルク を占領。同23日にエジプト に侵入し、30日にはアレクサンドリア 西方約100kmのエル・アラメイン に達した。しかし、ロンメルはヒトラーの方針を逸脱して戦線を拡大した結果、同程度の規模と重要性を持つ他のドイツ軍団よりも、比較にならぬほどの多くのトラックなどの輸送手段を与えられていたのにも関わらず、補給路が長くなりすぎて補給に窮するようになり、準備万端で迎え撃ったバーナード・モントゴメリー 中将率いる連合軍に対して10月23日に開始されたエル・アラメインの戦い で惨敗し、約80,000人の兵士を失って撃退された[93] 。勢いにのったモントゴメリーは、11月13日にトブルクを、同20日にはベンガジ を奪回する。
さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦 によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン 大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦 )した。
イギリス軍は、ヴィシー政権の植民地であるアフリカ東海岸沖のマダガスカル島 を、南アフリカ軍 の支援を受けて占領した。これに対しドイツからの依頼もありインド洋からイギリス海軍を駆逐した日本軍は5月にマダガスカル島へ進出し、日本海軍の特殊潜航艇がディエゴ・スアレス 港を攻撃した。これは初の本格的な日独両軍の共同作戦かつ、初の日本海軍のアフリカ戦線での攻撃となった。
日本海軍はイギリスのタンカー1隻を撃沈、イギリス海軍の戦艦を1隻大破し、さらに上陸した日本海軍の兵士が陸戦を行いイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果を上げている。しかしドイツ軍も本国から遠いマダガスカル島の奪取を諦めたため、日本軍はこれ以上の攻撃は避けている。
またドイツ海軍 のカール・デーニッツ 潜水艦隊司令官率いるUボート は、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ 沿岸やカリブ海 、アフリカ西および東海岸、インド洋や東南アジアにまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(大西洋の戦い )。しかし、この頃より英米両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定されることになる。
フランスのブレスト軍港における日本海軍の伊8潜
この頃日本海軍とドイツ海軍は、利害が一致し、互いの最新の軍事技術情報を入手し、両国の武官や技術者の交換をしたいという思惑があり、日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった。互いの潜水艦をドイツはドイツ占領下にあるフランスのキール、日本は日本の占領下にある昭南やペナンに送り、日本からドイツへ酸素魚雷や無気泡発射管などの技術が、ドイツから日本へはウルツブルク ・レーダー技術や暗号機等の最新の軍事技術情報がもたらされた。遣独潜水艦作戦 の1回目として、伊号第三十潜水艦 が8月6日にフランスのロリアンに入港した。
またドイツ海軍は、大西洋の一部地域における連合国の海上封鎖 を突破して、この頃ほぼインド洋を支配していた同盟国である日本から酸素魚雷や小型船舶エンジンなどの軍需品や、水上飛行機などの設計図を、また日本がそのほぼ全域を支配していたアジア およびインド洋水域からゴム 、スズ 、モリブデン 等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。往路には日本の必要とする工作機械 やレーダー 等の軍需品を日本にもたらした。日本海軍 はドイツ船舶を「柳船 」という秘匿名称で呼び、昭南 やペナン などの基地を提供しただけでなく、日本国内の基地を提供し、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。
1942年12月10日、レニングラード包囲戦 のドイツの爆撃による破損家屋を去るレニングラード の民間人
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦 を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日に攻撃を開始し、ドン川 の湾曲部からヴォルガ川 西岸のスターリングラード 、コーカサス 地方の油田地帯を目指す。一方ドイツ軍に追い立てられたソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌ を占領。8月9日、マイコープ 油田を占領した。
モスクワ攻略に失敗したヒトラーは乾坤一擲の策として、ソ連の指導者スターリンの名前が冠されたソ連南部の重要都市スターリングラード の攻略を命じ、フリードリヒ・パウルス 大将率いる精鋭第6軍 の22万人が市街に迫った。パウルスもその部下のドイツ軍兵士たちも、これまでの勝利体験から早くて1週間、時間がかかったとしても1か月でスターリングラードを攻略できると信じて疑わなかった。8月23日にスターリングラード市街まで58㎞の位置まで迫っていた第6軍は一斉に進撃を開始し、第二次世界大戦の岐路となったスターリングラード攻防戦 が開戦した[95] 。
スターリングラード市街で戦うソ連第62軍兵士
9月13日にはドイツ軍部隊がスターリングラード市街地に突入したが、そこで待ち構えていたのがワシーリー・チュイコフ 中将率いる第62軍 (英語版 ) であった。チュイコフはこの戦いの直前まで在華ソビエト軍事顧問団 として日中戦争 で国民党軍 の作戦に関与しており、日本軍との近接戦闘を経験していた。スターリングラードの市街地で戦うドイツ兵は、遠距離から自動火器の弾をばらまきながら前進するといった戦法を取っており、チュイコフの目からは、明らかに日本兵と比較してドイツ兵は近接戦闘を苦手にしているように見えた。そこでチュイコフは「全ドイツ兵に、ソ連軍の銃口をつきつけられて生きていると感じさせなければならない」と部下兵士に命じ、徹底した近接戦闘を命じた。近接戦闘にドイツ兵を引きずり込むことは、敵味方が入り乱れるため、航空機や戦車による戦闘支援を困難にするといった効果もあった[96] 。そのため、スターリングラード市街では建物の一部屋一部屋を奪い合うような血なまぐさい白兵戦が戦われ、チュイコフは着実に第6軍の戦力と勢いを削いでいった。それでも第6軍は夥しい損害を被りながらも、10月末ごろには市街地の90%を占領し、チュイコフと第62軍はヴォルガ川 の川岸の長さ数キロ幅数百mの帯のような細長い地域に追い込まれた[97] 。毎日死闘を繰り返し超人的な努力でスターリングラードを守っていたチュイコフと第62軍の兵士に対して、スターリンは労いの言葉ではなく以下の様な檄を飛ばしている。
諸君はヴォルガ川を渡って退却することはできない。ただ一つの道があるのみだ。その道こそ前方へ進む道である。スターリングラードは諸君の手で救われるだろう。さもなければ、諸君もろともに跡形もなく抹消されるであろう!
第6軍は第62軍に止めを刺すべくじりじりと前進を続けていたが、これはジューコフの罠であり、作戦当初から第6軍をスターリングラード内で生け捕ろうとする野心的な作戦を立てており、チュイコフが第6軍を市街地で果てしない消耗戦に引き摺り込んでいる間に、反撃戦力として50万人の兵士、1,500輌の戦車、火砲13,000門を集結させチャンスを見計らっていた。そして、初雪が降った3日後の11月19日、大地が凍り戦車が走り回れるようになるのを待ってソ連軍の大反撃が開始された[98] 。
ソ連軍反撃部隊の猛進撃に前線のルーマニア軍があっさり蹴散らされると、ソ連軍反撃部隊は第6軍に迫った。パウルスは前進を諦めて、突進してきたソ連軍に反撃を命じ、前線ではドイツ軍歩兵が何百輌ものソ連軍戦車相手に、対戦車手榴弾で立ち向かったが次々と倒されていった。第6軍は作戦開始時の22万人から増援もあって最大で334,000人の兵力となったが、戦闘や傷病によって多くの将兵が倒れており、このソ連軍の反撃によって生き残っていた約20万人がスターリングラードで包囲された。そしてこの包囲の中にはルーマニア軍の生き残りやドイツ軍の非戦闘要員数万人も入っていた。11月22日にパウルスは自分の軍が包囲され退路を断たれたことを認識すると、ヒトラーにその状況を報告したが、ヒトラーはパウルスに占領地の死守と、その手段として要塞構築を命じて、第6軍を誇らかに「スターリングラード要塞部隊」と名付けた[100] 。
しかし、要塞部隊などと勇ましい名前をつけたところで、食料も武器弾薬も枯渇している第6軍が長くは持ちこたえられないことは明白であった。そこでドイツ空軍は輸送機をかき集めて空輸で第6軍に補給し続けたが、その量は必要最低限の量を大きく下回っていたうえ、ソ連軍戦闘機の迎撃や対空砲火で輸送機536機、爆撃機149機、戦闘機123機、そして熟練パイロット2,196人というバトル・オブ・ブリテンに匹敵する様な甚大な損害を被って、やがて空輸を続けることが困難となった[102] 。不足していたのは食糧に加えて、冬季用衣服と装備も足りていなかった。前年のモスクワで痛い目を見ていたのにも関わらず、今回も冬季用装備を輸送していた列車は、スターリングラードより遥か手前でずっと立ち往生しており、前線に届いてすらおらず、第6軍将兵の殆どが薄手の夏季用軍装でソ連の厳しい寒波にさらされていた。ドイツ軍は愚かにも2年続けて戦局を左右する重要な作戦で同じミスを犯してしまった。このような過酷な環境で第6軍の将兵は次々と飢えと寒さで倒れていった[103] 。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン 元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。もはや第6軍将兵の運命は風前の灯火で、クリスマス にモスクワの国営放送は「ソ連では7秒ごとに1人のドイツ兵が死んでます。スターリングラードはドイツ兵の集団墓地になりました」というコメントを放送した[104] 。
1943年
1943年2月、スターリングラード攻防戦 で反撃に出る赤軍
1943年元旦、ヒトラーはソ連軍の包囲下で苦しむ第6軍将兵に対し「第6軍将兵に告ぐ、彼等を救出するために、あらゆる努力が払われている」と無線で呼びかけたが、実際にはマンシュタインの救援も撃退され、救出の手立てはなかった[105] 。1月7日にソ連軍はパウルスに対して降伏勧告を行った。既に勝ち目がないことを悟っていたパウルスはヒトラーに「行動の自由」を容認するように至急電を打電したが、ヒトラーは仇敵ソ連への降伏を許す気はなく、パウルスの申し出を拒否した。ソ連軍は最後通牒の期限であった1月10日に5,000門の火砲で2時間もの間砲撃を浴びせた後、第6軍の殲滅を開始した。激戦は再開されて、両軍の多くの兵士が倒れるなか、1月30日にパウルスのもとに元帥昇格の知らせが届いた。これはかつてドイツ史上で敵に降伏した元帥はおらず、降伏するなら自決せよというヒトラーからのメッセージであったが、パウルスはそのメッセージを無視し降伏することを選んだ。元帥に昇格した翌日の1月31日に「ソ連軍は我々の防空壕の戸口に来ている。我々は我々の装備を破壊中である」と最後の打電を行わせると、その後は無線封鎖し2月2日にソ連軍に白旗を掲げた[109] 。
2月2日に降伏したドイツ軍と同盟軍は、12月の「スターリングラード要塞」攻防戦開始時に255,000人が閉じ込められたはずであったが、投降してきた将兵は123,000人であり、実に2か月の間で13万人近くが戦闘に加えて飢えや寒さで命を落としていた。さらにこの12万人で戦後に生きてドイツに帰れたのはわずか6,000人ほどで、文字通り第6軍は全滅し、ドイツ軍は歴史的大敗を喫した[111] 。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。
しかし、ドイツ軍は3月にマンシュタイン 元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦い は、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることはなく、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。
北アフリカ戦線 で敗退を続けるロンメルであったが、このまま高名な将軍が捕虜となることを懸念したヒトラーによって、1943年3月9日にアフリカ軍集団司令官から解任されドイツに呼び戻された。ロンメルが解任されたあとは、ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム 上級大将が引継ぎ、隷下のドイツ軍装甲部隊指揮官ハンス・クラーマー 中将と、イタリア軍司令官ジョヴァンニ・メッセ 元帥の巧みな指揮もあって連合軍をどうにか足止めしていたが[113] 、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、イタリアとドイツ両軍はチュニジア のボン岬 方向に追い込まれていた。アルニムは誇り高いドイツアフリカ軍集団の有終の美を飾るべく、4月28日に自ら指揮を執って残存兵力で反撃を行い、2日後にはジェベル・ブーアウーカーズ高地の連合軍を撃破して奪還に成功したが、所詮は最後の徒花に過ぎなかった。
連合軍はあっさり態勢と立て直しジェベル・ブーアウーカーズ高地を再奪還すると、5月6日にはチュニス への総攻撃を開始、ドイツアフリカ軍集団は脆くも24時間で街からたたき出された。最後を悟ったクラーマーは司令官を解任されオーストリアで病気療養中のロンメルに「サヨナラ」の電報を打電し、ドイツ軍統帥部には「弾丸はすべて撃ち尽くし、武器、資材は破壊せり。命令に従いアフリカ軍団は、全力をふるい可能な限りの戦闘をなせり。ドイツ・アフリカ軍団は、再起せざるべからず」という最終電文を打電した。その数日後の5月13日に軍集団司令官のアルニムが連合軍に降伏した。ここで捕虜となったのはドイツ軍約10万、イタリア軍約15万人という莫大な人数であったが、ドイツ軍とイタリア軍が北アフリカ戦線で失った戦力は兵員約50万人、戦車2,550輌、車輛70,000台、航空機8,000機と甚大なものとなり、後の戦局に大きな影響を及ぼした。
北アフリカで枢軸国軍を撃破した連合軍は、地中海の制海権を確立し、ドイツ軍が「フェストゥング・オイローバ(ヨーロッパ要塞)」と嘯き堅守を誇るヨーロッパ大陸の“柔らかい下腹”を突くため、イタリアシチリア島 上陸作戦のハスキー作戦 を開始した[117] 。北アフリカで多大な損害を被ったイタリア軍であったが、こと海軍においては、戦艦6隻、巡洋艦7隻、潜水艦48隻、その他艦艇75隻が残っており、依然として強大な戦力を維持していた。連合軍はイタリア海軍の強力な海上部隊に対抗するため、イギリス海軍で空母2隻、戦艦6隻、巡洋艦10隻、その他多数、アメリカ海軍も巡洋艦5隻、駆逐艦48隻など、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線においては、最大の支援艦隊と水陸両用部隊を準備した。連合軍海軍が懸念したイタリア海軍については、艦隊の見てくれは立派であるが、その戦闘力には疑問符がついており、まずはレーダー を装備した艦艇がないことから探知能力に問題あり、航空支援や対空火器にも乏しいことから敵からの航空攻撃を恐れて、温存というよりはむしろ母港を出港できないという状況であった[118] 。
シチリア島で連合軍に投降するイタリア兵
連合軍は事前の徹底した爆撃と艦砲射撃ののち、7月10日になって、これまでのヨーロッパ戦線では最大規模の敵前上陸と、空挺部隊の降下によってシチリア島に侵攻開始した。イタリア本土に目と鼻の先のシチリア島の軍事的な価値は高く、枢軸国軍は部隊を順次増強し、連合軍侵攻時にはイタリア軍約23万人、ドイツ軍約7万人の合計30万人が防衛していた[119] 。しかし、沿岸を防衛していたイタリア兵は自国の防衛であるにも関わらず戦意が極めて低く、連合軍兵士が上陸してくると無秩序に逃げ出し、その勢いを見ていたイギリス軍兵士は、イタリア兵の撃つ銃弾より、捕虜になるために走って向かってくるイタリア兵に踏み殺されはしないかと恐れたほどであった。それに対してドイツ兵は勇敢に戦い、上陸してきたアメリカ軍部隊に対し、ティーガーI を先頭にして突撃してきたので、たちまちアメリカ軍1個大隊が壊滅状態に陥り、大隊長が捕虜になったということもあった。特にティーガーIは上陸直後で重火器が不十分な連合軍兵士を相手に猛威をふるい、仕方なく駆逐艦 が沿岸まで近付いて艦砲射撃で撃破している[120] 。
イタリア空軍とイタリア海軍はドイツ軍と連携し連合軍艦隊を効果的に攻撃した。潜水艦による攻撃で、ドイツ軍Uボート3隻とイタリア軍潜水艦9隻を失ったが、イギリス海軍巡洋艦4隻を撃沈する大戦果を挙げた。また、空からの攻撃は連合軍艦隊を悩まし続け、輸送艦等9隻を撃沈、空母インドミダブル を含む多数の艦を損傷させた[121] 。しかし、陸上での戦いでは相変わらずイタリア兵の戦意は低く、粘り強く戦っていたのはドイツ兵であった。そのようなイタリア兵の姿を見ていたあるドイツ兵は以下の様に論評している[122] 。
イタリア部隊は疲れ、規律を欠き、目的を持っていなかった。その結果、イタリア部隊が戦闘において戦力となったことは極めて稀である、だいたいいつも負担になるのが常だった。
主にドイツ軍の敢闘により、2週間程度で終わると思われていた戦いは38日間も続いた。ドイツ軍は12,000人の兵力を失ったが、生き残った部隊は、8月10日からハリネズミ のような大量の高射砲に守られる中で、メッシナ海峡 を渡ってイタリア本土に整然と撤退を開始し、司令官ハンス=ヴァレンティーン・フーベ 大将は部下将兵の撤退を見送ったのち、8月17日に最後の便で撤退した。同日にイタリア軍も司令官 アルフレード・グッツォーニ (イタリア語版 ) 以下残存部隊がイタリア本土に撤退した。枢軸国軍が撤退した後、ジョージ・パットン 中将が率いる第7軍 が、イギリス軍担当区域内の最終目標メッシナ を占領してハスキー作戦は終了したが、のちにアメリカ軍とイギリス軍の間でひと悶着起こっている。枢軸国はこの戦いで16万人の兵士を失ったが、その多くがまともに戦うこともなく投降したイタリア兵であった。一方で連合軍の死傷者は20,000人であった[123] 。
この戦いの最中、シチリアの島民は敵であるはずの連合軍兵士を歓迎した。これまで北アフリカの砂漠で水にも食糧にも苦労してきたイギリス兵は、シチリアの豊かな自然と住民の歓迎を満喫した。イギリス第8軍 (イギリス軍) (英語版 ) 兵士はこの戦いを振り返って「砂漠から来たので、シチリアでは楽しんだ」と振り返った。その司令官で厳格な性格のバーナード・モントゴメリー 中将ですら「時は盛夏、木々はオレンジとレモンが実り、酒はふんだんにあった。シチリアの娘たちはみんな親切だった」と振り返っており、終始戦意が低かったイタリア兵に加えて、イタリア国民も戦争に疲弊しているのが明らかであった[124] 。そしてこの惨敗により、ただでさえ綻びが見えていたイタリアのファシズムは破綻に向かい、ムッソリーニの権威は地に墜ち、その失脚とイタリアの現体制崩壊へと繋がっていった[125] 。
サレルノ に上陸したイギリス陸軍
各地で連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使 王党派のディーノ・グランディ 伯爵 、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ 外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
9月3日 、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線 )。同日、ムッソリーニの後任、元帥ピエトロ・バドリオ 率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日 、連合国はイタリアの降伏 を発表した。ローマ は直ちにドイツ軍に占領され、国王と首相バドリオらの新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジ へ脱出した。
逮捕後、新政権によってアペニン山脈 のグラン・サッソ 山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊 オットー・スコルツェニー 大佐 率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ドイツの傀儡政権 「イタリア社会共和国 」(サロ政権)を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日にドイツへ宣戦布告したが、これは形だけのものであった。
日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキール に連絡潜水艦を送っていたが、この3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ 」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった)。
なお船員らは日本軍に一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、サロ政権についた者はそのまま枢軸国側として従事し、日本軍およびドイツ軍の下で太平洋およびインド洋の警備にあたった。しかし、イタリア租界のあった天津港などで活動していたイタリア海軍の艦船のうち「カリテア2」、「エルマンノ・カルロット」、「レパント」が、日本軍やドイツ軍の指揮下に入るのを拒否し神戸港や上海港などで自沈し、「エリトレア」がインド洋で「コマンダンテ・カッペリーニ」を護衛中に逃亡し、イギリス軍に降伏している。この突然の自沈と逃亡は、サロ政権につかなかったイタリア軍将兵に対する日本軍および政府の感情悪化につながり、その後のイタリア軍将兵の捕虜収容所での過酷な待遇につながった。
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランス を指揮していたシャルル・ド・ゴール は、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍 を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア 、チュニジア などのフランス植民地 やフランス本国で対独抗戦 を指導した。
1943年には、ドイツ軍の退潮と連合軍の攻勢は明らかになっていたが、これは一時期イギリスの継戦能力に大きな打撃を与えていたドイツ軍Uボートとの戦いでも同様であった。イギリス軍はアメリカからの護衛空母 、駆逐艦 、対潜哨戒機 をレンドリース で支援を受けるとともに、潜水艦探知能力で著しい技術進化を遂げ、Uボートとの戦いの戦況を大きく変えていた。そして、1943年の3月から5月にかけての大西洋上での戦いが転換点となってUボートは落ちぶれていった[126] 。
司令官のデーニッツはこれまでの勝利経験に基づき、連合軍輸送船団に対して群狼作戦 を命じたが、対潜能力を強化した連合軍の護衛船団に阻まれ損害を増やしていく、それでも4月のHX234高速船団に対する攻撃では輸送船撃沈5隻に対してUボートの損失は2隻、5月初めのONS55船団に対する攻撃では12隻の戦果に対しUボートの損失は7隻と、戦果と損害が伯仲していたが、5月15日からのSC130船団に対する攻撃ではウルフパック4個群が全力で船団を攻撃したが、ついに戦果を挙げることができず、逆にUボート5隻が撃沈された。デーニッツはこの惨敗で、群狼作戦を諦めてUボートを船団航路から撤退させ、連合軍はついに大西洋上でUボートを征することに成功した[127] 。この後Uボートは単艦で船団を攻撃し護衛艦隊の分断を狙ったが、この新戦法で戦果が回復することはなく、損害が積み重なっていくだけであった。1943年はUボートの転機となり、1年間で244隻のUボートが連合軍によって撃沈されたが、これは1942年の損失の約3倍であり、これ以降も損失は加速度的に増加していった[128] 。
大西洋の戦いでドイツ海軍の敗色が濃くなる中、ドイツ本土上空では連合軍空軍爆撃機とドイツ空軍の間で死闘が繰り広げられていた。ドイツ本土が連合軍空軍に爆撃されたのは意外にも早い時期で、バトル・オブ・ブリテン 前の1940年5月には、イギリス空軍の爆撃機がブレーメン を爆撃している[129] 。ドイツ軍がまだ攻勢中であった1942年5月にはイギリス空軍単独で、史上初の1,000機以上(1,047機)の航空機によるケルン爆撃 が行われた。ドイツ空軍戦闘機の迎撃による損失は少なくケルン上空での損失22機のうち4機に過ぎなかった(他16機は高射砲、2機は空中衝突)[130] 。
連合軍の夜間爆撃で炎に包まれるハンブルグ市街(1943年7月)
それでも、ドイツ空軍はなお質的量的優位性を保っており、イギリス空軍単独の空襲ではドイツの生産力に大きなダメージを与えることができなかった。しかし、ドイツ本土爆撃にアメリカ軍が加わると様相が一変した。アメリカ軍はB-17 やB-24 といった大型爆撃機を大量に投入して、ドイツの生産施設に確実に損害を与えていた。1943年7月から8月にかけて行われたハンブルク空襲 は聖書のソドムとゴモラ の故事にちなみゴモラ作戦と名付けられて、1日に4回もの空襲が行われたり、あらゆる種類の爆弾が投下されたりと都市に対する戦略爆撃の実験のようなものが行われ、発生した火災旋風 で30,000人~50,000人の民間人が焼死し、100万人がホームレス となった[131] 。
空襲による被害拡大のため、ドイツ空軍は本土防空体制の強化に迫られて、東部戦線から戦闘機を本土防衛に振り向けると共に、高射砲と戦闘機の生産を強化した[132] 。一方で連合軍は戦闘機の航続距離の不足から、爆撃機隊を十分に護衛できず、護衛のない爆撃機隊がドイツ軍戦闘機に痛撃を浴びることも珍しくなかった。1943年10月14日のシュヴァインフルト にあるボールベアリング 工場への爆撃では、291機のB-17に対してそれを上回る数のドイツ空軍戦闘機が襲い掛かり、高射砲による損害を加えて1日で60機のB-17を失うという惨敗を喫した[133] 。
激しいドイツ空軍の迎撃で大きな損害を被った連合軍ではあったが、冷静な分析で既にドイツ本土上空での勝利を確信していた。アメリカ軍はこの頃にB-17やB-24を遥かに凌駕する性能を誇る戦略爆撃機B-29 の開発を進めていたが、その指揮を執っていたアメリカ陸軍航空軍 司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド 大将は「我々はB-29の爆撃目標をドイツとは考えなかった。B-29の作戦準備が整うまでに、B-17やB-24が、ドイツとドイツの占領地域の工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊してしまっている」と考えて、B-29を日本に対して使用することを決定している。
カイロ会談に参加した蔣介石 、フランクリン・ルーズベルト 、ウィンストン・チャーチル (11月25日)
この年、連合国の首脳および閣僚は1月14日カサブランカ会談 、8月14日 - 24日ケベック会談 、10月19日 - 30日第3回モスクワ会談 (英語版 ) 、11月22日 - 26日カイロ会談 、11月28日 - 12月1日テヘラン会談 など相次いで会議を行った。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。
1944年
1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間に及ぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島 、ウクライナ 地方のドイツ軍を撃退、6月22日に夏季攻勢(バグラチオン作戦 )が開始され[注釈 10] 、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツ中央軍集団 は壊滅。ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、さらにソ連軍はバルト三国 、ポーランド 、ルーマニア などに侵攻していった。
モンテ・カッシーノ 修道院跡(1944年5月)
1月17日 にイタリア のモンテ・カッシーノ で、連合国軍のイタリア戦線 における、ドイツ軍のグスタフ・ライン (英語版 ) の突破およびローマ 解放のための戦いが開始された。
2月15日 にカッシーノ の街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍 は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し修道院は破壊された。ブラジル軍 も参戦し、5月19日 に連合国軍は勝利する。
D-デイ のノルマンディー上陸作戦 でオマハ・ビーチ に接近するアメリカ軍(6月6日)
一方、本格的な反攻の機会を窺っていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー 将軍の指揮の下、北フランス・ノルマンディー 地方に、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機が殺到した。これは、西部戦線における連合軍の反攻作戦となるオーヴァーロード作戦 (ノルマンディー上陸作戦 )であったが、ドイツ軍側は上陸地点を読み違えていたことや、作戦の不徹底があったうえ、上陸当日には司令官エルヴィン・ロンメル 元帥が休暇でドイツに帰国しているなど緊張感が欠落しており[135] 、完全な奇襲になってしまったことによって、連合軍に易々と上陸を許すこととなった。奇襲されたドイツ軍は大混乱して、オマハ・ビーチ での激烈な抵抗以外は非常に脆く敗退し、連合軍の損害も予想をはるかに下回る軽微なものであった[137] 。連合軍将兵は脆かったドイツ側の防備を見て、堅牢を誇りながらイスラエルの民 が角笛 を吹いただけで崩壊したと言われるエリコの壁 を彷彿したという[138] 。戦闘や爆撃に巻き込まれて、ノルマンディー在住の多数の民間人が死傷し[139] 、女性の性的被害もあるなど、この日もっとも犠牲を被ったのはフランス国民となったが[139] [140] 、1940年6月のダンケルク 撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。この上陸の2日前、6月4日にイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。
連合軍のフランス上陸を許すなど敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、国内予備軍 司令部参謀伯爵 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク 大佐 により、ヒトラー暗殺計画 が決行されたが失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。また、国民的英雄エルヴィン・ロンメル 元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した[注釈 11] 。
またこの頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦 」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。なお、7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州 、ブレトン・ウッズ で45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズ が提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定 が結ばれることとなる。
ドイツ軍は、フランス上陸後の連合軍の進撃を辛うじて食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦 の結果、ついにドイツ軍の戦線を突破し、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。8月頭にイギリス軍やカナダ軍、アメリカ軍を筆頭に連合軍は東へ進み、パリ方面へ進撃を開始した。
解放されたパリ(8月25日)
ドイツ軍も8月7日にディートリヒ・フォン・コルティッツ 歩兵大将をパリ防衛司令官に任命しパリを防衛するも、8月16日には南フランスにも連合軍が上陸し(ドラグーン作戦 )、ドイツ軍のパリ防衛も時間の問題であった。
ヒトラーはパリが陥落する際、パリを焼きつくして撤退するよう言明した。パリを防衛するドイツ軍は崩壊し、8月25日に自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放 された。しかしドイツ軍はヒトラーの指令に反しパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。フランス共和国臨時政府 がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。
フランスを占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者(コラボラシオン )」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行した。さらに、ココ・シャネル のようにドイツ軍将校の愛人 とドイツ軍のスパイを務めた上に、スイスなど国外へ亡命する者もいた。
8月1日、ポーランドの首都ワルシャワ では、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起(ワルシャワ蜂起 )したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア共和国 でもソ連軍支援の民衆蜂起 が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。
また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命 )、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦 でハンガリー全土を占領、矢十字党 による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアのプロイェシュティ 油田の喪失でついにドイツの石油供給は逼迫する。
9月3日、イギリス軍はベルギー の首都ブリュッセル を解放した。次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー 元帥は9月17日、オランダ のナイメーヘン 付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦 を実行するが、拠点のアーネム を占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。
自機の下で語らうアメリカ陸軍航空隊のエース・パイロット のウェンデル・O・プリューイット大尉
ドイツ本土上空では引き続き激戦が繰り広げられていたが、ドイツ軍の防空体制の強化に対してアメリカ軍は、新鋭戦闘機P-51ムスタング を戦線に投入した。P-51はその長い航続距離でドイツの奥深くまで爆撃機を護衛し、圧倒的な高速と空戦性能で迎撃してきたドイツ軍戦闘機を次々と撃墜していった。やがて、ドイツ軍戦闘機はP-51に圧倒されて、制空権は連合軍に握られるようになった。追い詰められたドイツ軍は世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262 を投入し制空権の回復に努めるが、兵器としての信頼性ではP-51には遠く及ばず、局地的な善戦に留まった[141] 。バトル・オブ・ブリテン時に開始された首都ベルリンへの空襲は1944年に入ると激しさを増し、さらに1944年の後半に連合軍がドイツ本土に迫ると、1944年末から1945年にかけて連合軍の空襲はピークを迎え、ドイツ国民は多大な損害を被ることになった[142] 。
激化するドイツ本土爆撃に対抗し、ドイツ軍は世界初のジェット爆撃機アラドAr234 、同じく世界初の飛行爆弾 V1 、次いで世界初の弾道ミサイル V2ロケット など、開発中の新兵器を次々と実用化し、実戦投入した。ヒトラーがこれら新兵器にかけたコストと期待は極めて大きいものであったが、V2が挙げたもっとも大きな戦果は、この後のバルジの戦い の際に、ベルギー のアントワープ にあった映画館 のシネマレックスに着弾したもので、西部劇 鑑賞中の軍民567人が死亡したが、死亡したベルギーの民間人の多くが子供であった[143] 。また、V1がもっとも存在感を示したのが、ノルマンディで苦戦するロンメルを叱咤するため、ヒトラーがフランスのエーヌ県 にあったヴォルフスシュルフトII (英語版 ) を訪れた際に、期待のV1がジャイロスコープ の不具合で、ヒトラーが就寝中のヴォルフスシュルフトIIに着弾し、これに驚いたヒトラーはその夜のうちにドイツ国内に逃げ戻り、この後死ぬまでドイツ国内から出ないといった効果を生じさせたことであった[144] 。
V1とV2は主にミッテルバウ=ドーラ強制収容所 において生産された。この強制収容所では、ソ連軍、ポーランド軍、フランス軍捕虜のほか、ドイツで反政府運動で拘束されたドイツ国民など60,000人の収容者が強制労働させられたが、うち20,000人が劣悪な労働環境と危険な作業を強要されて死亡した。この死亡者数は、V1やV2の攻撃で死亡した一般市民の数倍にも上る人数であった。結局これらは兵器としては画期的なものであっても、戦況には殆ど影響を及ぼすことはなかった[145] 。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使するほか、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[146] 。
バストーニュを行軍するアメリカ陸軍第101空挺師団(12月31日)
この頃になると、ドイツの崩壊は秒読みに入ったと連合国側の首脳陣が認識するようになっていた。アメリカと日本が参戦した直後の連合軍の基本方針は、まずはナチス・ドイツを打ち破ることを優先し、それまでは太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、アメリカ陸軍の大物ダグラス・マッカーサー 元帥 やアメリカ海軍 が、日本軍 の手強さと太平洋戦線の重要性をルーズベルトに説いて、ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、アメリカ軍は太平洋上において大規模な二方面作戦を展開していた[147] 。
さらにマッカーサーは、フィリピンの戦い (1941-1942年) での汚名を返上すべく、フィリピン の奪還を強硬に主張していた。フィリピンには日本軍が大兵力を配置しており、その攻略には太平洋戦線過去最高規模の兵力が必要であったが、ナチス・ドイツ打倒の優先を主張していたチャーチルも、この頃にはヨーロッパの戦争は最終段階に入っていると考えており、太平洋方面の戦況に大きな関心を寄せていた[148] 。そのような状況で、マッカーサーはルーズベルトにフィリピン奪還を認めさせると、政治力を駆使して大量の兵員と航空機を太平洋戦線向けに確保したが、この大兵力のなかには、ヨーロッパ戦線への増援に予定されていた戦力も多く含まれていた。連合国内で激戦の続く太平洋戦線での関心が高まる中、アイゼンハワーらヨーロッパ戦線の司令官たちは、太平洋が優先されて、次第に減少していく増援や補給を憂慮する事態に陥り、進撃は停滞していた[150] 。
かねてよりヒトラーは、西部戦線での連合軍に対する反撃攻勢を夢想していたが、連合軍の進撃停滞を見ると、今が乾坤一擲のチャンスとして反撃を決意した[151] 。
最大の問題は戦力の準備であったが、ヒトラーは国防軍最高司令部 の将軍たちの反対を押し切って、激戦続く東部戦線から25個師団を反撃のために西部戦線に転用するという命令を出した[152] 。ドイツ軍は1944年8月の1か月だけでも468,000人の兵士が死傷するなど、1944年後半に入るころから毎月スターリングラード級の惨敗をしているも同然の人的損失を被っており、既この戦争における兵士の損失は336万人に達していた。兵員不足により、ドイツ軍精鋭師団の多くもこれまでの激戦で原型をとどめないほど小規模化していたので、大規模な反攻作戦など不可能と思われていた。しかしヒトラーは強権を発動し、徴兵年齢を拡大して、実質的な国民皆兵を求めた。命令を受けたヒムラーは、徴兵を担当する軍管区司令官を集めると、以下の様な訓示を行い徴兵強化を命じた[153] 。
若者たちの命を助けて8,000万人から9,000万人の国民が全滅するよりも、若者が死んで国民が助かるほうがいい。
また連合軍による工場地帯への猛爆撃のなかでも、工場労働者の労働時間の延長などで、ドイツ軍需産業は底力を発揮、戦前・戦中を通じても最高の生産記録を達成し、ヒトラーの計画通り11月中に戦力確保の目途を立てた[154] 。作戦計画はほぼ完全に秘匿されて、作戦名も連合軍に反撃作戦と気づかれないよう、防御的な作戦と誤認させるため「ラインの守り(Wacht am Rhein)」と名付けられた[155] 。
密かに集結した25個師団約50万人のドイツ軍は、12月16日からベルギー、ルクセンブルク の森林地帯アルデンヌ 地方で反攻(バルジの戦い )を開始した。アルデンヌ地方の冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍は一時的にパニック状態に陥り、ドイツ軍に進撃を許した。特に、最精鋭の第1SS装甲師団 の先鋒を担った、ヨアヒム・パイパー 親衛隊中佐 が率いるパイパー戦闘団 (フィンランド語版 ) が猛進撃し、作戦目的である連合軍の補給拠点アントワープ港 に迫る勢いであったが[156] 、アイゼンハワーの強力な指導力もあって連合軍は速やかに立ち直り、ドイツ軍の進撃は一部を除いて、早い段階で阻止された。ドイツ軍は計画通りの進撃ができず一部部隊のみが突出し、戦線 はバルジ (「突出部」の意)を形成したので、この戦いはのちに「バルジの戦い 」と呼ばれるようになった[157] 。
パイパー戦闘団も早々に撃破されたが、それでもハッソ・フォン・マントイフェル 装甲兵大将 の率いる第5装甲軍 が中央部分を進撃し、ミューズ川 からわずか9kmのセル村 (英語版 ) まで達したが、アメリカ軍第101空挺師団 が守る重要拠点のバストーニュ の攻略ができずに攻勢は破綻、包囲していたバストーニュを12月26日にパットン 中将率いる第3軍 に解放されると[158] 、攻守は完全に入れ替わりドイツ軍は進撃を停止して防戦に追われた。その間、東部戦線ではソ連軍の動きも活発化し、これまで何度も作戦中止を進言されていたヒトラーが1945年1月8日になって「これは西部戦線の縮小ではなく“戦略的後退”である」として全軍に向けて撤退を下令した[159] 。このドイツ軍の反撃により、アメリカ軍は第二次世界大戦で単独作戦としては最大級の損害となる戦死8,607人を含む、人的損失約76,000人という甚大な損失を被ったが[160] 、攻撃側のドイツ軍の損失はさらに破滅的で、人的損失12万人、装甲車両の損失は800輌と補填不可能な損失を被って[161] 、ドイツの崩壊を早める引き金ともなった[162] 。
1945年
ラウバン (ドイツ語版 ) で兵士を慰問するヨーゼフ・ゲッベルス (1945年3月)
1月12日、ソ連軍はバルト海 からカルパティア山脈 にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランド の首都ワルシャワ 、1月19日クラクフ を占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川 流域、ドイツの首都ベルリン まで約65kmのキュストリン 付近に進出した。
1945年2月、ヤルタ会談 にて、左からウィンストン・チャーチル 、フランクリン・ルーズベルト およびヨシフ・スターリン
ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島 のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談 が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦および南樺太 や千島列島 ・北方領土 の帰属問題が討議された。
1月にはイタリア社会共和国 (RSI) 軍の攻勢終了によって再び防戦へと戻り、ムッソリーニは厳冬の中で絶望的な戦闘を続けるRSI軍の前線を訪れ、閲兵式を行って兵士達を激励している。少年兵 を含めた兵士達はムッソリーニの期待に応えて希望の失われた状況下で戦いを続け、冬の間は連合軍の攻撃も停滞した。しかし春を迎えた4月になるとゴシックラインは完全に突破され、C軍集団 とRSI軍はポー川ラインにまで戦線を後退させ、ミラノでの市街地戦が視野に入り始めた。これを裏付けるようにムッソリーニも「ミラノを南部戦線のスターリングラードにしなければならない」と演説している。
ハンガリー では1944年12月に赤軍 ・ルーマニア軍によってブダペスト が包囲され、1945年2月13日に残存していたブダペスト防衛部隊が無条件降伏 した。ソ連軍はここでも一般兵士から将官までもが略奪・暴行に参加し、10歳から70歳まで、およそ目に付くほとんどの女性が強姦された[163] 。ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト 奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦 を行うが失敗する。
ヒトラーは敗色が濃くなると、連合軍に焦土 以外のものは渡さないと思い付き、さらに連合軍の進撃がドイツ国境に迫ると、その破壊的な妄想を部下たちに語るようになっていた[164] 。そして1945年3月に戦況が破滅的な様相を呈すると、ヒトラーはついにこの妄想を実現するときがきたと考えて、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(ネロ指令 )を発する。この命令を受けた軍需相アルベルト・シュペーア は、既に敗北は必至と考えており、無駄な破壊は国民を苦しめるだけだとヒトラーに進言したが、もはや狂気に囚われていたヒトラーは聞く耳を持たなかった。そこでシュペーアは軍需相の部下や地方政治家と協力して、「ネロ指令」の実行を妨害することに力を尽くしたが、そもそも指令を実行できるような量の爆薬はなく、また、この指令をまともに実行しようという者もおらず、指令が実現することはなかった。「ネロ指令」の失敗は、物資枯渇とナチ政権の統率力低下を露わにしただけで終わったが[165] 、皮肉にも、生産設備や他民間施設の破壊は、敵である連合軍の空襲や地上侵攻によって実現することとなってしまった。
ベルリン 郊外の赤軍 の砲兵 (1945年4月)
西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川 を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川 に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い )。南部では4月20日ニュルンベルク 、30日にはミュンヘン 、5月3日にはオーストリアのザルツブルク を占領した。
これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕 に立てこもり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーン を占領した。もはやドイツは何の軍事的合理性のないまま戦い続けた。得られる戦果は僅かなのに対して損失は壊滅的なものであり、1945年1月から終戦までは疑う余地なくドイツ史上でもっとも多くの血が流された。1945年1月だけで45万人のドイツ兵が戦死し、2月から4月までの毎月の戦死者も約30万人に達した[166] 。このわずか4か月のドイツの兵員損失数は、1月の単月だけでもアメリカ軍やイギリス軍が第二次世界大戦で失った兵員数を超え[167] [168] 、4か月合計でも日本陸軍が1937年の盧溝橋事件 からの日中戦争開戦から、1945年太平洋戦争終戦まで8年間に失った148万人に匹敵する莫大な数であった[9] 。
この破滅的な損失は、ドイツ軍の指揮官の多くが部下将兵を生かす義務を放棄して、望みのない局面に意図的に追い込んで死ぬまで戦うことを強制したことによってもたらされた。その無責任な指揮官のなかには、大戦中盤まではUボートを率いて連合軍を苦しめた海軍総司令官 カール・デーニッツ 元帥も含まれていた。デーニッツは部下の海軍将兵に対して「この状況で、重要なのはただひとつ、戦いつづけること、そしてあらゆる運命に逆らい、転機を引き寄せることだ」「そのように行動できないものはろくでなしだ。そんな奴は『こいつは裏切り者』というプラカードをくくりつけて絞首刑 に処する」などという訓示を行い、ヒトラーに忠誠心を示した。この訓示に感銘を受けたナチス党の官房長マルティン・ボルマン は、党の全幹部に回覧している[169] 。デーニッツはヒトラーに信頼されて、ヒトラーの遺書 (英語版 ) により死亡時の後継者に指名された[170] 。
連合軍の空襲で瓦礫の山と化したドレスデン
死を強要されたのは兵員ばかりでなく一般のドイツ国民も同様で、1945年に入ってからは、抵抗力を喪失したドイツ防空体制を尻目にして激化する連合軍の都市爆撃で大量の死傷者を出していた。1945年2月13日から15日にかけて避難民でごった返していたドレスデン に対して、延べ1,300機の重爆撃機が合計3,900トンの爆弾を投下、犠牲者数には諸説あるものの最低でも25,000人の一般市民が死亡した[171] 。最初に1,000機による空襲を受けたケルンは終戦までに262回も空襲を受け、25万戸の住宅のうち20万戸が焼失し、開戦時76万人いた住民は終戦時に10万人しか残っていなかった。ゴモラ作戦で甚大な損害を被ったハンブルグも開戦時55万戸あった住宅のうち焼失を免れたものは26万戸だけであった。中小の都市ではもっと壊滅的な損害を受けたところもあり、ハーナウ では住宅の88.6%が焼失し、デューレン に至っては99.2%の焼失率と、ほぼまともに建っている住宅がない惨状であった[172] 。これらの徹底した破壊は、戦争を終わらせることがドイツ国民を苦しみから解放する唯一の手段であるという明快なメッセージであったが、ベルリンの防空壕の奥深くに潜んでいるヒトラーにこのメッセージが届くことはなく、多くのドイツ国民が防空壕のなかで「ドイツ兵が1918年と同じぐらい利口だったら、戦争はとっくに終わっていただろう」と嘆いていた[173] 。
連合軍による戦略爆撃によって、ドイツ本土に述べ144万機の連合軍爆撃機と268万機の連合軍戦闘機が来襲し、合計270万トンの爆弾を投下した[174] 。ドイツ軍戦闘機や高射砲による激しい迎撃で、アメリカ軍は18,000機、イギリス軍は22,000機の航空機を損失もしくは大きな損傷を被り、アメリカ軍は79,265人のパイロットが死傷もしくは捕虜となり(うち戦死者数26,000人以上[175] )、イギリス軍も同様に79,281人の人的損失(うち戦死者数は不明)を被った[176] 。ドイツ国民は自国の軍隊が行ってきた、ゲルニカ爆撃 やロッテルダム爆撃 やザ・ブリッツ などと同じ市街地への爆撃を桁違いの規模で受けることとなってしまい、ドイツ国内360万戸の住宅のうち20%が破壊され、50万人~60万人のドイツ国民が死亡した[177] 。また、ドイツ軍戦闘機の損失は57,405機と連合軍損失を大きく上回り、他に軍事目標としてはUボート 97隻、7,400門の8.8 cm FlaK 高射砲、23,000台の車両、最低でも戦車800両が撃破され、ドイツの継戦能力を破壊し尽くした[178] 。
ドイツ国民の受難は空からくる厄災だけではなかった。ソ連軍がドイツに向けて進撃してくると、東ヨーロッパに居住していたドイツ系住民はソ連兵の暴虐を恐れ、ドイツ国内に向けて避難を開始した[179] 。ドイツ海軍は、東プロイセン 、西プロイセン 、ポメレリア から、ドイツ兵やドイツ系住民をドイツ国内に避難させる『ハンニバル作戦 』を開始、また、各地にあった強制収容所から収容者をドイツ国内の強制収容所へと移送した。この大輸送作戦のため1,000隻以上の大小の船舶が準備され、ドイツ兵や民間人や収容者はすし詰めに詰め込まれて輸送されたが、連合軍の航空機や潜水艦が待ち構えており、次々と避難船が撃沈された。そのなかの貨客船ヴィルヘルム・グストロフ では、定員1,865人に対して、10,582人の兵士や避難民が積み込まれており、ゴーテンハーフェン を出港後にソ連軍の潜水艦に撃沈されると、救助もままならず9,343人が死亡したが、これは海難事故史上最悪の犠牲者数となった[180] 。
他にもカップ・アルコナ 7,000人、ゴヤ 6,200人、シュトイベン 4,500人、ペレトラ (英語版 ) 2,650人などの避難船が撃沈されて大量の犠牲者を出した[181] 。この5隻で生じた30,000人の死者は、大西洋の戦いでUボートに沈められた3,500隻の船舶で犠牲となった連合国船員の死者数に匹敵する[182] 夥しい死者数であったが、大きな犠牲を出しながらも避難作戦は奇蹟的な成功を収め、約200万人が東ヨーロッパからの脱出に成功している[183] 。しかし、この脱出はこれから始まるドイツ国民の苦難の入り口に過ぎなかった。戦禍に追われて自分の居住地から避難したドイツ国民は全国民1/4の1,900万人にも上ったが、その殆どが老人か婦女子であり、過酷な道中で次々と命を落としていき、その犠牲は戦争が終わった後も増え続けた[184] 。避難民の犠牲者総数は統計すらないが、最低でも2百万人に上ったものと推定される[185] 。
大量のドイツ国民やドイツ兵が命を落としていくなか、総統地下壕に籠るヒトラーは、2月26日と4月2日の2回に渡ってドイツ国民にむけて最後の談話を発表した。その内容は現実から逃避し、ユダヤ人に激しい敵意をむき出しにする一方で、自らの判断ミスによって辛酸を嘗めさせられているドイツ国民に対する謝罪や労いの言葉は一切なかった[186] 。
私は、ヨーロッパ最後の希望であった。ヨーロッパには、自己的改革による自己改造などできないことが明らかとなった。ヨーロッパは、自身が魅力と説得に鈍感なことをはっきり示した。 ヨーロッパという女をわがものとするには、腕力に訴えるのほかなかった。 (中略) さて、我々を2度も大戦に投げ込んだこの残酷な世界で、生存と繁栄の機会を掴める白人といえば、苦難に耐えるすべを知り、事態が切望的になっても、依然として死ぬまで戦い抜く勇気をもつ人々だけであることは、明白である。 こういう特質を体得していると公言できる者は、ユダヤ人の致命的な毒を自らの組織から根絶することのできた国民だけであろう。
ベルリンの戦い (1945年4月)
ドイツ陸軍の降伏についてブラジル派遣軍 (英語版 ) と交渉するオットー・フレッター=ピコ (英語版 ) 中将(1945年4月)
4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され(ベルリンの戦い )、ベルリン東方ゼーロウ高地 以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング 、ハインリヒ・ヒムラー 、カール・デーニッツ らの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンの総統地下壕から動こうとしなかった。このような現実逃避を続ける指導者や指揮官に対し、兵士の士気は低下し、戦争の最終局面に入って、脱走や戦闘拒否が相次いだ。それを抑え込むため軍の指揮官たちは親衛隊や憲兵を使って“脱走兵狩り”を始めた。憲兵らに捕まった脱走兵は軍法会議にかけられることもなく銃殺や絞首刑に処されて遺体には首から「臆病者はみんなこうなる」と書いた札を下げられて晒された。軍司令部から各部隊に「脱走兵を処分して前線を督励せよ」という命令も出されるほどの末期的な状態であった[187] 。
4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲した(詳細はベルリンの戦い を参照)。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲント などの少年兵や、まともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊 まで動員し最後の抵抗を試みた。
ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマン にそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデン のベルナドッテ 伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。
一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザン ([[:en:
Italian partisan brigades|英語版]]) の蜂起により、4月25日 、C軍集団はイタリア臨時政府・国民解放委員会 (CLN) の代表団との直接会談に望んだが、C軍集団の休戦交渉を知ったCLNは無条件降伏の要求以外は受け入れなくなった。ムッソリーニは会談の中でC軍集団の降伏交渉について知らされ、最後の最後にヒトラーから裏切られたと感じた。しかし2日後に総統地下壕のヒトラーから戦局の逆転を確信しており、「独伊同盟の最終的勝利」に希望を持っているという電報が届き、ヒトラーもまた周囲から欺かれていることを知った。ここにイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。
ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖 付近の村でパルチザンに捕えられた。捕えられた一行はムッソリーニと愛人ペタッチ 、それ以外の閣僚や将兵と分けられ、残されたムッソリーニはペタッチと共にミラノ方面へ車両で移動させられ、しばらくの間ジャコモ・デ・マリアという人物の所有する民家に幽閉されている[188] 。
ミラノで吊るされたムッソリーニの死体(1945年4月)
程無くしてパルチザンはムッソリーニについても略式裁判による即時処刑を決定、ムッソリーニはミラノ近郊のメッツェグラ 市の郊外にあるジュリーノ・ディ・メッツェグラ (英語版 ) に設置された処刑場へ護送された。4月28日 の午後4時10分にペタッチと共に射殺され、懸念されうるムッソリーニの生存説を払拭することや、依然として残る威厳を失わせることを図って、その死を公布することを計画した。ドンゴ で射殺された何人かの重要な幹部の遺体と一緒にムッソリーニの遺体を貨物トラックに載せ、辺境のメッツェグラ 市から主要都市の一つであるミラノ 市へと移送した。
4月29日 朝、ミラノ中央駅 にトラックが到着すると駅にある大広場であるロレート広場 の地面の上に遺体を投げ出した[189] [190] 。続いてパルチザンは反乱者への見せしめである「遺体を建物から吊るす」という行為への意趣返しとして逆さ吊りにした。括り付けられたのはスタンダード・オイル 社のガソリンスタンドの建物だった[191] 。ただし逆さ吊りについては中世時代に行われていた懲罰を再現したという説や、むしろこれ以上死体が損壊することを避けたという説もある[192] (ベニート・ムッソリーニの死 )。イタリア駐在のC軍集団も5月4日に降伏している。
ヒトラーの死を伝える『星条旗新聞 』号外(1945年4月)
ムッソリーニが殺害された2日後、4月30日 15時30分頃にヒトラーは、ベルリンの総統地下壕で前日結婚したエヴァ・ブラウン と共に自殺した 。死体は遺言に沿って総統地下壕脇に掘られた穴で焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官に海軍元帥デーニッツを、首相に宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス を、ナチ党担当相および遺言執行人に党官房長マルティン・ボルマン を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
ダッハウ強制収容所の生存者と第522野戦砲兵大隊(1945年4月)
これに先立つ4月29日 には、アメリカ陸軍の日系人 部隊の第442連隊戦闘団 隷下の第522野戦砲兵大隊は、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン 近郊のダッハウ強制収容所 の解放を行った。なお、日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年 まで公にされることはなかった。
イギリス軍とアメリカ軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所 が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人 絶滅計画(ホロコースト )をはじめとする、ドイツの犯罪が明るみに出された。またソ連が新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動 )。
なお先にドイツ軍を駆逐したソ連軍は各地で行われていた大量虐殺を先に知っていたが、イギリス軍とアメリカ軍はこれをソ連のプロパカンダと思い信じなかった。なお、ホロコーストについて連合国が騒ぎ立てるのは、これらの強制収容所とそこでの大量虐殺が明らかになる第二次世界大戦後のことであった。
5月2日、首都ベルリン 市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦 されたといわれている。女性、果てや8歳の少女までもが強姦され、犠牲者総数は数万から200万と推測されている[193] 。ある医師の推定では、ベルリンでレイプ された女性のうち、その後、約10分の1の女性が死亡し、その大半が自殺だった[194] 。また東プロイセン 、ポンメルン 、シュレージエン での被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。
ドイツ政府と軍の無条件降伏
国防軍代表カイテル 元帥と連合軍代表ジューコフ 元帥、テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行う(5月8日)
ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったカール・デーニッツ 海軍元帥はフレンスブルク に仮政府を樹立し(フレンスブルク政府 )、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日 、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍 と政府は連合国に無条件降伏することが決定した 。これはドイツ政府と軍による完全な無条件降伏であった。
結局ドイツはヒトラーが死ぬまで戦いを続けたが、工業先進国が自らの首都まで敵軍に攻めこまれ、首都の住民数十万人を道連れにしながら、国家元首の官邸が敵軍に蹂躙されるほど完膚なきまでに叩きのめされたというのは、現代史上では前代未聞であり、天皇 の権威により、やむを得ず事態を受け入れて降伏した大日本帝国とも異なっていた。ナチス・ドイツは非常に驚くべき完全敗北を成し遂げたのである[195] 。
アルフレート・ヨードル 上級大将がアイゼンハワー の司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書 (英語版 ) )。翌午後11時にはベルリン 市内のカールスホルスト (Karlshorst ) の工兵学校で、降伏文書の批准 式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル 元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ 元帥、アーサー・テッダー (英語版 ) 元帥が降伏文書の批准措置を行った。なお日独伊三国同盟には、降伏前に同盟国の日本と協議を行う決まりであったが、いまやドイツは日本政府と協議する余裕はもうなかった。
なお同盟国であるはずの日本と連合国はフレンスブルク政府に対し、政府としての承認 は行わなかった[196] 。5月23日には全閣僚が連合国に逮捕され[196] 、その機能を失った。その後6月5日のベルリン宣言 により中央政府がドイツに存在しないこと(中央政府=ナチ党であり、ドイツ国の降伏とともに消滅したこと)が確認された。敗戦後に中央政府がドイツに存在しない点は、敗戦と占領後に中央政府が存在し続けた日本と大きく異なる[197] 。
これによりドイツ国、イタリアの2国の枢軸国が連合国側に降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。その後も欧州では小規模かつ局地的な戦闘 は続いたものの、国家間での戦闘 行為は最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国による東南アジア と東アジア 、太平洋地域 のみとなった。
停戦後
観衆に手を振るチャーチル(1945年5月8日)
5月8日午後11時1分に停戦が発効され、8日と9日の2日間はヨーロッパ全土は祝日となった。各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はドイツが無条件降伏したにもかかわらず、プラハの戦い が終結する5月11日まで続いた。なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様であり、戦時国際法 に明らかに違反するものであった。
ドイツ占領下のノルウェー南端から日本へ向かっていたドイツ海軍のUボート「U-234 」が、大西洋上でアメリカ海軍の艦船に降伏しようとした矢先の5月14日に、便乗していた庄司元三と友永英夫 の2名の海軍中佐が服毒自殺した。2人の持ち物の中には、当時日本も開発していた原子爆弾の開発に欠かせないウラン235 が560キログラム含まれていた。
なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人、ファシスト党員が、潜水艦や船舶、徒歩でバチカン やスペイン 、ポルトガル やノルウェー などを経由して、アルゼンチン やブラジル 、チリ やボリビア などの南アメリカ諸国に逃亡し、その後も数千人が身分を隠して逃亡を続けた。またナチス親衛隊員やドイツ軍人が、残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの報道もあったが、これは上記のような事件と混合した誤りであった。
ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人 が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[38] [198] 。
この後、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦諸国の将兵が残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。
ポツダム会談
ポツダム会談(1945年7月17日)
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダム にて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談 が行われた。イギリスの首相ウィンストン・チャーチル (会談途中、7月25日の総選挙でチャーチル率いる保守党が労働党に敗北し、クレメント・アトリー と交代する)。4月12日 のルーズベルトの急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカの大統領ハリー・S・トルーマン 、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン が出席した。この会議で、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定 の締結が7月26日に行われた。
さらに、この会談のさなかには残る枢軸国の日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言 の発表も英米中の3か国の合意の元行われ(中華民国の蔣介石総統は無線電話での承認。日本と開戦していないソ連は開戦後の8月9日に承認)、日本に向けて送信され、日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。
条件付きのポツダム宣言の受託とその行使により、ドイツと違って、敗戦と占領後にも日本には中央政府が存在し続けることとなった。
背景(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)
満洲事変(1931年-1933年)から、日中戦争と日本の参戦までの経緯(1937年-1941年)
満洲事変と満洲国
満洲国の皇帝溥儀 (1932年3月)
満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団(1932年3月)
1931年 9月18日 に南満洲鉄道 が爆破されたとして、日露戦争 の勝利後にロシア帝国 から獲得した租借地 、関東州と南満洲鉄道の付属地の守備をしていた日本陸軍の関東都督府陸軍部が前身の関東軍 と中華民国軍の間で戦闘が勃発。日本が勝利し関東軍が奉天、南満洲を占領する(満洲事変 )[199] 。
12月に中華民国政府の提訴により、国際連盟 では満洲での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる6ヵ国、事実上4四ヵ国の調査団の結成が可決された。日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満洲における匪賊の討伐権が日本に認められた[200] 。
1932年 1月28日に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突する第一次上海事変 が勃発し、3月1日に、中華民国軍が上海から撤退し、同日、満洲国 が中華民国から独立 して建国宣言をした[199] 。3月3日に、中華民国国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった英仏伊独の国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。
3月に国際連盟から第2代リットン伯爵 ヴィクター・ブルワー=リットン を団長とする調査団(リットン調査団 )が派遣された。この調査団は、半年にわたり満洲国と日本、中華民国を調査し、満洲国 皇帝 の愛新覚羅溥儀 とも面会し9月に報告書(リットン報告書)を提出した。翌1933年2月24日、このリットン報告を基にした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項[注釈 12] および6項[注釈 13] についての条件が成立した。
前後して上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、1932年3月22日の下院審議において、与党保守党 の重鎮オースティン・チェンバレン は、「労働党 議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しない」とした上で、中華民国には「国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたこと」を指摘し、「銃剣はボイコット への適切な対応ではない」としつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。国際連盟の対応を受けて5月5日に上海停戦協定 が結ばれ、日中両軍が上海市区から撤退し、騒ぎは収まるかに思えた。
国際連盟脱退
国際連盟脱退翌日の新聞(1933年2月)
だが、翌年の1933年 2月23日 に日本軍が熱河省 に侵攻するなど、中華民国との関係がさらに悪化すると、日本に対する国際連盟 加盟各国の態度も硬化した。
翌日にはジュネーブ で行われた国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で勧告が採択された。さらに満洲国 建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右 代表以下日本代表はこれを不服として、あらかじめ準備していた宣言書を朗読して会場から退場し、日本のマスコミからは大喝采を受けた。
日本代表はジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは首相ベニート・ムッソリーニ と会見している。帰国後の3月27日に国際連盟を脱退する。またドイツも同年脱退した。
なお、日本脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日となり、脱退宣言から1935年までの猶予期間中に日本は分担金を支払い続けていた。また正式脱退以降も国際労働機関 (ILO) には1940年まで加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関であった)。そのほか、アヘン の取り締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。
五・一五事件と二・二六事件
犬養毅の葬儀
1932年 5月15日には、海軍の軍人らに首相の犬養毅 らが殺害されるという「五・一五事件 」が起きていた。さらには、内大臣官邸や立憲政友会本部を攻撃し、これによって東京を混乱させて戒厳 令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う計画であったが、未遂のままで鎮圧された。
後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望 に対して後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために元海軍大将で穏健な人格であった斎藤実 を次期首相として奏薦した。
西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば「憲政の常道(=民主主義)」に戻すことを考えていたが、ともかくもここに8年間続いた「憲政の常道」の終了によって、まともな政党政治は大戦後まで復活することはなかった。
二・二六事件でカメラマンに銃口を向ける兵士(1936年)
さらに1936年 2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らはクーデター を図り、1,483名の下士官兵を率いて、首相官邸や大蔵大臣高橋是清 私邸、内大臣斎藤実 私邸や教育総監渡辺錠太郎 私邸などを襲ったが、このクーデターは未遂に終わる(「二・二六事件 」)。首相の岡田啓介 は辛くも大丈夫だったが、大蔵大臣の高橋や内大臣の斎藤、教育総監・陸軍大将の渡部などはこの事件で殺害された。
この事件の結果広田弘毅 が首相に就いたが、組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平が出た。「好ましからざる人物」として指名されたのは吉田茂 (外相)、川崎卓吉 (内相)、小原直 (法相)、下村海南 、中島知久平 である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務した。さらに陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。
1931年には「三月事件 」、1934年には「陸軍士官学校事件 」が起こり、当時の日本では、このように選挙で選ばれたわけでもない単なる軍人(役人)が、国が自分の気に入らない方向に向かうと、武力でクーデターを起こして自らの向かう方向に仕向け、さらに陸海軍が組閣に口を出すことが度々起き、まかり通るようになった。
軍部大臣現役武官制復活
広田内閣(1936年)
さらに1936年 5月に軍部は広田内閣 に圧力を加え、一度は廃止された軍部大臣現役武官制 を復活させた。この制度復活の目的には、「二・二六事件への関与が疑われた予備役武官(事件への関与が疑われた荒木貞夫 や真崎甚三郎 が、事件後に予備役に編入されていた)を、軍部大臣に就かせない」ということが挙げられていた。
広田内閣は腹切り問答 によって陸軍大臣と対立し、議会を解散する要求を拒絶する代わりに1937年 2月に総辞職に追い込まれた。その後、宇垣一成 予備役陸軍大将に対して天皇から首相候補に指名されて大命降下 があった際、陸軍から陸軍大臣の候補者を出さず、当時現役軍人で陸軍大臣を引き受けてくれそうな小磯国昭朝鮮軍司令官に依頼するも断られ、自身が陸相兼任するために「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平 内大臣 に打診したが、同意を得られなかったため、組閣を断念した。この様に、1910年代 以降日本に浸透してきていた議会制民主主義は、1930年代中盤以降急激に軍国主義 に傾いていく。
西安事件と国共合作
張学良
1933年 5月31日の塘沽協定 により満洲事変 は停戦したが、中華民国政府は満洲国 も日本の満洲占領も認めてはおらず、日本軍や中国共産党 軍との散発的な戦闘は続いていた。1936年 10月に蔣介石 は共産党軍の根拠地への総攻撃を命じたが、国民党軍の身分ながら共産党と接触していた張学良 と楊虎城 は、共産党への攻撃を控えていた。
軟禁中の蔣介石と関係者(1936年12月)
12月12日に張学良と楊虎城はいわゆる「西安事件 」を起こし、張学良の親衛隊第2営第7連120名で蔣介石を拉致、拘束した。蔣介石の拘禁は、上海 や国外で「張学良のクーデター 」と報じられ、その後の動向が着目された[201] 。
張学良と楊虎城は日本軍に対して中国共産党との共闘をするよう要求したが、監禁された蔣介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶した。さらに国民政府は張学良の官職剥奪と軍事討伐を検討し、軍事委員会の緊急強化を決定した[201] 。また、中華民国全国の将軍から中央政府への支持と張学良討伐を要請する電報が国民政府に続々と到着していった[202] 。
張学良の目算通りに人民戦線 派および各地将領が動かず、世論は張学良と反対の立場であった。形勢が不利となった張学良は、北支の閻錫山 の下に特使を派遣して調停を依頼、妥協条件と旧東北軍の処置について協議を求めた。また事情を知った世論からも張学良は強い批判を浴びることとなった。
12月23日にいったん蔣介石と張学良の和解が成立したが、2日後の12月25日に張学良は「西安事件」の敗北を洛陽で認め、その後に西安に戻った。反逆罪により張学良は逮捕され南京 に連行、宋子文公館に幽閉された。
しかし張は極刑や国民党から永久除名にされず、12月31日に軍事委員会高等軍法会議により懲役10年の刑を受けたが、結局1991年 まで国民党から軟禁の身で過ごし、軟禁解除後の2001年 にハワイのホノルルで生涯を閉じた。しかしこの事件をきっかけに、国共合作 が進むことになる。
日中戦争
三中全会に参加した蔣介石
1937年 2月に開催された中国国民党 の三中全会 の決定に基づき、中華民国の南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[203] 。地方軍閥に対しては山西省 の閻錫山 に民衆を扇動して反閻錫山運動を起こし[204] 、金融問題によって反蔣介石側だった李宗仁 と白崇禧 を中央に屈服させ[205] 、四川大飢饉への援助と引き換えに四川省政府首席劉湘 は中央への服従を宣言し[206] 、宋哲元 の冀察政府 には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[207] 。
一方、南京政府は1936年 春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[208] 。上海停戦協定 で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊と何ら変わるものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[209] 。また南京政府は山東省 政府主席韓復榘 に働きかけ[210] 対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[211] 。この他にも梅津・何応欽協定 によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[212] 。
しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件 、豊台事件をはじめとし[213] 、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取り調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[214] 。
盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン 指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[215] [216] 、国民党からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[217] 。副参謀長張克侠[218] をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた[217] 。
第二十九軍は盧溝橋事件より2カ月余り前の1937年 4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店 (中国語版 ) 方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日にはすでに対日抗戦の態勢に入っていた[219] 。
盧溝橋事件当日の盧溝橋(1937年7月)
宛平県城から出動する中華民国軍(1937年7月)
日本軍による北京 占領(1937年7月)
中華民国軍による上海共同租界 への爆撃(1937年8月)
支那駐屯歩兵旅団 支那駐屯歩兵第1連隊 長牟田口廉也 大佐は、日本軍兵士が中国兵から殴られるなどの両軍の小競り合い(豊台事件 )の仲裁などに尽力していたが、1937年 (昭和12年)7月7日に演習中の連隊第3大隊に対して中国軍が発砲[220] 、その後、中隊で人員点呼を行った結果、初年兵が一人行方不明であることが判明し[221] 、牟田口が、支那駐屯軍 司令部附(北平特務機関 長)松井太久郎 少将などと、中国第二十九軍に事実確認している最中にも、中国側からの発砲は続き、牟田口は現地指揮官からの交戦許可の申し出に対し、越権行為で反撃を許可した[222] 。これで日本軍と中華民国軍の衝突である盧溝橋事件 が発生した。
その後、上官の旅団長河辺正三 少将は牟田口に停戦を命じ、現地部隊間での停戦交渉が行われたが、中国側の時間延ばしに対して牟田口は、指揮下連隊に「中国軍の協定違反を認めるや、直ちに一撃を加える」と戦闘準備を命じ、敵情視察の名目で1個小隊を竜王廟に派遣した。9日になっても射撃音は鳴りやまず、連隊の偵察兵が中国軍陣地に向けて射撃音が鳴っている箇所に偵察に行くと、爆竹 を鳴らしている中国人を発見した。偵察兵がその中国人を捕えて尋問すると、その中国人は清華大学 の大学生であり、毛沢東 の指令を受けて、日本軍と中国軍が武力衝突するよう工作していると白状した[223] 。その後、停戦交渉中にも関わらず、度重なる中国側の挑発にのった牟田口は、再度中国軍に攻撃をしかけて再び日中両軍は激突した。しかし、現地の指揮官の河辺はこれ以上の事件の拡大は望んでおらず、牟田口に再度の停戦を命じると、この後は大使館付陸軍武官補佐官 の今井武夫 少佐らの尽力もあって、7月11日に中国側が日本の要求を受け入れる形で現地協定が調印された。牟田口もこれで戦闘が収まればと考えていたが、既に中国での戦線拡大は中央の方針となっていた。
8月13日に近衛内閣は閣議により、中国へ3個師団の増派を決定し[224] 、また同日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた。8月14日 には中国空軍 は上海空爆 を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人を含む千数百人の民間人死傷者が出た。通州事件 や第二次上海事変 、北平 占領など日中戦争は瞬く間に中華民国全土に拡大していき、ついに第二次世界大戦がヨーロッパで始まる約2年2か月前に全面戦争である日中戦争 が始まった 。牟田口はこの3個師団の増派がなければ、紛争は自然鎮火したはずで、現地が不拡大方針だったのに、中央が戦線拡大を煽ったと批判しており[225] 、盧溝橋事件がそのまま日中全面戦争に拡大したように言われるのは心外とも述べている[226] 。
1937年8月に中華民国は中ソ不可侵条約 を結んで、ソ連空軍志願隊 とともに在華ソビエト軍事顧問団 を再招聘し、1941年に日ソ中立条約 が結ばれるまで中華民国軍を援助し続けた。しかしその後もソ連は中国共産党などへ様々な援助を続けた。
アメリカの新聞の論調は、未だ直接介入を主張するものは少なく、その多くは対日強硬策を支持するものの、論説は非常に穏やかであった。反対に、孤立主義 の立場から、中華民国からのアメリカ勢力の完全撤退論を主張するものもあった。1938年 1月のギャラップ 調査によると、約70%のアメリカ人が中華民国からの完全撤退を望み、孤立主義的態度を示していた[227] 。
アメリカ海軍のパナイ号
しかし1938年3月に起きたドイツ のオーストリア 併合(アンシュルス )の翌週、第1次近衛内閣 の下で野党は反対勢力を失い、日中戦争を鑑みた国家総動員法 が成立した。さらに日中戦争が激しさを増す中、陸海軍の強い反対を受けて、日本政府はベルリンオリンピック に次いで1940年に開催される予定であったアジア初、有色人種初のオリンピック である札幌 ・東京オリンピック を7月に返上した。
欧米諸国でも中華民国内に租界 を置く国は多く、自国の権益を守るためもありイギリスやフランス、アメリカ、イタリア、そして日本と「五大国 」はこぞって租界を置いた。そして日本と同盟関係にあるにもかかわらず、租界があるイタリアやドイツなど親中的な政策をとる国も多かった。
さらに日中戦争が起きると日本陸軍とこれら列強の駐留軍との間にいざこざが起き始め、例えば上海でのヒューゲッセン遭難事件、揚子江 のパナイ号事件 、蕪湖 のレディバード号事件 等が起きたが、近衛内閣の外相広田弘毅 (元首相 )が何とか善処し、イギリスのロバート・クレイギー 大使とアメリカのジョセフ・グルー 大使から高く評価された。
日独伊の急接近
中独合作 中にヒトラー総統を訪問した中華民国の孔祥熙 財政部長
靖国神社 を訪問したヒトラーユーゲント (1938年)
なお上記のように、ナチス 政権下のドイツ の極東政策は、1936年11月に広田内閣下の日本と日独防共協定 を結ぶ一方で、中独合作 で中華民国とも結ばれていた。
中華民国は孔祥熙 をドイツに派遣しヒトラーと会談、ドイツ軍は日中戦争を戦う中華民国軍に、蔣介石の個人顧問として中将アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン をドイツ軍事顧問団団長として派遣するなど、ドイツは日本と中華民国との間で大きく揺れていた。1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた[228] 。ナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ 等は日本との連携を重視していたが、ドイツ外務省では日本との協定に反し中華民国派が優勢だった。さらにドイツはモリブデン やボーキサイト 等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために、中華民国とバーター取引 を行っていた。
しかし1937年7月に日中戦争が始まると、日本からの抗議を受け中華民国に派遣されていたドイツ軍事顧問団は撤収、イタリアに続きドイツ製武器の供給も停止することになり、完全に親中派は止めを刺された。さらに中華民国が1937年 8月21日 に結んだ中ソ不可侵条約 によりヒトラーの態度は硬化し、中国系ロビイスト やドイツ人投資家から執拗な抗議を受けても変わらなかった。ヒトラーは、中国からの既に注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。しかし、ハインケル やフォッケウルフ などのドイツ製の武器の現金調達は日本の抗議を受けながらも、中華民国との契約が完全に切れる1938年中頃まで続いた。
フィアットM1935重機関銃
ドイツは在華大使オスカー・トラウトマン を介して、中華民国と日本の和平交渉を仲介しようとした が、1937年12月に南京が陥落してからは、両国が納得できるような和解勧告をすることはできず、ドイツ仲介による休戦の可能性は全く失われた。1938年 前半に、ドイツは満洲国 を正式に承認 した。その年の4月、ヘルマン・ゲーリング により、中華民国への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月には日本の要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を完全に引き上げた。また同年8月から11月にかけては、ヒトラーユーゲント の訪日が行われるなど[229] 両国の親密な関係は続いた。
一方、天津 に租界を持つイタリアも、1930年代中盤に元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問として、さらに空軍 顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問を中華民国に常駐させ、フィアット やランチア 、ソチェタ・イタリアーナ・カプロニ やアンサルド などのイタリア製の兵器を日本からの抗議を受けつつも大量に輸出し、外貨を獲得した。
イタリアの外相ガレアッツォ・チャーノ(1938年/中央)
しかし、1935年 に始まった第二次エチオピア戦争 での対イタリア経済制裁に中華民国が賛同したことに対して、上海総領事 として勤務した経験もあった伊外相ガレアッツォ・チャーノ は「遺憾」とし関係が悪化した。さらに日中戦争が勃発した4か月後の1937年11月には日独に次いで防共協定に調印し、ここに日独伊三国防共協定となった。
さらに1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を日本と満洲国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、天皇 や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。その後8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。完全に日本重視となった。さらに同年11月、イタリアは満洲国を承認し、両国は公使館 を置き正式な外交関係を開始している。
これらの返礼もあり、日本陸軍や満洲陸軍はイタリアからの航空機や戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入した。またイタリアも満洲国からの大豆の全輸出量が5%を占め、アメリカからの輸入を停止するなど、イタリアもドイツも完全に同盟関係にある日本重視となる。
なお、中華民国はドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、すぐさまこれらとの関係が悪化している、アメリカやソ連、イギリスやフランスとの武器調達契約を結び、1939年以降はこれらの国が主な武器の調達先となった。
オトポール事件とユダヤ人対策要綱
陸軍少将の樋口季一郎
ドイツでは、ナチ党政権は国民からの絶大な支持を受け、国単位で反ユダヤ主義 政策を進めていたが、同盟国の日本ではヨーロッパ各国で行われているようなユダヤ人差別などは歴史的に皆無であり[230] 、むしろ日本では民官軍によるユダヤ人擁護がドイツ政府の反対を受けつつ、1930年代後半から終戦まで行われた。
1937年12月に第1回極東ユダヤ人大会が満洲国で開催された際に、この席で日本陸軍の陸軍少将樋口季一郎 は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と言い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた[231] 。これを知ったドイツの外相リッベントロップ は、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機 が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。
また同年3月8日に、ユダヤ人18人が害下から逃れるため、満蘇国境沿いにあるシベリア鉄道 のオトポール駅(現:ザバイカリスク駅 )まで逃げて来ていた。しかし、亡命 先である上海租界 に到達するために通らなければならない満洲国の外交部が入国 の許可を渋り、彼らは足止めされていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らと共に即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、さらには膠着状態にあった出国 の斡旋、満洲国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。これで逃れることができたユダヤ人の数は数千人から2万人ともいわれる。
オトポール駅(現:ザバイカリスク駅)
日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満洲鉄道 の総裁松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[232] 。これは「オトポール事件」と呼ばれることとなる。
この事件は日独間の大きな外交問題となり、日本にはドイツの外相リッベントロップからの抗議文書が届いた[233] 。また、陸軍内部でも樋口への批判が一部で高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[233] 。そのような中、樋口は関東軍司令官植田謙吉 大将に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東條英機 中将と面会した際には「ヒトラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[234] 。この言葉に理解を示した東條は、樋口を不問とした[235] 。
東條の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[236] 、独国からの再三にわたる抗議も、東條は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[237] 。
さらに12月には日本政府が、五相会議 で人種平等の原則によりユダヤ人を排斥せず、諸外国人と同等に公正に扱う「猶太人対策要綱」を作成。ユダヤ難民の移住計画である「河豚計画 」で、世界で唯一ユダヤ人保護を国策として宣言した[238] 。またその後も日本政府は「ユダヤ人は外国籍保有者と同様に扱い、ドイツ国籍を持つユダヤ人は白系ロシア人 と同様に無国籍 者として取り扱う」とし、ユダヤ人に寛容な保護の継続を指示していた[239] 。
またその後の1939年6月には、駐ベルリン満洲国公使館書記官の王替夫 がユダヤ難民にビザを発給を開始した。これは1940年5月まで続き、ユダヤ難民含む合計12,000人以上が出国できた。
ノモンハン事件
擱座した赤軍 のBA-10 装甲車 の横で機関銃を伏射する日本兵(1939年9月)
1939年5月から同年9月にかけて、関東軍とソ連軍の間で、満洲国とモンゴル人民共和国 の間の国境線をめぐって日ソ国境紛争 (満蒙国境紛争)が断続的に発生した。
なお満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、それぞれ満洲国軍 とモンゴル軍 に警備を委ねていたが、日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連軍が日本軍の3倍以上の軍事力を有していた。これに対し日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年時点では日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。
8月に発生したノモンハン事件 は満洲国軍とモンゴル人民軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった日本陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。
独ソ不可侵条約締結と防共協定違反
握手するモロトフとリッベントロップ両外務大臣(1939年8月)
平沼騏一郎(中列右)(1939年)
そのような中で起きた8月23日の独ソ不可侵条約 の締結は、ドイツと防共協定を持ち親密な傍ら、ソ連とノモンハン事件を通じ敵対関係にある日本に衝撃を与えた。
この条約と同時に秘密議定書が締結されていた。これは東ヨーロッパとフィンランドをドイツとソビエトの勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するという性格を持っていた。
独ソ不可侵条約の締結を受けて、当時の首相平沼騏一郎 は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残し、ドイツの防共協定違反という重大な政治責任から8月28日に総辞職した。またドイツ政府と「蜜月の仲」で知られたはずの大島浩 大使も、ソ連とのノモンハン事件が起きる中で、同盟国のドイツからこの締結を前もって知らされなかった責任を取り、即座にベルリンより帰朝を命ぜられた(帰国後の12月27日に大使依願免職した)。
また、これ以後のドイツとの交渉は一切中止となるなど、日本の政界も揺るがす大混乱となった。なお次の駐独大使には、大島とは逆にドイツとの対独同盟に懐疑的で「親米」といわれた来栖三郎 が継いだ。
第二次世界大戦開戦と対独同盟派の停滞
阿部内閣(1939年8月)
さらに9月1日にドイツがポーランドに侵攻した 。これに対して9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ついにヨーロッパで第二次世界大戦が勃発 した。
独ソ不可侵条約の締結を、日独防共協定を締結したばかりの同盟国である日本に事前通告をしなかっただけでなく、ポーランドへの参戦(とそれに次いで起きることが予想できたイギリスとフランスのドイツ参戦)も、一切日本への事前通告がなかったドイツとの関係は壊滅的なものとなり、度重なるドイツの態度に怒った日本は、日独防共協定を無視して参戦しなかった。
また8月30日に任命された阿部内閣 もわずか140日余りと短命に終わり、日本政府内の対独同盟派の勢いはここで完全に停滞した。
なおイタリアも参戦せず、オランダとベルギー、アイルランド、アメリカも中立を宣言した[49] が、後にドイツはオランダとベルギーの中立宣言を無視し攻撃することになる。
ノモンハン事件の終焉とソ連のポーランド侵攻
墜落したポーランド軍機を見張るソ連軍兵士
モスクワでは、9月14日から日本の東郷茂徳 駐ソ特命全権大使 とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ 外務大臣 との間で停戦交渉が進められていた。
ソ連側は有利に戦争を進めており強硬な姿勢で交渉に臨んでいた。しかし、モスクワに前線方面軍司令シュテルンから、「日本軍が4個師団以上の大兵力を集結させ、どんなに犠牲を払っても8月の敗戦の報復に出るべく準備を進めている」との報告が挙がっており、ソ連側は日本軍が攻勢に転じれば、今までの戦闘経過から見てかなり長期の消耗戦になると懸念していた。
ソ連はこの後にドイツとの密約によるポーランド侵攻 を計画しており、ノモンハンとポーランドの二方面作戦は回避したく停戦を急ぐ必要があった。当時のソ連はポーランド侵攻の密約の他にも、フィンランド やトルコ への進出を計画しており、各地で頻発する紛争事件を抱えてモロトフは疲労困憊 ( こんぱい ) していた。そこでスターリンからの決裁を得て、9月15日に停戦合意に至った。
日本との戦いの心配もなくなったソ連は、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日にソ連・ポーランド不可侵条約 を一方的に破棄し、ポーランドへ東から侵攻した。
日本による汪兆銘擁立
タイム の表紙を飾る汪兆銘
日中戦争の勃発に伴い、中華民国の蔣介石 は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明 を出し、和平 の道は閉ざされた。汪兆銘 は「抗戦」による民衆の被害と中華民国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった[243] [244] [245] [246] 。汪は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた[246] 。
1938年3月から4月にかけて湖北省漢口 で開かれた国民党臨時全国代表大会では、国民党に初めて総裁制が採用され、蔣介石が総裁、汪が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された[245] [247] 。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである[245] 。
一方、3月28日 には南京に梁鴻志 を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府 が成立している[245] 。こうした中、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった[248] 。この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作 」へと発展した[245] [246] [248] [249] 。
6月に汪とその側近である周仏海 の意を受けた高宗武 が渡日して日本側と接触。高宗武自身は日本の和平の相手は汪以外にないとしながらも、あくまでも蔣介石政権 を維持した上での和平工作を考えていた[248] 。10月12日 、汪はロイター 通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術 に対して明確な批判の意を表したことから、蔣介石との対立は決定的となった[246] 。
1939年 3月21日 、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心の曽仲鳴を射殺するという事件が起こった(汪兆銘狙撃事件 )[250] 。蔣介石が放った暗殺者は汪を狙ったが、その日はたまたま汪と曽が寝室 を取り替えていたため、曽が犠牲になった[250] 。ハノイが危険であることを察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした[250] [251] 。4月25日 、影佐と接触した汪はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで5月6日 に上海 に到着した[251] [252] 。ハノイの事件は、汪が和平運動を停止し、ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという選択肢を放棄させるものとなった[253] 。
汪兆銘主席とドイツのハインリヒ・ゲオルク・スターマー 特命全権大使の会合
台湾日日新報 の「祝新国民政府成立」の新聞 広告 (1940年)
日本は蔣介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていた汪の擁立を画策した。しかし1940年 1月に、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖 が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた[254] 。最終段階で腹心とみられた部下が裏切ったことに汪は大いに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった[254] 。
南京国民政府/汪兆銘政権成立
汪は日本の軍事力を背景として、北京 の中華民国臨時政府 や南京 の中華民国維新政府 などを結集し、1940年3月30日に蔣介石とは別個の国民政府を南京に樹立、ここに「南京国民政府」 が成立した。
汪は自らの政府を「国民党の正統政府」であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。国旗は、青天白日旗 に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えたもの、国歌は中国国民党党歌 をそのまま使用し、記念日も国恥記念日を除けば、国民党・国民政府のものをそのまま踏襲した。
政府発足後に、イタリア王国 やフランス のヴィシー政権 、満洲国 などの枢軸国 、バチカン などが国家承認 した。しかし蔣介石政権とのしがらみがあったドイツが最終的に承認したのは1941年7月になってからだった[255] 。さらに日本との間で日泰攻守同盟条約 を結んでいたタイ王国 が汪の南京国民政府を承認した[256] のは、対英米戦が始まってからの1942年7月になってからであった。
日米情勢と米内内閣
米内内閣(1940年1月)
その後ポーランドを占領したドイツとフランス、イギリスの間で大きな戦闘は起きなかったが、そのような中、1940年 1月には日米通商航海条約 が失効し、日米関係は両国開国 以来の無条約時代に突入した。これを深く憂慮した昭和天皇は陸軍からの首班を忌避し、むしろこうした風潮に抗するには海軍からの首班こそが必要だと考えていた。
防共協定を結んだ日本を軽視した同盟国のドイツとの関係が悪化する中で、こちらも悪化しつつある日米情勢の打開が1月に就任したばかりの親英米派の米内内閣 に求められた。
しかし米内は親英米派であるだけでなく、日独伊三国同盟反対論者だったこと、さらに近衛らによる新体制運動を静観する姿勢を貫いたことなどにより、陸軍や親軍的な世論から不評を買う。その結果英米関係の思い切った改善にでることはなかった。
ドイツ軍の快進撃とそれに乗る親独派
ドイツ軍はデンマークとノルウェーに突如侵攻し、さらに5月にはベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻し、これらもすぐに降伏した。さらに6月には、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告した。
「ヒトラーの快進撃とそれに乗るムッソリーニ」という、ヨーロッパでの枢軸国の勢いが伝えられつつあると、昨年の独ソ不可侵条約締結やドイツのポーランド侵攻、さらにドイツのユダヤ人迫害などで一度はドイツに対して冷め切った日本では、親独派や右翼、朝日新聞 や報知新聞 などの軽薄なマスコミ が騒ぎ出し、右派 の朝日新聞などははしゃいだ挙句に「(枢軸国という勢いに乗った)バスに乗り遅れるな」などと紙上で他国への軍事侵略を煽る始末であった。
第2次近衛内閣
首相近衛文麿 と第2次近衛内閣 の閣僚(1940年7月)
同年7月には、参謀総長 閑院宮載仁親王 と陸軍三長官会議 により、1月に就任したばかりの親英米派の米内内閣は早くも辞任に追い込まれた。
日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣の後を受け、7月22日 に誕生した第2次近衛内閣 では、今や勢いのいいドイツやイタリアなどの同盟国との提携を再度主張する、松岡洋右 外相らの声が高まった。
同じ日には第2次近衛内閣により「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱 が閣議決定され、いったん冷め切った日独伊の関係は、ドイツやイタリアの快進撃にあやかろうと、より密接になってゆく。
亡命ユダヤ人の「命のビザ」
杉原千畝領事(2004年発行のリトアニアの切手 )
1939年9月に第二次世界大戦の発端となるドイツのポーランド侵攻が始まると、ソ連はドイツほどではなかったがユダヤ人には冷淡で、同国のユダヤ人は亡命を余儀なくされその一部は隣国リトアニアへ逃れた。だが、独ソ不可侵条約付属秘密議定書 に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵略を開始する。10月10日にリトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。
さらに1940年6月15日にソビエト軍 がリトアニア に侵略する。当時、ドイツ占領下のポーランドなどから逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザ を取得しようとしていたが、ソ連が各国に在リトアニアのカウナス 領事館・大使館の閉鎖を求めたため、もはや逃げ道はシベリア鉄道を経て極東(日本と満洲、中華民国)に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。ユダヤ難民たちはまだ業務を続けていたカウナスの日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティル など)への通過ビザを求めて殺到した。
ケーニヒスベルク在勤中の杉原一家とドイツ軍兵士
在カウナスの杉原千畝 領事は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。しかし杉原領事の権限でこれらのユダヤ系難民たちにビザを出すことを決め、さらに途中から杉原領事はビザの発行手数料の徴収を取りやめている。
1940年8月31日までの間にソ連によってカウナスの日本領事館を退去させられ、杉原領事がカウナス駅を出る直前まで、杉原領事と妻、スタッフたちによって発行された日本を経由するビザに救われることとなった。なお杉原はこの後プラハ 、さらにドイツのケーニヒスベルク に転任している。
1940年7月からユダヤ系難民は、シベリア鉄道 でソ連のウラジオストク 、および満洲国の満洲里 [257] 経由で、約6,000人が通過ビザを手に敦賀港 などを経由して日本に入国した。ウラジオストク総領事代理の根井三郎 やJTB 職員たち、満鉄顧問の小辻節三や神戸 に住む在日ユダヤ人などの助けで、ゾラフ・バルハフティク (のちのイスラエル 宗教 大臣 )をはじめとするユダヤ人が合法的に日本に入国することができ、その後アメリカやオランダ領キュラソー 、上海などに旅立つことができた。
そして1941年9月には、日本以外への亡命を希望する全員が神戸港 などを経由し出国し、アメリカやキュラソー、もしくは中華民国の上海の国際共同租界 にある「上海ゲットー 」や虹口 地区などに亡命した[258] 。さらにドイツは「上海ゲットー」の存在に対しても、日本政府へ1945年5月のドイツ敗戦に至るまで再三抗議していたが、日本政府はこれを黙認し、エリアこそ狭いながら亡命ユダヤ人の安全な滞在を認めて保護していた。
英米の「命のビザ」への対応
なおカウナスではアメリカ領事館も開いていたものの、杉原領事らの必死のユダヤ人への対応に対し、これらのユダヤ人に対する通過ビザ発行を99パーセント拒否している[259] 。
さらにこの杉原領事によるユダヤ人に対する通過ビザ発行に対し、これを知ったイギリスのロバート・クレイギー 駐日大使は、通過ビザを持ったユダヤ人がイギリス領パレスチナ に来ることを警戒し、松岡外相に苦情を申し立てているが、この通過ビザ発行を事前に承知していた松岡外相は当然無視をしている[259] 。
日本軍の北部仏印進出
北部仏印進出(1940年9月)
フランスでは、1940年に入りドイツの猛攻が続く中、フィリップ・ペタン がマキシム・ウェイガン 陸軍総司令官と共に対独講和を主張した。6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、翌6月17日に独仏休戦協定 が成立した。その後7月10日にペタン率いる親独のヴィシー政権 が成立した。
これを受けて6月19日、日本側はフランス領インドシナ 政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した。当時のフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー (英語版 ) 将軍は、シャルル・アルセーヌ=アンリ ([[:fr:
Charles Arsène-Henry|フランス語版]]) 駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関 )の受け入れを行った。
日本軍の仏印進駐について協議した富永恭次少将、ドクー総督、西原一策少将(1940年8月)
ヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任してジャン・ドクー (英語版 ) 提督を後任の総督とした。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、むしろヴィシー政権はこれを進め、日本の外務大臣松岡洋右 とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し松岡・アンリ協定が締結された。その後9月22日に日本はフランス領インドシナ総督政府と「西原・マルタン協定」を締結し、これを受けて平和裏に日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐 )。
また、フランス海軍の船舶は武装解除の上サイゴンに係留されることになったが、日本政府は仏印植民地政府との間で遊休フランス商船の一括借り上げの交渉を開始していた[263] 。フランス側のドクー総督は、イギリス海軍による拿捕 のおそれや、仏印とマダガスカル島 や上海との自国航路の維持に必要なこと、フランス海軍が徴用中であることなどを理由に難色を示し[264] 、交渉は1942年まで持ち越すことになった。
なお、同様に仏印領内に残ったフランス船籍・仏印船籍の商船は、1941年末時点で500総トン 以上のものが27隻(計10万総トン)、うち10隻は4000総トン以上の船であった[265] 。
日独伊三国同盟締結
ベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)
日独の関係も独ソ不可侵条約とポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発以降完全に悪化し、さらに「オトポール事件」や「命のビザ」などユダヤ人問題でも対立を見せたが、1940年初頭のドイツ軍のヨーロッパ戦線の好調を見て両国が急速に近づいたため持ち直した。そこで9月7日に新同盟締結のためにドイツから特使ハインリヒ・ゲオルク・スターマー が来日し、松岡との交渉を始めた。
スターマーは「ヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するため」として同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。9月27日にはイタリアを含めた日独伊三国同盟 が締結された[266] 。
これにより実質的に対英米同盟となり日独伊三国同盟は拡大し、1940年11月にハンガリー 、ルーマニア 、スロバキア独立国 が、1941年3月にはブルガリア 、6月にはクロアチア独立国 が加盟した。これに対して中立を保つアメリカの大統領ルーズベルト は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけた。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案 」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。
しかし、日独伊三国同盟実現による更なる関係強化には、「親米」といわれた来栖三郎 では「力不足」との声が上がり、そこで1940年12月に、独ソ不可侵条約やポーランド侵攻の際の不手際により、これまで左遷されていた陸軍の大島浩 が駐独大使に再任された。
また枢軸国の一員となったフィンランド は1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたタイ も1941年12月日本と日泰攻守同盟条約 をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満洲は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化していた。中華民国南京政府と防共協定 に加盟したスペイン (フランコ政権 )も三国同盟には加わらなかったが、ドイツとのスペイン戦争以来の密接な関係もあり、戦争の前半期においては枢軸国と協力的な関係を持った。
泰仏戦争勃発
タイの首相プレーク・ピブーンソンクラーム
1940年6月にフランス本国がドイツに敗れたこと、独仏休戦 (1940年 6月17日 )前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、その上に日本軍による仏印進駐 が迫っていたことなどの状況から、タイはフランスに対して旧領回復への行動を開始した[267] 。
タイのプレーク・ピブーンソンクラーム 政権は、フランスのヴィシー政権 に対し、1893年 の仏泰戦争 (英語版 ) でフランスの軍事的圧力を受けて割譲せざるを得なかったフランス領インドシナ 領内のメコン川 西岸までのフランス保護領ラオス (フランス語版 ) の領土と主権や、フランス保護領カンボジア のバタンバン ・シェムリアップ 両州の返還を求めたが、ヴィシー政権下の仏印政府はこの要求を拒否した。
ついに11月23日にタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争 が勃発し、物量と地の利に勝るタイ軍は仏印軍に対して優位に戦いを進め、本国が占領下に置かれ武器や兵士の追加もままならない仏印軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。
戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、日本は、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイと同じく友好国のフランスが戦い国力が疲弊することを憂慮し、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。しかし両国の主張は平行線をたどり、タイとフランスの間の戦いは日本の仲介による1941年 5月8日の東京条約 締結まで続いた。しかしタイ王国はこの紛争でフランスが奪った旧領を回復し、事実上の勝利を収めた。
アメリカの対日禁輸とレンドリース
レンドリース法案に署名する米大統領ルーズベルト(1941年3月)
1940年1月に日米通商航海条約 が失効して以降、アメリカは、日本にとって最大の輸出国であることを逆手に取り、日中戦争を戦う日本へ圧力をかけてくることとなった。7月26日に日本への輸出切削油輸出管理法を成立させる。8月に石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)などの輸出を許可制にし、10月16日に屑鉄を輸出禁止にするなど次々と禁輸攻勢を打ち出した。
これに対して日本海軍などでは民間商社を通じ、ブラジル やアフガニスタン などで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、年内に民間ルートでの開拓を断念した。
さらにアメリカは中立法 に現れていた非介入主義 を米大統領フランクリン・ルーズベルト がさらに緩和し、1941年3月にはレンドリース法 を設置し、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。1945年8月の終戦までに、総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中華民国へ提供された。
なお日中戦争中の中華民国は、日本からの抗議を受けて1937年から1938年にドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、すぐさまアメリカとの武器調達契約を結び、その後も第二次世界大戦に参戦しなかったアメリカとレンドリース法案を結び、大戦を通じてアメリカが主な武器の調達先となった。
アメリカの日中戦争への軍事介入
中華民国の蔣介石 と宋美齢 、アメリカ陸軍 の推将スティルウェル
中華民国軍の「フライングタイガース」に所属するP-40Cトマホーク(1941年)
さらにアメリカは、1940年8月に日中戦争で追い込まれつつあった蔣介石総統と宋美齢 夫人からの数度にわたる軍事支援の要請を受け、大統領ルーズベルトの指示を受け設立された「ワシントン 中国援助オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍 (American Volunteer Group, AVG) を設立し、ここに日中戦争へのアメリカによる本格的な軍事介入を開始した。
アメリカ陸軍将校のクレア・リー・シェンノート はルーズベルトの後ろ盾を得て、その後アメリカ軍内でパイロットの募集を開始したが、なかなか人が集まらず「日本軍の飛行機は旧式である」というならまだしも、「日本人は眼鏡をかけているから、操縦適性がない」と人種差別的な見通しを述べてまで募集する面接官もいた[268] 。
最終的に、カーチスP-40 などの約100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機 と、日本を刺激せぬようシェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット 100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め、1941年3月に中華民国に送った。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、「フライングタイガース 」の名称で知られるようになる。またシェンノートは健康上の理由により軍では退役寸前であったが、蔣介石は空戦経験の豊富な彼をアメリカ義勇軍航空参謀長の大佐 として遇した。義勇兵は月給1000ドルであった[269] 。
シェンノートらAVGのメンバーは、日本を刺激せぬようあくまで「民間人」として、友好国イギリスの植民地 のビルマ に向け渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊し、イギリス−領ビルマのラングーン(現:ヤンゴン )の北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし日本軍と対峙した。ここでのAVGの目的は、中華民国軍への援助物資の荷揚げ港であるラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援蔣ルート (「ビルマ・ロード」)上空の制空権を確保することであった。
だがフライングタイガースは、日本軍の最新鋭の零式艦上戦闘機 をはじめとした最新の航空機と練度が高い戦闘機乗りの多さ、さらに中華民国軍の事故の多さに悩まされて苦戦を強いられた。
さらに、撃墜数による出来高制の給与(日本軍機を1機撃墜することに500ドルのボーナス)のために、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の撃墜報告をする有様であった。さらに1941年12月に正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって「義勇軍」の意味はなく、1942年7月3日にアメリカ軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。
ハル四原則
1941年2月には、アメリカが管理するパナマ運河 の利用がアメリカ船とイギリス船のみに制限された。このまま悪化が続くと思われた日米間も、4月からは東京とワシントンD.C.で行われていた日米交渉が本格化され、「全ての国家の領土保全と主権尊重」、「他国に対する内政不干渉」、「通商を含めた機会均等」、「平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持」という「ハル四原則」を提示し、日本側も首相の近衛や陸軍の東條ら政府や軍もこれを歓迎した。
日本の外相松岡洋右とアドルフ・ヒトラー(1941年3月)
日ソ中立条約に署名する松岡とスターリン(1941年4月)
「四原則」から、日米間の交渉が本格化すると思ったが、ドイツやイタリア、ソ連を訪問中で、この4月に日ソ中立条約 を結んだばかりの外相松岡洋右 は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったためメンツをつぶされたと思った松岡は、強硬な反対によって提案を白紙に戻させた[270] 。
独ソ戦と外相松岡の更迭
さらに松岡は、日独伊三国同盟にソ連を加えた「ユーラシア四ヶ国同盟締結」を構想していたが、1939年8月に独ソ不可侵条約 を結んだばかりのわずか1年10か月しか経たない6月22日にドイツがソ連を奇襲攻撃し独ソ戦 が始まり、その望みは打ち砕かれた。なお松岡の考える「ユーラシア四ヶ国同盟締結」も、ドイツのソ連への奇襲計画も、3月にヒトラーと会談した時には伏せられていた。
松岡はドイツのソ奇襲攻撃に合わせ即時対ソ宣戦を主張し、ドイツも強くそれを望んだが、そもそも日本が日ソ中立条約を結んだばかりのソ連に参戦する大きな根拠もなく、さらに先に起きたノモンハン事件 において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、閣内にあって「暴走状態」にあった松岡の更迭は、政権存続のための急務となっていた。
ここに近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上で第3次近衛内閣 を発足させ、松岡はここで内閣から完全に外された。
しかし、松岡は常々からイギリスやソ連との戦争は避け得ないと考えていたが、自らのかつての留学先でもあり、知人も多かったアメリカと日本との戦争は望んでいなかった。松岡は「英米一体論」を強く批判し、たとえイギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた。
日本軍の南部仏印進駐
サイゴン市内の日本軍(1941年)
1941年6月25日の大本営政府連絡懇談会 で「南方施策促進に関する件」が策定され(南進論 )、昨年のインドシナ北部進駐に次いで、フランスの同意の下で南部仏印への進駐が決まった。一方、7月に対ソ連の戦争(北進論 )準備行動として関東軍特種演習を発動した。その中で仏領インドシナを日本にとられることを危惧したアメリカは、日本に対する石油の輸出許可制を敷くことで日本を揺さぶった[272] 。
この措置に対向するため、日本は石油などの資源買い付け交渉を、本国がドイツ軍の占領下に置かれ、ロンドンに置かれた亡命政府 の下にあるオランダ領東インドと行っている。一時は交渉成立したが、その後アメリカの圧力により、オランダ植民地政府側が供給する量は日本が求めた量の1/4に留められ、日本は6月に交渉を打ち切った。このせいで当時の日本では高オクタン価の航空機用燃料の貯蔵量が底を尽きかけた。
さらに7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し日米間の航路も遮断、同日日本はフランスの同意の下での南部仏印進駐 をアメリカに通告した。アメリカは石油の輸出の全面禁止をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた[273] 。しかし当時の仏印では現在のベトナム とは違い油田は見つかっておらず、石油は掘れなかった。
日英米蘭関係の悪化
大西洋会談のチャーチルとルーズヴェルト(1941年8月9日)
アラスカのジュノー(1940年頃)
8月1日にイギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約 等を廃棄。亡命先のイギリスの圧力を受けたオランダ植民地政府は、対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止。アメリカは、南部仏印進駐に対する制裁という名目の下石油輸出の全面禁止をそれぞれ決定した。
日本にとっては、中でも石油輸出の全面禁止は深刻であり、約8割をアメリカから輸入していた。このままではジリ貧になるため、開戦を早期にすべきとの強硬論が陸軍を中心に台頭し始めることとなった。これらの対日経済制裁は併せて、アメリカ (America)・イギリス (Britain)・中華民国 (China)・オランダ (Dutch) の頭文字を取って「ABCD包囲網 」と呼ばれるようになった。
なおアメリカは、8月に大西洋憲章を締結した大西洋会談 で、イギリス首相のチャーチルからドイツに対する参戦要請を受けていたがこれを保留していた。また日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。
開戦準備決定
これを受けて9月3日に御前会議 で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領 」が決定され、1941年10月末を目処とした開戦準備が決定された[274] 。
その一方で、8月7日に近衛 首相は昭和天皇から「首脳会談を速やかに取り運ぶよう」との督促を受け、野村吉三郎 大使に「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は、此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」と宛て、アメリカ大統領のルーズベルト との首脳会談を提案するよう訓電した。首脳会談の申し入れは野村からコーデル・ハル 国務長官に行われたが(ルーズベルトはチャーチルとの大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった。しかし実のルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、「ホノルル に行くのは無理だが、ジュノー ではどうか」と返事をした。
ハワイの真珠湾全景(1941年10月)
さらに近衛首相は、8月27日、28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』で、総力戦研究所より日米間のみの戦争は「日本必敗」との報告を受ける。
しかしその一方で、中華民国との戦争が4年たっても勝利が見えない中、イギリス(とオーストラリアやニュージーランド、英領インドなどイギリス連邦諸国)とアメリカ、オランダという、日本に比べて資源も豊富で人口も多く、さらに明らかに工業力が大きい国家、それも複数と同時に開戦するという、暴挙とも言える政策に異を唱える者の声は益々小さくなっていった。
なおイギリスやアメリカとの開戦に関して日本の東条ら陸海軍首脳は、「アメリカ国民は厭戦気分が強く、緒戦で日本軍が圧倒した場合、日本に有利な条件で講和に応ずるであろう」、「イギリスはドイツと間もなく講和に向かい、日本に有利な条件でマレーや香港も手放さざるを得なくなるだろう」といった安易(または勝手)な想像と思いこみを根拠に開戦の準備を進めた。
さらに東条らが言うように、日本陸海軍に攻撃されたイギリスやアメリカ、オランダが、その後簡単に停戦、講和交渉に応じるという根拠はどこにもなかった(なお東条陸相は駐在武官としてスイスに駐在し、ドイツに訪問したことこそあるものの、イギリスやアメリカを訪問したことは1度もなく、英語 すらできない上両国の首脳陣に知人もいなかった。これは海軍ならともかく、当時の日本の陸軍官僚や政治家では標準的な事であった)。
いずれにしても、このような日英米蘭関係の悪化を受けて、日本海軍はホノルルやサンフランシスコ 、メキシコ、サイゴン、マカオ、マドリード などにスパイを送っている。例えば3月26日にホノルルに送られた吉川猛夫 少尉は「森村正」の変名を名乗りホノルル領事館に勤務した。吉川が収集した情報は、真珠湾におけるアメリカ海軍の艦船の動向など多岐にわたり、喜多長雄 総領事の名で東京に暗号にして打電していた。吉川の正体は総領事以外誰も知らされなかった。
東條軍事独裁内閣成立
近衛首相(1941年10月)
陸軍はアメリカ(ハル)の回答をもって「日米交渉 も事実上終わり」と判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日 、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎 、陸相・東條英機 、企画院総裁・鈴木貞一 を荻外荘 に呼び「五相会議 」を開き、対英米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。
そこでは中華民国からの撤兵を行うことで、日米交渉妥結の可能性があるとする首相・近衛および外相・豊田と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする陸相・東條の間で対立が見られた[277] 。
近衛首相は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。(戦争をやるなら指揮を)自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日 に政権を投げ出し、10月18日 に内閣総辞職した。なおこれには、直前の10月14日に近衛内閣の嘱託がソ連のスパイとして2人も逮捕され、自らの関与も疑われた「ゾルゲ事件 」の責任を取っての引責辞任との噂もある。
東條内閣 成立(1941年10月18日)
近衞首相と東條陸相は、東久邇宮稔彦王 を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は、戦争になれば皇族に累が及ぶことを懸念する木戸幸一 内大臣 らの運動で実現せず、東條陸相が次期首相となった。
この推薦には「現役陸相の東條しか軍部を押さえられない」、「天皇に逆らうことをしない東条しか戦争を押さえられない」という木戸内大臣の強い期待があったが、その「期待」により、「軍人(=官僚)が選挙の洗礼を受けていないで首相という全権を得てしまう」という民主主義国家としてはあり得ないことが起こった。このことは、軍部の暴走がますます止まらなくなり、さらに日本が「文民(=党人)政権」から「軍事独裁政権」へ移行し国家が「戦時体制」となったと、英米などの民主主義国家から受け止められかねないという、2つの点を完全に無視していた[277] 。
またこれまで日本では、岡田啓介 や米内光政 、桂太郎 のように、選挙を経ないで選出された軍事官僚が首相になることはあったものの、このように選挙を経ないで選ばれた陸海軍人が好きに国をコントロールする「軍事(=官僚)独裁体制」はかつてなく[277] 、しかしこのような軍事独裁体制は、結局敗戦時の鈴木貫太郎 まで続くことになる。
ゾルゲ事件
ゾルゲの外国通信員身分証明票
尾崎秀実
オイゲン・オット大使
このような中で、1941年9月27日 のアメリカ共産党 員の北林トモや10月10日の宮城与徳 、10月14日の近衛内閣 嘱託である尾崎秀実 や西園寺公一 の逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・逮捕された[注釈 14] 。その後ドイツの「フランクフルター・ツァイトゥング 」紙の寄稿記者[注釈 15] で、東京府 に在住していたドイツ人のリヒャルト・ゾルゲ などを頂点とするスパイ組織が、日本国内でソ連並びにコミンテルン の諜報活動および謀略活動を行っていたことが判明した。
捜査対象に外国人、しかも友好国のドイツ人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では、特高第1課に加え外事課 が捜査に投入された。その後に宮城と関係が深く、さらに近衛内閣嘱託である尾崎や西園寺とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ、容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などによる逃亡、証拠隠滅が予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院 検事局が日独の外交関係を考慮し、まず総理退陣が間近な近衛文麿と近い尾崎、西園寺の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。
その後尾崎が近衛内閣が総辞職する4日前の10月14日に逮捕され、東條英機 陸相が首相に就任した同18日に外事課は、検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼン と妻のアンナ、ブランコ・ド・ヴーケリッチ の外国人容疑者を検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、いわゆる「ゾルゲ事件 」が明らかになった[280] 。
ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることができたといわれる[281] 。
ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、スパイを取り締まる責任者のヨーゼフ・マイジンガー は、ベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[282] 。さらにゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館 付の私設情報官という地位まで与えていたオイゲン・オット 大使や、国家社会主義ドイツ労働者党 東京支部、在日ドイツ人特派員 一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[283] 。またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放 するよう日本政府 に対して強く求めていた。
しかし友邦ドイツの大使館付の私設情報官という、万が一の時には外交的にも大問題となる場合に対し万全を尽くした警察の調べにより、逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた[284] 。間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。その後の裁判で、ゾルゲやクラウゼンなどの外国人特派員や宮城や北林らの共産党員、そして尾崎や西園寺などの近衛内閣嘱託が死刑判決や懲役刑を含む有罪となった。なお当然ながら尾崎や西園寺と非常に近い近衛の関与も疑われたが、その後の辞職と英米開戦で不問となった。
なおオット大使は1941年12月に日英米が開戦し、ドイツもアメリカに宣戦布告したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続けた。オット自身からリッベントロップにゾルゲ逮捕についての報告はなかったとみられ、ドイツ外務省には満洲国 の新京 駐在総領事が1942年3月に送った通信でゾルゲ事件の詳細がもたらされたと推測されている[285] 。これを受けてリッベントロップはオットに、ゾルゲに漏洩した情報の内容や経緯、ゾルゲが身分をカモフラージュしてナチス党員やドイツの新聞特派員になりおおせた事情の説明を求めた[286] 。これに対して、オットはゾルゲのナチス入党の経緯や大使館が新聞社に推薦をしたかどうかはわからず、ゾルゲには機密情報と接触させなかったと弁解した[286] 。さらに、事件が日独関係に支障をもたらしていないと述べた上で、自らの解任もしくは休職を要請した[286] 。
オットは1942年 11月に駐日大使を解任され、後任は駐南京国民政府 大使のハインリヒ・ゲオルク・スターマー となった[287] 。解任通知には「外務省に召還」とする一方で、ドイツへの安全な帰還が確保できないとして、私人として一切の政治的活動を控えながら当面日本にとどまるよう指示されていた[287] 。その後華北政務委員会 の北京 へと家族とともに向かった。
対するソ連は、ゾルゲが自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲが自国のスパイであったことを戦後まで拒否し通していた[288] 。ゾルゲの死刑は、第二次世界大戦末期の1944年11月7日 、関与を拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。
なお、第二次世界大戦後日本に連合国軍最高司令官総司令部の参謀第2部 の責任者として駐在したアメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビー は、ゾルゲ事件とソ連やコミンテルン、またその関係者と、アメリカ共産党とそのシンパとの親密な関係に注目し、大掛かりかつ綿密な調査を行った[289] 。
南方作戦準備
東亜海運の大洋丸
東亜海運の龍田丸
10月15日と22日に相次いで太平洋航路に着いた臨時便の「龍田丸 」と「大洋丸 」は、択捉島 沖からアリューシャン列島 沖を通るなど、後の真珠湾攻撃 と似通ったルートを取った変則的な航路を採った。また両船ともにホノルルに外務省や船員などの名目で海軍の諜報員を送っており、ハワイ沖でアメリカ海軍の哨戒機に遭遇したほか、真珠湾の哨戒、防衛の現状をつぶさに調べており、アメリカ海軍の北太平洋の哨戒や真珠湾の防衛の現状、さらに現地諜報員の情報を海軍本部に持ち帰るなど、南方作戦の準備は着実に進んでいた[272] 。
なお当時の日米間の関係悪化を受けて1941年8月に太平洋航路の定期便は運休されており、それ以降の太平洋航路の旅客船は「臨時交換船 」扱いであった。さらに日本船は在米日本資産としてアメリカ政府に差し押さえられることを避けて、日本郵船 や東洋汽船 から日本政府が貸切る形となった。このために横浜発の便はアメリカへ帰国するアメリカ人で一杯になっており、逆にホノルル やシアトル 発の便は日本へ帰国する日本人で一杯だった。
なお日本郵船のロンドン線やハンブルク 線などの欧州路線は、欧州戦域の悪化で1940年中に運休となっており、そのため太平洋路線でアメリカ経由でアジアとヨーロッパを行き来する日本人やヨーロッパ人乗客も大勢いたため、1941年に入り太平洋航路の定期便は常に混雑していた。
東條首相の下で10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[290] 。10月14日に日本は対アメリカの最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した(これは当時の日本陸軍 ができる最大の譲歩であった)。
マレー上空を哨戒するイギリス軍のF2Aバッファロー (1941年11月)
11月6日には、日本政府は帝国国策遂行要領に基いて、南方軍 にイギリス領マラヤ やシンガポール、ビルマ、香港など、またオランダ領ジャワやアメリカ領フィリピンなどの攻略を目的とする「南方作戦準備」が指令され[291] 、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[292] 。なお11月11日に、イギリス首相のチャーチルは「もしアメリカに日本が宣戦布告をした場合、1時間後にはイギリスも日本に宣戦布告する」と述べ[293] 、マレーの哨戒を強化した。
真珠湾に向けて海軍機を満載して航行する「加賀 」(手前)と「瑞鶴 」(1941年11月28日)
日米交渉の期限切れを受け、11月26日 早朝に「赤城 」、「加賀 」、「蒼龍 」、「瑞鶴 」、「飛龍 」などからなる日本海軍機動部隊の第一航空艦隊 は、南千島 の択捉島単冠湾 (ヒトカップ湾)からアメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地に向け出港した。なおこれは、日米交渉のアメリカの出方により途中で引き返す可能性があることが、あらかじめ海軍上層部には伝えられていた。なおこの日本海軍の動きは、アメリカ側には全く察知されなかった。
さらに、太平洋航路の最後の臨時便となった龍田丸の航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルス へ入港する予定であった。だが、この時点で日本は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、対英米開戦とともに龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった。しかし大本営 海軍部(軍令部 )は、開戦日を秘匿するために龍田丸をあえて出港させることにする。ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は龍田丸の木村庄平船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した。
龍田丸は12月8日に開戦の報を受けて即座に引き返し、12月15日(戦史叢書では12月14日着)に横浜に帰港した[294] [295] 。上述のように、龍田丸のこの航海は、まさに南雲機動部隊 による12月8日の真珠湾攻撃をカモフラージュ するための航海であった[294] 。
ハル・ノート
野村吉三郎 大使と来栖三郎 遣米特命全権大使(1941年11月)
11月27日(アメリカ時間11月26日)に、裏では日本軍による南方作戦準備が着々と進む中で、アメリカのコーデル・ハル 国務長官から野村吉三郎 駐米大使と、対米交渉担当の来栖三郎 遣米特命全権大使 に通称「ハル・ノート 」(正式には:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略/Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)が手渡された(なお、これの草案を手掛けた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイト は、第二次世界大戦後にソ連のスパイであることが判明し、1948年に自殺している)。
この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」といった譲歩を求める内容もあった。
この文章はあくまでハルの出した「基礎提案 (Outline of Proposed Basis)」 であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし (Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)」 と明確に書かれてあり[296] 、アメリカ側としては題名の「基礎提案」通りに、ここから日米両国の当事者で落としどころを探るものであったものの、内容としては日本側の要望を全て無視したものであったことから、日本側は事実上の「最後通牒 」と誤訳と意訳、解釈し、そして最終的に認識した。
そしてこの中にある日本側が最重要視する「満洲国を含む全中国からの撤退」か、それとも「満洲国を含まない全中国からの撤退」を求めているか否かなど、肝心かつ重要な点をハルをはじめ全くアメリカ側に対し明確にしないまま、12月1日の御前会議 で日本政府は対英米蘭開戦を決定する。
暗号機の廃棄
駐英日本大使館
対英米蘭開戦が決定すると、1日に外務省は、ロンドンやワシントンD.C、シンガポールやマニラ、香港などの日本大使館や領事館に、開戦で接収される恐れのある暗号機を廃棄するよう命じた。さらにワシントンD.Cの日本大使館に暗号機を1機残して廃棄を命じた上で、館員が庭で残存文書を焼却した[297] 。
イギリスやアメリカ側では、こうした動きに気づいて不審に思い警察に報告した者もいたが、それは「イギリスやアメリカが攻撃することを恐れて日本側が機密文書の焼却を行っている」と、一方的に勘違いしているものであり、イギリスやアメリカでは大きな騒ぎにならなかった。
マレー方面出撃
マレー半島の上空を飛行するイギリス軍機(1941年12月)
そのような中で、日本はイギリスやオランダの植民地に対しても隠密裏に進軍を開始し、12月4日、中華民国の三亜 で、作戦の全船団の出撃を確認した日本海軍の馬来 部隊指揮官・小沢治三郎 海軍中将も出撃した[298] 。
さらにほぼ同時に山下奉文 陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船も艦艇に護衛され、ついにイギリス領マラヤ とオランダ領東インド を目指して進撃を開始した。対するイギリス軍やオランダ軍は全く油断しており、これらに気づく者は皆無であった。
このように対英米蘭開戦を決定しながら、その裏ではマレー半島とジャワ、ハワイに向かう日本海軍機動部隊をいつでも反転できるようにしたまま、日本政府はぎりぎりまで来栖三郎 と野村吉三郎 の両大使にコーデル・ハル 国務長官 との交渉を進めさせたが、ついに打開策は見つけらなかった。
対英米開戦と宣戦布告遅延
コーデル・ハル 国務長官 と最後の会談に臨む野村吉三郎 大使と来栖三郎 大使(1941年12月7日)
12月1日の御前会議で正式に対英米蘭戦争開戦が決まった際、これを受けて東條は外相東郷茂徳 に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った(厳密にはこれは開戦通告ではなく、当時行われていた野村・来栖両大使による特別交渉の成果達成諦めの通知である。また、イギリス相手には初めから何か行うことは考えられていない)東郷から駐アメリカ大使館の野村吉三郎 大使宛に、パープル暗号 により暗号化された電報 「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」が、現地時間12月6日午前中に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。
また東条首相は開戦直前に、日系アメリカ人に対して「日系アメリカ人はアメリカ人であるので、武士道 にのっとり日本ではなくアメリカのために戦うべき」と述べたと言われている。
「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃(以下は全てアメリカ東海岸現地/ワシントンD.C.時間)から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日午前7時までに到着したとみられる。
九〇四号は機密保持の観点から「覚書の作成にタイピスト を利用しないように」との注意があり、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。しかし、「タイピストを利用しないように」との注意に忠実に、解読が終わったものから順にタイプが不得意な一等書記官 の奥村勝蔵 により修正・清書され、そのために時間を浪費してしまう。その上に館員の多くは6日夜には、ブラジル へ赴任する館員の送別会も兼ねてワシントンD.C.市内の中華料理店「チャイニーズ・ランタン」に向かい、多くはそのまま自宅へ戻ってしまう。
「翔鶴」からハワイに向け発艦する九七式艦上攻撃機 (1941年12月7日/ハワイ時間)
さらに12月6日午後9時(日本時間7日午前10時)に米大統領ルーズベルトは昭和天皇へ親書を送り、ジョセフ・グルー 駐日大使に暗号文の翻訳を急がせた[299] ものの、親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇の元に届いたのは開戦直前(日本時間8日未明)で手遅れであった[300] 。
12月7日の朝9時(日本時間7日午後11時)に日本大使館に出勤した電信課員は、午前10時頃に14分割目の解読作業を開始し、昼の12時30分頃(日本時間8日午前1時30分)に全文書の解読を終了した。14分割目も奥村により修正・清書され、そして午後2時20分(日本時間8日午前3時20分)に特命全権大使 の来栖三郎 と大使の野村吉三郎より、国務省 にてコーデル・ハル 国務長官 に手交された。
しかし、これはそもそも日本政府の設定した「手交指定時間」から1時間20分遅れで、日本陸軍のイギリス領マレー半島 コタバル 上陸の2時間50分後、日本海軍のアメリカのハワイの真珠湾攻撃 の1時間後だった。そのために、日本政府は後にアメリカ政府より宣戦布告 の遅延が非難されることになる。
こうして日本(外地含む人口:約1億人)は、中華民国と(人口:約4億人)の戦いを続けながら、ついにイギリス(オーストラリアやニュージーランド、イギリス領マラヤ やイギリス領インド帝国 なども含む。大英帝国とそれらの植民地含む人口:約5億人)、アメリカ(アメリカ領フィリピンなども含む。植民地含む人口:約1億5000万人)、オランダ(正式には植民地であるオランダ領東インド 。なお本国はイギリスへ亡命。植民地含む人口約2億人)、カナダ(人口:約1500万人)などとの間にも開戦することとなり、ここで、ヨーロッパ戦線やアフリカ戦線から、アジア戦線やアメリカ・太平洋戦線へと全世界に戦域が広がり、まさに世界大戦 となる。
経過(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)
1941年
日本軍の侵攻に備えるイギリス領マラヤ の、イギリス空軍のブルースター・F2Aバッファロー (1941年12月8日)
炎上するイギリス領マレーのゴム園(1941年12月8日)
日本軍と戦うイギリス軍インド師団(1941年12月8日)
日本軍と戦うイギリス軍(1941年12月)
1941年12月8日 午前1時35分(日本標準時 )/12月8日午前0時35分(マレー標準時)に行われた日本陸軍 とイギリス陸軍 との戦い(マレー作戦 )により、太平洋 における戦闘が開始され、アジア太平洋戦線が第二次世界大戦へ発展した 。
12月7日夜半、日本陸軍の馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた[301] 。当初予期されたイギリス領マレーの上陸地点でのイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も認めない状況を鑑み、8日午前0時35分に小沢治三郎 中将は予定通りの上陸を決意した。「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下奉文 中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した[302] 。
佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸 、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、8日午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領マラヤ 北端のコタバル へ上陸作戦を開始した。しかし、マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、日本軍の上陸に備えていたイギリス陸軍の水際陣地に苦戦した。日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、両基地の占領に成功した。さらに、多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃し、マレー半島をシンガポールに向けて南下した[303] 。
イギリス陸軍はかねてから国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島およびシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600人、イギリス領インド帝国兵37,000人、オーストラリア軍15,200人、その他16,800人の合計88,600人に達していた。兵力数は日本陸軍の開戦時兵力の2倍であったが、イギリス軍やオーストラリア軍は訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。さらに軍の中核となるべきイギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスより地中海を避けて喜望峰 とインド洋 を通りドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島に輸送途上であった。
イギリス空軍マレー半島司令部は、開戦前に本国へ幾度も増強の要請をしたが、本国ではドイツ空軍のイギリス本土猛攻に対する防衛(バトル・オブ・ブリテン )に手一杯であり、遠いマレー半島の空軍増強の要請に対応できなかった上、上記の陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦攻撃を避けて運搬したため、時間が大幅にかかった。その結果、開戦当時のマレー半島のイギリス空軍の中心は、ブルースター・F2Aバッファロー やブリストル ブレニム などの、当時としても二線級機とならざるを得なかった。
さらにイギリス空軍は日本軍の技術に対する研究が不十分であり、「ロールス・ロイス とダットサン の戦争だ」と、人種的な偏見により日本軍の航空部隊を見くびっていた。その結果、日本軍の零式艦上戦闘機 や一式陸上攻撃機 、九六式陸上攻撃機 などの新鋭機に、よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。
また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要である香港 への攻撃を開始したほか、中華民国の上海のイギリスやアメリカ租界 を瞬く間に占領した。日本に占領されたものの、残ったイギリスやアメリカ、オランダやオーストリア、デンマーク やフランスなど連合国の職員と評議員は、その職から解任されたにもかかわらず、1943年に日本陸軍に抑留されるまで職の管理存続に動いていた。
炎上するアメリカ海軍太平洋艦隊のウェストバージニア (1941年12月8日/日本時間)
日本軍による空からの奇襲に遭う真珠湾の太平洋艦隊 基地」(1941年12月8日)
日本軍のイギリス領マレー半島上陸開始の約1時間半後(12月8日午前3時過ぎ(日本標準時)/12月7日午前8時過ぎ(太平洋ハワイ標準時 )、日本海軍6隻の航空母艦 とその搭載機、小型潜水艇などにより、ハワイ のオアフ島 (当時のアメリカ自治領で、アメリカが1898年 に武力で統合)にあった、真珠湾 のアメリカ海軍太平洋艦隊に、攻撃(真珠湾攻撃 )が行われた[272] 。日本海軍は山本五十六 大将指揮の下、当時世界最大の空母機動部隊を保有していた。
前日12月6日(ハワイ時間)の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍のハズバンド・キンメル 大将とウォルター・ショート 中将にも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、「空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険」という意見で一致したのと、「週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせる」と判断し、真珠湾にいる艦隊をそのまま在港させることとした。また同日、パープル暗号 により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方に米大統領ルーズベルトに翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ[272] 。しかし引き続きアメリカ側は軍に対して何の防御も取らなかった。
日本軍機から魚雷攻撃を受けるアメリカ戦艦群(1941年12月8日)
ハワイから帰投する日本海軍機(1941年12月8日)
7日の午前7時10分に日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「ワード 」から攻撃を受けたが(ワード号事件 )、ハワイ周辺海域では日本の漁船などへの誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されなかった[272] 。また、その直後にはアメリカ軍の哨戒機が湾口1マイル沖で潜水艦を発見し爆雷攻撃を行ったとの報告もなされたが、その報告を聞いた海軍参謀らは駆逐艦「ワード」からの報告も含めて長々と議論するばかりで結論を出すことができず、陸軍に連絡することすらしなかったため、陸軍は警戒態勢の強化を図ることができなかった。さらに、これが大規模な日本海軍の攻撃開始とは気づかなかった真珠湾のアメリカ海軍の将兵のほとんどが、日米間の緊張した状況を知らされず、ほとんどが演習だと信じ込んでいた。
日本海軍の最初の魚雷は、8日午前3時過ぎ(日本標準時)/12月7日午前8時過ぎ(ハワイ標準時)に「ウエストバージニア 」に命中し、8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中した[304] 。以降は日本海軍機は一方的な攻撃を展開し、9時前には第2次攻撃も開始し、オアフ島真珠湾上の「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦「ペンシルバニア」1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17 やカーチスP-40 など陸海軍航空機328機破壊、航空基地施設多数破壊をはじめ2400人以上の死者を出し、これに対し日本軍はわずか29機の未帰還機と特殊潜水艇5隻の未帰還の被害で終えた[272] 。なお戦艦「ペンシルバニア」は、1945年8月12日に沖縄沖で日本海軍機の攻撃を受けて、再び大破した。
その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ海軍太平洋艦隊の戦艦 部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ海軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという[305] 作戦目的を達成した[306] 。なお激しい戦闘の最中に、ホノルル港に停泊していたオランダ 海軍の「ヤーヘルスフォンテイン」が日本軍機に向けて搭載している対空砲の射撃を行った。なおこの時点ではオランダやその植民地政府は、日本に対して宣戦布告はしていなかった(オランダが日本に宣戦布告したのは12月10日)[307] 。
アメリカ海軍太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカ海軍空母 が出港中で、空母と艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる[272] 。なお、当時日本軍は短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、大統領のルーズベルト以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ諸島上陸を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイ諸島のアメリカ利権の廃棄を想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。さらに、7日昼にはサンフランシスコなどアメリカ西海岸に非常事態宣言が出された上、さらにルーズベルトは日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土西海岸から中西部への侵攻の可能性が高い、と分析していた。
また、日本政府が日米交渉の一方で戦争準備を進めていたこと、さらに日本国大使館員による宣戦布告の遅延があったことは、その後アメリカ政府による「卑劣なだまし討ち」というプロパガンダとして、長年後世に渡って使用されることとなった。ただし、先に日本が開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかった上、1939年9月のドイツとソ連のポーランド侵攻の際も完全に宣戦布告が行われなかったなど、当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであり、このように喧伝されることはなかった。
さらにアメリカは、レンドリース法 でイギリスやオーストラリア、中華民国に武器を与えていることに加え、米比戦争 やシベリア出兵 、第二次世界大戦以後もアメリカはベトナム戦争 やイラク戦争 などで宣戦布告なく戦争を行っている[注釈 16] 。
日本軍機の攻撃を受けるイギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」(1941年12月10日)
「プリンス・オブ・ウェールズ」から乗員を移乗する駆逐艦「エクスプレス」(1941年12月10日)
マレー半島の橋梁を破壊するため爆薬を設置するイギリス軍工兵(1941年12月20日)
かねてよりイギリスの後押しもあり参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に対日宣戦布告 を行い、連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。また、すでに日本と日中戦争 (支那事変 )で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争 」の項を参照)。なお、満洲国 や中華民国南京国民政府 [注釈 17] も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。しかしアメリカは瞬く間にグアムやフィリピン、さらにアメリカ固有の領土のアッツ島を日本軍の手により失い、その上に本土西海岸も数度の爆撃や砲撃を受けるなど敗走を続けることになる。さらにその後日本海軍は、真珠湾攻撃のアメリカ側の軍艦の損傷と修理の状況を、スパイであるベルバレー・ディッキンソン を通じて中立国のアルゼンチンにいる海軍情報部に送らせた。
12月8日夜半にイギリス空軍司令部がコタバル飛行場から撤退したこともあり、イギリス海軍は哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった。にもかかわらず、イギリス海軍 東洋艦隊 のトーマス・フィリップス 中将は、シンガポールの空軍司令部に戦闘機の艦隊支援に対する要望を書簡にして送付し、シンガポールにいる当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ と巡洋戦艦レパルス )、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いて出撃した。9日中に日本軍に発見されない場合は、10日早朝に日本軍の船団を攻撃することを決心して北上を続けた[308] 。
しかし12月10日に日本海軍により発見され、マレー沖で日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機 と一式陸上攻撃機 )の攻撃が開始され、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦 )。この攻撃でプリンス・オブ・ウェールズは魚雷7本、爆弾2発。レパルスは魚雷13本、爆弾1発を食らった。日本陸軍側はわずか3機を失い、それに対してイギリス海軍側は2隻併せて将兵840名が死亡した[272] 。これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。
なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した[309] 。なお、日本軍航空隊は救助作業を行うイギリスの駆逐艦を攻撃せず、救助作業を妨害しなかった。さらに戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いてアナンバス諸島 電信所爆撃へ向かう[310] 。途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した[311] [312] 。
この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるシンガポール を目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲に、後ろ盾になるはずの東洋艦隊を失ったイギリス軍は敗走を続けた[313] 。
ウェーク島で地上撃破されたアメリカ軍の戦闘機(12月23日)
次いで日本陸海軍機がアメリカの植民地のフィリピン のアメリカ軍基地を攻撃し、12月10日には日本陸軍がアメリカ軍最大の基地があるルソン島 へ上陸し、破竹の勢いでマニラへ向かった。さらに太平洋のアメリカ領のグアム島も占領。なおグアムにおける戦闘はわずか1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民合わせて650名であった。
12月11日、日本の対連合国への宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。
なおこの年にイタリア紅海艦隊の残存艦の「エリトレア」と「ラム2」が、スエズ運河 が閉鎖されたために来日し、やむなく神戸港 に停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一部に任命され、これらイタリア極東艦隊は日本からの燃料や食料などの供給を受けて、日本や満洲国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、東南アジアとの間の輸送を担当し大活躍した。
九龍を進軍する日本軍(12月23日)
日本軍に降伏する香港のイギリス人(12月28日)
これに先立ち12月8日に、イギリス領土の東アジアの要である香港へ攻撃を開始した日本陸軍は、ストーンカッター海軍基地などがある中心の九龍半島の攻略を開始した。啓徳空港 もこの際に攻撃され、イギリス空海軍機や、サンフランシスコ から到着したばかりのパンアメリカン航空 のシコルスキー S-42 をはじめとする民間機など14機が日本陸軍に破壊された[314] 。これによりイギリス軍が使用できる全航空機を失ってしまう。なお日本軍は攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され13日には九龍半島から撤退した。
さらに12日に日本陸軍が攻撃を開始した香港島 では、中心地の中環 を中心にイギリス陸海軍は頑強に抵抗し、日本陸軍にも多くの死者を出したものの、兵站に大切なレサボア(貯水池)を占拠されて25日に全面降伏し、日本陸軍は香港一帯を占領した[272] 。降伏の交渉は日本軍が司令部を置いていた九龍半島の「ペニンシュラホテル 」の3階で行われた。
日本陸軍は700人を超える戦死者を出したが、対するイギリス軍も1,700人を超える死者を出し、捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、英領インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了した(香港の戦い )。
日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地マカオ には、中立国植民地を理由に侵攻せず、結局終戦まで進攻は行わなかった[注釈 18] 。しかし12月17日[315] 、ポルトガル領ティモール は日本軍による利用を警戒したオランダ軍とオーストラリア軍に保障占領 の名目で占領された。ポルトガルのアントニオ・サラザール 首相は、イギリスに対し抗議し、12月19日にポルトガルの議会でイギリスへの糾弾演説を行った。
アメリカ西海岸沿岸で通商破壊戦を行った日本海軍の伊15
12月17日には、伊7 潜水艦とその積載偵察機がオアフ島を偵察し、アメリカ海軍が昼夜を問わず真珠湾の基地を修繕していることを確認。もう一度オアフ島の真珠湾をたたくことを検討する(K作戦 を参照)。
12月23日には、井上成美 海軍中将指揮の下で同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島 も、2隻の駆逐艦を失うなど苦戦したが日本軍が占領した。このような状況下で、日本海軍は真珠湾攻撃の援護を行っていた巡潜乙型潜水艦 計9隻(伊9 、伊10 、伊15 、伊17 、伊19 、伊21 、伊23 、伊25 、伊26 [316] 。10隻との記録もある)を、太平洋 のアメリカとカナダ、メキシコ などの西海岸沿岸に展開し、12月20日 頃より連合国、特にアメリカやカナダに通商破壊 戦を展開し、中でも商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れるほどの距離で砲撃、撃沈し、西海岸の住人を恐怖のどん底においた[317] 。
さらには、太平洋のアメリカ西沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、カリフォルニア州 のサンディエゴ、モントレー、ユーレカ、オレゴン州 のアストリアなどの複数の都市の海軍基地などの軍事施設を一斉に攻撃するという作戦計画があった。しかし、「クリスマス 前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある[317] 。
1942年
マレー半島を進む日本軍(1942年1月)
カンタス航空 のショートエンパイア機
東南アジア唯一の独立国だったタイ王国 は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約 を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、1月8日 にイギリス軍やアメリカ軍がバンコク など都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日 にイギリスとアメリカに宣戦布告した。また日本が進出したフランス領インドシナ では、従前のヴィシー政権による植民地 統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海 作業などでは両軍で協力が行われている。
1月に日本は、母国がドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命および植民地政府とも開戦し、ボルネオ島 (カリマンタン )[注釈 19] 、ジャワ島 とスマトラ島 [注釈 20] などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。
1月30日には、オランダ領東インド・西ティモール沖の戦闘区域で、カンタス航空のショートエンパイア機が日本海軍機に撃墜 され、乗客乗員13名が死亡する事件が起きている。なおこれは、2022年現在同社での最大の死亡者数の事故となっている。また同航空は、この後も日本軍との戦闘で機材を失っている。
南米においては、ブラジル が、アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、1942年1月に連合国として参戦することを決定した。ただし、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ヨーロッパ戦線に参戦した。また、ドイツやイタリアと友好関係にあったアルゼンチン は中立を保った。一方、佐世保鎮守府 が管掌する旅順 の旅順要港部 は、1月15日をもって廃止された。
クアラルンプールで市街戦を戦う日本軍(1942年2月)
ジョホールで市街戦を戦う日本軍(1942年2月)
日本海軍は、2月に行われたジャワ沖海戦 でオランダ海軍 とアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。2月8日にマカッサル [319] 、2月10日-11日にバンジャルマシン に上陸しこれを攻略した[320] 。続くスラバヤ沖海戦 では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。このような中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「ファン・イムホフ号事件 」が発生している。
シンガポールにて降伏交渉を行う山下中将とパーシヴァル中将(1942年2月)
日本軍は9日にイギリス領マレー半島のセランゴールを占領、11日午前12時にクアラルンプール の外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した[321] 。イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた[322] 。
ジョホール州 に迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポール に迫った。2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールへの攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった[323] 。8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡航開始[324] 。11日朝、第25軍司令官はイギリス軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた[325] 。しかしイギリス軍の最後の軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後にアーサー・パーシバル 中将は山下奉文 中将に降伏した[326] 。
イギリスの隣国であるアイルランド では長年にわたる支配への恨みから反英感情が強く、特に独立運動を弾圧してきたパーシヴァルが降伏したことで元アイルランド共和軍 (IRA)幹部らが、ダブリン 駐在の別府節弥 日本国領事 を囲んで祝賀会を開いたという[327] 。日本陸軍第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、イギリス軍捕虜が約10万人、約5,000名が戦死し、同数が戦傷した[328] 。日本の戦死1,713名、戦傷3,378名[329] に上った。陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで日本軍の占領下に置いた。
ダーウィン港内で炎上するオーストラリア海軍艦船 (1942年2月)
2月19日 には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲 を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍 (RAAF) のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。オーストラリアに日本軍は上陸しなかったものの、オーストラリア北西への爆撃は1943年11月まで続き、軍民に深刻な被害を出すこととなる。
2月20日[330] に、日本軍は、イギリス軍が占領下に置いていたティモール島 全島を占領した。ディリの守備にあたっていた連合軍約1300名の大部分は山中に逃亡し、ポルトガル軍は日本軍に対して抵抗しなかった[331] 。以降、ポルトガル領ティモール も事実上は日本軍の統治下になった。
「ロサンゼルスの戦い」を報じるロサンゼルスタイムズ紙(1942年2月)
2月24日 に、日本海軍伊号第十七潜水艦 が、アメリカ西海岸カリフォルニア州 ・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃し、製油所の施設を破壊した。これで日米戦においては、先に日本がアメリカの本土を攻撃 することとなり、日本軍の攻撃におびえたアメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。日本は他にもカナダとメキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による通商破壊戦を繰り広げた。アメリカ政府および軍は本土への日本軍の攻撃はおろか西海岸への上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、日本軍側にはその意図はなかった。
さらに翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行い6人の民間人が死亡するという事件(「ロサンゼルスの戦い 」)が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であるとし、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。
しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と無知による人種差別的感情が、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州とアリゾナ州、そして準州のハワイから一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられた、日系人の強制収容 の本格化に繋がったともいわれる。しかし、FBI 長官のエドガー・フーバー は、日系人の強制収容には「スパイと思しき者たちは、真珠湾攻撃の直後にFBIが既に拘束している」として反対している。
また、まもなくジャワ島 に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。これ以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」が実質終了した。3月のバタビア沖海戦 でも日本海軍は圧勝した。日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現:ミャンマー )首都ラングーン(現:ヤンゴン )を占領。連合国は日本軍に連戦連敗し、アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊は完全に壊滅した。
オアフ島を再爆撃した二式大艇
前年の12月17日にオアフ島の真珠湾を偵察した日本海軍は、1月5日にも伊19 より搭載機によるオアフ島の偵察を行った。これによりアメリカ軍 が灯火管制 もせずに急ピッチで真珠湾攻撃の損害の復旧をしていることを知った[332] 。これを受けて大本営]軍部(軍令部 )は、真珠湾の復旧活動を妨害すると同時に、当時各地で負け続けであった上に、本土さえ攻撃されている アメリカ軍の士気に更なる損害を加えるため、一三試大型飛行艇(二式大艇 )による空襲計画が立ちあげる[332] 。
1月17日、連合艦隊 参謀長宇垣纏 少将は、第六艦隊 (司令長官清水光美 中将)と第四艦隊 (司令長官井上成美 中将)に、一三試大艇による作戦研究および計画立案を行うよう伝えた[332] 。本作戦は「K作戦 」と命名され、補給任務につく潜水艦3隻(伊15、伊19、伊26)は水偵格納筒を改造して、航空燃料補給装置を装備した。 その後2機の二式大艇が横須賀基地からマーシャル諸島 ウオッゼ島 を出発し、途中フレンチフリゲート礁 で潜水艦から燃料補給を受け、3月4日に再度真珠湾のアメリカ海軍基地の爆撃を行ないこれに成功した。
インド洋で日本軍の攻撃を受けるイギリス海軍の「コーンウォール」と「ドーセットシャー」(1942年4月)
さらに日本海軍航空母艦の翔鶴 や瑞鶴 を中心とした機動艦隊はインド洋 に進出し、海軍空母搭載機がイギリス領セイロン [注釈 21] のコロンボ 、トリンコマリー を空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ 、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャー などに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦 )。
イギリス艦隊は、第五航空戦隊などの日本海軍機動部隊に全く反撃ができず、当時植民地だったアフリカ 東岸ケニア のキリンディニ港 まで撤退した。さらにイギリス艦隊は日本海軍が勢いを増して追いかけてくることを懸念し、マダガスカル島 まで撤収を余儀なくされるが、日本海軍はイギリス艦隊をさらに追い詰めた。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦 は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦 (第一次遣独潜水艦)としてドイツ[注釈 22] へと派遣され、エニグマ暗号機 などを持ち帰った。
アメリカ領フィリピンの日本軍は、4月9日にバターン半島 を攻略、アメリカ軍の大量の捕虜を獲得したが、多数の死傷者を出したバターン死の行進 事件が発生している。もはや日本軍に追い込まれ、食料も銃弾も尽きていたバターンのアメリカ軍兵士全てが病人となったといっても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた[333] 。
コレヒドール島にて日本軍に降伏するアメリカ軍(1942年5月)
炎上するアメリカ海軍空母レキシントン (1942年5月)
マッカーサーは嘘の公式発表をするのと並行して脱出の準備を進めており、コレヒドール島 にはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた[334] 。5月6日にアメリカ軍のコレヒドール要塞を制圧したが、日本軍がコレヒドール島を攻略したとき、極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサー の姿はすでになかった。3月12日にマッカーサーと家族や幕僚たちは、魚雷艇とボーイングB-17でコレヒドール島を脱出しミンダナオ島 経由でオーストラリアへ逃亡した。
4月18日にはアメリカ海軍は、アメリカ西海岸攻撃の仕返しに、空母ホーネット から発進したアメリカ陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25 による東京空襲(ドーリットル空襲 )を実施、損害は少なかったものの日本の軍部に衝撃を与えたが、これ以降の日本空襲は2年半皆無であった。
5月7日、8日の珊瑚海海戦 では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントン を失ったが、日本軍も小型空母祥鳳 を失い、大型空母翔鶴 も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦 を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島 攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。
日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のシーレーン を遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦 )を構想した。5月31日には、オーストラリアのシドニー 港に停泊していた連合国艦隊に向けて、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃 が行われた。
日本によるシドニー湾攻撃で着底したオーストラリア海軍のクッタブル(1942年5月)
伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を2発発射した。2発とも外れたと見えたが、岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも爆発の衝撃で損傷した。なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍のシカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。また、日本海軍はこの頃ペナンを基地とした潜水艦隊にてインド洋のアフリカ東海岸沿岸からオーストラリア西海岸にて通商破壊戦を行い、数十隻の撃沈、撃破に成功している。
マダガスカルに向けた出港準備をする日本海軍の伊10(1942年5月)
イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地である南アフリカ沿岸のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性があったため、南アフリカ 軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い )。これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的 を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナン を出撃し[335] 、南アフリカのダーバン 港の他、北方のモンバサ 港、ダルエスサラーム 港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。
その結果、5月30日から6月4日にかけて、搭載した特殊潜航艇 がディエゴスアレス港を攻撃し、攻撃によりイギリス海軍の戦艦ラミリーズに魚雷1本、油槽船 ブリティッシュ・ロイヤルティ (British Loyalty, 6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された[注釈 23] [336] 。
さらに、南アフリカ沿岸のマダガスカル島に上陸した特殊潜航艇の艇長の秋枝三郎 大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名が、6月4日にイギリス軍と陸戦を行い、両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀 と拳銃 で戦いを挑みイギリス軍兵士を死傷させるなどの戦果を上げている。
日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でイギリス軍兵士1名の死者と5人に重軽傷を負わせるなど一定の戦果を上げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し東南アフリカ沿岸まで追いやるなど、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、また友邦のドイツ軍もいなかったことから、日本海軍はこれ以上の目立った作戦行動は行われなかった、
日本海軍機の空襲を受けて炎上するダッチハーバーのアメリカ軍基地(1942年6月)
日本海軍は、同年6月3日から行われたアメリカのアラスカ準州 のアリューシャン列島 西部要地の攻略または破壊を目的として行われたAL作戦 で、アラスカ のベーリング海 における漁業や通商の拠点となる重要な港であるダッチハーバー のアメリカ軍基地への空母 「龍驤 」「隼鷹 」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。
また6月6日には、アラスカ準州のアッツ島 に北海支隊1,200人が上陸したが、同島にアメリカ軍の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する(日本軍によるアッツ島の占領 )。これは第二次世界大戦においてアメリカ本土に日本軍を含む枢軸国軍が上陸、占領した初めてのことで、続いて7日にキスカ島 に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。日本軍にとってキスカ島、アッツ島上陸は戦略的には重要ではなく、実際に占領後も少ない守備隊しか置かなかった。
アメリカ合衆国本土が外国軍隊により占領されたのは1812年 の米英戦争 以来初めてのことであり、アメリカ軍にとっては自国の本土を取られた屈辱の日となった。なお第二次世界大戦で日本本土(沖縄県)に連合国軍が上陸するのは、1945年4月の事である。
ミッドウェー海戦 で回避行動中の空母飛龍 (1942年6月)
しかし同時に行われた6月4日-6日にかけてのミッドウェー海戦 では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城 、加賀 、蒼龍 、飛龍 )を一挙に失い、加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。アメリカ海軍機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン )を損失するにとどまった。アメリカ海軍は初めての勝利で、日本海軍によって瀬戸際に追い詰められた状況に一段落することが出来た。また日本海軍もミッドウェー経由でのハワイ攻略を中止させられることになる。この海戦は太平洋戦線で初の日本海軍の敗北となったが、日本のマスコミに緘口令を指揮、反対にアメリカは国威発揚のためにマスコミを総動員し、映画や新聞、ラジオを使いこの勝利を世紀の大勝利、またはミッドウェイ海戦以降は連合軍が一方的勝利であるかのように喧伝した(それはアメリカのみならず、日本のマスコミでも現在も続いている)。
しかし実際は、この後も日本軍との海戦でのアメリカ海軍の相次ぐ敗北やアラスカ準州の領土の占領、さらにアメリカ本土空襲と本土砲撃を受けるなど、アメリカ軍の敗北と後退は各地でまだまだ続いた。なおこの海戦後日本海軍保有の正規空母は瑞鶴 、翔鶴 のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。またアメリカ海軍も虎の子の正規空母を撃沈され、以降は数少ない体制で1943年中盤のエセックス級航空母艦 の大量就役までを乗り切ることを余儀なくされた。
さらに6月20日には、北太平洋で通商破壊作戦中の乙型潜水艦の「伊号第二十六潜水艦 」が、第二次世界大戦で初めてカナダ 本土を攻撃した。バンクーバー島 西方5浬地点で浮上し、レーダー基地へ向け主砲弾17発を発射したが、荒天と視界不良により命中せず、ほとんどがエステバンポイントの灯台 周辺に着弾した。砲撃後伊26は現場を離れ、5隻のカナダ船とカナダ空軍 のスーパーマリン ストランレアが伊26の迎撃にむかったが、伊26を見つけられなかった。
フォート・スティーブンスの被害を調べるアメリカ兵(1942年6月)
翌21日には「伊号第二十五潜水艦 」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった(フォート・スティーブンス砲撃 )。当初は、アストリア 市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川 の河口を入った所にあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたA-29ハドソン攻撃機 が出撃している。ハドソン攻撃機は伊25へ爆撃を行ったが、巧みに攻撃をかわす伊25に損傷を与えることはできなかった[337] 。
この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にあるアメリカ軍基地への攻撃としては米英戦争 以来のもので、日本軍の破竹の攻撃がついにアメリカとカナダ本土の軍の施設まで及ぶことになった。
上海のシナゴーグ での亡命ユダヤ人(1942年6月)
駐日ドイツ大使館 付警察武官として東京に赴任したヨーゼフ・マイジンガー 親衛隊大佐 は、6月にヒムラー 内務大臣の命を帯びて上海に赴いた。マイジンガー大佐は日本に対し、上海におけるユダヤ難民の「処理」を迫り、以下の3案を提示した。「黄浦江 にある廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海 に流した上、撃沈する」、「ユダヤ人を岩塩鉱で強制労働に従事させる」、「長江 河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする」。しかし日本政府は、悪質な上に人道にもとるドイツ側の提案を完全に拒絶した[338] 。
しかし、ドイツ政府からの再三の圧力を受けた日本政府により、上海のユダヤ人は特定の地区に居住することを強いられ、そこから出ることを禁じられた。亡命ユダヤ人は財産を処分するために日本政府の許可を必要とし、他の者もゲットーに移住する許可を必要とした。それまでゲットーには有刺鉄線も外壁も無かったが、これ以降は外出禁止令が敢行され、地域は警邏された上食料は配給制になり、区域からの出入りにはパスが必要になったが、いずれにしても日本政府により大戦中を通じて上海の亡命ユダヤ人の命は守られた。
横田基地内でサヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RTの前に立つ日伊の軍関係者(1942年7月)
この頃イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画した。6月29日 にグイドーニア・モンテチェーリオ からイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦 を避けて、ドイツ占領下のウクライナ のザポリージャ 、アラル海 北岸、バイカル湖 の縁、タルバガタイ山脈 を通過しゴビ砂漠 上空、モンゴル 上空を経由し、6月30日 に日本占領下の内モンゴル 、包頭 に到着した。しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過してしまい銃撃を受けてしまう。その後東京の横田基地 へ向かい7月3日 から7月16日 まで滞在し、7月18日 包頭を離陸してウクライナのオデッサ を経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、7月20日にこの任務を完遂した。
しかし、日本にとって中立国の(イタリアにとっての対戦国)ソビエト連邦上空を飛ぶという外交上の理由によって、滞在するアントニオ・モスカテッリ中佐以下の存在を全く外部に知らせないなど、日本では歓迎とは言えない待遇であった。また、事前に日本側が要請していた、辻政信 陸軍中佐を帰路に同行させないというおまけもついた。しかも、案件の不同意にも関わらずイタリアは8月2日 にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった[339] 。
日英交換船として横浜に向け航海中の龍田丸(1942年8月)
なお、開戦後両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官 や民間人(企業の駐在員や宗教 関係者、研究者 、留学 生とそれらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。その後1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満洲国やタイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間についてはこの年の6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回の交換船 が運航されることになった。
また開戦以降、ドイツ側は生ゴム やスズ 、モリブデン 、ボーキサイト 等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために、ドイツ海軍の海上封鎖突破船 を大西洋とインド洋 経由で、昭南やジャワなど日本の占領する東南アジア方面から日本まで送ったが、主に大西洋を拠点に活動するイギリス海軍 や南アフリカ連邦 軍の妨害に遭うことが多くなり、作戦に支障をきたすことが多くなった。
しかしドイツ側は潜水艦で酸素魚雷 や潜水艦用無気泡発射管、水上飛行艇 や潜水艦用自動懸弔装置、後日には空母の設計図などの最新の軍事技術と、モリブデンやスズなどを日本から、日本側からもウルツブルク・レーダー 技術や暗号機 、後日にはジェットエンジン やロケットエンジン 等の最新の軍事技術と、ウランなどをドイツから入手したいという思惑があり、両国の利害が一致し、ここに日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった[340] 。
アメリカのオレゴン州空襲を伝える新聞記事(1942年9月)
南太平洋海戦で撃沈されたホーネット(1942年10月)
遣独潜水艦作戦 の1回目として、日本海軍の伊号第三十潜水艦 が8月6日 に占領下フランスのロリアン に入港した[341] 。2回目は駐独大使館付海軍武官横井忠雄 海軍少将が便乗帰国するほか、帰り道にヒトラーから寄贈されたUボートを回航するなど、その後1944年まで5回にわたり行われた。
8月7日、アメリカ海軍及びオーストラリア海軍は最初の連合国軍による反攻として、ソロモン諸島 のツラギ島およびガダルカナル島 に上陸、完成間近で防衛が手薄であった日本軍の飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍との間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦を繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い )。さらに同月に行われた第一次ソロモン海戦 では、インド洋方面の作戦から派遣された日本海軍の潜水艦などの攻撃でアメリカとオーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。
9月9日と29日には、日本海軍の伊十五型潜水艦 「伊二十五」の潜水艦搭載偵察機 零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲 )。死傷者こそなかったものの、この2度の空襲は、現在に至るまで外国軍機によるアメリカ合衆国本土への唯一の空襲となっている。
日本軍によりアッツ島の本土上陸に続く、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないためにアメリカ政府は、ラジオや新聞などのマスコミに徹底的な緘口令(情報操作 )を敷き、日本軍の本土爆撃があった事実を国民に対しひた隠しにする。実際アメリカ政府は、このことを連合軍の攻勢が強くなる1944年頃まで隠し通した。さらに帰路では通商破壊戦を行い、潜水艦や商船を3隻撃沈している。
日本軍の空襲を受けるオーストラリアのダーウィン(1942年12月)
その後、第二次ソロモン海戦 で日本海軍は空母龍驤 を失い敗北したものの、10月に行われた南太平洋海戦 では、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母ホーネット を撃沈、エンタープライズ を大破、駆逐艦ポーターを撃沈するなど大勝した。これに先立つミッドウェー海戦でアメリカ海軍は勝利したものの正規空母1隻を失い、さらに8月にサラトガ が日本海軍潜水艦による雷撃を受けて大破、9月にワスプ を日本海軍潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、南太平洋海戦の敗北に次ぐ敗北で太平洋戦線での稼動正規空母が「0」となる危機的状況へ陥った。
上記のように、アメリカ軍やイギリス軍などの連合国は太平洋戦線での稼動正規空母が皆無という極めて厳しい立場にあったが、日本海軍はミッドウェー海戦で4隻を失ったものの瑞鶴 や翔鶴以下5隻の稼動可能正規空母を有てしおり、1942年末では「5対0」と数の上では圧倒的優位な立場に立ち、他にも隼鷹 や飛鷹 など年内に竣工した新鋭艦もあった。しかし、日本軍も度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、しかも連合軍の敗北に次ぐ敗北で予想以上に補給線が延び切ったことにより、新たな攻勢に打って出ることができなかった。
さらに11月に行われた第三次ソロモン海戦 では、アメリカ軍とオーストラリア軍は2隻の巡洋艦と7隻もの駆逐艦を失ったが、日本海軍は戦艦2隻と輸送船11隻を失うなど、両軍ともに大きな痛手を負った。
ブリスベン市街地に作られたシェルター(1942年12月)
日本軍の攻勢は各地でその後も続いた。2月より日本海軍機により実施されていたオーストラリア北部のダーウィン やケアンズ などのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、冬になってもその勢いはとどまらず行われ、同地のオーストラリア空軍ならびに連合国の基地、政府の建物に大きな被害を出し、学童疎開が行われるなど大きなダメージを受けた。最終的に日本軍によるオーストラリア空襲は、対オーストラリア戦開始から2年後の1943年11月まで続いた。
インド洋 一帯では、イギリス海軍は日本海軍艦船と航空機の勢いを恐れてほぼ完全に放逐され、南アフリカやスエズ運河からインド洋を経由しオーストラリアへ向かう連合国軍船舶は、日本海軍艦船を避けて大幅に航路を変更するなど、その勢いは全く落ちてはいなかった。なお、その結果イギリス海軍がインド洋に戻れたのは、連合国の勝利がほぼ確定した終戦の年の1945年2月だった。
1943年
ビルマでイギリス軍の戦車を攻撃する日本軍兵士(1943年1月)
昨年暮れより行われていた「第一次アキャブ作戦 」で、ビルマ 方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、日本軍が占領したビルマ南西部のアキャブ(現:シットウェ )の奪回を目指すとともに、特殊部隊「チンディット 」(いわゆるウィンゲート旅団)によりビルマ北部への進入作戦を試みた。しかしイギリス軍インド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。さらに日本側はイギリス軍の戦車、装甲車40両および自動車73両の捕獲に成功した。
日本軍の魚雷を受け沈むアメリカ海軍の「シカゴ」(1943年1月)
またこの年に入っても、オーストラリア北部への日本軍の空襲や機銃掃射 などの攻撃は優勢なまま継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を撃沈したほか、ダーウィン の燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を上げた。
さらに1月29日に日本海軍はソロモン諸島 のレンネル島沖海戦 で、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃 で打ち損ねたアメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ 」を撃沈するという大きな戦果を上げたが、2月に日本陸軍はオーストラリア上陸への足掛かりと考えていたガダルカナル島 から撤退(ケ号作戦 )した。半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍とオーストラリア軍とイギリス軍、アメリカ軍ら連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。
前年にラース・ビハーリー・ボース を指導者とするインド独立連盟 (英語版 ) が昭南で設立された。連盟の指揮下にはイギリス領マラヤ や昭南、香港などで捕虜になった英印軍 のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍 が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シン (英語版 ) と、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた。前年11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者を求めるようになった。
国内外に知られた独立運動家であり、ドイツにいたスバス・チャンドラ・ボース はまさにうってつけの人物であり、またビハーリー・ボースと共に行動していたインド独立連盟幹部のA.M.ナイル もボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。
インド洋上の伊号第二九潜水艦 乗員とスバス・チャンドラ・ボース(1943年4月)
その結果、日本とドイツを結ぶ空路よりは潜水艦 での移動の方が安全であると結論が出て、2月8日 に、チャンドラ・ボースと側近アディド・ハサン (英語版 ) の乗り込んだドイツ海軍 のUボート U180 はフランス 大西洋 岸のブレスト を出航した。その後大西洋を南下し、イギリス軍の海軍基地のある南アフリカの喜望峰 を大きく迂回し、4月26日にマダガスカル島 東南沖でU180と日本海軍 の伊号第二九潜水艦 が会合し、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ。5月6日 に伊号第二九潜水艦は、スマトラ島 北端に位置する海軍特別根拠地隊指揮下のウェー島 (サバン島)サバン 港に到着した。現地で1週間ほど休養を取った後に日本軍の航空機に乗り換え、5月16日に東京の羽田飛行場に到着した。
3月に「ラジオ・トウキョウ放送」で、連合国軍向けプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」が開始された。音楽 と語りを中心に、アメリカ人捕虜が連合国軍兵士 に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。英語 を話す女性アナウンサーは複数存在したが、いずれも本名が放送されることはなく愛称もつけられていなかった[345] 。放送を聴いていたアメリカ軍兵士たちは声の主に「東京ローズ 」の愛称を付け[345] 、その後太平洋前線 のアメリカ軍兵士らに評判となった。同様の放送「日の丸アワー 」も同年12月より行われた。
山本五十六大将(1943年4月)
アッツ島を守る日本軍(1943年5月)
4月7日から15日に、日本軍はガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行う「い号作戦 」を行った。この作戦は日本海軍の連合艦隊司令長官 の山本五十六 海軍大将 自ら指揮し、自らはわずかな損失で、アメリカ海軍の駆逐艦アーロン・ワードやオーストラリア海軍のコルベット艦、油槽船やオランダ商船ヴァン・ヘームスケルクなど4隻を沈めるなど完全に勝利し、航空機による船舶への攻撃が有効であることを証明した。
作戦の成功に満足した山本海軍大将[注釈 24] は、4月18日に「い号作戦」前線視察のため訪れていたブーゲンビル島 上空でアメリカ海軍情報局 による暗号解読 を受けたロッキード P-38 戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機 を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件 」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
この頃日本陸海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており(もちろん日本軍もアメリカ軍の暗号を傍受、解読していた)、アメリカ軍は日本陸海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。またアメリカ軍は、日系アメリカ人 二世や三世などをオーストラリアの連合国翻訳通訳局などで暗号の解読に従事させ、日本軍の暗号の解読や捕虜の尋問などに役立てた[346] 。
5月には北太平洋アリューシャン列島 のアッツ島 にアメリカ軍が上陸。日本軍に占領されたアメリカ領土を初奪還すべく、日本軍の5倍近い人員と強力な陸海軍で及んだアメリカ軍に対し、戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い )、大本営発表 で初めて「玉砕 」という言葉が用いられた。しかしアメリカ軍はこれ以上の南下をすると日本軍の強力な反撃が予想されるため、南下はしなかった。
ブリスベン 市内に設けられた防空壕
瀬戸内海 を行くイタリア海軍の「コマンダンテ・カッペリーニ」
前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、5月に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてノーザンテリトリー のみならず、西オーストラリア州 内の基地に対しても空襲が行われ大きな損害を与えた。北西オーストラリア各地の空軍基地が大きな損害を受けた結果、オーストラリア軍やイギリス軍、アメリカ軍などからなる連合国軍への後方支援を決定的に弱体化させる結果となった。
これ以前から昭南やペナン 、ジャカルタ に置かれた日本海軍基地を拠点に、ドイツ海軍の潜水艦や封鎖突破船 がインド洋において日本海軍との共同作戦を行っていたが、1943年3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ 」や「レジナルド・ジュリアーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。またイタリア海軍は、日本が占領下に置いた昭南に潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。8月には「ルイージ・トレッリ 」もこれに加わった。
しかし昭南到着直後の9月8日 にイタリアが連合国軍に降伏 したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年 5月8日 のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦 となった[347] )。なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国(サロ政権)成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋およびインド洋の警備にあたった。
なおイタリアの降伏後には、天津 のイタリア極東艦隊の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、海兵隊「サン・マルコ」との間で小規模な戦闘の後に降伏した。この後多くのイタリア極東艦隊の将兵はサロ政権側について以降も日本軍と行動を共にするものの、サロ政権につかなかったものは日本に送られ、名古屋の収容所に入れられた。なお天津のイタリア租界は汪兆銘政権 の管理下に置かれた。
第二次ベララベラ海戦 における日本軍の攻撃で大破したアメリカ海軍の「セルフリッジ(左)」と「オバノン」(1943年10月)
空襲下のラバウル島シンプソン湾(1943年11月)
南方のソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦 で日本海軍は軽巡洋艦神通を失うも、アメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を、アメリカ海軍駆逐艦グウィンを撃沈、軽巡洋艦ヘレナとホノルル、セントルイス、ブキャナン、ウッドワースとニュージーランド巡洋艦リアンダーを行動不能にさせた。また、10月にベララベラ島 沖で行われた第二次ベララベラ海戦 でもアメリカ海軍の駆逐艦1隻撃沈、同2隻を大破し連合軍に完勝する。
なおベラ湾夜戦では後のアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ がアメリカ海軍の魚雷艇 (PT-109) に乗船中、日本海軍の吹雪型駆逐艦天霧 に8月2日未明と遭遇し、衝突して真っ二つにされてしまう、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された[349] 。2名が戦死したものの、残り11名と共に近くの小島に漂着の後、1週間後に救助された。
ニューギニア島 でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から10月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるラバウル は孤立化し始める。しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。
一方、連合軍が依然として劣勢であったインド洋戦線では、イギリス海軍が引き揚げた後も、引き続き日本海軍やドイツ海軍の潜水艦による活発な通商破壊戦が行われ、年末までに27隻の連合軍側の商船が撃沈されている。これに対して枢軸国側の潜水艦の被害は皆無であった。さらに連合軍が劣勢であったビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、新たに10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍への攻撃を開始したが、これは小規模なもので日中両国に大きな影響を与えることはなかった。また中国戦線ではアメリカ軍も加わり11月から常徳殲滅作戦 が行われた。
大東亜会議 に参加した各国首脳。左からバー・モウ 、張景恵 、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン 、ホセ・ラウレル 、スバス・チャンドラ・ボース(1943年11月)
外相重光葵 の提案を元に、11月に日本の首相東條英機 は、満洲国、タイ王国 、フィリピン、ビルマ 、自由インド仮政府 、中華民国南京国民政府 などの首脳を東京に集めて大東亜会議 を開き、イギリスやアメリカ、オランダ などの白人 国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章 」に対抗して「大東亜共同宣言 」を採択し、大東亜共栄圏 の結束を誇示する。
なおこれに先立つ10月には、先にドイツから潜水艦で到着後インド独立連盟を引き継ぎ、イギリスからの独立運動を昭南を中心に行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となった自由インド仮政府 が設立され、ボースは同時に英領マラヤ、昭南や香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍 」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。
一方、初戦の敗退を何とか乗り越え戦力を整えた連合国軍は、この11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサー が企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、11月にはギルバート諸島 のマキンの戦い 、タラワの戦い でオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が敗北、同島はアメリカ軍に占領された。また同月から12月にブーゲンビル島 で行われた一連の戦い(ろ号作戦 、ブーゲンビル島沖海戦 、ブーゲンビル島沖航空戦 )では日本軍は敗北したに見えたが、ブーゲンビル島を巡る戦いは均衡したまま1945年8月の終戦まで続いた。
大量な空母と艦上機を日本海軍との2年間の戦いで失ったアメリカ海軍は、前年から本格的に就役したエセックス級航空母艦 の引き渡しが矢継ぎ早に進み、この後23隻が1946年までに引き渡された。またインディペンデンス級航空母艦 の他にも、サンガモン級航空母艦 やカサブランカ級航空母艦 などの50隻に上る護衛空母 の就役も始まった。また新鋭機のグラマン F6F やチャンス・ヴォート F4U の引き渡しもようやく1943年に始まり、これらの空母に搭載され、太平洋や大西洋の各戦地に送られた。
また11月には、去年の2月から2年近くもの間連続して行われた日本軍のオーストラリア空襲が終わりを告げるなど、ようやく態勢を立て直したイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドからなる連合軍と、アメリカ本土からオーストラリア、インド洋から東アフリカ沿岸まで、戦線を延ばし過ぎて兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じながら、事実上1国で戦わなければいけなかった日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は開戦後2年を経てついに後退を余儀なくされていく。
1944年
ビルマにて日本軍を攻撃するイギリス空軍のホーカー・ハリケーン(1944年)
洛陽 を進軍する日本軍の機甲部隊(1944年5月)
ビルマ 方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。イギリス軍は前年の第一次アキャブ作戦 の惨敗を分析して、大量の輸送機 を活用した新戦術を編み出し、アメリカからのレンドリース によって着々と準備を整えたが、一方で日本軍はこの勝利に慢心して、イギリス軍を侮るようになったうえ、大量の物資を鹵獲したことによって「チャーチル給与」などと称し、作戦計画で安易に敵からの鹵獲品をあてにするようになってしまった[352] 。イギリス軍は新戦術の成果を試す意味もあって、東アフリカ戦線 (英語版 ) のゲリラ 戦で活躍したオード・ウィンゲート に特殊部隊チンディット を与えて、北ビルマで空輸を糧として日本軍の後方を攪乱させて一定の成果を得た。これにより今まで安全地域と思われていた北ビルマに緊張が走り、日本軍はその防衛強化を迫られることとなった[353] 。第15軍 の司令官牟田口廉也 中将は、防衛に徹するよりはむしろ積極的な攻勢でインド領内の重要拠点インパール を攻略し、イギリス軍の機先を制して北ビルマの安全を確保するといった攻撃防御 的な作戦を考えた。さらにインド領内深くまで侵攻し、インド独立運動家スバス・チャンドラ・ボース 率いるインド国民軍 とも連携して、イギリスのインド支配を動揺させて、連合軍から脱落させるという壮大な構想も抱いた[354] 。この構想は、太平洋正面の戦況悪化に悩む東条英機 陸相(首相兼任)にも期待され、緬甸方面軍 司令官河辺正三 大将にも支持された[355] 。
しかし、北ビルマとインド国境には険しいアラカン山脈 があり、これを超えての大規模な進攻作戦は主に補給 や兵站 の面で困難なものと思われた。牟田口の作戦計画はその困難に対して十分な対策を講じていない強引なものであったが、インド進攻に期待している軍中央の方針もあって[356] 、次第に反対意見が封じられていき、補給や兵站の問題の解決策がないままで牟田口の強引な作戦計画が決定された[357] 。そんな中でイギリス軍の反攻も開始されており、チンディットによる日本軍背後への空挺降下作戦や、アキャブへの再侵攻に対して緬甸方面軍は対応に迫られた。アキャブへの再侵攻に対しては、前年の第一次アキャブ作戦の際と同様に、日本軍は侵攻してきたイギリス軍を包囲して殲滅しようとしたが、イギリス軍が編み出していた新戦術「アドミン・ボックス(管理箱)」と呼ばれた密集陣を前に敗北を喫した(第二次アキャブ作戦 )[358] 。この戦術は、日本軍の包囲によってイギリス軍部隊が孤立しても、豊富な輸送機で補給物資を空輸し続けて防御を固めて、攻撃してくる日本軍を消耗させるというものであった。この戦いでこれまでイギリス軍に対しては常勝であった日本軍が初めて敗北を喫し、ビルマでの戦局逆転のきっかけともなった[359] 。
1944年3月8日に開始されたインパール作戦 は、作戦当初は隷下の3個師団の奮闘もあり、チンドウィン川 を奇襲渡河成功、ほぼ人力で軍需物資を輸送しながら途中の軍事拠点を攻略し、4月6日には第31師団 (烈)が要衝コヒマ を占領、インパールの孤立化に成功し、ビルマ戦線の最重要補給拠点ディマプル を脅かした[360] 。日本軍の進撃速度はイギリス軍の予想を遥かに上回るもので、ディマプルはほぼ無防備であり、牟田口はディマプルの攻略とインドアッサム州 への進撃を命じた。しかしこの命令は当初の作戦計画を逸脱するもので、軍の規律を重視する河辺から取り消された[361] 。戦後のイギリス軍による分析では、ディマプルが攻略されればビルマ方面の連合軍の補給が困難になるばかりではなく、大量の戦略物資を奪取できた日本軍にとっての唯一のチャンスであり、日本軍は組織の硬直性と消極性で最大のチャンスを逃してしまったと批判されている[362] 。
日本軍の攻勢はここまでで、イギリス軍は大量の輸送機をもって孤立したインパールに大量の物資を送り続け、インパールとその周辺の防備は強化される一方で第15軍の進撃は完全に停滞してしまった。牟田口の「3週間以内にインパールを攻略する」という方針もあって[363] 、第15軍は食料を3週間分しか携行していなかったうえ、厳しいアラカン山脈に阻まれて前線に殆ど補給品を届けることができず、第15軍では飢餓が始まっていた。やがて5月に入って雨季が始まると、飢餓に加えて感染症 が蔓延して、大量の傷病者を抱えて戦闘力が著しく低下した[364] 。牟田口や河辺は4月末には作戦の失敗を認識していたが、作戦中止を決断することができず、その間第15軍兵士に餓死者病死者が増え続けた。決断できない軍司令部に業を煮やした第31師団 (烈)長佐藤幸徳 中将が、日本陸軍始まって以来初めての師団長による独断撤退を開始した。牟田口と河辺は反抗的な佐藤に加えて、指揮力不足を名目に他の2人の師団長も更迭し、これも日本陸軍始まって以来の作戦途中の全師団長更迭という珍事となった[365] 。さすがにここで牟田口も作戦失敗を認識し、大本営の決裁を受けて7月12日に緬甸方面軍から作戦中止命令が出された。その後の撤退も凄惨を極め、多くの兵士が飢餓や病気で命を落とし、第15軍が撤退した道は「白骨街道」と呼ばれることとなり、作戦全体の死者は約30,000人にもなった[366] 。
インパール作戦の失敗によってビルマ戦線の戦局は完全に逆転した。イギリス軍の追撃に加えて、アメリカ軍とアメリカ軍式装備の中国軍も拉孟・騰越の戦い で日本軍守備隊を撃破するとビルマ領内に侵攻し、ビルマ戦線は崩壊の一途を辿っていく。日本軍はイラワジ会戦 でもイギリス軍に敗北を喫すると、翌1945年 (昭和20年)3月には、アウン・サン 将軍率いるビルマ国民軍 が連合軍側へと離反し、日本はビルマを失陥することとなった。なお、当作戦を始め、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよび、中国大陸、フィリピン に次ぐ3番目に戦死者が多かった戦場となっている[9] 。一方で連合軍全体での人的損害(戦病を除く)も207,203人以上という甚大なものとなった。しかし、もっとも大きな損害を被ったのは戦場となったビルマ国民であり、その犠牲者は最大で1,000,000人に達したとの推計もある。
3月30日には北樺太に関する条約 の締結により日本の樺太 オハ油田 の権利がソ連に譲渡され、燃料廠 は燃料源の一つを失った。さらに第101燃料廠によるニューギニア島 西部のクラモノ油田開発は北樺太石油南進隊 の技術者たちがビアク島の戦い に巻き込まれて多くが死亡し撤退を余儀なくされた[注釈 25] 。
しかし日本軍は5月頃、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊 などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で、日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦を開始し、ここに日本陸軍の建軍以来最大の攻勢である「大陸打通作戦 」が開始された。
作戦自体は、京漢鉄道の黄河鉄橋の修復を1943年末に開始し、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通させるなど、周到な準備が行われていた。対する河南 の中華民国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたため、現地住民の支持を得ることができなかった。これが中華民国軍の敗北の大きな一因になったといわれる[368] 。蔣鼎文 によるとほとんど一揆のような状態だったという。
仏領インドシナのサイゴン市内を移動する日本陸軍
日本陸軍の攻撃を受けて、4月にアメリカ軍は最新鋭爆撃機である出来たばかりのボーイング B-29 の基地を成都 まで後退させている。また長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の中華民国軍とアメリカ軍の共同飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり連合国軍は撤退していた。日本軍は、中華民国軍とアメリカ軍を12月まで相手に、計画通りに連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、結果として日本軍の最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。連合国軍は航空基地をさらに内陸部に撤退せざるを余儀なくされた。
ルーズベルトは中華民国の蔣介石 を開戦以来一貫して強く信頼しかつ支持していた。カイロ会談 の際に、蔣介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、大陸打通作戦作戦により蔣介石の戦線が総崩れになったことでその考え方を改めたという。実際、これ以降蔣介石が連合国の重要会議(「ヤルタ会談 」と「ポツダム会談 」)に招かれることはなくなった。
5月17日に、イギリス海軍とアメリカ海軍の合同機動部隊は、ジャワ島 スラバヤ の日本軍基地へ航空攻撃を開始し(「トランサム作戦 」)、日本軍の航空機や艦船、陸上施設に打撃を与えることに成功した。これは極東でのイギリス海軍航空隊による最初の大規模な反撃で、以降アメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も日本に対して反撃に転じることになる。また6月にポルトガルのアントニオ・サラザール 首相は、日本に対しティモール島 からの日本軍撤退を正式に要請した。しかし日本軍は即座に撤退は行わず、日本軍が撤退したのは日本の敗戦後であった。
日本の陸海軍、緒戦の予想以上の勝利で延び切った補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあったため、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である「絶対国防圏 」を昨年9月に御前会議 で設けた。
マリアナ沖海戦 にて、攻撃を受ける日本の空母の瑞鶴 および2隻の駆逐艦 (1944年6月)
しかし6月に、早くも絶対国防圏の最重要地点マリアナ諸島 にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦 が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。旗艦大鳳 以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。これらの島では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島 、テニアン島 、グアム島 に次々に上陸。7月 、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦 ではそれらを中心とした艦隊が編成される。
また6月に、中華民国の成都より九州 の官営八幡製鐵所 を主目的としてアメリカ軍の新型爆撃機であるボーイングB-29 による日本初空襲が実施された。この空襲の主な目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。その上6機が撃墜されている。しかしこのB-29による日本本土初空襲が両国に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側はその出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対して面目を失うこととなった。一方、アメリカでは本格的な日本本土初空襲成功の知らせは、素晴らしいニュースとして大々的に報じられ、ニュースが読み上げられてる間は国会の議事は停止されたほどであった。しかしその後の中華民国からの爆撃は九州を標的とした小規模なものとなり、本格的な本土空襲は11月にサイパン島とテニアンの基地が出来るのを待つこととなる。
戦況悪化とともに憲兵 を使い独裁・強権的な政治を行う東條英機 首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、中野正剛 などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。サイパン島が陥落した7月に、岸信介 国務大臣 兼軍需次官(開戦時は商工大臣 )が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。これに対し、東條英機は岸信介に「ならば辞職せよ」と辞職を迫った。ところが、岸信介は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。
小磯内閣 の閣僚(1944年7月22日)
さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞 の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王 黙認の暗殺計画もあったといわれている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、7月22日に東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭 陸軍大将と米内光政 海軍大臣を首班とする内閣が発足した。しかしながら、憲兵隊を配下にもち陸軍最大の権力者でもある東條英機が内閣総辞職をして、次の内閣の背後に回ったため、その後の内閣も陸海軍の意向で大東亜戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸信介が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら大っぴらには検討しにくいという状態が続く[369] 。
ヨーロッパでは連合国軍がフランスに再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍がフランスの大半を奪還したことで、同年8月25日 にヴィシー政権が事実上消滅した。これに対して日本政府は「フランス領インドシナ政府はすでに本国に政府が存在しない」という見解を採り、新たな正統政府に対応を一任する考えを明らかにした。これを受けて9月14日の最高戦争指導会議 では「フランス領インドシナ政府が日本に対して離反・反抗する場合には、武力処理を行う」ことを定めた「情勢の変化に応ずる対仏印措置に関する件」が決定されたが、これは原則として現状を維持するものであった。
サイパンのイズリー飛行場で日本軍機の空襲により地上撃破されたボーイングB-29の残骸
8月にはアメリカ軍は占領したテニアン島とサイパン島の日本軍の基地の改修を解消し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。これにより、日本の東北地方 北部と北海道 を除く、ほぼ全土がアメリカ空軍の最新鋭爆撃機であるボーイングB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。実際に11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったボーイングB-29が初めて首都圏 を爆撃、東京の中島飛行機 武蔵野 製作所を爆撃した。しかし日本軍もサイパン島から撤退したもののサイパン島のアメリカ軍基地への奇襲攻撃を続け、大きな被害を出し続け、アメリカ軍は基地増設に4か月かかってしまう。その分本土空襲が本格化するのも1945年初頭になってしまう。また、この頃には既に戦争終結と戦後処理に向けた連合国の会合「ダンバートン・オークス会議 」がアメリカ・ワシントンDCで行われていた。
部下を従えてレイテ島に上陸するマッカーサー(1944年10月)
太平洋方面ではマッカーサー率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍 (英語版 ) (SWPA)と、チェスター・ニミッツ 提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊 主力の連合国太平洋軍 (英語版 ) (POA)が二方面から日本本土に迫っていたが[372] 、マリアナをニミッツが攻略したことにより、日本軍が大兵力を構えるフィリピン攻略の戦略的な優先度が低下し、フィリピンは迂回して海と空から封鎖するだけで十分という主張が連合軍内で有力となった。大戦初期の敗北の汚名を返上し、フィリピン人への「I shall return」の約束を果たすことに只ならぬ拘りを見せるマッカーサーは、ハワイで開催された大統領ルーズベルトを招いての会議で、ルーズベルトやニミッツを説き伏せてフィリピン奪還を決めてしまった。
マッカーサーは政治力を発揮して、大兵力を構える日本軍に対抗してそれを遥かに上回る大兵力を準備した。その中には、ヨーロッパ戦線への増援に予定されていた戦力も多く含まれており、結果的に増援が減って戦力の補充が不十分であったヨーロッパ戦線の連合軍の隙をついて[375] 、ドイツ軍最後の反攻となるバルジの戦いが発生することとなった。マッカーサーはフィリピン攻略の足掛かりを日本軍の戦力が少ないレイテ島 と決定し、その事前準備として、アメリカ海軍の機動部隊が徹底的に沖縄からフィリピンに至るまでの日本軍拠点を叩いた。沖縄の十・十空襲 で大損害を被った日本軍は、台湾沖に来襲したアメリカ軍機動部隊に対して台湾やフィリピンの航空戦力を集中して反撃を行い、空母11隻を含む30隻を撃沈したなどと大勝利を報じこの海戦を「台湾沖航空戦 」と呼称したが、実際は巡洋艦2隻を撃破したに過ぎず、逆に400機の航空機を失った[377] 。
やがてマッカーサーは700隻の艦艇に分乗した174,000名の兵員を率いてレイテ島近海に現れた。台湾沖航空戦の過大戦果報告は日本海軍の一部では認識されていたが大本営では共有されず、大損害を被った連合軍相手にレイテ島で決戦を挑むという捷一号作戦 を発令し、日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、小沢治三郎 中将が率いてアメリカ軍機動部隊をひきつける囮に使い(小沢艦隊)、その間に栗田健男 中将が戦艦大和 、武蔵 を主力とする戦艦部隊を率いて(栗田艦隊)、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。日本陸軍も第4航空軍 (司令官富永恭次 中将)が航空支援を行うといった[378] 、日本陸海軍挙げての一大作戦となった。
日本海軍は残存した艦隊のほぼ全ての戦力をレイテ島に向けて投入し、それを迎え撃つアメリカ海軍との間で史上最大規模の海戦を繰り広げた[380] 。これはフィリピン沖約50万㎡の海域で、空母や戦艦といった主要艦艇から、潜水艦や魚雷艇から航空機に至るまで、あらゆる海軍戦力がつぎ込まれた太平洋戦線の集大成のような戦いとなった[381] 。小沢艦隊は囮作戦に成功し、壊滅状態になりながらもウィリアム・ハルゼー・ジュニア 提督率いるアメリカ軍機動部隊を北方に釣り上げて、レイテ島付近を手薄にしたが、艦隊間の連携の不足や判断ミスによりこのチャンスを活かすことができず、西村祥治 中将の旧式戦艦隊はトーマス・C・キンケイド 中将の水上艦隊に撃滅され、絶え間ない空襲で武蔵を失うなど大損害を被りながらもレイテ湾直前まで達した栗田艦隊は、サマール島沖でクリフトン・スプレイグ 少将の護衛空母 艦隊と交戦し[383] 、少なくない損害を被ると、レイテ湾突入を諦めて引き返し、作戦は失敗に終わった。このレイテ沖海戦 で日本海軍は実に空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻を含む33隻の艦艇を失い組織的な戦闘力を喪失してしまった。それに対してアメリカ海軍は空母3隻を含む8隻の損失であった[384] 。
沈みつつある戦艦武蔵、駆逐艦磯風 から撮影(1944年10月)
この戦いにおいて初めて、基地航空隊司令官大西瀧治郎 中将によって神風特別攻撃隊 が組織され、アメリカ海軍の護衛空母 セント・ロー を撃沈、他数隻に深刻な損害を与える大戦果を挙げた。特攻はその後に万朶隊 が出撃して、陸軍航空隊も加わった。フィリピン戦において、日本陸海軍は特攻機650機を出撃させたが[386] 、連合軍艦船22隻を撃沈、110隻を撃破した。これは日本軍の通常攻撃を含めた航空部隊による全戦果のなかで、沈没艦で67%、撃破艦では81%を占めていたが[387] 、特攻機650機はフィリピンにおける全損失機数約4,000機の14%に過ぎず、相対的に少ない戦力の消耗で、きわめて大きな成果をあげたことは明白であったとアメリカ軍から評価された[388] 。この特攻の大損害に懲りた連合軍は特攻対策を加速させるが、日本軍も特攻戦術を向上させ、硫黄島や沖縄でより規模を拡大した特攻機対連合軍艦隊の激戦が繰り広げられることになる[389] 。
栗田艦隊のUターンで命拾いしたマッカーサーであったが、レイテ島の戦いは困難を極めた。日本陸軍の富永恭次 中将率いる第4航空軍 が連合艦隊の突入に呼応して、日本陸軍としては太平洋戦争最大規模の積極的な航空作戦を行っていたが[390] 。アメリカ軍はレイテ島上陸直後に占領したタクロバン飛行場 の整備に手間取っており、そこに富永は攻撃を集中した[391] 。爆装した戦闘機による飛行場への夜襲で、一度で「P-38 」が27機も地上で撃破されたり、100人以上のパイロットが死傷したり、毎夜のように弾薬集積所や燃料タンクが爆発するなど、飛行場機能に大打撃を与えた他[392] 、揚陸したばかりの約4,000トンの燃料・弾薬を爆砕して、上陸したアメリカ軍の補給線を脅かし[393] 、日本艦隊撃破の立役者のキンケイドが「敵航空兵力は驚くほど早く立ち直っており、上陸拠点に対する航空攻撃は事実上歯止めがきかず、陸軍の命運を握る補給線を締め上げる危険がある」と考えて、マッカーサーに、この後に予定されていたルソン島上陸作戦 を、「戦史上めったに類を見ない大惨事を招きかねません」と作戦中止を求めたほどであった[394] 。
更に富永はクロバン飛行場近隣にあるマッカーサーの司令部兼居宅やウォルター・クルーガー 中将の司令部も執拗に攻撃し、連合軍司令部を一挙に爆砕する好機に恵まれ、実際に司令部至近の建物ではアメリカ軍従軍記者 2名と、フィリピン人の使用人12名が爆撃で死亡し、司令部の建物も爆弾や機銃掃射で穴だらけになるなど、あと一歩のところまで迫っていたが、結局その好機を活かすことはできなかった[396] 。マッカーサーは後にこのときの苦境を「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と振り返っている。
その後、日本軍は多号作戦 により、レイテ島に第26師団 や第1師団 などの増援を送り込み、連合軍に決戦を挑んだ。富永は積極的に輸送艦隊を護衛し、作戦初期の輸送作戦成功に貢献した。マッカーサーは当初の分析よりも遥かに多い日本軍の戦力に苦戦を強いられることとなり、ルソン島 への上陸計画を延期して予備兵力をレイテに投入せざるを得なくなったが[398] 、第4航空軍も積極的な航空作戦による消耗に戦力補充が追い付かず、戦力が増強される一方の連合軍に対抗できなくなると、制空権を奪われた日本軍は多号作戦の輸送艦が次々と撃沈され、レイテ島は孤立していった。そして、マッカーサーはレイテ島を一気に攻略すべく、多号作戦の日本軍の揚陸港になっていたオルモック湾 への上陸作戦を命じた。オルモック湾内のデポジト 付近の海岸に上陸したアメリカ陸軍第77歩兵師団はオルモック市街に向けて前進を開始した。背後に上陸され虚を突かれた形となった日本軍であったが、体勢を立て直すと激しく抵抗し、第77歩兵師団は上陸後の25日間で死傷者2,226名を出すなど苦戦を強いられたが、この上陸作戦でレイテ島の戦いの大勢は決した[399] 。レイテ島に取り残された日本兵の多くは飢えや病気で倒れ、約70,000人の投入戦力のうち生存できたのはわずか5,000人で、14人に1人しか生還できなかった[400] 。
ネバダ州 ニクソンで発見された風船爆弾
アメリカやイギリスでの10,000メートル上空を飛ぶ大型戦略爆撃機 の開発と、それを打ち落とすことのできる高度攻撃機の開発に遅れていた日本は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流 を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾 を開発。11月3日からアメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害はオレゴン州市民6名の死亡と、ネバダ州 やカリフォルニア州の数か所に山火事を起こす程度であった。
ただし風船爆弾による心理的効果は大きく、アメリカ陸軍は風船爆弾が生物兵器 を搭載することを危惧し[401] (特にペスト菌 が積まれていた場合の国内の恐慌を考慮していた[402] )、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用した。
また、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。アメリカ政府は厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽した[401] 。
また日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四百型潜水艦 」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河 を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐 」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。
なお、1942年に国防保安法 、治安維持法 違反などで死刑の判決を受けたソ連のスパイのリヒャルト・ゾルゲ は、11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所 にて死刑が執行された[403] 。
1945年
マニラを占拠したアメリカ軍(1945年2月)
1月にアメリカ軍はルソン島 に上陸した(ルソン島の戦い )。2月から3月にかけてフィリピン最大の都市であるマニラ を奪回する戦いが日本軍との間で行われた(マニラの戦い )[404] 。
マニラの戦いでは市民をも巻き込んだ市街戦となり、10万人以上が死傷した。また日本軍とアメリカ軍との戦闘に巻き込まれた同盟国のドイツ人神父など数十人、中立国人のスペイン人200人以上、スイス人10名が死亡し、旧市街のドイツやスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けた[405] 。この時はアメリカ軍による被害も多かったにもかかわらず、「この際の日本による対応に抗議する」という名目(実際は日本とドイツの敗北を見越した乗り換え)で、4月12日にスペインは日本と断交し(ただし、元々スペインは太平洋方面に関しては中立的姿勢であり、日本に対してそれほど協力的というわけではなかった)、中立国のスイスも一時は日本に対して強硬な態度に変わった。
日本は南方の要所であるフィリピンの大半を失い、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島 、インドシナなどの南方から日本本土への資源および食糧輸送の安全確保はより困難となった。実際日本本土では、この頃より急激に食料の流通が厳しくなっていく。
フィリピンの戦いの最中の2月4日から始まったソ連のリゾート地のヤルタで行われた「ヤルタ会議 」は、主に対独戦についてスターリンとチャーチル、ルーズベルトの3か国の連合国首脳により東欧 諸国の戦後処理が取り決められた。併せて、アメリカとソ連の間で「ヤルタ秘密協定」を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦 、および千島列島 ・樺太 ・朝鮮半島 ・台湾 などの日本領土の処遇も決定した。協定内容は次の通り[406] 。
ソ連、アメリカ、イギリスの三大国指導者はドイツが降伏し、かつ欧州戦争が終結した後2か月または3か月を経てソ連がつぎの条件により連合国に味方して対日戦争に参加すべきことを協定した。
外蒙古(蒙古人民共和国 )の現状は維持されること。
1904年 の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利はつぎの通りに回復されること。
樺太 の南部及びこれに隣接する一切の島嶼はソ連に返還されること。
大連 商港におけるソ連の優先的利益を擁護し同港を国際化すること。またソ連の海軍基地として、旅順口 の租借 権を回復すること。
東清鉄道 及び大連に出口を供与する南満洲鉄道 はソ中合弁会社の設立によって共同で運営されること。ただしソ連の優先的利益は保障され、また中華民国は満洲 における完全なる主権を保有するものとする。
千島列島 はソ連に引き渡されること。
前記の外蒙古ならびに港湾及び鉄道に関する協定は蔣介石 総帥の同意を要するものとする。アメリカ大統領はスターリン元帥からの通知があれば右同意を得るための措置を執るものとする。三大国の首班はソ連の右要求が日本国の敗北した後において確実に満足させられるものであることを協定した。
ソ連は中華民国を日本国の
羈絆 ( きはん ) から解放する目的をもって軍隊によりこれに援助を与えるためソ中同盟条約を中華民国国民政府と締結する用意があることを表明する。
しかし、日本の政府と軍はヤルタで連合国が首脳会議をすることは知っていたが、中立条約を結んでいるソ連がここで裏切るとは誰も思わなかった[407] 。
明号作戦で日本軍に降伏するフランス軍(1945年3月)
フランス領インドシナ においては、日本陸軍は1940年以来ヴィシー政権 との協定の下に駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放によるヴィシー政権崩壊と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、駐屯していた日本軍は3月9日 、「明号作戦 」を発動して戦闘を開始。連合国軍の支援を受けられなかったフランス植民地政府および駐留フランス軍はすぐさま降伏し、日本はバオ・ダイ を皇帝に3月11日 にインドシナを独立させた。
東京大空襲 後の牛込市ヶ谷附近(3月11日)
前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29 爆撃機による小規模な日本本土空襲 が行われていたが、この年に入り本格化していた。またそれまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ 少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間無差別爆撃 で焼夷弾 攻撃が行われるようになった。3月10日 未明、これまで一度も本格的な空襲を受けなかった台東区 や新宿区 、江戸川区 など、東京の市街地を狙った東京大空襲 によって、一夜にして10万人もの市民を虐殺し、文化的な物も失われた。約100万人が家を失った。
硫黄島の戦闘の様子(1945年3月)
アメリカ軍は日本本土空襲の拠点であったマリアナ諸島があまりにも遠く、戦闘機の護衛が不可能なことや、故障や損傷したB-29の不時着自基地が必要なことから、マリアナと東京の中間にある硫黄島 に飛行場を設営するため攻略を決定した。日本軍も硫黄島の重要性は認識しており、硫黄島守備隊 の戦力増強を図ると共に、司令官には知米派の栗林忠道 中将を任じた。栗林は前年のペリリューの戦い の戦訓も参考にして、自ら陣頭に立って硫黄島に地下要塞を構築した。そして安易なバンザイ突撃 を厳禁、「我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」「我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン」という栗林自ら作成した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、要塞化した硫黄島で徹底した持久戦を将兵に命じた。
硫黄島の要塞化はアメリカ軍も航空偵察で認識しており、激しい空襲により工事の妨害をしながらも、チェスター・ニミッツ 元帥や第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス 中将が、損害を減らすために毒ガスの使用の許可を求めたほどであった。結局毒ガス使用は許可されず、スプルーアンスは作戦の先行きに不安を感じながらも作戦を進めざるを得なかった。アメリカ軍は入念な爆撃と艦砲射撃を加えたのちに硫黄島に上陸してきたが、要塞に籠っていた日本軍は殆ど損害を受けておらず、逆に上陸してきたアメリカ海兵隊 に猛攻を浴びせ大損害を与えた。作戦初日にアメリカ軍は2,400人が死傷したが、これはノルマンディ上陸作戦最大の激戦区であったオマハビーチで被った損害を、人数でも死傷率でも上回るものであった。日本軍は硫黄島を空から支援するため、神風特別攻撃隊「第2御盾隊」を出撃させた。32機と少数であったが、護衛空母ビスマーク・シー を撃沈、正規空母サラトガ に5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) (英語版 ) など数隻を損傷させる戦果を挙げた。特攻によるアメリカ軍の被害は硫黄島からも目視でき、守備隊を勇気づけている[416] 。
その後も摺鉢山 や元山飛行場を巡っての激戦などで、日本軍はアメリカ軍に大量の出血を強いて、あまりの甚大な損害にアメリカ国内の世論が沸騰し、苦戦を続けるアメリカ海軍や海兵隊に批判が殺到した[417] 。当初5日で攻略予定であったアメリカ軍を1か月以上も足止めした栗林は、3月26日に残存兵約400人とともにアメリカ軍に夜襲を敢行して戦死した。日本軍は21,000人の守備隊のうち20,000人が戦死したが、アメリカ軍は28,000人が死傷し人的損失はアメリカ軍が上回った[419] 。甚大な損害を被ったこの戦いについて、アメリカ側の軍事的な評価は厳しいものとなり、政治学者五百籏頭真 は戦後にアメリカの公文書を調査していた際に、硫黄島の戦いとこの後の沖縄戦 については、アメリカの方が敗者意識を持っている事に驚いている。
甚大な損害を被りながらも攻略した硫黄島の戦略的価値は非常に高く、まだ日本アメリカ両軍が戦闘中であった1945年3月4日に最初のB-29が硫黄島に緊急着陸すると、その後も終戦までに延べ2,251機のB-29が硫黄島に緊急着陸し、約25,000人の搭乗員を救うことになった。また、P-51D を主力とする第7戦闘機集団が硫黄島に進出し、B-29の護衛についたり、日本軍飛行場を襲撃したりしたため、日本軍戦闘機によるB-29の迎撃は大きな制約を受けることとなった。一方で日本軍は、マリアナ諸島への攻撃の前進基地だけでなく、日本本土空襲への防空監視拠点をも失うこととなって、いよいよ戦局の悪化に歯止めがかからなくなっていった。
慶良間諸島に上陸中のアメリカ軍(3月26日)
3月26日に沖縄の慶良間諸島 にアメリカ軍が上陸し、さらにアメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は4月1日に沖縄本島 に上陸して沖縄戦 が勃発、凄惨な地上戦となる。沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・大和 も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。残るはわずかな戦艦と十数隻の空母、巡洋艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、空母や戦艦などの主要船艇を本土決戦のために保管する。ここに日本海軍連合艦隊は事実上その外洋戦闘能力を喪失した。
アメリカ海軍の戦艦ミズーリに突入直前の零式艦上戦闘機(石野節雄二飛曹搭乗)(1945年4月)
特攻機の命中で艦載機が炎上するイギリス海軍空母「フォーミダブル 」(1945年4月)
大和の海上特攻作戦と並行して日本軍は大規模航空特攻作戦となる菊水作戦 を開始、連合軍はフィリピンでの特攻による大損害に懲りて様々な特攻対策を講じていたが、連日押し寄せる大量の特攻機に対して損害を被り続けた。作戦初日の4月6日には、駆逐艦コルホーン と僚艦の駆逐艦ブッシュ が40機の特攻機に集中攻撃を受けて、駆逐艦隊司令官と艦長と共に2隻ともたちまち沈没[423] 、また、重砲の大口径砲弾7,600トンを満載した弾薬輸送艦2隻も撃沈され、 上陸部隊が一時的に大口径重砲の弾薬不足に陥った[424] 。5月11日には戦後に遺書「所感」が書籍「きけ わだつみのこえ 」で有名となった上原良司 少尉を含む約100機の特攻機が出撃、正規空母バンカー・ヒル に再起不能の損害を与えるなど多数の艦を大破させ、アメリカ兵877名という特攻によって1日で被った最多の人的損害を与えた[425] 。
アメリカ海軍は特攻からの損害を少しでも軽減するため、海軍作戦部長 の アーネスト・キング がルメイに対して「陸軍航空隊が海軍を支援しなければ、海軍は沖縄から撤退する。陸軍は自分らで防御と補給をすることになる」と脅迫し[426] 、ルメイは渋々B-29を戦術爆撃任務に回すこととしている[427] 。海軍に泣きつかれたルメイは、4月上旬から約1か月半の間、延べ2,000機のB-29を特攻の発進基地となっていた九州の飛行場の攻撃に投入し、その間日本内地の大都市は空襲の被害が軽減されることとなった[428] 。大都市への空襲を取りやめてまで行った特攻機対策であったが、日本軍が巧みに特攻機を隠匿したため、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。B-29の働きに失望した第5艦隊 司令レイモンド・スプルーアンス 中将は「彼ら(陸軍航空軍)は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げて、B-29は大都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[429] 。
アメリカ海軍は沖縄戦で艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名という、甚大な損害を被ったが、その大部分は1,895機も投入された航空特攻による損害で、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている。アメリカ軍も公式報告書で「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」と総括している。航空特攻は終戦まで続けられて、陸海軍で2,550機が出撃し[433] 、3,948人が戦死したが[434] 、連合軍の艦船55隻を撃沈、25隻を廃艦に追い込み、320隻以上を損傷させ[435] [436] [437] [438] 、戦死者8,064人負傷者10,708人の合計18,772人という甚大な人的損害を与えた[439] 。戦後に進駐してきた米国戦略爆撃調査団 は特攻を徹底的に調査して「日本人によって開発された唯一の最も効果的な航空兵器は特攻機で、戦争末期の数ヶ月間に、日本陸軍と日本海軍の航空隊が連合軍艦船にたいして広範囲に使用した」と評価した[440] 。
鈴木貫太郎内閣 (4月7日 )
沖縄への連合国軍の上陸を許すなど、戦況悪化の責任をとり4月7日に辞職した小磯國昭 の後継に、近衛文麿 や岡田啓介 らは鈴木貫太郎 を首相に推したが、先にサイパンを失った責任を取り首相を辞任した東條は、「陸軍が本土防衛の主体である」との理由で元帥 陸軍大将 の畑俊六 を推薦し、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った。これに対して岡田が「陛下 のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條をたしなめ、東條は反論できずに黙ってしまった。こうして鈴木を後継首班にすることが決定された。
鈴木の就任後、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルト が亡くなり訃報を知ると、同盟通信社 の短波放送により深い哀悼の意をアメリカに送った。同じ頃、ドイツのアドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マン が鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスBBC で「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本には、なお騎士道 精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた。
岡山空襲(1945年5月)
4月30日にドイツの国家元首であるヒトラーが自殺 した。日本政府は、ラジオでヒトラーの死を伝えるとともに、同時にデーニッツ が国家元首の座に就いたことと、東郷茂徳 外務大臣 が「ドイツは三国同盟に違反した」ことを述べるにとどまった。さらに新しい外務大臣のルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク より、駐日ドイツ大使館 に対して、海軍の通信経由で「ドイツ政府が同盟国としての義務を果たせなくなったことに対して残念なことと、連合国と停戦に向けて交渉を行っている」ことを日本政府に外交文書で伝えるように依頼したが、東郷外務大臣は受け取ることを拒否した。
負傷兵を後送するアメリカ軍看護兵(1945年5月)
特攻機が2機命中して甚大な損害を被ったアメリカ軍空母バンカー・ヒル (1945年5月)
義烈空挺隊が使用しアメリカ軍占領下の北飛行場(読谷飛行場)に強行着陸した九七式重爆撃機 改造輸送機(1945年5月)
沖縄本島上では、第32軍司令官牛島満 中将が全幅の信頼を置いていた高級参謀八原博通 大佐の指揮のもと、沖縄の地形特性を最大限活用した強固な地下陣地による徹底した持久戦が戦われており[448] 、上陸した連合軍に多大な出血を強いていた[449] 。しかし、大本営の横やりで陣地を出ての総攻撃を強要され、八原の反対を押し切って強攻したが逆に大損害を被り、連合軍に利することとなった。その後は再び八原の方針通りで徹底した持久戦を展開[450] 、シュガーローフの戦い の戦いなどで連合軍に多大な損害を与えていたが[451] 、圧倒的な戦力差で次第に日本軍は後退を余儀なくされていた。このまま首里 に構築していた防衛線に固執していたのでは全滅は免れないと考えた八原は、更なる連合軍足止めのために沖縄本島南部へ撤退し戦線を再構築することとした[452] 。沖縄本島南部には戦火を逃れた住民が多数避難しており、戦闘に巻き込まれることは必至で島田叡 沖縄県知事は反対したが、牛島の決断で強行された[453] 。
南部への撤退は後にイギリス軍とアメリカ軍からなる連合軍に賞賛されるほどに巧みに行われ[454] 、戦線を再構築した日本軍はこの後も1か月弱に渡って連合軍を足止めし、総司令官のサイモン・B・バックナー 中将が戦死するなど大損害を与えたものの[455] 、狭い地域に軍民が雑居することとなり、戦闘に巻き込まれた他、スパイと疑われて日本兵に殺害されたり、集団自決 をはかったりして大量の住民の命も奪われた。6月23日 に総司令官の牛島が自決し、沖縄での組織的抵抗が終わったが、日本軍によるゲリラ戦は7月後半まで続いた[456] 。この沖縄戦で18万8,136人が死亡したが、このうちの約半数が軍に召集された沖縄成人男性と沖縄の一般市民であった。一方でアメリカ軍を主力とする連合軍も約20,000人が戦死し[457] [458] [459] 、55,000人以上が負傷するなど、第二次世界大戦でも最大級の人的損害が出た戦いとなった[460] 。
沖縄や硫黄島での日本軍の徹底的な持久戦の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦 )を無期限中止せざるを得なくなる。またアメリカやイギリス、オーストラリアやカナダ、ニュージーランド軍を中心とした連合軍による、九州 地方上陸作戦「オリンピック作戦 」、その後関東 地方への上陸作戦(「コロネット作戦」)も計画されたが、沖縄戦や硫黄島での反撃で予想されるような日本の軍民による強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、最終的に計画は実行されなかった。
5月に入ると連合国による空襲は激しさを増し、東京や横浜、大阪などへ再び空襲が行われたほか、これまでは空襲を受けてこなかった百万都市の他、仙台 、小田原 、福岡 、静岡 、岡山 、富山 、徳島 、熊谷 、熊本 、佐世保 、四日市 、奈良 、北九州 、彦根 など、全国の60を超える中小各都市も終戦に至るまで空襲や機銃掃射にさらされることになる。だが、それに比例して日本軍の反撃も激しさを増し、戦闘機や対空砲火による連合軍の爆撃機や戦闘機の被害も増大した。しかし、大都市でも京都市 、新潟市 、金沢市 、札幌市 は空襲や艦砲射撃などの連合国軍の攻撃をほぼ免れた。
第二次世界大戦でB-29は合計380回の任務で述べ33,401機が日本本土に来襲し147,576トンの爆弾を投下して日本の主要都市を焼き払い、原爆による被害を除いて30万人~40万人の一般市民を殺害した。開戦直後から本土爆撃をされていたドイツとは異なり、本土防空体制構築に後れを取った日本軍は、その後も前線での航空戦を重視しすぎたあまり、次世代の高性能を誇るB-29に対抗できる本土防空体制の構築に失敗し、本土空襲で甚大な損害を被ることとなった。それでも限られた戦力で日本軍防空陣は敢闘し、戦闘任務でB-29は485機が失われ、総出撃機数に対する損失率は1.32%となったが、これはドイツ本土爆撃でのB-17 の損失率1.61%や、B-24 の損失率1.60%と大きくは変わらないものとなった。
ペナン沖海戦でイギリス海軍に撃沈された日本海軍の重巡洋艦「羽黒」
同じく日本軍の勢力下にあったビルマ では、開戦以来元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国民軍 の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウンサン はビルマ国民軍をラングーン(現:ヤンゴン )に集結させたが、集結後日本軍へ攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、これを支援するためにペナン沖海戦 などが行われ、5月末にはラングーンから日本軍を放逐した。
5月7日 にドイツ(フレンスブルク政府)が連合国に降伏。同盟国である日本に対して事前協議も行われなかった無条件降伏であった 。これで枢軸国で残るは日本だけとなり、その日本は1946年 4月25日 まで有効な日ソ中立条約 を根拠に中立を保つソ連に頼るしかなかったため、ドイツの降伏後はソ連を通じた和平工作に注力する。しかしこれに先立つ2月、連合国によるヤルタ会談の密約で、ドイツを破った後のソ連軍は3か月後に満洲、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。
5月9日 には、東京の駐日ドイツ大使館は、判明している限りでは世界の公的機関で唯一ヒトラーの追悼式を行った。しかし、同盟国である日本に対し事前協議も行われないまま無条件降伏を行ったドイツに対する日本政府の反応は冷淡で、同盟国の首脳の追悼式に対して外交儀礼上異例である、外務省 の儀典課長を参列させたのみで弔電や半旗 の掲揚などは行わなかった[466] 。
5月10日には、日本が開発していた原爆の材料となるウラン などを積んで大西洋上日本に向かっていたドイツ海軍のU-234 がドイツの降伏を受けてアメリカ海軍に投降し、その直前に友永英夫 技術中佐と庄司元三技術中佐が艦内で自決している。なおドイツに駐在していた日本の軍人と外交官、民間人は、ソ連の占領区域にいたものは速やかにモスクワ経由でシベリア鉄道で5月末に帰国。イギリスおよびアメリカの占領区域にいたものは捕虜となり、アメリカ経由で戦後の12月に帰国した[467] 。
6月になり、日本政府はもはや「ドイツに中央政府がなくなった」ことを理由に、東京のドイツ大使館、横浜と神戸 の領事館 の閉鎖と引き渡し、ドイツ人学校やドイツ人クラブの閉鎖を命じた。なお3,000人いた在日ドイツ人は、以降終戦まで警察の監視のもと日本国内に軟禁されるこことになる[468] 。
広田弘毅元首相
6月初頭には、疎開先だった箱根の強羅ホテル でソ連のヤコフ・マリク 大使は、元駐ソ連大使の広田弘毅 元首相の2度の訪問を受け、非公式での終戦交渉を行ったが当然ながら良い返事はもらえず、さらに月末にも広田元首相はわざわざ港区麻布のロシア大使館のマリク大使を訪れている[469] が、その後マリク大使は病気を理由に会談を拒否している。なお既にソ連は2月のヤルタ会談において、ヨーロッパでの戦勝の日 から3ヶ月以内に対日宣戦 することで英米中と合意しており、それとは矛盾する日本政府からのソ連中立の要請や、大東亜戦争の停戦講和の依頼など受けられるはずがなかった。
さらに5月から6月にかけて、ポルトガル やスイスにある在外公館 の陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり[470] 、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐から「シベリア鉄道 におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部に報告されたりしていた[471] 。しかしソ連の「裏切り」についてのこれらの決定的に重要な情報は、中立条約を結んでいたソ連との講和仲介に最後の望みをかけていた日本政府と軍の間では、不都合過ぎて真剣に共有されなかったか、重要性に気付かれないまま見捨て置かれていた。
ポツダム会議に訪れた3か国首脳(1945年7月)
7月17日 から8月2日 にかけ、ベルリン 郊外ポツダム のツェツィーリエンホーフ宮殿 において3カ国の首脳(イギリスの首相 ウィンストン・チャーチル およびクレメント・アトリー [注釈 26] 、アメリカ合衆国大統領 ハリー・S・トルーマン 、ソビエト連邦共産党 書記長 ヨシフ・スターリン )が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談 )。
7月26日には、イギリス首相、アメリカ大統領、中華民国主席の名において、全13か条からなる条件付き宣言である日本軍の降伏に関する「ポツダム宣言 」 が発表された[472] (8月9日に対日参戦したソビエト連邦は、同日に後から加わり追認した)。ポツダム宣言を受けた外務大臣東郷茂徳 は最高戦争指導会議 と閣議において、「本宣言は(13条からなる)有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言し、注意を喚起した。なお7月27日 に日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。しかし鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連に一層の和平仲介を期待し、ポツダム宣言を一時的に黙殺する態度に出た[474] 。
アメリカ大統領のトルーマンは、日本の降伏を急がせ本土侵攻による自国とイギリス軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的から、完成したばかりの史上初の原子爆弾の使用を決定し、7月末にサイパン島のアメリカ軍基地へ運び原爆投下訓練などの準備を進めた。
広島での核爆発 によるキノコ雲(8月6日)
8月6日 にアメリカ軍のボーイングB29機により広島市への原子爆弾投下 が行われ、投下直後には十数万人もの一般市民を中心とした犠牲者が出て[475] 、その後も数万人の放射能による死傷者が出た。
なお、当時日本でも独自に原子爆弾の開発が行われていたが、ウランなど必要な資材・原料の直接の調達が困難で、同じく原爆を開発していたドイツから潜水艦で入手したわずかなウランしか持っておらず、自国民のみならずイギリスなどの同盟国の科学者と、ドイツやイタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのマンハッタン計画 の進捗には及ばなかった。もし日本が先に原爆の開発に成功していたら、連合国軍と同様に一般市民を標的にした可能性は否定できない[475] 。
しかし、日本政府と軍は、首都圏をはじめとする主要都市への空襲や沖縄での市街戦、さらに広島への原爆投下によって数十万単位の一般市民の死傷者を出しながら、連合軍との本土決戦に運命を託すと同時に、これまで日本との間に開戦していなかったソ連との中立条約の維持を唯一の根拠にした和平交渉に、いまだに望みの綱をおいていた[475] 。その意味では原子爆弾の使用はトルーマン大統領が期待したように、終戦を早める効果は全くなかった [475] 。翌7日にはトルーマンが「我々は20億ドルを投じて歴史的な賭けを行い、そして勝ったのである」「広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じない限り、さらに他の都市にも投下する」という声明を発表した。
また、日本政府も原爆投下による最高戦争指導会議も一切開かれず、午後から関係閣僚会議が開催され原爆について協議されたが、阿南惟幾 陸軍大臣は「たとえトルーマンが原子爆弾を投下したと声明しても、それは法螺かも知れぬ」と強く主張した。軍部は自ら原子爆弾の開発を行っていることもあって薄々は解ってはいながら、原爆を認めて公表すれば軍と国民への士気の影響が大きすぎると考えて、協議の結果、詳細な調査が必要ということになり、大本営発表では原爆ではなく「新型爆弾」とされ、詳細は不明と報じられた。
満洲国で日本軍へ砲撃するソ連軍(8月9日)
さらに日本の望みとは逆に、ソビエト連邦は上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年 4月まで)有効の日ソ中立条約 を一方的に破棄、8月8日 午後11時(以下日本標準時 )に対日宣戦布告 し、翌9日の午前1時に満洲国と日本へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦 ) 。また、ポツダム宣言に署名していないソ連政府は、日本への侵攻と同時にポツダム宣言に署名した。
9日未明に、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、ソ連軍が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江 市街がソ連軍の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分頃に新京郊外の寛城子が空爆を受けた。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、ソ連軍に対する市民含む地上戦が行われ必死に反撃を行うも総崩れとなった。関東軍総司令部は急遽対応に追われ、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令。しかし日本政府がソ連の対日宣戦の事実を知ったのは、9日午前4時にソ連のタス通信 がその事実を報じ始めてからで、外務省では午前5時頃に外相の東郷に報告が上げられた。
これはソ連との中立条約の維持を根拠に和平の道を辿ろうとしていた日本政府にとって、最後の頼みの綱が切れた瞬間であった。ソ連が日本と開戦したこの日以降、日本政府と軍は急激に降伏への道を進んでいく 。
ソ連の参戦を受けて9日昼前に行われた最高戦争指導会議では、これまでと違い「国体の護持」、「保障占領」、「自発的な武装解除」、「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、ポツダム宣言を受諾をするという方針が優勢となった。しかし「国体の護持」のみに絞るとする外相・東郷茂徳と、4条件にこだわる陸相・阿南惟幾 との間で意見が激しく対立した。
長崎での核爆発 によるキノコ雲(8月9日)
特に陸相の阿南は、海相米内光政 とのやり取りで「戦局は5分5分、負けとは見てない」、「海戦 では負けているが戦争では負けていない。陸海軍で感覚が違う」と主張し、さらに外相である東郷からの「交渉が決裂したらどうするのか」との質問に「一戦を交えるのみ」と答えるなど議論は平行線をたどり、さらに徹底抗戦派の軍令部総長豊田副武 が、招かれてもいないのに軍令部次長大西瀧治郎 を同席させるなど問題行為があった。結論は9日未明に開催される天皇臨席の御前会議に持ち越された。
そして、ソ連軍の参戦に続いて、9日午前11時02分(東京では最高戦争指導会議の最中であった)に、アメリカ軍のボーイングB-29により長崎市へ原子爆弾が投下された 。
原子爆弾の投下直後に当時の長崎市の人口 24万人のうち約7万4千人が死亡[注釈 27] し、長崎市の建物は約36%が全焼または全半壊し、インフラストラクチャーは停止し復旧までに多くの時間がかかった。この原子爆弾が人類史上において2回目かつ、現在に至るまで実戦で使用された最後の核兵器となった。
なおこの原爆は最初は福岡県 小倉市 に投下される予定であったが、小倉市の天候が悪かったために長崎市に投下された。
ポツダム宣言受諾から玉音放送まで(8月10日-15日)
8月10日
松花江 で進軍を続けるソ連軍(8月10日)
10日午前0時3分[480] から行われた御前会議 での議論では、外相の東郷茂徳、海相の米内光政、枢密院議長 の平沼騏一郎が、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し陸相の阿南惟幾、陸軍参謀総長の梅津美治郎 、海軍令部 総長の豊田副武 は「ポツダム宣言の受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。
しかし、唯一の同盟国であったドイツ政府は5月に無条件降伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドやカナダなどの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった元中立国で日ソ中立条約を破って開戦したソ連も、先日の開戦により樺太や満州から日本本土へ迫っており、北海道 上陸さえ時間の問題であった。
ヤコフ・マリク 駐日ソ連大使
ここで鈴木貫太郎 首相が昭和天皇 に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で日本のポツダム宣言受託が承認された[481] 。
日本国の首脳陣の中では、最終的に中立国であったソ連の参戦が最終的にポツダム宣言受諾を受託する理由となった が、実際に昭和天皇実録 に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、当時の出席者や歴史学者の伊藤之雄 は「(対日中立国の)ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[482] 。
日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社 からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた 。また中立国の加瀬俊一 スイス公使と岡本季正 スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。これ以降連合国からの回答を待つことになる。なおスウェーデンなど一部の中立国では、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、「日本が降伏した」と早とちりし、一部マスコミがこれを報じた場合があった[483] 。
なおソ連大使館側の要請により、10日午前11時から貴族院 貴賓室にて外相東郷と駐日ソ連大使ヤコフ・マリク の会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ連軍による南樺太および千島列島への進攻、つまり沖縄に次ぐ日本固有の領土内での、市民を巻き込んだ市街戦も開始された[484] 。
ポツダム宣言は日本政府により正式に受諾されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われておらず、それは「ポツダム宣言受諾=降伏ではない」ことから、完全な停戦を行っていないのはイギリスやアメリカ、ソ連などの連合国も同様であった[485] 。なお実際10日にはアメリカ軍により花巻空襲 が行われ、家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名の被害を出した。
先頭から順に鈴木首相、米内海相、阿南海相
8月11日
11日においては日本、連合国の双方の首脳陣において大きな動きはなかったが、久留米空襲 や加治木空襲 が行われた。
8月12日
12日午前0時過ぎに連合国は、日本のポツダム宣言受託の承認を受けて、連合国を代表するものとしてアメリカのジェームズ・F・バーンズ 国務長官による「日本のポツダム宣言受託への正式な返答」、いわゆる「バーンズ回答」を行った[481] 。
その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」[486] としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」[487] というものであった。この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」[488] であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」[489] と記している。
しかし午前中に原文を受け取った参謀本部は、これを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、また「連合国全体ではなくアメリカ1国だけの回答」であることや、「アメリカ大統領ではなく国務長官からの回答」であったこともあり、鈴木首相も再照会について同調した[481] 。東郷外相は「(連合国からの)正式な公電が到着していない」と回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった。
なお12日朝には皇族に対して、ポツダム宣言受諾承認を昭和天皇から直接伝えられている。にもかかわらず、12日午後には軍令部総長の豊田は梅津陸軍参謀総長ともにポツダム宣言受諾の反対を奏上する[492] 。同日米内海軍大臣は豊田と大西の2人を呼び出した。米内は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と述べ、また大西には「最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」となどと激しく叱責し、豊田は硬直したかのような不動の姿勢で聞き、「申し訳ない」という様子で一言も答えなかった[493] 。
なお、日本海軍の艦上攻撃機天山 3機が、沖縄本島南東沖に展開していたアメリカ海軍の戦艦「ペンシルバニア」を夜9時頃に攻撃、撃破し、20名の死者と多数のけが人を出した。これは日本海軍機による最後の戦果であった。
8月13日
小田原空襲 後の市街地(8月14日)
この日の閣議は2回行われ、午前9時から行われた日本政府と軍の最高戦争指導会議 では、「国体護持について再照会の返答」をめぐり再度議論が紛糾したが、これに先立つ午前2時に駐スウェーデン公使岡本季正 から「バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものである」という報告が到着し、2回目にはポツダム宣言の即時受諾が優勢となった。
しかし1日以上経っても、「バーンズ回答」に対しての日本政府からの「正式な回答」がなかったため、連合国とアメリカ政府、連合国軍とアメリカ軍では「日本のポツダム宣言受諾への回答が遅い」、「ポツダム宣言受諾に対して、政府と軍部でからの停戦の同意がなされていないのではないか」という意見が起きており、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむ連合国軍が、アメリカ軍を通じて東京に早期の申し入れと、連合国からの正式な返答である「バーンズ回答」を記したビラを散布している[495] 。
さらにイギリスやアメリカ、そして中立国の多くも日本政府のポツダム宣言受諾をラジオや新聞などで一般に伝えたが、日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民および前線に伝えなかったために、日本政府と軍の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍、ソ連軍との戦闘や爆撃は継続され、その後も千葉(下記参照)や小田原 、熊谷 や土崎 などへの空襲や、南樺太および千島列島、満洲国への地上戦も行われた[484] 。が継続された。
8月14日
御前会議(8月14日 午前11時/日本標準時 )
午前11時より行われた再度の御前会議は、昭和天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南陸相は午後1時が都合がいいと申し出していたが、昭和天皇はなるべく早く開催せよと鈴木首相に命じて、午前11時開始となった。
御前会議では依然として阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争継続を主張したが(この時阿南や梅津は、もし終戦になったら陸軍内で一部将兵がクーデターが起こすことを認知していた)、昭和天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、阿南陸相も了承し、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承した。
終戦の詔書の国務大臣署名欄(8月14日)
これを受けて夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音放送 が皇居内で録音され、録音されたレコードが放送局に搬出された。また加瀬スイス公使を通じて、ポツダム宣言受諾に関する正式な詔書を発布した旨、またポツダム宣言受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた[484] 。しかし連合国は、未だ日本国民や軍に向けての通達が行われないままであることから、軍民の体制は崩さぬままであった。
なお、昭和天皇によるラジオ放送の予告は、午後9時の全国および外地、占領地などのラジオ放送のニュースで初めて行われた。昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのはこれが初めてのことであった。内容として「このたび詔書が渙発される」、「15日正午に天皇自らの放送がある」、「国民は1人残らず玉音を拝するように」、「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」などが報じられたが、どのような内容の放送が行われるかは秘されたままであった。
阿南陸相は14日の御前会議の直後の午後1時に井田正孝 中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い、御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」、「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」、と諄諄と説いて聞かせた。
しかしクーデター計画の首謀者の一人であった井田中佐は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南陸相は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」、「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた。
この期に及んでも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南陸相はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している。なお終戦詔勅への署名の後、日本軍の上層部ならびに情報部などそれらの直属の部署には、ポツダム宣言受託と終戦の連絡が伝わっていた[472] 。
8月15日
しかし8月15日 未明には、「聖断」をも無視する椎崎二郎 中佐や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍将校らにより、玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生し、森赳 近衛師団長が殺害されたが、15日朝に鎮圧される(宮城事件 )など、昭和天皇の元ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍内で争いが起きていた。また、午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。なお、クーデターか起きる中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自決している。
玉音放送 を聞く日本国民(8月15日12時)
占守島 で侵略を続けるソ連軍と戦う日本軍(8月16日)
また午前7時21分より全国および外地、占領地などのラジオ放送で、正午に昭和天皇自らのラジオ放送が行われる旨の2回目の事前放送が行われた[502] 。
正午に昭和天皇はラジオ放送(玉音放送 )をもって、日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、ここに全ての日本軍の戦闘行為は停止された [503] 。
なお早稲田大学 教授の有馬哲夫 やその他多くの研究者、日本経済新聞 や産経新聞 などのマスコミが、NHKをはじめとする一部マスコミや左翼団体が主張する「日本が無条件降伏した」というのは間違いで、日本はドイツのような軍と政府を含む無条件降伏ではなく、政府が「ポツダム宣言」での英米中蘇の連合国側の諸条件を受諾した上での降伏であったと指摘している(「調印後」参照)[472] 。
公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、玉音放送の1時間半前の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル 」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡 に飛来したグラマン TBF アヴェンジャー ら日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイア が零式艦上戦闘機 との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー 少尉が無事パラシュート降下し陸軍第147師団 歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件 )。
なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら8月9日に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停止の8月15日正午のみならず、9月2日 の日本との降伏文調印をも完全に無視して継続された。南樺太 と千島列島、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。
また満洲ではソ連軍と中華民国軍との戦いの中、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児 問題として残ることとなった。結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺太、北千島 、択捉 、国後 、色丹 、歯舞 、朝鮮半島 北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日 になってようやく戦闘攻撃を終了した。
停戦後(8月15日-28日)
8月15日正午からの玉音放送終了後、直ちに終戦に伴う臨時閣議が開催され、まず鈴木首相から「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露した。閣僚たちは、1つだけ空いた陸軍大臣の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けていた。
また午後に大本営 は大日本帝国陸軍 および大日本帝国海軍 に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、自衛のための戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した。しかし、日本の敗戦を知った厚木基地 の一部将兵が16日に徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。他は大きな反乱は起こらず、外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。
特攻直前の宇垣纒中将(8月16日)
15日早朝の陸軍によるクーデター発生最中に自決した阿南陸相をはじめ、「武人としての死に場所を与えてくれ」と11機23名(うち5人が生還)とともに玉音放送を受け特攻機で命を絶った宇垣纏 中将、ウルシー環礁 から伊401 で内地へ帰投する途中アメリカ軍に拿捕される直前、艦内で自決した有泉龍之助 大佐[506] 、陸軍省参謀本部 の大正天皇 御野立所 で切腹した晴気誠 少佐など、日本の降伏を受け入れられず、また降伏の責任を負って、または連合国からの逮捕を逃れ、皇居前や代々木練兵場、内外の基地、自宅などで自ら命を絶った軍人や政治家、民間人は数百人に渡った。
また東條英機のように9月になってから連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命ざれたあと、自殺に失敗し逮捕される者、近衛文麿のように12月になってから連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命ざれたあと、逮捕を嫌がり服毒自殺する者もいた。
17日には連合国最高司令官指令 から一般命令第一号 が下ったが、同日には日本本土を偵察に来たコンソリーデーテッド B-32 を、厚木基地の日本軍機が襲い翌日アメリカ人搭乗員1人が死亡するなどのトラブルが起きた。しかし本土では同じような連合国とのトラブルはこれ以降起こらなかった上、すぐにイギリス軍やアメリカ軍が陸海空軍の相当数の部隊を上陸できる体制にあった。
しかしわずか20数年前の第一次世界大戦で負けたばかりで、その時と同様に本土が崩壊し首都が陥落、中央政府が崩壊したドイツとは違い[197] 、およそ2千6百余年 の歴史上始まって初めての敗戦で、さらに未だに本土と首都が陥落していなかった上に、中央政府は存続しており[197] 、まだ相当の軍人と武器や航空機、船舶が残っていた日本に対する連合国軍の動きは慎重に慎重を重ねた。連合国軍の日本占領部隊の第一弾であるアメリカ軍やイギリス軍が日本本土に上陸するまでは、結果として約2週間という異例の長さであった。
東久邇宮内閣 (8月17日)
17日に鈴木貫太郎内閣 は総辞職し、皇族である東久邇宮稔彦王 が首相を継いだ。皇族が首相に就いたのは武器解除を速やかに進めるためともいわれ、皇族の首相は初めてのことであった。副総理 格の国務大臣 には近衛文麿、外務大臣には残留した重光葵、大蔵大臣 には津島寿一 、内閣書記官長 兼情報局総裁 には緒方竹虎 が任命された。また海軍大臣には元首相の米内光政が留任した。陸軍大臣は任命が内定していた下村定 陸軍大将が23日に帰国するまでの間、東久邇宮が兼任した。
アメリカ海軍のグラマンF6F に護衛される機上作業練習機「白菊」 の緑十字機(8月19日)
この時点でも、日本は連合軍に占領された沖縄県を除く日本本土と樺太 、千島 、台湾、朝鮮半島などの開戦前からの元来の領土の他に、中華民国の上海をはじめとする沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモール島 などの北東アジアから東南アジア、ウェーク島 からラバウル など太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満洲国などの友好国、スイスやスペイン、アフガニスタンやチリなどの中立国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き揚げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。
そこで16日に連合軍は中立国のスイスを通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。これを受けて19日に、日本政府側の停戦全権委員が2機の緑十字飛行 の塗装をした一式陸上攻撃機 で木更津 から伊江島 に飛行し、そこからダグラス DC-4 でマニラへと向かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー 少将らなどと停戦および全権移譲の会談や、さらに日本本土進駐の際の安全の確保と情報提供を要求するなど、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍やフランス軍、オランダ軍に対する停戦と武装解除、日本進駐の準備は順調に遂行されるかにみえた[507] 。また日本と同盟下にあったタイは、16日の日本降伏後に日本側の内諾を得た上で「宣戦布告の無効宣言」を発し、連合国側と独自に講和した。
終戦後の中華民国漢口 の日本軍の第85戦隊および第22戦隊
しかし、引き揚げを受け入れず「欧米諸国からのアジアの解放」という、大東亜戦争の理念を信じて、ジャワやインドシナ、ビルマ、マレーなどで勃発したイギリスやフランス、オランダからの独立戦争に協力する日本軍の将兵や、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの(通化事件 )、のちに個人の意思で中華民国国軍 や中国人民解放軍 に編入されたものもいた[注釈 28] 。また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(九九式襲撃機 や九八式直接協同偵察機 など)や戦車、銃器など接収した武器がそのまま利用されることも多かった。
日本とフランス植民地政府の権力の空白が生まれたインドシナでは、17日にベトナム八月革命 が勃発した。日本の後ろ盾を失った満洲国はソ連軍の侵攻を受けて崩壊し、18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀 や愛新覚羅溥傑 ら満洲国帝室と、関東軍の吉岡安直 中将や橋本虎之助 中将などはその後日本への亡命を図るが、奉天に侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。さらには、アメリカ領フィリピンのルバング島 で1974年 まで日本軍の残留兵として戦い続けた小野田寛郎 少尉のように、日本軍の将兵として戦闘行為を継続していた者や、アナタハン島 のように島単位で引き揚げから取り残される者も発生した。
なお、沖縄県 を含む南西諸島 および小笠原諸島 は停戦時にすでにアメリカ軍 の占領下、勢力下にあった。また、中四国 はイギリス連邦占領軍 が後に駐留することが決まり、結果的にアメリカ軍とイギリス連邦軍だけで正式に日本を占領することとなった。なお、中華民国も軍事占領を検討したが、占領時の食料の大部分を日本に頼ろうとしたために、イギリス軍とアメリカ軍から正式に拒否された
樺太 の真岡町 に進軍するソ連軍(8月20日)
少しでも多くの日本領土略奪を画策していたヨシフ・スターリン は、北海道 の北半分のソ連軍による分割占領をアメリカ政府に提案したが、当然のことながら拒否され、駐在武官のみを送るにとどめた。しかしスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太