日米交渉(にちべいこうしょう)とは、1941年(昭和16年)4月から同年12月の間になされた、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の日本政府およびアメリカ合衆国政府間での国交調整交渉である。
民間ベースの動きを足がかりに、1941年春から日本陸軍の中国大陸撤退を条件に、満州国の国家承認、日独伊三国同盟の是非、 日米通商関係の正常化などを論点とした交渉が、野村吉三郎駐アメリカ大使とコーデル・ハル国務長官との間で始められた。
しかし、ドイツ国訪問の帰途にソビエト連邦に立ち寄って日ソ中立条約を締結した松岡洋右外務大臣が「日本の対中政策の全面承認」を主張したために交渉は難航した。さらに、1941年(昭和16年)7月28日に日本軍はフランスのヴィシー政権の承諾を得た上で南部仏印進駐を行ったが、8月1日にはアメリカ政府は石油禁輸措置等の日本に対する経済制裁を発動した[1][2]。
その後、交渉は再開されて日本は近衛文麿内閣総理大臣とフランクリン・ルーズベルト大統領との日米首脳会談開催(場所:アラスカ準州・ジュノー)を要請したが、ハル国務長官の反対のために立ち消えとなった。
アメリカ政府は「全面協定案」(「ハル・ノート」の原型)と「暫定協定案」という2つの提案のいずれかを日本に提示する検討を進めており、後者は日米双方の譲歩を前提とする事態打開の方策を列記した内容であった。しかし、1941年(昭和16年)11月26日には「ハル・ノート」が、第3次近衛内閣の後継政権で東條英機首相率いる東條内閣の日本政府側に手渡されたことによって再び交渉は決裂し、同年日本時間12月8日(ハワイ現地時間:12月7日)には日本海軍によりハワイの真珠湾攻撃が行われて太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦した。
1940年(昭和15年)頃の日米関係は、援蒋ルートに対する日本側の北部仏印進駐、日独伊三国同盟の締結、汪兆銘政権の承認と、それらに対抗した米国側の対日経済制裁(航空機用ガソリンや屑鉄の禁輸など)により悪化の一途をたどっていた[3]。重要資源のほとんどをアメリカに依存する日本にとっては対米関係の修復は急務であり[4]、アメリカにとっては欧州戦争で苦境に立つイギリスを本格的に支援するため、太平洋方面で日本との対立を避ける必要があった[5]。このような状況下で、両国の関係改善を模索するため日米交渉が始まることとなった。
日米交渉は民間外交を起点として、その後に正規の外交ルートに乗せられたという経緯を持つ。その発端は、1940年11月25日、アメリカからメリノール宣教会のジェームズ・E・ウォルシュ司教とジェームズ・ドラウト神父が来日したことであった[6]。両師は元ブラジル大使沢田節蔵と、近衛文麿首相に近い産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事井川忠雄に宛てた紹介状をそれぞれ持参しており、彼らの紹介で各方面の要人と面談した(その中には松岡洋右外相や武藤章陸軍省軍務局長ら日本の高官も含まれていた)[6][7][注釈 1]。両師の目的は日米関係改善にあり、その背後にはフランクリン・ルーズベルト大統領の側近であるフランク・C・ウォーカー(英語版)郵政長官がいた[6][注釈 2]。
翌1941年(昭和16年)1月に帰国したウォルシュとドラウトは、23日、ハル国務長官、ウォーカー、ルーズベルトに経過を報告し、「日本提案」なる覚書を提出した[10]。その内容は三国同盟の破棄、中国における停戦、極東モンロー主義の承認、米国との経済関係の回復というものであったが、これは正式な日本提案ではなく、両師が日本側の意見をまとめたに過ぎないものであった[10]。このときのルーズベルトの態度は明らかではないが、ハルは懐疑的であり、反対にウォーカーは乗り気であった[11]。ウォーカーとウォルシュ及びドラウトの構想は、日本に極東での支配的地位(中国における既成事実を含む)を保障することで日本政府内の穏健派を支持し、日本の政策を対独結合から対米協調へと転換させようとするものであったが、ハル(および国務省)は日本では穏健派が軍部を抑えることはありえないと判断しており、温度差があったのである[12]。
ともかく、ルーズベルトとハルは、両師が私的に日本側と接触することを容認しつつ、政府としての行動は新任の野村吉三郎大使着任まで待つこととした[13][注釈 3](野村の着任は2月11日)。ルーズベルトもハルも日米会談の門戸を開いておくことに異存はなく、その背景にはアメリカのアドルフ・ヒトラーの脅威に対する世界戦略、すなわち大西洋第一主義(ドイツ打倒を優先)・対日戦回避があった[15][13]。
「根本的命題は、ヨーロッパ・アフリカ・アジアにおける戦闘を、すべて単一の世界戦争の一部として認識することにある。われわれの戦略は世界戦略でなければならない。もし日本が蘭印・マラヤを占領することにでもなれば、イギリスが対独戦争に勝つチャンスが減じないだろうか。われわれの対英援助政策は、世界の各地とイギリスとの輸送ルートの閉鎖阻止をも含むものでなければならない。日本を自由にさせておくことはできない」[16] — ルーズベルト
一方、帰米後のウォルシュ、ドラウトの日米国交調整工作は井川を介して、近衛首相、武藤軍務局長、松岡外相に伝えられていた[17]。この工作は近衛と武藤の関心を引き、米国側の意向を瀬踏みするため、2月に井川が渡米した[18][17]。さらに後続として武藤の部下である岩畔豪雄軍務局軍事課長が転出し、3月に渡米することも内定した[19][注釈 4]。武藤、岩畔の思惑は、アメリカを利用した支那事変の解決にあり、日本にもアメリカと「太平洋の平和」を取引する動機があったのである[18][22]。
2月27日、井川はウォルシュ、ドラウトと再会し、両師からウォーカー郵政長官を紹介された。ウォーカーは日米関係が微妙な状況では民間人有志の外交が有効であると説くとともに[23]、ルーズベルトとハルへの連絡役を買って出て「三者で協議を進めて日米国交を正常化する方法を決めてほしい」と井川を激励した[24]。しかし、そもそも両師は井川の政治的立場を見誤っており(井川を近衛首相の非公式代表と捉えていたが、井川は近衛から米国側の意向を打診し、報告してほしいと依頼されたに過ぎなかった)[25]、ウォーカーも井川を正式な権限を与えられている日本の全権代表と誤解してルーズベルトに報告するなど、日米交渉には当初からコミュニケーション・ギャップがつきまとっていた[26][27][注釈 5]。
28日、井川は野村大使を訪問しこれまでの経過を報告した[24]。野村からの照会を受けた松岡外相は、井川の動きを出過ぎたことで言語道断と非難しているが、井川はウォーカーとともに野村―ハル会談の実現に尽力し、野村からの信頼を得ることになる[29]。
井川とドラウトは協定案の作成に着手し、3月13日にはウォーカーからハルに三国同盟からの日本の脱退、太平洋の平和の保障、中国の門戸開放、中国の政治的安定、軍事的・政治的侵略の不可、共産主義拡大阻止などの内容について作業中との覚書が提出された[30]。ウォーカーは、日本政府が井川・ドラウトの協定案に同意しているかのように報告したが、その内容は日本政府の立場と相異なり、井川の独走と言えるものであった[30]。
井川・ドラウトの協定案は17日に「原則的協定案」としてまとまり、ウォーカーからハルへ、また井川から日本の近衛首相へと送付された[31][32]。
なお、国務省はウォーカーの報告を額面通り受け取ったわけではなかった。井川の背後勢力に疑問を持ち、ウォルシュとドラウトの対日工作にも批判的で、「日本の軍部とアメリカの双方を満足させる協定は作ることができない」としていた[33]。
「これまでは武力介入せずに日本の行動阻止に成功してきた。今後も対中国援助を国防と対英援助を阻害しない限度で拡大すべきである。日本に対しては強硬策をとるべきであるが全面禁輸は行うべきではない。日本は対米戦争を望んでいないが全面禁輸を受ければ南方武力行使の危険をおかす。…現在の日本は極東で政治的経済的代償が与えられなければ枢軸から離れない。もちろんアメリカの政策は、代償を与えて日本に進路を変更させることではなく、断固たる態度を示し、かつ日本の資源力を弱めていくとともに武力進出をやめれば合法的変更もありえると示唆することである。」[34] — マクスウェル・ハミルトン国務省極東部長
井川・ドラウトの協定案作成は彼らの独走という側面があったが、その局面を打開したのが岩畔豪雄の米国到着であった[35]。
そもそも岩畔の米国派遣は、日米国交調整には支那事変に通じた人材が必要との野村大使の要請に陸軍が応えたものであるが[36]、陸軍首脳がウォルシュ、ドラウトの工作について、岩畔に密命を与えていたかは不明である[37][38]。しかし、アメリカ政府は、陸軍の有力者とされる岩畔の訪米を重要視し、何らかの密命を帯びていると判断した[39]。さらに「岩畔の使命が失敗に終わったと断定されるまでは日本の軍部は新たな行動に出ない」と見なした[40]。
3月20日、井川と合流した岩畔は、原則的協定案を修正したうえで、日米国交調整工作に取り組むことにした[41][42]。そして、31日にウォルシュ、ドラウトとの会談に入った岩畔は、米国側の目的が日本の三国同盟脱退なら交渉に入る可能性はないとの立場をとった[43][44]。これに対して両師からは、日本側の目的が日米共同で英独戦争を調停することならば交渉を峻拒するという申し出があり、双方でこれらを承認したという[43][44]。
岩畔とドラウトは4月2日から5日にかけて協定案の手直しを行い(通訳は井川が務めた)、できあがった草案は野村大使とウォーカー郵政長官に届けられた[45]。この過程で岩畔の主張がかなり盛り込まれ[46]、内容的には岩畔案と言うべきものに変貌したが[43]、同時に公的な性格も与えられることになった[47]。ウォルシュ、ドラウト、岩畔、井川は、国務省から "John Doe Associates"(正体不明の連中)と呼ばれていたが、彼らの尽力が日米交渉の端緒を開く重要なきっかけとなった[20]。
この草案は日米双方が修正を加えたうえで、4月9日に一応の完成を見た[45]。これを受け取ったハル国務長官は3日間にわたって国務省極東部と検討したが、「提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった」とその内容に失望したという[48]。しかし、ハルは「一部には全然承諾できない点もあるけれども、そのまま受け入れることのできる点、また修正も加えて同意できる点もある」という結論を下し、これを交渉の糸口にすることとした[48]。
その後、草案は双方の若干の修正を経て、4月16日に「日米諒解案」として決着した[46]。米国側が"Draft Understading"としているようにあくまで試案であり[39]、「なんらの拘束力もない」と断り書きがあった[46]。ハルも諒解案は予備的かつ非公式に検討するもので、政府としてその内容に言質は与えないと明言していた[49]。
岩畔によると、日米諒解案における日本の最大の希望は支那事変の解決であり、米国側の目的は日本の三国同盟からの離脱、もしくは同盟弱体化にあったという[44]。
三国同盟問題については、岩畔は米国側との協議の過程で、ドラウトから「もし日本が三国同盟から脱退すれば、アメリカは日ソ戦が起きた場合に日本を援助する」という一文を明記するとの提案があったと回想している[45](もっとも、岩畔はそれを却下したが)[44]。
米国側は、三国同盟に触れない代わりに自衛権を広義に解釈することを求めており、岩畔はこれを米国が自衛の名目で欧州戦争に介入する伏線ではないかと考えたという[44][50]。
また、支那事変終決後の日本軍の駐兵問題については米国側が強い難色を示した。そのため、岩畔が米国も北清事変後の条約(北京議定書)に基づき中国に駐兵していることを指摘すると、米国側はなるべく早く撤兵するつもりであると逃げ、さらに岩畔が米国のパナマ駐兵を問いただすと、租借地への駐兵でパナマ領ではないと弁解し、では事変解決後に条約で租借地を作ってもよいのかと反問すると、それは困ると応じたというやり取りがあった[44]。結局、日本軍の駐兵を案の中に明記することはできなかったが[43]、諒解案には「近衛三原則(善隣友好・共同防共・経済提携)に基づき具体的和平条件を中国側に提示すべし」との文言があり、防共駐兵(共産主義に対する防衛のための日本軍駐兵)の余地を残したものになっている[51]。なお、満州国承認問題については米国側から異議は出なかったとのことである[44]。
他方、松岡外相は自らが進める四国協商(三国同盟+ソ連)構想の実現、日ソ国交の調整などを目的に3月12日から4月22日にかけてソ連、同盟国のドイツ・イタリアを訪れていた[52]。ただし、松岡は元来、日独伊ソの合従には否定的立場をとっており[53]、長期的な日ソ提携を志向していたとは考えにくい[54]。
もっとも、四国協商に関しては、前年に行われた独ソ間の交渉が決裂していたため、ドイツ側は松岡の思惑とは異なり、四国協商の可能性を強く否定した[52](ヒトラーはすでに対ソ攻撃を決意し、バルバロッサ作戦を極秘裏に命令していた[55])。ドイツ側が要請したのは、日本のシンガポール攻撃、すなわち対英参戦であり、イギリスの敗北は時間の問題である、日本の軍事行動はアメリカの参戦をも防げると執拗であったが、松岡がシンガポール攻撃の言質を与えることはなかった[52]。
一方、ソ連との交渉は4月13日の日ソ中立条約調印で結実した。難航した交渉をまとめた松岡は、日ソ接近により日本の国際的地位を強化し、来る対米交渉へ向けて「力の威圧」による外交の道筋をつけたのであった[52](ハル国務長官が日米交渉を開始した背景には、この日ソ中立条約の威力があったとの指摘もある[56])。その後、松岡は日独伊ソ四国の圧力で、アメリカに蔣介石政権援助を停止させ、支那事変はあくまで日中間で解決するという方針を追求することになるが、これはアメリカの仲介によって支那事変を解決するという「日米諒解案」の構想とは相容れないものであった[51]。
また、松岡は訪欧中に日米交渉の布石として、駐ソ米国大使スタインハートと会談し、ルーズベルト大統領への伝言を依頼していた(松岡がウォルシュ、ドラウトを通じた民間ルートを忌避し、正規の外交ルートを採用した背景には、民間人を通じた日中和平工作(銭永銘工作など)の失敗が指摘されている[57])。往路と帰路に行われた二度の会談と松岡の「厳私信」の手紙の内容を摘記すると以下のようになる[58][59]。
松岡は東南アジアの安全の保証と中国の問題を取引しようとしたのではないかと思われる[59]。また、3月14日の野村大使とルーズベルトの最初の正式会談では、ルーズベルトが三国同盟への強い懸念を表明していたが[60]、松岡は三国同盟に基づく対米参戦を示唆して、米国を牽制した[59][61]。これらの内容はスタインハートからハルに報告されたが、ハルもルーズベルトもさしたる関心を示すことはなく、松岡の対米工作は空振りに終わることになる[59]。
国務省では、日米諒解案は後退と受け止められていたため、諒解案とは別にアメリカの国際政策原則を明確にする方針をとった[62][注釈 6]。これがいわゆるハル四原則である。
4月16日、ハル国務長官は野村大使と会談し、四原則を示した[65]。
すべての国の領土と主権尊重 他国への内政不干渉 通商上の機会均等を含む平等の原則 平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持
四原則の核心は軍事行動の否定であり[66]、日中戦争から北部仏印進駐までの日本の軍事的政策の放棄を内包するものであった[67](ただし、満州国については影響せず、将来の問題について適用される旨をハルは野村に説明している[66])。また、3.は自由貿易の推進であり(ハルは自由貿易論者であった)、日米交渉においてハルは中国への適用を要求するとともに、日本が軍事力で中国における米国の既得権益を侵害し、自由な経済活動を制限していると非難することになる[64]。これは通商無差別問題として、交渉の争点の一つとなった[68]。
ハルは野村に対して、四原則の受け入れを前提に、「日本政府がこれ(諒解案)を承認してわが方に提案すれば、われわれの交渉開始の基礎ができることになろう」と述べた[69]。野村は3.については前提条件とせず、今後の会談で討議してもよいのではないかと示唆したが、ハルはこれを受け付けなかった[70]。
しかし、野村はこの四原則を添付せずに日米諒解案を日本政府に送った[71](後日、野村は話が進まないことを恐れて「これを押さえた」(5月8日野村電)と説明したが、結果的に米国の真意を歪めたことになった[66])。
日米諒解案の要約は以下の7項目からなる[72]。
日米諒解案 日米両国は、相互に隣接する太平洋地域の強国であることを承認し、共同の努力により太平洋の平和を樹立し、友好的諒解を速やかに達成する。 欧州戦争に対する態度として、日本は三国同盟の目的が、欧州戦争拡大を防止することにあり、その軍事上の義務は、ドイツが、現にこの戦争に参加していない国によって、積極的に攻撃された場合のみ発動することを声明する。一方米国の欧州戦争に対する態度は、もっぱら自国の福祉と安全とを防衛するという見地によってのみ決することを声明する。 日中戦争について、米国大統領が次の条件を容認し、日本政府がこれを保証したときは、大統領は蔣介石政権に和平を勧告する。A.中国の独立。 B.日中間の協定による日本軍の中国撤兵。 C.中国領土非併合。 D.非賠償。 E.中国の門戸開放方針の復活。 F.蔣介石政権と汪兆銘政権の合流。 G.中国への日本の集団的移民の自制。 H.満州国の承認。 太平洋平和維持のため、相互に他を脅威する海空力の配備をせず、日本は米国の希望に応じ、自国船舶を太平洋に就役させる。会談妥結後、両国は儀礼的に艦隊を派遣し合い、太平洋の平和到来を祝す。 両国間通商の確保、日米通商航海条約の復活。米国よりの金クレジットの供与。 日本の南西太平洋における発展は武力に訴えず、平和的手段によってのみ行われるという保障のもとに、米国は日本の石油・ゴム・錫・ニッケルなど重要資源の獲得に協力する。 太平洋の政治的安定に関し両国は、A.太平洋地域に対する欧州諸国の進出を容認しない。 B.両国はフィリピンの独立を保障。 C.日本人移民は他国民と同等無差別の待遇を得る。 以上の点について両国が合意すれば、ハワイにおいてルーズベルト-近衛会談を行う。
4月18日、日米諒解案の電報が日本に届いた。しかし、ここで重大な誤解が生じ、近衛首相は諒解案を「米国案」として受けとった[71][注釈 7]。『近衛手記』に、その夜、緊急に大本営政府連絡懇談会を招集して「米国の提案を議題にして協議した」[77]との記述があるように、近衛は明らかに諒解案の「交渉試案」という意味を履き違えたとみられる[78] 。
諒解案には東條英機陸相も武藤軍務局長も、海軍の岡敬純軍務局長も「大へんなハシャギ方の歓びであった」というが[79]、「主義上賛成」の電報を打とうという動きは抑えられ、返事は松岡外相の帰国を待ってからとなった[71][注釈 8]。なお、『近衛手記』によれば、「この米国案を受諾することは支那事変処理の最捷径である」などの意見から「大体受諾すべしとの論に傾いた」が、その一方でドイツとの信義を強調する意見があったとのことである[77]。
東條や武藤は、諒解案を泥沼化した支那事変解決の機会ととらえて乗り気となり、陸軍省としては「ともかく交渉開始に同意」と決定した[82]。また陸軍参謀本部においても、「三国同盟の精神に背馳せざる限度に於いて対米国交調整に任ずべき大体の方向」で意見が一致し、最終的にはこの線に沿って陸海軍間の合意がなった[82]。
ただし、中国からの撤兵問題については、交渉に前向きな軍務局でさえ撤兵に反対の立場であり、日本人の経済活動保護の観点から駐兵は必要と考えていたことは、交渉の前途に影を落とすことになった[83]。中国における日本の占領地経営の実体は、「進出した日本の大企業、中小資本を問わず、小売商人、大小の国策企業の職員の生活にいたるまで、日本の経済体制は占領地支配と密着しており、しかもそのすべては、日本軍駐屯という厳然たる事実によってはじめて可能な状態にあった」[84]のであり、このことが撤兵問題を困難なものにしたのであった。
4月22日に帰国した松岡外相は、日米諒解案がスタインハート工作の返事ではなく、自分のまったく関知しないルートの話であったことを知り、不機嫌になった[85]。その夜の連絡懇談会では、2週間か1、2か月ほど考えさせてほしいと述べ、諒解案を取り合おうとはしなかった[85]。『近衛手記』によると、松岡は、米国が第一次世界大戦中に石井・ランシング協定を結んで後顧の憂いを除いておきながら、戦後にこれを破棄した先例を挙げて、本提案は米国の悪意七分善意三分と解すると論じたという[86]。この松岡の対米認識について、松岡が恐れたのは第一次大戦の再現であり、米国が参戦して独伊が敗北すれば、たとえ日米妥協が成立していても米国に手のひらを返される可能性があったとの指摘がある[87]。
その後、松岡は日米諒解案を「陸海軍案ヨリ更ニ強硬」(『機密戦争日誌』[注釈 9](5月3日付))な内容へと大幅に修正し、5月3日の連絡懇談会に提示した[89]。
また、松岡は連絡懇談会で次の三原則を提議した[90]。
支那事変への貢献 三国同盟に抵触しないこと 国際信義を破らない
三原則は、アメリカが蔣介石に圧力をかけて日中戦争解決に貢献すること、アメリカが三国同盟を承認すること、ドイツへの信義と協調を意味するため、これはアメリカの方針―中国からの日本軍撤兵、三国同盟の骨抜き、欧州戦争における英国援助と、真っ向から対立するものであった[91]。松岡の狙いは、さらに強気に出てアメリカの欧州戦争参戦を阻止することにあり、「独が起った場合には同盟条約によれば日本も当然起つのを正論なりと思う。しかし外交からいえばそうも行かぬ。米を参戦せしめず、また米をして支那から手を引かせる、というのが今度自分がやろうとする考えである」(5月8日連絡懇談会)とした[92]。
同日、松岡は、野村大使にハル国務長官宛のオーラルステートメント(口頭文書)を打電しているが、その内容は松岡の強気の交渉姿勢を示すものであった[93]。
5月7日、野村はハルと会談し、松岡のオーラルステートメントを読み上げたが、多くの間違いがあると断りを入れるほどであった(野村はハルの同意を得てオーラルステートメントの手交を取りやめている)[94]。ハルは、ヒトラーの制覇が七つの海に及ぶことを忍ぶことはできない、米国の権益擁護のために10年でも20年でも抵抗する決心であると野村に語った[93]。また、野村は松岡の指示により日米中立条約を提議したが、ハルは「それは4月9日の文書に含まれた提案とは全然異なった事柄である」と一蹴した[94]。
なお、野村によれば、ハルは日米交渉の開始について力を込めて督促したとのことである[95]。
ハルはこの時の野村とのやり取りについて、松岡の電報の内容をすでに知っていたと回想しており、そのことを野村に悟られないように注意していたという[96]。事実、アメリカ側は1940年9月にはパープル暗号(外務省が使用していた暗号)で組まれた外交電の解読に成功しており[97]、日米交渉においては日本側の外交電のほとんどを解読していた[96](ただし、日本が暗号戦に完敗していたというのは俗説で、森山優の研究によれば「日本がアメリカ国務省の暗号を最高強度に至るまで解読していたことは確実」「解読の規模に関しても、駐日、在中の主要な国務省電報のほとんどを解読していたと考えても差し支えない」[98]という)。
「われわれがこれを知っていたのは、陸海軍の暗号専門家が驚くべき腕前を見せて日本の暗号を傍受し、東京からワシントンその他の首都に送られる日本政府の外交電を解読し、英語に翻訳して国務省に送り届けていたからである。この解読情報は「マジック」という名前がついていたもので、交渉のはじめのうちはたいして役に立たなかったが、最後の段階では大きな役割を演じた」[96] — ハル
5月12日、野村大使は、松岡外相による日米諒解案に対する修正案をハルに提示した[99]。この修正案は日本の公式提案となっており、ハルは「日米交渉の基礎はこの5月12日におかれた」としている[100]。
松岡修正案のおもな変更点は以下の通りである[101][102]。
要するに、アメリカの参戦を阻止すること、支那事変は汪兆銘政権と結んでいた日華基本条約(陸軍の要求する共同防共のための日本軍の華北・内蒙古への駐兵、治安維持のための駐兵などが定められていた)に基づく日中間の直接交渉によって解決することを主眼にした提案であった[51]。
「この提案からは希望の光はほとんどさしていなかった。日本は自分の利益になることばかり主張していた。…これを一言のもとに拒否することは、われわれが何ヶ月もたったのちにはじめて出会った、日米間の提案を根本的に討議する唯一の機会を捨ててしまうことであった。そこでわれわれはこの日本の提案を基礎にして交渉を進めることにしたが、それは、もし日本を説得して三国同盟から脱退させるわずかの可能性でもありそうだったら、その目的だけを追求すべきだと考えたからだ」[100] — ハル
6月21日(日本時間6月22日)、アメリカ側から松岡修正案に対して正式な回答が出された[103](本文には “Unofficial, Exploratory and without Commitment(非公式、予備的段階にして拘束力なし)” の但し書きがあり、アメリカ政府の公式提案とは呼べないものであるとしていた[104])。以後、ハル・ノート提示までアメリカはこの提案に固執することとなる[105]。
また、中国問題については、日本の要求した蔣介石への援助停止、南京政府と重慶政府の合流などには触れられず、さらに付属のオーラル・ステートメントでは、日本政府の三国同盟堅持声明や華北・内蒙古における軍隊駐屯を非難しており、全体としてはハル・ノートに通じる厳しい内容であった[106]。
外務省顧問の斎藤良衛は米国案の内容を、満州の中国への復帰、治安駐兵および防共駐兵の否認、通商無差別待遇の原則の適用による「新秩序」建設の否定[注釈 10]、南京政府の取り消しを示唆、間接的表現ながら三国同盟からの脱退を要求などと解釈し、日本の提案をことごとく否定しているものとした[109][110]。5月12日松岡修正案、6月21日米国案によって日米諒解案は松岡とハルの双方から否定されたうえ、両案の懸隔に松岡も「外交をやれといっても、米との工作はこれ以上続かぬと思う」と述べたという[111]。
なお、野村大使がこの案を受け取った9時間後の6月22日、独ソ開戦のニュースがあった[112]。独ソ戦は、松岡外相の日独伊ソ四国協商構想の崩壊を意味し(もっとも松岡訪欧以前に独ソ間の外交交渉は決裂しており、四国協商は幻想であった)[113]、またアメリカにとっては対日妥協から強硬路線へ舵を切るきっかけとなった[114]。この6月21日米国案と独ソ開戦の関係については、アメリカは独ソ開戦について確度の高い情報を掴んでおり、日本の情勢が不利になるタイミングを見計らってこの案を出してきたとの見方もある[115][116]。
「これは私の主観が入るが、(アメリカの対日態度の)変化は著明であったと思う。…私の考えでは独ソ戦即ち6月22日以前において(日米諒解案に基づく交渉を)纏めれば纏められる」[117] — 岩畔豪雄
6月21日米国案のハル国務長官のオーラルステートメントには、不幸にして日本の指導者の中にドイツ支持者がいると指摘し、名指しこそしていないものの、松岡外相がいる限り交渉はまとまらないことを意味するくだりがあった[115][118]。これを内閣改造を要求するものと受取った松岡は激怒し、オーラル・ステートメントを取り次いだ野村大使をも批判した[119] [118]。
日本政府と軍部は独ソ戦への対応に追われたため、連絡懇談会で6月21日米国案の検討に着手したの7月10日のことであった[112]。松岡は斎藤顧問を出席させ、「相呼応してほとんど全面的な日米交渉反対論」を展開したという[120]。
松岡は米国の狙いを、
と結論づけ、そのうえで、オーラルステートメントの受理を峻拒すること、交渉を続けるなら5月の松岡修正案を堅持しつつ少許の米国案字句を取り入れるほかないが、これでは日米交渉の妥結の見込みはないこと、また交渉打ち切りの場合は時期および方法を慎重に考慮する必要があることを述べた[121]。
7月12日の連絡懇談会においても、松岡は「吾輩はステートメントを拒否することと、対米交渉はこれ以上継続できぬことをここに提議する」と述べた[122]。杉山元参謀総長は米国に断絶のような口吻をもらすのは適当ではない、交渉の余地を残してはどうかと松岡に意見したが、松岡はアメリカ人の性格から弱く出るとつけあがるから、この際強く出るべきだとはねつけた[123]。
しかし、陸海軍は少なくとも仏印進駐終了までは対米交渉を引き伸ばすこととし、
の3点を明確にするよう求めた[120][124]。
もっとも、この3点は6月21日米国案で削除された項目であり、これらを復活させて交渉の余地を残すというのは互譲の精神に欠けたものであった[124]。松岡は「何か余地がありますか、(ほかに)何を(譲歩に)入れますか」「南方に兵力を使用せぬというならば(米も)聞くだろうが、ほかのことで何か(譲歩が)あるか」「交渉を続けるならば(米から)蹴って蹴って蹴りのめされてから、はじめて交渉をやめるようになるだろう」と反発したが、会議の結論は、オーラルステートメントは拒否するが、交渉は松岡修正案を再修正して続行することに決まった[124]。
日本の対案作成は連絡懇談会終了後から始まったが、陸海軍からの督促を松岡がサボタージュしたため、対案が完成したのは7月14日となった[125]。しかも松岡は「まずオーラルステートメント拒否の訓電を発し、しかる後2、3日経ってから、日本の対案を発電すべき」と主張し、それではアメリカ側の悪感情を招き交渉が決裂する恐れがある、少なくとも拒否の訓電と日本の対案は同時に発電すべきとする近衛首相や陸海軍と対立した[126]。
7月14日深夜、松岡は自説を固持してオーラルステートメントの撤回要求のみを打電させたが、翌15日の朝には近衛の意を受けた寺崎太郎アメリカ局長が、松岡に無断で日本案を追いかけて打電するなど事態は紛糾した[127]。事ここに至り、関係閣僚は松岡では重大な外交問題は処理できないとの結論で一致し、16日、近衛は松岡を罷免させるため内閣を総辞職した[128][127]。
7月17日、日本の要求に対してハルは簡単にオーラルステートメントを撤回した[123]。しかし、この日の第3次近衛内閣発足で松岡は外相に登用されず英米派の豊田貞次郎がなったため、ハルの要求が結果として通った[129]。近衛は豊田の外相就任を「日米交渉を何とかして成立せしめんとする余の熱意の表れ」としている[128]。
アメリカは日米通商航海条約失効後、対日禁輸を強化しており、そのため日本は南方地域に物資を求めるようになった[130]。1940年9月からは蘭印と、10月からは仏印とそれぞれ経済交渉を開始しており、特に蘭印との石油交渉は「対米石油依存からの完全脱却」を図るものであった[130](日本の当初の希望量は石油100万トンであったが、増量の要求を重ねた結果、希望量は380万トンまで膨れ上がっていた[131])。日本は、日蘭会商で蘭印と石油200万トンの供給量で合意し、この量は当初の希望量の2倍、最終希望量の53%であった[132]。日本と蘭印の関係は三国同盟成立を機に悪化の一途を辿っており、石油以外の交渉も難航、1941年6月17日、日蘭会商の芳澤団長は蘭側へ交渉の打ち切りを通告した[132]。なお、仏印との経済交渉は、ほぼ日本の要求が通った形となったが、物資不足の解消につながるものではなかった[133]。
仏印南部に兵力を進駐させる案は5月ごろから検討されていたが、仏印の冷淡な対日態度、蘭印との経済交渉の行き詰まり、独ソ開戦必至の報(6月6日大島電)などの要素から陸海軍で南部仏印進駐論が台頭する[134]。その目的は、蘭印への牽制、仏印の政治的確保、南部仏印物資の獲得、タイへの牽制、米英が先行して南部仏印を確保することを予防、対日包囲陣の分断、空軍基地の確保にあった[135]。換言すると、仏印を掌握し、蘭印に圧力をかけて石油等の資源を手に入れ[136]、英領マレー・シンガポール攻略に不可欠な軍事的要衝を抑えるということであった[137][注釈 11]。
松岡外相は南進すれば英米を刺激するとして執拗に反対を続けていたが、6月25日、松岡の反対を抑える形で南部仏印進駐を定めた「南方施策促進に関する件」が決定された[134]。さらに7月2日には、独ソ戦についても「密かに対ソ武力的準備を整え自主的に対処す」と定めた「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が御前会議で決定された[139][注釈 12]。
なお、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」には、「南方施策促進に関する件」の「目的達成の為、対英米戦を辞せず」との文言があるが、これは対英米戦の決心がない限り、仏印進駐のための交渉には応じられないとする松岡を納得させるための作文に過ぎなかった[136]。
7月19日、豊田外相はヴィシー政府に南部仏印進駐に関する最後的な通牒を送り、22日に話し合いが成立、25日には日本軍は海南島三亜を出港し、28日から南部仏印への上陸を開始した[141]。
日本の南部仏印進駐の措置について、アメリカはマジック情報などにより事前に把握しており[142]、23日、サムナー・ウェルズ国務次官は日米交渉の中止を野村大使に告げた[143]。さらにアメリカは24日の新聞発表で、日本の南進について、「我が国の安全保障に重大なる問題を及ぼすものと深く認識する」との声明を出した[144]。日本軍の中国駐兵については安全保障に関する問題と見なしていなかったアメリカも、日本軍の南部仏印進駐については、これを東南アジア侵攻への最初の一歩と受け取ったのであった[144]。
「彼らは公然たる非友好的な行為を修飾するために、平和と友好という嘘と詐欺的な言葉を使うのである。これは彼らが前進の準備ができるまでそうするのである[143]。…日本の侵略は力以外では阻止できない。問題はいかに長く、ヨーロッパの軍事問題が終結するまで、我々が事態を策でもって動かしうるかにある[145]」 — ハル
ルーズベルト大統領は、対抗措置としてフィリピン防衛の強化および対日資産凍結をとることにした[146]。ただし、ハル国務長官や米海軍が、強硬な経済制裁は日本の蘭印侵攻、ひいては日米衝突を招くと反対していたこともあり、ルーズベルトは資産凍結が全面禁輸をもたらさないことを確約していたという[146]。
7月24日朝、ルーズベルトは対日石油供給の問題について次のように言及した。
「もしアメリカが石油を絶っていたら、日本はおそらく一年前に蘭領インドに赴き、アメリカは日本と戦争したであろう。アメリカは自己の利益のため、イギリス防衛のため、海洋自由のため、南太平洋から戦争を締め出す希望をもって、日本に石油を供給した。それは過去二年間役に立った」[147]
24日午後の閣議でルーズベルトは在米日本資産の凍結を決定した[147][148]。その後、野村大使を引見したルーズベルトは、日本への石油の禁輸を強く主張する世論を説得してきたが、いまやその論拠は失われつつある、日本が石油獲得のためオランダ、イギリスと戦争をすればアメリカは援英政策をとっているため事態は重大となると述べた。そのうえで、もし日本軍が仏印から撤兵すれば、中国、イギリス、オランダ、アメリカの各政府はその中立を保障すると仏印の中立化を提案した[149][150](ルーズベルトは各国が自由公平に仏印の物資を入手する方法があれば尽力するとも述べている[150])。
7月26日、アメリカは在米日本資産の凍結を実施した(イギリス、蘭印もこれに続き、日蘭民間石油協定は停止された)[151][148][注釈 13]。
7月27日、本国から大統領提案の通報を受けたジョセフ・グルー駐日アメリカ大使は「これは日本が自称する困難と、これまた日本が自称する自国の安全をおびやかすABCD国家の包囲的手段とからぬけ出す、理屈にあった方法を、日本に提供している」[155]と考え、豊田外相と会談、大統領提案の受け入れを要請した[156]。グルーは、日本がこの提案を受諾するか否かが太平洋の平和を決定するとして懸命に説得を行ったが、豊田はあまりに重大な提案なので即答できないなどと消極的反応を示した[157]。なお、グルーが、日本の現在の政策はドイツの圧力によって行われていると米国民一般に信じられていることを指摘すると、豊田はドイツは日本の政策決定には無関係だと強く否定したという[158]。
8月1日、アメリカは対日貿易制限の具体的内容を発表し、「米国の国防の許す範囲内で、日本が35~36年度に購入したと同量までの低質ガソリン、原油および潤滑油については輸出許可証および凍結資金解除証を発行。その他の通商は、原棉と食糧を除いて、全面的に不許可」とした[159]。しかし、その後、対日石油輸出や石油取引支払いのための凍結資金の解除は実際には許可されず、アメリカは石油の全面禁輸に踏み切ることになった[159](そもそもアメリカは全面禁輸令など出していないことには注意を要する[160])。
石油の輸出管理システムが構築されていたにもかかわらずなぜ全面禁輸になったのか、これには世論の圧力を原因とする説、対日強硬派の官僚たちの不作為により管理システムが機能しなかったという説(ルーズベルトやハルは9月まで石油の禁輸を知らなかったとされる)、ディーン・アチソン国務次官補が独断で資金の凍結を解除しなかったという説、日本の「南進」「北進」を抑止するためのルーズベルトの確たる意志とする説、あるいはヘンリー・モーゲンソー財務長官の影響を指摘する説などがあり、議論が続いている[160][注釈 14]。アメリカが全面禁輸を発動した理由は現在も謎である[2]。ロナルド・リンゼイ(英語版)駐米英国大使は「ルーズベルト大統領は戦争を避けるため、経済封鎖に固執していた」と述べている[161]。
日本の政府と統帥部は南部仏印進駐の決心にあたり全面禁輸無しと予測していた(参照: 仏印進駐#石油禁輸の予測)。佐藤陸軍省軍務課長は、日本軍はすでに北部仏印に進駐しており、それが南部に進むだけで日米戦争にはならないと判断していたと述べている[162]。予測外の強硬な制裁は政府・統帥部に大きな衝撃を与えた[163][164](参照: 仏印進駐#南部仏印進駐の日米関係への影響)。
当時、日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく[注釈 15]、石油がなくなる前に産油地帯の蘭印を攻略するという選択肢が台頭することになる[166][167]。そして、蘭印攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、当時米領だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、それは必然的に対米開戦を意味する[168]。結果的に、南部仏印進駐と対日全面禁輸は太平洋戦争への岐路となった[167]。
8月6日、仏印中立化の提案に対する日本の回答が野村大使からハル国務長官に提示された[169]。
仏印以上に進駐しないというのは日本としては譲歩ではあるが、南部仏印に駐留したままでは説得力にかけるうえ、仏印中立化どころか日本に特権的な地位を求めるなどあまりに虫のいい提案であった[169]。この提案にハルは悲観的な見通しを示し、日本の行動に深く失望したことを表明したうえで、日本が征服の政策を捨てない限り、話し合いの余地はないと取り合わなかった[170]。米国の回答は8日にハルから示されたが、これは日本の提案は大統領提案への回答としては不充分であると厳しく指摘するものであった[169]。
8月4日、近衛首相は日米首脳会談の決意を東條陸相、及川古志郎海相に告げた[171][172]。及川は全面的賛成を表明し[173]、東條は会談がまとまらなかった場合にも内閣を放り出さないこと、対米戦の決意をもって臨むことを条件に賛同した[174][175]。近衛の狙いは、昭和天皇から全権を授かり、ルーズベルト大統領と直談判し、軍部を飛び越えて天皇の裁可を仰ぐことで事態を収拾することだったとされる[176] 。
8月7日、近衛は昭和天皇から首脳会談を速やかに取り運ぶようとの督促を受け、野村大使に宛て「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」として、ルーズベルトとの首脳会談を提案するよう訓電した[177]。首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われたが(ルーズベルトはウィンストン・チャーチル英首相との大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった[174]。
8月17日、大西洋会談から戻ったルーズベルトは野村に対日警告を読み上げた[注釈 16]。
「もし日本政府が武力ないし武力の威嚇によって隣接諸国を軍事的に支配しようとする政策または計画にしたがい、今後なんらかの手段をとるならば、米政府は、アメリカおよび米国民の正当なる権利と利益を保護し、アメリカの安全を保障するために必要と思われる一切の手段を、直ちにとらざるをえないであろう」[179]
その一方で、ルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうかと返事をした[174]。
8月26日、大本営政府連絡会議の可決を経て、近衛は「先ず両首脳直接会見して必ずしも従来の事務的商議に拘泥することなく大所高所より日米両国間に存在する太平洋全般に亙る重要問題を討議し、時局救済の可能性ありや否やを検討することが喫緊の必要事にして細目の如きは首脳会談後必要に応じ主務当局に交渉せしめて可なり」との「近衛メッセージ」を発出した[180]。28日に野村から「近衛メッセージ」を手交されたルーズベルトはこれを大いに賞賛し、3日ほど会談しようと述べた[181][182]。しかし、同夜に行われた野村とハルの会談において、ハルは首脳会談で話がまとまらなければ真に憂慮する結果を来すとして、あらかじめ大体の話をまとめてから首脳会談で最終的に決定する形式にしたいとの意向を示した[183]。
9月3日(米時間)、アメリカ側は覚書を手交し、首脳会談には原則的に賛成だが、協定の根本問題について予備会談を設けること、ハル四原則および6月21日米国案により討議を行うべきことを主張した[184]。時を同じくして、日本側では新たな対米提案を検討しており(外務省案「日米交渉に関する件」)、9月3日(日本時間)の連絡会議でこれを採択していた[185]。「日米交渉に関する件」は翌4日に豊田外相からグルー駐日大使に、6日(米時間)には野村大使からハル国務長官に対米新提案をして手交された(日付をとって9月6日付日本案と呼ばれた)[186]。
9月6日付日本案の日本側約諾事項の要点は以下の通りである[187][188]。
豊田は野村への説明で、今回の新提案は「(米側の主張する)『予備的討議』に対する我方回答とも結果的には相成る次第」「米の希望にミートし得る最大限を示すもの」と自信を見せ、日本側としては原則として両首脳の会談における政治的解決を待つ意向であるとした[191]。
6日の会談で野村はハルに、米国側が高度の「ステーツマンシップ」を発揮して首脳会談の速やかな実現のため協力することを要望したが、10日の会談でハルは、日本の新提案は「今迄の話合いの点を非常に『ナロウダウン』し居る様」と不満を示した[192]。ハルは撤兵における「日支間協定」の内容や経済活動における「公正な基礎」あるいは「“南西”太平洋」といった制約的文言に疑問を呈しており、曖昧な表現で交渉を切り抜けようとした外務省の目論見は外れたのであった[193]。
9月27日、日本側はドイツとの関係に誤解を生じる犠牲を払っても日米首脳会議を行いたいと打電し、輸送の船舶と随員も決定済みで、時期は10月10日または10月15日が好都合と提案した[194]。しかし、10月2日のハル国務長官より手交された回答は原則論を崩さないもので、日米両政府があらかじめ了解に達していない以上、首脳会談は危険であるとして実質的に拒否した[195]。これを受け野村は日本政府はさぞかし失望するであろうと述べて引き取り、「日米交渉は遂にデッド・ロックとなりたる観あるも打開の道は必ずしも絶無でもなかろう」と状況報告せざるを得なかった[196]。
日米首脳会談については、陸軍の主戦派ですら、近衛首相は一方的に譲歩してでも日米妥結を図ると見ており、対米屈服の第一歩と捉えられていた[197](主戦派の一人、佐藤賢了軍務課長は「アメリカも間抜けだわい、無条件に会えば万事彼らの都合通りいくのに」と語っていた[198])。豊田外相は「行けば必ずやりとげる積りで(中国からの)撤兵の件も何も出先で決めて御裁可を仰ぐ覚悟であった」と回想しており、海軍省の岡軍務局長も「近衛がルーズベルトに会ってしまえばその場で始末をつけるだろうから、ともかく行けばなんとかなるだろう」との考えであった[199]。
アメリカ側では、近衛首相や豊田から首脳会談開催への尽力を依頼されたグルー駐日大使が、日米の危機を回避できる機会だとして、ハルおよび国務省に具申を重ねていた[200]。しかし、グルーの進言はほぼ相手にされず、影響力を持ったのは国務省政治顧問スタンレー・ホーンベックの進言であった[201]。ホーンベックは首脳会談に強く反対しており、「たとえ会談が開かれたとしても、近衛公はなにもできないか、まったくぼんやりしたコミットメントしかできないであろう」と見ていた[202]。ホーンベックの対日認識は、日本は4年にわたる支那事変で消耗している、日本のリーダーたちは仲間争いをして不安定であることを理由に「日本に関しては危険はない」というものであった[203]。そして、日本に対して経済的、軍事的な圧力を加える力の外交を続ければ「時をかせぐ最良の機会となり、太平洋の領域に交戦状態を拡散させることを防ぐ最良の可能性を持っており、それは結局三国同盟の崩壊を期待できる」「短期的にも長期的にも戦争への可能性は減るであろう」との持論を展開していた[204]。
ハルもまた首脳会談は第二のミュンヘン会談になるとして反対の立場であり、当初は乗り気を見せたルーズベルト大統領もハルの助言を取り入れたという[205] 。
この間、日本の国策は対米開戦へと大きく傾斜していた。8月16日、海軍側から陸軍側へ「帝国国策遂行方針」と呼ばれる新たな国策案が提示された。その骨子は「戦争を決意することなく戦争準備を進め、この間外交を行い、外交打開の途なきに於いては実力を発動」するというもので、海軍の狙いは臨戦態勢を整えることにあった[206][注釈 18]。
しかし、ここで海軍と陸軍の開戦プロセスの違いが表面化する。海軍の戦争準備は、おもに艦隊の編成を戦時編成に切り替えることであり、「戦争決意」がなくとも柔軟に対応できた。それに対し陸軍の戦争準備は、内地で大量の兵士を動員して、大陸へ海上輸送することであり、「戦争決意」なしに本格的な戦争準備はできないというのが陸軍側の論理であった[208]。こうして陸軍側(おもに参謀本部)は「戦争決意」を明記した修正案(「帝国国策遂行要領」と呼ばれる)を提示し、海軍側との折衝を重ねることとなる[208]。海軍側は戦争決意に強硬に反対していたが、結局、「戦争を辞せざる決意」との文言で妥協が成立し、戦争決意の時期は10月上旬となった(8月30日成立の「帝国国策遂行要領」陸海軍案の案文は「対英米戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」「外交交渉により十月上旬に至るも尚我が要求を貫徹し得ざる場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す」)[208]。
要は「『戦争準備だけは完成して開戦・避戦は最後の瞬間に決定すればよい』と考える海軍と、『開戦決意を明定しなければ戦争準備が進められない』との立場に立つ陸軍が、机上で作文した」のが実態であったが、のちの日本の国策を著しく制限することになった[209][注釈 19]。
9月3日、「帝国国策遂行要領」の陸海軍案が大本営政府連絡会議に提出された。しかし、及川海相が案文に異議を唱えたため、結局「外交交渉により十月上旬頃に至るも尚我が要求を“貫徹し得る目途なき”場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す」との修正が加わり、交渉継続の余地を残すような表現となった(『機密戦争日誌』には「之により本案骨抜きとみるべし。十月上旬に於て更に大なる議論となるべし」と記されている)[210]。
審議の過程で、永野修身軍令部総長が日本は物資が減りつつあり、これに反し敵側はだんだん強くなりつつある、今ならば戦勝のチャンスがあるが、時とともになくなる恐れがあると述べ、杉山参謀総長は動員などで時間がかかるので戦争準備完了の目途は10月下旬とし、なるべく早く決意したいとした[211]。
この戦争準備を10月下旬とする理由については、「九月六日御前会議質疑応答資料」によると、
の3点が挙げられている[212]。ちなみに、戦争の見通しについては「質疑応答資料」には次のようにある。
「対英米戦争は長期持久に移行すべく、戦争の終末を予想すること甚だ困難にして、とくに米国の屈服を求むることは先ず不可能と判断せらるるも、我が南方作戦の効果大なるか、英国の屈服等に起因する米国世論の大転換により、戦争終末の到来必ずしも絶無にあらざるべし」[212][213]
なお、「帝国国策遂行要領」には、別紙として、「対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項」がつけられていた[214][215][216]。
これらの要求が応諾された場合は日本は以下の約束をする。
これらの外交条件は、経済制裁を受けて窮地にある日本としては明らかに過大要求であり[217]、アメリカにとっては受け入れがたい内容であった[218]。しかし日本としても欧米の帝国主義に囲まれている中での最善のあがきであった。
連絡会議は僅か1回7時間の審議で案文を可決し[216]、9月6日御前会議において「帝国国策遂行要領」は正式決定となった。なお、御前会議では、昭和天皇が異例の発言を行う一幕があり、明治天皇の御製[注釈 20]を読み上げて平和への意思を示し、統帥部に外交が主で戦争は従であると釘を刺した[222][223](ただし、天皇は案文自体への干渉は避けている)[224]。
その後、これまでの日本の提案が錯綜していたこと、御前会議から2週間が経っても日米交渉の目途が立たないことから、日本側の最後的態度を決定して米国側に提示することとなった[225]。案文は9月20日連絡会議で決定され、25日にグルー大使に手交された(ワシントンでは27日に手交)[225][226]。
9月25日付日本案 (略) (欧州戦争に対する両国政府の態度)適当な時期に協力して速やかな世界平和回復に努力。それまでは両国政府は防護と自衛の見地で行動。米国参戦の場合における日本の三国同盟に対する解釈、義務履行は専ら自主的に行う。 (日中間の和平解決に対する措置)米国は重慶政権に日本と交渉するよう橋渡しし、かつ、その間日本の支那事変解決に関する措置及び努力に支障を与える行動に出ない。日本は支那事変解決に関する基礎的条件が近衛声明及び既に実施されている汪兆銘政権との条約(日華基本条約)と矛盾しないこと、並びに日中間の経済協力は平和的手段により、国際通商関係における無差別の原則及び隣接国間における自然的特殊緊密関係の原則において行われ、第三国の公正な経済活動は排除されないことを闡明する。 (日米両国間の通商)正常な通商関係を回復する。相互の資産凍結を直ちに撤廃。 (南西太平洋に関する経済問題) 平和的、無差別待遇の原則のもと、国際通商および投資の条件創設に努力する。石油などの特殊物資の取得については、無差別待遇を基礎に関係諸国との協定及びその実行に関して協力する。 (太平洋地域における政治的安定に関する方針) 日本は仏印を基地として近接地域(中国を除く)に武力進出しない。太平洋地域における公正な平和確立後仏印から撤兵する。米国は南西太平洋地域の軍事的措置を軽減する。両国はタイ・蘭印の主権及び領土を尊重し、独立後のフィリピン中立化協定を締結。米国はフィリピンにおける日本人に対する無差別待遇を保障する。 「註」日中和平基礎条件 (一)善隣友好、(二)主権及び領土の尊重、(三)日中共同防衛:防共および治安維持を目的とする一定地域における日本陸海軍の所要期間駐屯[注釈 21]、(四)撤兵:それ以外の軍隊は支那事変解決にともない撤兵、(五)経済提携、イ.国防資源開発利用のための日中経済提携、ロ.公正な第三国の経済活動は制限されない、(六)蔣介石政権と汪兆銘政権の合流、(七)非併合、(八)無賠償、(九)満州国承認
この提案は参謀本部の強行意見が反映されているため[注釈 22]、譲歩と呼べそうなのは2.(米国の対独参戦が日本の自動参戦を意味しないの意)くらいであり[230]、「依然として従来の主張を変えないのはただただ譲歩すべきは米国側であることを発想の前提としている」[231]内容であった。
野村大使は「今更新提案は困る」と不満を示し、難点を列挙しつつ、特に汪兆銘政権との条約を基礎とする日中和平では米国を満足させえない、駐兵問題で交渉決裂の公算大であることを進言した(9月28日野村電。なお、この電報と前後して在米陸海軍武官からの報告電があったが、いずれも「駐兵問題に絡まり交渉見込み薄」「支那駐屯の放棄なき限り交渉成立の望みなきこと明瞭」という内容であった)[232][注釈 23]。
10月2日、ハルは「太平洋の平和維持のためには一時の取繕いの了解では不可で明快な協定を欲する」と述べ、回答案を野村に手交した。それはハル四原則を持ちだしたうえで、日本が「日中和平基礎条件」で不確定期間にわたる特定地域への駐兵を主張していることに異議を唱え、三国条約については日本の立場をさらに闡明するよう求めるものであった[234]。
10月2日付の米国の回答案を受け、陸軍は5日に開催した省部局部長会議において「外交の目途なし。速に開戦決意の御前会議を奏請するを要す」との結論に達したが、同日に行われた海軍省部首脳会議は「首相の堅き決意の下に明六日首相陸相会談、交渉の余地ありとして時期の遷延、条件の緩和につき談合することとす」と決まった[235]。翌6日、陸海部局長会議において、海軍の岡軍務局長は駐兵条件を緩和すれば交渉の目途ありと主張し、陸海軍の対立があらわとなった[236]。
その後、東條陸相と杉山参謀総長は、交渉の目途なし、ハル四原則は承認しない、駐兵条件に関しては表現方法も含めて一切変更しない、もし政府が外交の見込みありとするならば15日を限度にこれを行ってもよいとの方針を確定し、海軍と近衛首相を説得することを申し合わせた[237]。他方、海軍省部首脳会議は「撤兵問題の為日米戦ふは愚の骨頂なり。外交により事態を解決すべし」との交渉継続論に達した[238]。しかし、及川海相が「それでは陸軍と喧嘩する気で争うても良うございますか」と決意を示して了承を求めたところ、永野軍令部総長が異議を唱え、他の出席者も沈黙したため、海軍の意思統一はできなかった[238]。
近衛は10月5日および7日に東條と会談し、撤兵を原則とし、その運用で駐兵の実質をとることはできないかと説得したが、東條に絶対にできないと拒絶され、物別れに終わった[239]。7日の東條と及川の会談も、交渉の目途を巡って意見の一致はみなかったが、東條が戦争の自信を問いただしたところ、及川は「それはない」と言明し、「統帥部の自信とは緒戦の勝利の意。二、三年後のことは検討中」と打ち明けた[240]。東條は「仮に海軍に自信がないというならば考えなおさなければならない。勿論重大な責任において変更すべきものは変更しなければならない」と9月6日御前会議決定の責任問題に言及した[240]。
さらに翌8日の東條―及川会談では、東條は「最後に悲壮なる面持ちにて」次のように述べたという[241]。
「支那事変にて数万の生霊を失い、見す見すこれを去るは何とも忍びず、但し日米戦ともならば更に数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えざるべからずも、決し兼ぬる所なり」[242][注釈 24]
10月12日、近衛首相は荻外荘に陸海外三相及び鈴木貞一企画院総裁を招き、和戦に関する最後的会談を行った。主な発言は以下のとおりである[244]。
また、特に駐兵問題について、東條は「駐兵問題は陸軍としては一歩も譲れない」「支那事変の終末を駐兵に求める必要がある」「(駐兵の)所要期間は永久の考えなり」とした[244]。結局、荻外荘会談においても何ら結論を得ることが出来なかったため、鈴木は近衛に対し「陛下に御願いして9月6日の決定を一旦白紙に返して、対米交渉を継続することにしてはどうか」と進言した[245]。
この時期、日本が日米戦争という破局を避けるには、海軍首脳が避戦の態度を明確にするか、陸軍首脳が中国からの撤兵を勇断するかのどちらかであったが[246]、いずれも現実のものにはならなかった。
前者については、荻外荘会談の前日、武藤軍務局長から富田健治内閣書記官長を介して海軍側に、戦争はできないと明言してほしい、そうすれば陸軍部内の主戦論を抑えるとの要請があった[247]。富田は海軍の岡軍務局長と同道して及川海相を訪い、戦争回避、交渉継続の意志を明言するよう下交渉を行ったが、及川はあくまで「首相一任」の態度を取り続けたのであった[248][247][注釈 25]。
「あなたの言われる所は能く解ります。併し軍として戦争できる、できぬなどと言うことはできない。戦争をする、せぬは政治家、政府の決定することです。…そこで明日の会談では海軍大臣としては、外交交渉を継続するかどうかを総理大臣の決定に委すということを表明しますから、それで近衛公は交渉継続ということに裁断してもらいたいと思います」[248][247]
後者については、東條陸相の次の発言が注目できる。10月14日の閣議前、東條は近衛首相と会談し、駐兵問題について再考を求められたがこれを拒否し、閣議では持論を「興奮的態度で力説した」という[250]。
「撤兵問題は心臓だ。…米国の主張に其儘服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危くする。さらに朝鮮統治も危くなる。帝国は聖戦目的に鑑み非併合、無賠償としてをる。…駐兵により事変の成果を結果つけることは当然であって、世界に対し何等遠慮する必要はない」 「北支蒙疆に不動の態勢をとることを遠慮せば如何になりますか、満州建設は如何になりますか。将来子孫に対し積年の禍根を胎すこととなり、之を回復する為、又々戦争となるのであります。満州事変以前の小日本に還元するなら又何をか言はんやであります。撤兵を看板にすると言ふが之はいけませぬ。撤兵は退却です。帝国は駐兵を明確にする必要かあります。所要の駐兵をして其他の不要なものは時か来れば撤兵するのは当然です。撤兵を看板とすれば軍は志気を失ふ」 「駐兵は心臓てある。主張すべきは主張すべきで、譲歩に譲歩々々々々を加へ、其上に此基本をなす心臓迄譲る必要がありますか。これ迄譲りそれが外交とは何か、降伏です。益々彼をして図にのらせるので何処迄ゆくかわからぬ。…譲ることのみを以て自信ありと言われても、私は之を承け容れるることは出来ぬ」[251]
東條の発言は、この問題を一般閣僚にも知らせる必要があるとの趣旨でなされたが、閣僚は誰も反駁しなかったという[251]。そして、閣議後、東條は参謀本部首脳に対して「陸軍は(近衛内閣に)引導を渡したる積りなり」と説明した[252]。
10月14日夜、閣議での東條陸相の発言により、近衛首相は総辞職を決意した[253]。近衛が鈴木企画院総裁を介して、総辞職後の政局の収拾について東條の考えを聞くと、東條は東久邇宮稔彦王を後継内閣の首相に推薦した[253]。
『近衛手記』によると、東條の意見は「段々其後探る処によると海軍が戦争を欲しないようである。…海軍がさういふやうに肚がきまらないならば、9月6日の御前会議は根本的に覆へる」「御前会議に列席した首相はじめ陸海大臣も統帥部の総長も、皆輔弼の責を充分に尽くさなかったことになるのであるから、此の際は全部辞職して今までのことをご破算にして、もう一度案を練り直すといふこと以外にないと思ふ。それには陸海軍を抑えてもう一度此の案を練り直すといふ力のあるものは、今臣下にはない。だから、どうしても後継内閣の首班には今度は宮様に出て頂くより以外に途はないと思ふ」[254]ということであった[253]。東久邇宮は対米戦反対論者であったため、近衛も東條の意見に賛成した[253]。
しかし、木戸幸一内大臣は、難問が未解決のまま打開策を皇族にお願いするのは絶対に不可、また皇族内閣で戦争に突入すれば皇室が国民の怨府となる恐れがあることを理由に東久邇宮内閣に反対した[255]。木戸の意中の人は、これまでの交渉経緯を熟知している、かつ開戦、避戦のいずれの場合でも予想される国内の混乱を抑えられる人物で、それが東條であった[256]。木戸の反対を伝えられた近衛は、閣僚から辞表を取りまとめ、第三次近衛内閣は総辞職した[255]。
10月17日、重臣会議が開かれ、木戸の主導で東條を後継内閣の首相に推挙することになった[257]。木戸が東條を指名したのは、天皇に対する忠誠心が人一倍強いためとも言われている[258][注釈 26]。
宮中からのお召しを受けた東條は、昭和天皇から陸軍の主戦論および駐兵固守の態度についてお叱りを受けるものと覚悟して参内したが、予想に反して組閣の大命を受けた[257]。さらに東條は昭和天皇から陸海軍の協力を一層密にするよう命じられ、続いて参内した及川海相も陸海軍の協力を命じられた[257]。また、東條、及川には木戸から9月6日御前会議決定の白紙還元の聖旨が伝えられた[257]。
東條内閣は対米戦争に踏み切った内閣として悪名高いが、むしろ近衛内閣よりも積極的に対米交渉を行ったと見ることもできる[260]。東條は非戦論に傾いており、外務大臣には平和主義で知られた東郷茂徳を迎えた[258][注釈 27]。また、東條は大蔵大臣候補の賀屋興宣との入閣交渉では「できるだけ日米交渉に努力して、戦争にならないように平和に解決できるように努力したい」と述べており[262]、及川海相の後任候補となった嶋田繁太郎との入閣交渉においても「海軍軍備の充実」とともに「外交の推進」を約していた[263][注釈 28]。東條の交渉推進への方向転換については、陸軍内部から「東條変節」と評する声さえ聞かれたが、東條にとっては天皇の御言葉が絶対であった[265][注釈 29]。
なお、近衛内閣の崩壊と軍人内閣の出現はアメリカ側に戸惑いを与えたものの、それほど悪い印象を与えたわけではなかった。戦争に打って出る危険性は孕んでいるものの、日米間の対話は継続されるというのが大方の認識であった[267] 。
18日に成立した東條内閣は「白紙還元」に基づき、国策再検討を行うこととした。しかし、再検討の関係資料の多くを作成した陸海軍の責任者は海相を除けば前内閣と同じ顔ぶれで、かつ再検討に消極的なため、「かような性質の資料に立脚した国策再検討が要するにもとの木阿弥に落ちついたのはむしろ当然」で、結論的には和戦両様案の採択となる[268]。
29日の連絡会議は対米条件の審理となり、9月6日御前会議決定の最小限度の要求を緩和した甲案が決定した[269][270]。従来の条件では短期間内に外交を妥結させる見込みなしと全員が一致したため、条件緩和に議論が移ったが、最大の焦点となったのは中国における駐兵、撤兵問題であった[269]。
東郷外相が「他国の領土に無期限に駐兵するの条理なきこと」を説き駐兵期間5年を主張したのに対し、参謀本部は「駐兵を期限付とする時は支那事変の成果を喪失せしむる」として強硬に反対し、東條首相も暗にこれを支持するなど反対論が相次いだ[271][269]。東條は永久に近い言い表し方として年数を入れることを提議し、99年案や50年案も出たが、結局は25年とすることで話がまとまった[269]。また、三国条約については従来通りで変更せず、中国における通商無差別待遇の問題については「無差別原則が全世界に適用されるに於いては」という条件を付し、これを認めることに決まった[269]。
甲案 通商無差別問題に関しては、日本は無差別原則が、全世界に適用されるにおいては、太平洋全域、即ち中国においても、本原則の行われることを承認する 三国同盟問題に関しては、日本は自衛権の解釈をみだりに拡大する意図なきことを明瞭にする。同盟条約の解釈及び履行は日本の自ら決定するところにより行動する 撤兵問題に関しては、(A)中国においては華北・内蒙古の一定地域、並びに海南島には日中和平成立後所要期間駐兵、その他の軍隊は日中間協定により2年以内に撤兵。所要期間について米側から質問があった場合、概ね25年を目処とする旨をもって応酬すること。(B)日本は仏印の領土主権を尊重する。仏印からは、日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後撤兵 なお、(ハル)四原則に関しては、これを日米間の正式妥結事項に含めることは極力回避する
甲案は、9月25日付日本案から懸案三問題(中国における通商無差別問題、三国同盟の解釈及び履行問題、撤兵問題を指し、日米交渉の三難点と言われた)について日本の譲歩を示したものになる[272]。最大の譲歩は1で、日本が中国における特恵待遇を放棄し、米国の主張する通商無差別原則の適用を中国においても認めたのであった[273]。また、3で駐兵期間は期限付きとなり、駐兵地域から厦門及揚子江流域が外されたことも、日本側の譲歩であった[273]。
嶋田海相は入閣当初、戦争回避の必要性を明言していたが、10月23日から30日までの連絡会議における討議の影響を受け意見を覆した[274]。30日、嶋田は沢本頼雄次官や岡軍務局長に対し「数日来の空気より総合して考えうるに、この大勢は容易に挽回すべくも非ず」「自分は今の大きな波を到底曲げられない」として戦争決意を表明した[275]。澤本は「何度考えて見ても大局上戦争を避くるを可」「米国の国情として議会に諮らずして戦争をすることは有り得ない」として再考を促したが、嶋田は色をなして「次官の保証がいくらあっても何の役にも立たぬ。時機を失せぬ様にすることが大切である」と押し通した[276]。この嶋田の姿勢について、「政治的に無経験な嶋田の履歴や性格から、彼が開戦・避戦の大局的な判断を短時日のうちにおこなうのはもともと無理な課題であった」[277]との指摘がある。
こうして「実質的に、開戦への最後の歯止めは取り除かれた」[277]形となり、海軍の戦争決意は「対米開戦のポイント・オブ・ノー・リターン」[278]となった。
11月1日の連絡会議は午前9時から開催された。冒頭、嶋田海相は鉄その他物資の増配を頑強に主張し、要求が認められるや開戦決意の意思表示をなした[279][注釈 30]。
続いて議論は、1.戦争を避け臥薪嘗胆する、2.開戦を直ちに決意する、3.戦争決意に下に作戦準備と外交を並行させる、の三案の検討に入った[281]。
第一案の焦点は臥薪嘗胆と戦争のどちらが有利か、であった。これについて、開戦に反対する賀屋蔵相、東郷外相と永野軍令部総長との間で激論が交わされた[282][283]。
賀屋 此儘戦争をせずに推移し、三年後に米艦隊か攻勢をとって来る場合、海軍として戦争の勝算ありや否や(を再三質問す) 永野 それは不明なり。 賀屋 米艦隊が進攻して来るか来ぬか。 永野 不明だ。五分五分と思え。 賀屋 来ぬと思う。来た場合に海の上の戦争に勝つかとうか。 永野 今戦争をやらずに三年後にやるよりも、今やって三年後の状態を考えると、今やる方が戦争はやりやすいと言える。それは必要な地盤をとってあるからだ。 賀屋 戦争後第三年になっても勝算があるなら、戦争をやるも宜しいが、永野総長の説明によれば此点不明瞭だ。しかも自分は米国が戦争をしかけて来る公算は少いと判断するから、結論として今戦争をするが良いとは思わぬ。 東郷 私も米艦隊が攻勢に来るとは思わぬ。今戦争をする必要はないと思う。 永野 「来らざるを恃む勿れ」と言うこともある。先は不明。安心は出来ぬ。三年たてば南の防備が強くなる。敵艦も増える。 賀屋 しからば、いつ戦争をしたら勝てるのか。 永野 今!戦機はあとに来ぬ(強気語調にて)
戦争の見通しについて、永野は戦機は今しかない、開戦後二年は確算あり、三年目以降は不明との主張を繰り返しており、賀屋と東郷は長期戦の見通しが立たない戦争には強く反対していた[284][285]。しかし、2年間無為に過ごすよりも南方作戦を実施して戦略要点と資源を確保した方が有利との議論を崩すことはできなかった[284][283](結局、戦争の見通しは「開戦三年目以降は不明」のまま東條首相が裁定している[284])。
結局、臥薪嘗胆は日本の国力の確実な低下を招き、2年後に石油が尽きた段階で米艦隊に来攻されれば、戦わずして屈服するしかない、という最悪のケースが想定されたため排除されたのであった[286]。逆に、戦争と外交は希望的観測が持てるが故に採用されていく[286]。
第二案は参謀本部が採り、杉山参謀総長と塚田攻参謀次長は「作戦開始は十二月初頭」「直ちに開戦を決意する」「外交交渉は挙げて作戦開始の名目把握及び企図の秘匿におく」と主戦論を展開した[281]。東郷外相と賀屋蔵相はこれに反論して最後の外交をやるように主張し、東條は外交を行う期日を含めて第三案も並行して審議するよう提議した[287]。
政府側の外交上の要求と統帥部の作戦上の要求が対立したが、結局、11月30日まで外交を継続しても統帥上差し支えなしとの結論に達し、
東條「十二月一日にはならぬか。一日でもよいから長く外交をやらせることは出来ぬか」 塚田「絶対にいけない。十一月三十日以降は絶対いかん」 嶋田「塚田君。十一月三十日は何時迄だ、夜十二時迄はよいだろう」 塚田「夜十二時迄は宜しい」
との問答を経て、外交打ち切りの期限は「12月1日午前0時」と決定した[288](第三案の和戦両様案では、9月6日御前会議決定の二の舞いになる恐れがあったため、参謀本部首脳は明確に時間を切るように申し合わせており、その意味では「この時点に時刻を切ったのは塚田の主戦論の部分的勝利」であった)[281]。即ち、11月末までに日米交渉が成立しなければ、12月初頭(実際には12月8日)に開戦と決定した。
当時、英米と日本では国力が隔絶しているのは常識であり、日本の指導者は長期戦が至難であることを皆認識していた。それにもかかわらず、交渉失敗の場合は戦争を避けて「臥薪嘗胆」するのではなく、「開戦」するという極めてリスクの高い選択が行われたことについては、行動経済学のプロスペクト理論と社会心理学の集団意思決定におけるリスキーシフトを指摘する研究もある[289][注釈 31]。
会議は外交交渉の討議に移り、東郷外相は29日に同意を取り付けていた甲案に加え、突如乙案を示して、寝耳に水の軍部に衝撃を与えた[290]。
乙案(外務省原案)[291][292][293] 日米は仏印以外の東南アジア及び南太平洋諸地域に武力進出を行わない 日米は蘭印において必要資源を得られるよう相互協力する 米国は年100万トンの航空揮発油の対日供給を確約する (備考一)本取決が成立すれば日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意あり (備考二)必要があれば従来の提案(甲案)の中にある通商無差別待遇、三国条約に関する規定を追加挿入する
乙案の狙いは日米関係を資産凍結前の状態に復帰させること、南部仏印からの撤兵により「南方進出の意図なきことを事実を以て立証」することにあった[294]。東郷は「従来の交渉のやり方がまずいから、自分は先ず条件の場面を狭くして南の方の事だけを片づけ、支那の方は日本自身でやるようにしたい」「甲案は短時日に望みなしと思う」と説明している[295]。
しかし、杉山参謀総長と塚田参謀次長は乙案に強硬に反対し、
という主張を展開、特に塚田は南部仏印からの撤兵について「絶対に不可なり」と繰り返した[295][296]。このため原案第3項は「資金凍結前の通商状態に復帰し、油の輸入を加える」に改められ、「支那事変解決を妨害しない」(米国の援蔣政策停止を求める項目)が第4項として追加された[295][292][注釈 32]。
その後も、なお南部仏印撤兵反対を主張する杉山、塚田と、そのような条件では外交はできぬと主張する東郷との間で激しい議論が繰り広げられ、会議は幾度も決裂の危機に直面する事態となった(海軍では永野軍令部総長が乙案に賛成を表明している)[295]。
『杉山メモ』[注釈 33]には討議の経過が次のようにある。
「右の如く南仏(印)より北仏(印)に移駐すること、及乙案不可なることに就ては、総長次長は声を大にして東郷と激論し、東郷は之に同意せす、時に非戦を以て脅威しつつ自説を固持し、此儘議論を進むる時は東郷の退却即倒閣のおそれあり、武藤局長休憩を提議し十分間休む」[298][295]
この休憩間に東條首相、武藤軍務局長、杉山、塚田は別室で協議し、乙案を拒否すれば東郷が辞職し倒閣に発展する恐れがあること、また援蔣停止の要求があればアメリカは乙案を呑まないだろうとの結論に達し、杉山と塚田はやむなく乙案に同意することになった[295][299][292][290]。なお、東郷によれば、武藤は「若し此際外務大臣の主張を斥けて交渉不成立となる場合、陸軍では其責任がとれますか」とまで言って杉山に談じ込んだくれたという[300]。
ここに11月1日午前9時から翌2日午前1時まで16時間にわたった「歴史的重大連絡会議」(『機密戦争日誌』11月2日付)は終了した[301]。東郷と加屋蔵相はさらに熟考したいとして態度を保留したが[注釈 34]、2日正午までに両者とも国策案に同意し、対米英蘭戦争決意の下に「武力発動の時期を12月初頭とし作戦準備を行うこと」「甲案、乙案による対米交渉を行うこと」「12月1日午前0時までに交渉が成立すれば武力発動を中止すること」を柱とした「帝国国策遂行要領」が採択された[302]。同午後5時、東條、杉山、永野が列立して連絡会議の結果を昭和天皇に上奏した[301]。天皇の期待に応えられなかったためか、東條は涙を流しながら上奏したという[304][注釈 35]。
11月5日、御前会議において「帝国国策遂行要領」は正式に決定された。そもそも「日米交渉の成否は、直接的に日本の和戦と結びつく筋合いのものではなかった」が、9月6日及び11月5日の国策決定により、日米交渉の成否と日本の和戦が直接的に結びつく結果となった[306]。これにより「日本は開戦に向けて、決定的な一歩を踏み出した」[307]ことになる。
なお、昭和天皇は、9月6日の御前会議では「帝国国策遂行要領」に不満を示し影響力を行使したが、今回は慣例通りに発言はなかった。この心境の変化については、天皇が東條に対して絶大な信頼を寄せていたことが指摘されている[308]。また、統帥部が対英米作戦への成算(特に長期持久戦も可能との結論[注釈 36])を具体的に示したことで説得工作が功を奏し、天皇の戦争への不安を取り除いた、との指摘もある[310][311]。前首相の近衛も、天皇は当初、非戦論に与していたが、陸海の統帥部の意見が入って、少しづつ「戦争の方へ寄っておられる」と感じていたという[312](2021年に公開された百武三郎侍従長の日記においても天皇が「已に覚悟あらせらるる御様子」、開戦「決意」が先行しているので側近が引き止めている等の情報が記されており、近衛の証言を裏付けるものとなっている[313])。
11月4日午前2時、東郷外相は来栖三郎を招致し、野村大使を応援するためワシントンに急行するよう要請した[314]。東郷は日米関係の危機的現状と甲案及び乙案を説明し、特に乙案中の南部仏印からの撤兵については、交渉の最後の切り札として、野村には知らせず来栖へ託した[314]。
東郷の要請を受諾した来栖は、4日の午後7時に東條首相と会見した。東條は、米国は両洋作戦の準備が不充分、米世論がまだ参戦を支持していないこと、ゴムや錫などの重要軍需物資の不足等を理由に「米国も濫りに戦争を望むまい」と述べ、交渉妥結の見込みは成功三分失敗七分位であるから、くれぐれも妥結に努力してほしいと力説した[315]。来栖が交渉が妥結した場合、「首相は必然的に来るべき国内各方面の強烈な反対を排しても、飽くまで吾々の作り上げた妥結を支持遂行するか」と問うと、東條は力強い口調で必ず遂行すると断言したという[315](来栖は翌5日に東京を出発し、11月15日にワシントンに到着した)。
東郷外相は10月21日に野村大使に対して「新内閣に於いても…日米国交調整に対する熱意は前内閣と異なる所なし」と交渉継続の方針を示していたが、御前会議前日にあたる11月4日に詳細な訓電を発した[316]。東郷は「破綻ニ瀕セル日米国交」を調整するために日米交渉対案(甲案、乙案)を決定したこと、「本交渉は最後の試みにして我対案は名実ともに最終案」であることを野村に伝えた[316]。
訓電では、甲案は「要之甲案ハ懸案三問題中二問題ニ関シテハ全面的ニ米国ノ主張ヲ受諾セルモノニテ、最後ノ一點タル駐兵及撤兵問題ニ付テモ最大限ノ譲歩ヲ為セル次第ナリ」と説明されたが、撤兵問題については「撤兵ヲ建前トシ駐兵ヲ例外トスル方米側ノ希望ニ副フヘキモ…国内的ニ不可能ナリ」「国内政治上モ我方トシテハ此上ノ譲歩ハ到底不可能ナリ」とした[272]。
また、乙案は「若シ米側ニ於テ甲案ニ著シキ難色ヲ示ストキハ事態切迫シ遷延ヲ許ササル情勢ナルニ鑑ミ何等カノ代案ヲ急速成立セシメ以テ事ノ發スルヲ未然ニ防止スル必要アリトノ見地ヨリ案出セル第二次案」と説明された[317](ただし、野村に送られた乙案は、アメリカによる傍受・解読を避けるため、備考にある南部仏印からの撤兵の部分が意図的に落とされていた[318])。
11月5日、東郷は甲案交渉の開始を訓電し、乙案の提示については「必ず予め請訓あり度し」とした[319]。さらに「本交渉は諸般の関係上遅くも本月二十五日迄には調印をも完了する必要」との期限を付けた(この11月25日という期限は外務省独自のものと考えられる)[319]。
アメリカ側は、東郷の一連の訓電、日本の提案は「名実ともに最終案」であり、「妥結に至らざるに於ては…決裂に至る外なく」、さらにタイムリミットを付したことなどを「マジック」で解読した結果、これを最後通牒とみなした[320][321][注釈 37]。即ち「マジック」によって、日本が戦争に踏み切るだろうと事前に予測していたのであった。
「ついに傍受電報に交渉期限が現れて来た。…これの意味するところはわれわれには明白だった。日本はすでに戦争の車輪をまわしはじめているのであり、11月25日までにわれわれが日本の要求に応じない場合には、米国との戦争もあえて辞さないことにきめているのだ」[323] — ハル
また、この時の「マジック」情報では、重大な誤訳が生じていた。甲案での「なお、(ハル)四原則については、これを日米間の正式妥結事項に含むことは極力回避する」との訓電が、「マジック」では「四.原則として、これを日米間の~」と誤訳され、日本側の通商無差別、三国条約、撤兵問題での譲歩すべてを正式妥結事項に含むことを避けるという意味となった[324]。ハル国務長官は、東條内閣に対してむしろ交渉への期待を抱いていたが(ハルは天皇の影響力に期待していた)、日本側の誠意を疑わせる「マジック」情報はそれを裏切るものであった[325]。
11月7日、野村大使はハル国務長官に甲案を提示した。ハルはマジックによって甲案の内容はもちろん、乙案が最後にあることも知っていたので、甲案はほとんど問題としなかった[326]。
その後、ハルは甲案に答える代わりに、これまでの交渉で日本側が提案した内容に関して東條内閣に確認を行い、また、15日には通商無差別の原則に関するオーラルと経済政策に関する日米共同宣言の提案をしたが、これらはアメリカの誠意を示すジェスチャー、あるいは時間稼ぎであった[327]。事実、日本側は再三にわたって甲案に対する回答を求めていたが、アメリカ側は抽象論を繰り返し、研究の上回答するなどと確答を避け続けた[328]。
15日の会談では、ハルは中国における通商無差別待遇の問題について、甲案の「全世界に適用」という但し書きの撤廃を要求し、さらに三国同盟の「死文化」をも繰り返し要求した[329]。日本側は三国同盟の脱退なしに日米間の妥結は不可能という意味かと問い質したが、ハルは確答を避けた[329]。さらに今回の議論を甲案の回答と看做してよいかという質問からも、ハルは逃げを打った[329]。
交渉が困難であることを痛感していた野村は、アメリカは日本に譲歩するよりも戦争を選ぶ決意であり、交渉期限はつけずに長期的な構えをする方がいいと具申している(14日付野村電)[330]。しかし、東郷外相は交渉期限は絶対に変更不可と答えた(東郷も期限付交渉には賛成していなかったが)[330]。
一方、15日に着任した来栖大使は、17日、野村大使とともにルーズベルト大統領と会談した(ハルも同席)[331]。交渉の早期妥結を訴える来栖に対し、ルーズベルトは「友人の間に最後という言葉はない」(There is no last word between friends.)という言葉を引き合いに出して一般的諒解案を作る意向を示し、日中の和平問題についても「米国としては介入(intervene)も調停(mediate)もしない。外交用語にあるかは知らないが紹介(introduce)ということにしたい。双方を引き合わせるだけで話の内容に立ち入る必要はない」旨を述べた[331]。三国同盟の参戦義務については、来栖は「日本独自の立場で決めるということは、決してドイツの言いなりになって米国の背後をおびやかすということではない。日米間の了解が成立すれば三国同盟は自然に光を奪われる(out shine)ようになる」として理解を求めた[331]。この会談で来栖は交渉の前途に希望を持ったというが、ハルの記録によれば、大統領は両大使の訴えを軽く受け流し、会談の成果はなかったと記されている[331]。
11月18日、甲案交渉が不調のため、野村は根本問題を限られた時間で解決することは困難なこと、情勢は極めて緊迫していることを説き、独断で「日本は仏印南部より撤兵に対し、米国は凍結令を撤去す。…其の上にて更に話を進むることと致した度し」と申し入れた[332]。これは東郷の訓令を待って提示することになっていた乙案を狭めた私案であり、来栖大使は「出先としては思ひ切った提案であるが、自分もかねてから同意見であるし、現地の空気及び野村大使の立場及び心境としては寧ろ当然といひ得ること」[333]としている。ハルはなかなか承服しなかったが、日本が平和政策を明確にすることを条件に検討を約した[334][335]。
11月18日夜、野村と来栖はウォーカー郵政長官を訪問。ウォーカーは大統領及び大多数の閣僚は日米諒解に賛成であること、日本が仏印撤兵など現実の行動で平和的意図を示せば、アメリカの石油供給もあることを述べたという[336][335]。19日には某閣僚の旨を受けたウォルシュ司教が大使館を訪れ、日本が今日にも仏印撤兵の意図を表明すれば、ハルは即座に石油輸出を約束し、これをきっかけに急速に問題を解決したい意向との情報が伝えられた[336]。またこの日、野村・来栖と会談したハルの対応も好意的だったという[335]。
しかし、11月20日発の公電で東郷外相はアメリカがさらに煩雑なる条件を持ち出してくる余地があること、我が国の国内情勢では乙案程度の解決案を必要とすることを述べ、「貴大使ガ当方ト事前ノ打合セナク貴電報腹案ヲ提示セラレタルハ国内ノ機微ナル事情ニ顧ミ遺憾トスル所ニシテ却テ交渉ノ遷延乃至不成立ニ導クモノト云フ外ハナシ」として野村の私案提示を叱責するとともに、日本の最終案である乙案の提示を指示した[337][338]。
現在の研究でも、野村の私案提示は「明らかに越権行為であった」[339]、「日本の譲歩を最大限のものに見せようとした東郷の努力を結果的に水泡に帰すものであった」[340]という指摘がある。
東郷外相は11月4日の乙案打電から20日の乙案交渉開始の訓電まで、幾度となく乙案の修正を指示していた[341]。その間、備考一の仏印からの撤兵は第5項に、備考ニの通商無差別待遇と三国条約はそれぞれ第6項と第7項となったが、最終的には第5項に南部仏印撤兵の項目を追加挿入し、第6項と第7項は削除した[341]。交渉開始にあたり、東郷は南部仏印からの撤兵は極めて重要な譲歩であること、中国からの撤兵及び通商無差別待遇と三国条約の懸案三問題を棚上げして緊迫した空気を緩和していることの二点をアメリカ側に強調するよう野村に指示した[341]。
11月20日(米時間)、野村と来栖は乙案をハルに提示した(実際にアメリカ側に提示された乙案では、野村・来栖の独断により第5項を第2項へと移動し、条項の順番が入れ替えられている[341])。
乙案 日米は仏印以外の東南アジア及び南太平洋諸地域に武力進出を行わない 日本は日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後、仏印から撤兵。本協定成立後、日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意があることを宣す 日米は蘭印(オランダ領東インド)において必要資源を得られるよう相互協力する 日米は通商関係を資産凍結前に復帰する。米は所要の石油の対日供給を約束する 米は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動を慎む
乙案についてハルは援蔣の停止(第5項)に強い難色を示した[342]。ハルは、アメリカはドイツの征服政策に対抗してイギリスを援助している、日本の政策が確然と平和政策とならざる限り、援蔣政策と援英政策は同一であるとして「援蔣政策を変更することは困難」であるとした[342][343]。そして、会談の最後にハルは沈痛な面持ちで乙案を「同情的に検討する」と述べたという[342][343]。ハルは乙案の内容よりも、それがアメリカにとって「最後通牒」であったことであった点に苦慮しており、日本との間になんらかの暫定協定案を結ばない限り、開戦になるかもしれないという最終的な選択を迫られていた[344]。
一方、乙案の決定以降、参謀本部は交渉成立を恐れ一喜一憂していたが(『機密戦争日誌』には「来栖の飛行機墜落を祈る者あり」(11月10日)、「乙案成立を恐る」(13日)、「援蔣停止の要求により交渉は決裂すべきこと最早疑を容れず」(20日)などの記述がある)、ハルの難色が伝えられるや「之にて交渉愈々決裂すべし芽出度々々々」(21日)と喜んだ[345]。
援蔣の停止は乙案交渉のネックとなったが、これについて東郷は、アメリカの橋渡しで日中和平交渉が開始されれば援蔣政策は不要になるではないか、と問題を先送りする論法で理解を求めている(11月24日、グルー駐日アメリカ大使との会談において)[346]。
なお、25日までの交渉期限は、22日発の東郷外相からの訓電により29日までに延長された[347]。この訓電には「右期日は此以上の変更は絶対不可能にして其後の情勢は自動的に進展する」とあったが、言うまでもなくアメリカ側は「マジック」により解読済みであった[347]。
アメリカ側でも日本の甲案に相当する基礎協定案、乙案に相当する暫定協定案が検討された。基礎協定案はモーゲンソー財務長官による私案が叩き台になっており[348]、暫定協定案はフィリピン防衛の遅れをカバーするための時間稼ぎを求める軍部の要請に応えるものであった[349]。基礎協定案は、暫定協定案につけ加える恒久的な協定という位置付けとなっている[350]。国務省で基礎協定案と暫定協定案が作成されたのは11月22日であるが、最終的には暫定協定案が放棄され、基礎協定案のみがハル・ノートとして日本に提示されることになる[351][349]。なお、アメリカの対日回答は、あくまで暫定協定案と基礎協定案の二部構成であり、暫定協定案のみを渡すという議論はなかった[352]。
11月11日に国務省極東部は「日本と包括的協定に達する可能性は殆どなく会談決裂の見通しが極めて高い」として、暫定協定の草案を作成し、ハル国務長官に提出した[353][注釈 38]。一方、11月17日にモーゲンソー財務長官が国務省の頭越しに、対日協定案を私案として直接大統領に提出した[348](この私案は、ソ連のスパイである[354]財務省特別補佐官ハリー・ホワイトが作成したものであった[348])。モーゲンソー私案は極東部の試案よりも軍事、経済問題でより具体的であったため、こちらが検討対象となった[348]。ハルはモーゲンソーを不快に思ったが、私案には良い点もあったので国務省案に取り入れられたと回想している[350]。(ただし、ホワイト作成のモーゲンソー私案は国務省によって完全に書き直されており[355]、私案がそのまま日本に提示されたわけではない[356])。
モーゲンソー私案の題は「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」で全体で三部、内容は以下の通りであった[357]。
アメリカ政府が提案するもの 太平洋から米海軍の大部分の撤収 日本と20年間の不可侵条約を締結 満州問題の最終解決を推進 イギリス、フランス、日本、中国、アメリカの合同委員会の構成する政府のもとでインドシナの利益の擁護 中国におけるすべての治外法権の放棄 排日移民法の廃止を議会に要請 日本に最恵国待遇及び相互に満足の行く輸入上の譲歩を行う 20年間にわたり年利2%にて総額20億ドルの借款を提供 ドルと円の為替レートの安定のために総額5億ドルを日米で折半の上拠出 在米日本資産凍結の解除 日本と隣国の潜在的な摩擦の原因を除去すべくアメリカは影響力を十分に発揮すること 日本政府が提案するもの すべての陸海空軍、警察力を中国(1931年の境界で)[注釈 39]、インドシナ、タイから撤収 国民政府以外の中国におけるいかなる政府への支援を中止 中国で流通している軍票、円、傀儡の紙幣を、中国、日本、英、米の各財務省で合意したレートで円貨幣に交換する 中国におけるすべての治外法権の放棄 中国再建のために年利2%にて10億円の借款を提供 ソ連が極東の前線から相応の残留部隊を除き、軍を撤収させるという条件で、警察力として必要な少数の師団を除き満州から日本軍を撤収させる 現在の戦争資材の生産量の4分の3を限度として米国に売却すること。価格は原価+20%を基準とする すべてのドイツ人技術者、軍職員、宣伝員を退去させる 日本帝国全域において米国と中国に最恵国待遇を与えること 米国、中国、英国、オランダ領インドシナ、フィリピンとの間に10年間の不可侵条約を交渉する
第四部ではこの協定の利点として、アメリカにとっては太平洋艦隊を他の地域へ向けることでドイツに対して連合国の地位を飛躍的に強化できること、対日戦を回避できることなどが挙げられた[358]。また日本にとっての利点は、深刻な戦争および終局の敗北に直面せずに平和を確保できること、日本の再建や満州建設にその勢力や資本を充当できることなどが挙げられた[358]。
しかし、国務省極東部で検討・修正が重ねられた結果、日本軍の(少数師団の)満州駐兵を認める項目、太平洋の米海軍力の削減、「1924年排日移民法」の廃止を議会に請願する、日本への20億ドルの借款などの融和的な項目は削除された[359]。モーゲンソー案から基礎協定案(ハル・ノート)に受け継がれたのは、中国及び仏印からの全面撤退などの非妥協的な項目であった[360]。
また、三国同盟については、11月22日基礎協定案で「日独伊三国条約の各条項は、日本により太平洋地域における平和維持に関する紛争に対して適用なきものと解釈すべきことに同意する」との項目が付け加えられた[361]。最終案においては抽象的な表現になったものの、「三国同盟からの事実上の離脱を明文化」[362]したものであった。
なお、11月22日の基礎協定案では、日本軍の全面撤兵の項目には「中国(満州を除く)」との明記があり、モーゲンソー案第3項は「日中両政府に対して、満州の将来の地位に関し平和的交渉に入るべく示唆すること」との表現となって取り入れられていた[363]。しかし、最終案では満州問題の平和的交渉を示唆する項目は削除され、さらに「(満州を除く)」という文言も削除された[363]。
11月22日にハルは、イギリス大使ハリファックス卿、オーストラリア公使カセイ、オランダ公使ロウドン、中華民国大使胡適を招き、暫定協定案を説明した[364]。アメリカの意向は「日本を中立の立場に留めおく」というものであった[365]。
11月22日暫定協定案[366] 日米は太平洋に領土的野心を持たない 日本は南部仏印から即時撤兵し、北部仏印の兵力を1941年7月26日時点の兵力に制限する。その兵力は25,000人以下とする 米国は在米日本資産の凍結を撤廃する。日本は在日米国資産の凍結を撤廃する オランダ、イギリス政府に対しても同様の処置をとるよう説得する 米国は日中和平解決を目的とした当事者間の交渉を非友好的な態度をもってみない この協定は臨時的なもので、3ヶ月を越えて有効としない
この暫定協定案では、日本軍の北部仏印在留兵力は2万5千を限度とする項目があり、一時的とはいえ日本軍の仏印駐留を認めたものであったが、他はハル四原則を具体的に守るというものであった[364]。
胡適はやや平静さを失いつつも「これは向こう三ヶ月間、これ以上中国を侵略しないよう日本を縛るものか」とハルに問い質したが、ハルは「そうではない」と回答している[364]。
ハルは交渉成立の見込みは三分の一と語ったものの、会談終了後に改めて英・豪・蘭の大・公使に対し、日本に供給可能な物資の上限を決定する権限を本国から取り付けるよう要請した[367]。これは交渉の最終局面で、各国が日本に供給可能な物資の量をいちいち本国に照会していては、交渉がまとまらなくなる恐れがあったからである[367]。
11月24日、国務省はさらに修正した暫定協定案と基礎協定案を作成した[368]。11月24日暫定協定案では、特に通商問題に関して細かく言及され、また協定の有効期限は平和解決の目途がつけば延長を協議できる、と付け加えられた[369]。
ハルは再び英・豪・蘭・中の大・公使と協議したが、胡適中国大使は北部仏印への日本軍駐留に反対した[370]。ハルは「2万5千の兵力は脅威ではない」と反論し、「この臨時的合意が必要なのは、わが陸海軍にとって時間が重要な問題であること、また一層の準備が必要なため」と説明した[370]。胡適は5千に引き下げるべきだと強く主張したが[370]、ハルは倍の5万でも脅威ではないと冷淡であった[371]。
この会談の段階では、オランダ政府以外は22日暫定協定案に対する訓令を与えておらず、ハルを立腹させた[372]。ハルは、この問題でより利害があるのはアメリカではなく関係諸国であり、各国政府が現在の状況がいかなるものか熟知していないと不満を述べ、「これら予想されなかった発展、関心の欠如及び協力せんとする意向の欠如には、決定的に失望した」と会談の模様を記した[372]。
この日、ハルはチャーチル英首相宛に乙案と暫定協定案を知らせる電報を送った。電報には、暫定協定案を日本に対する公正な提案としつつも、日本が受諾する可能性はあまりないとするルーズベルト大統領の追記が添えられていた[373]。
蔣介石は、暫定協定案を知った時の心情を「不安と怒りが心のなかを激しく交錯した」「我々の国は、この絶体絶命の危機から生還することができるだろうか」と日記に記した[374]。そして、ワシントンの胡適大使に「アメリカを日本と妥協させてはならない。それは中国の死を意味する」と厳命した[374]。
また、蔣介石は重慶にいた顧問のオーウェン・ラティモアに暫定協定案反対を依頼した[375]。ラティモアからは、日本への経済制裁解除は、中国にとって日本の軍事的優位を危険なほど増大させ、いかなる暫定協定案も中国の対米信頼に対して悪影響を及ぼすもので、このときに見捨てられたとする感情は過去の支持や将来の援助の増額によっても償いえるかどうか疑問である、という報告がなされた[375]。
蔣介石は宋子文に対しても、11月25日にヘンリー・スティムソン陸軍長官とフランク・ノックス海軍長官に伝えるよう指示して、対日制裁の緩和があれば、中国人民はみな犠牲にされたと思うだろうし、こうして世界におけるもっとも悲劇的な時代が開かれ、中国陸軍は崩壊し、日本の計画は遂行され、ひとり中国にとっての損失に留まらない、との電報を寄せた[375]。
ハルはこのような中国の反対攻勢に憤慨し、「蔣介石が、我が国の閣僚数名、国務省以外の政府機関の職員多数等に対し、おびただしい数の電報メッセージを送り付け、時としては大統領すら無視し、問題の真相に接していないにもかかわらず、微妙かつ重大な問題にまで介入することがあった」(英国大使ハリファックス卿に対して)と非難していた[375]。
暫定協定案が日本に提示されなかったのは中国の猛烈な反対があったためという指摘もあるが[376]、ハルは中国の抗議をさほど重視していなかった[377]。また、モーゲンソー財務長官によれば、ルーズベルト大統領が中国の反対に対して「自分が彼らを黙らせてやる」とハルに向かって発言していたという[377]。
11月25日に、22日案と24日案をまとめて整理した暫定協定案の最終案ができあがった[378]。政府内で異議が出るたびに融和的な内容は骨抜きとなり[359]、特に日本が切望していた石油の供給については「民需用の石油」のみに限定された[379][380][381][382][注釈 40]。ハルは「暫定協定が日本に与えるものは非常に限定された量の棉花、石油と若干の物資供給という極めて僅かな『雛の餌』にすぎなかった」と表現している[384]。
また、最終案ではアメリカが日本軍の仏印駐留を容認したと誤解されることを懸念したため、北部仏印に残留する日本軍の兵力量の具体的な数字(2万5千人)は削除され、1941年7月26日の兵力という文言のみが残された[385]。
暫定協定案について、イギリスは「ハルが最善の方法というなら支持してもいい」と賛成に回り(ただし、日本への石油輸出再開には疑問符をつけた)、オランダは日本の軍事潜在力を増大させない限度の石油供給を条件に付して賛成した[386]。また、オーストラリア公使カセイは本国に「乙案それ自体受諾し難いにせよ、修正を施すならば全関係国にとって受諾しうるものとなしうるであろう」と具申し、本国から会談決裂阻止の訓令を受けていた[387]。
スティムソン陸軍長官は日記に11月25日を「今日は実に多忙な日であった」として、以下の出来事を記している[388]。
一つは、ノックス海軍長官とともにハルと三人で会談した模様で、暫定協定案最終案について次のようにある(25日朝)。
「ハルは三ヵ月の休戦案を提示した。彼は今日か明日のうちに日本側に提案するつもりであった。それは米国の利益を十分に保謹したものであることを一読してすぐに知ったが、しかし、提案の内容はひじょうに激烈なものであるから、私には、日本がそれを受諾する機会はほとんどないと思われた」[388]
二つ目は、ホワイトハウスでの会議の内容で、対日関係についての討議である(25日正午)。
「大統領は、“日本人は元来警告せずに奇襲をやることで悪名高いから、米国はおそらくつぎの月曜日(12月1日)ごろに攻撃される可能性がある”、と指摘して、いかにこれに対処すべきかを問題にした。当面の問題は、われわれがあまり大きな危険にさらされることなしに、いかにして日本側に最初の攻撃の火蓋を切らせるような立場に彼らを追いこむか、ということであった。これはむずかしい命題であった」[389][注釈 41]。
そして三つ目は、スティムソンに届けられた米陸軍情報部からの報告である。
「私が陸軍省に帰ったとき、日本がすでに遠征をはじめているという陸軍情報部からのニュースを知った。五個師団が山東や山西から上海に来て、そこで三〇隻か、四〇隻か、または五〇隻の船に乗りこみ、これが台湾の南方で認められた。私はすぐハルを電話口へ呼び出してそのことを告げたあと、陸軍情報部からの報告の「写し」をハルと大統領に送った」[388]
しかし、実際の報告書には「十隻ないし三十隻からなる船団」、兵力は「五万を意味する可能性もあるが、より少数の可能性が大きい」とあり、情報部は日本政府とヴィシー政府との協定に基づく「通常の行動」と判断していた[390]。この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものではないが、スティムソン日記の記述では数が大きく膨らんでおり、スティムソンがルーズベルトやハルに内容を正確に伝えたのか疑問が残る[390]。
11月25日午後、ハルは国務省の会議に参加していたが、列席していたハーバート・ファイス(国務省顧問)によれば、会議の最中にハルが何度も外部からの電話で呼び出され、電話の相手は誰かわからないが、電話の後にハルは暫定協定案に消極的な態度をとるようになったという(ファイスは電話の相手を「大統領であったかもしれないし、日本の軍部の行動の最近の情報提供者であったかもしれない」と推定している)[391]。ただし、この会議では、ハルは暫定協定案の放棄を言明しなかった[391]。
しかし、26日早朝になると、ハルはスティムソンに電話をして、「あの提案(暫定協定案)をすべてご破算にし、しかも、そのほかには提議することは何もないと通告する決意を固めた」と伝えている[392](これは後日、ハルがオランダ公使の質問に答えて、暫定協定案の放棄を決意したのは11月26日早朝だったと説明したことと符合する[393])。
この電話の直後、スティムソンはルーズベルトに電話をかけ、昨日の陸軍情報部の報告の写しを受け取ったかどうか尋ね、日本軍南下のニュースを伝えた[392]。スティムソン日記によると、写しはルーズベルトのもとに届いておらず、「大統領はすっかり興奮し、烈火のごとく立腹した。…日本側は中国からの全面撤兵を含む全般休戦の交渉をしていながら、他方では、インドシナに向って遠征軍を送ろうとしていることは、日本が全然信用できない何よりの証拠であるから、いまや情勢はすっかり変ってしまった、と述べた」とある[392][394]。
スティムソンは日本軍の動向について、日記にあるようなオーバーな言い方をしたのではないかと見られている[395]。またルーズベルトの方も、以前から南方の日本軍に対する資材や兵員の輸送が行われていたことを承知していたはずで、今回の日本とヴィシー政府の協定に基づく「通常の行動」になぜ「烈火のごとく立腹した」のか不明である[395]。
一方、ハルは26日午前、ルーズベルトに対して、アメリカの対日回答から暫定的協定案を削除して、基礎協定案のみを野村・来栖両大使に手交することを具申し、承認を得た[396]。
「中国政府の反対及び英蘭豪政府の冷淡な支持または事実上の反対に鑑み、また反対が広く周知のこととなった事実、及び暫定協定がとくにもっている広範な重要性と価値とに関する理解の全面的欠如に伴い、当然これ以上の反対の、なお広がる可能性に鑑み、いずれにせよ太平洋地域に関心を持つ侵略国に対抗する諸国すべてにとり、右措置が賢明かつ有利なりとする私の見解を捨てはしないが、この際日本大使を招き一般的平和解決の為の総合的基本的提案を手交し、同時に暫定協定を撤回することを哀心より強く提唱するものである」[397] — ハル
しかし、中国の反対は事実であったが、それ以外の国の対応については事実ではなく、「これ以上の反対の、なお広がる可能性」も内容が不明である[397]。また、戦後に行われた真珠湾攻撃に対する米国上下両院合同調査委員会におけるハルの証言では、大統領と「どんな会話を交わしたか、何も思い出せない」としており[398]、暫定協定案が放棄された経緯は明確ではない。
なお、ハルの回想録によると、中国の反対及び日本と暫定協定を進めることが中国の戦意を崩壊させる危険性を考慮して、暫定協定案を放棄したような記述となっている[399]。
暫定協定案の放棄及びハル・ノートの提示は、陸海軍の長官にも知らされておらず、関係国との協議もなかった[400]。
11月26日夕刻(日本時間27日午前)ハルは野村と来栖にハル・ノート(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)を提示し、日本の二人の大使はその強硬な内容に難色を示したが、ハルおよびルーズベルトの姿勢は変わらなかった。
これを受けた日本の政府および軍部は、これが「基礎提案(Outline of Proposed Basis)」であるにもかかわらず、「対米開戦やむなし」という意見に傾くことになる。
ハル・ノートで交渉が絶望的になってもなお開戦阻止の動きがあった。来栖大使は、戦争を防ぎ得るのは天皇陛下とルーズベルト大統領以外にはないとして、様々なルートを使って、大統領から昭和天皇へ親電を打ってもらうよう働きかけていた[401]。また、寺崎英成一等書記官も来栖の賛同を得て、親電工作に乗り出していた[402]。
(11月26日午前、野村・来栖両大使は、乙案全ての通過は困難であることを報告するとともに、事態打開策としてルーズベルト大統領と昭和天皇の間で親電を交換して「空気を一新」する案を東郷外相に進言していた[403]。だが、この案は東郷に却下されていたので、来栖・寺崎の行動は外務省の指示に背くことになる。)
他方、アメリカ側にも親電を打つ案は以前からあったが、ハル国務長官はルーズベルトに「日本の攻撃が殆ど開始される時まで延期するよう」進言していた[404]。
12月6日、ルーズベルト大統領から昭和天皇に親電が発せられた[405]。親電の趣旨は、もし日本軍が仏印から撤兵してもアメリカは同地に侵入する意図はない、周辺政府にも同様の保障を求める用意がある、南太平洋地域における平和のため仏印から撤兵してほしいというものであった。ハルの原案では「日中の90日停戦、太平洋関係諸国の軍隊の移動禁止、在仏印日本軍の縮小、日中両国の和平交渉の開始」など既に放棄された暫定協定案の再現のような内容であったが、ルーズベルトはこれを採用しなかった[406]。親電を送ることについてのルーズベルトの真意は明らかではないが、ハルは「それを送ることは記録を作る目的以外にはその効果は疑わしい」[407]と否定的だった。
親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは12月8日の午前3時(ハワイ時間では午前7時半で真珠湾攻撃予定時刻の約30分前)であった(この時、昭和天皇は「海軍軍装を召され」ていたことが、『昭和天皇実録』によって初めて明らかになった)[408]。戦後、昭和天皇は「この親電は非常に事務的なもので、首相か外相に宛てた様な内容であつ[た]から、黙殺出来たのは、不幸中の幸であつたと思ふ」と回想している[409]。親電について東郷は「此危局を救い得るものとは認め難い」とし、東條も「そういうものは何にも役立たぬではないか」と言ったとされる[410]。
なお、2013年3月に公開された外交文書によって、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が外務省に対して、伝達が遅れずに「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができたに違いない」との見解を示していたことが明らかになっている[411]。
現地ハワイ時間1941年12月7日午前7時50分(ワシントン時間午後1時20分、日本時間12月8日午前3時20分)、真珠湾攻撃が開始された。
ワシントン時間12月7日午後2時20分、野村大使からハル国務長官に対米覚書(外交打ち切り通告文)が手交された。東郷外相の訓令には「午後一時を期し米側に(成るべく国務長官に)貴大使より直接御手交あり度し」とあったが、結果的にハワイ空襲の一時間後の手交となった[412]。
対米覚書は、ハル・ノートに対する帝国政府見解ともなっており、
などの難点を挙げ、「四年有余に亙る支那事変の犠牲を無視し、帝国の生存を脅威し、権威を冒涜するものあり。従って全体的に観て帝国政府としては、交渉の基礎として到底之を受諾するを得ざるを遺憾とす」としている[413]。
また、日本の乙案に対するアメリカの対応については、「合衆国政府は右新提案を受諾するを得ずと為せるのみならず、援蔣行為を継続する意思を表明し、(大統領が日支間和平の仲介者となると言明したにも拘らず)大統領の所謂日支間和平の紹介を行ふの時機猶熟せずとて之を撤回し、遂に11月26日に至り、偏に合衆国政府が従来固執せる原則を強要するの態度をもって、帝国政府の主張を無視せる提案を為すに至りたるが、右は帝国政府の最も遺憾とする所なり」と非難した[413]。
なお、対米覚書には、日露戦争の際にあった「独立の行動を採る」に相当する文言はなく、開戦宣言あるいは条件付き開戦宣言は明記していない[414][注釈 42]。また、対米覚書は国内においても閣議決定、上奏、裁可の手続きを経ておらず、「国際法上の『開戦宣言』とはなりえず、…国内的措置の形式からいっても敵対国への最後通牒ではなかった」[414]。
翌8日、ルーズベルト大統領は日本への宣戦布告を求める議会演説「恥辱の日演説」を行った。演説では、日本と太平洋の平和について交渉を進めていたとしているが、ハル・ノートの存在は議会に説明しなかった[416]。
日米開戦が即アメリカのヨーロッパ戦線への参戦を意味するわけではなく、独ソ戦に日本が参戦しなかったように三国軍事同盟の規定では、加盟国側から仕掛けた戦争に関しては他の加盟国の参戦義務は発生しなかった。ハルの回想によれば、アメリカが他の枢軸国に対しても宣戦布告をするかどうかについて議論があったというが、ドイツの方から宣戦してくると考えて、それを待つ方針を固めたという[417]。ヒトラーは真珠湾攻撃以前から既に対米開戦は不可避と判断しており、12月11日に日本に呼応する形でアメリカに対して宣戦布告を行った[418]。このため、アメリカはヨーロッパ・アフリカ戦線に参戦することとなった。
現在の研究では、日米間には戦争をしてまで解決しなければならない明確な争点はなかったことが指摘されている[419]。日米間の対立の大きな争点となった中国問題にしても、アメリカは中国に死活的利益を持っておらず、この点で日米衝突の必然性はない[420][注釈 43]。また、日本の南進政策にしても、アメリカにとって東南アジアは中国以上に重要な市場であったものの、大西洋第一主義を採る以上は、日米衝突に至るほど優先順位は高くはなかった[420]。日本は米英蘭の経済封鎖を受けて窮地にあったものの、世界情勢を自主的に判断して、自主的に行動できる自由をもっていたのである[421]。開戦・避戦の要件は戦争の結果に対する予測であったはずで、「日米交渉の不成立によりただちに日本が開戦しなければならないというのは、あまりにも短絡的な思考」[421]であった。
なお、陸軍の一部ではあるが、ハル・ノートの事実上の受け入れが主張されるようになったのは、日独の戦局が不利へと転換した1943年のことであった(戦争指導課9月16日案出「大東亜戦争終末方策」。別紙第三の「世界終戦の為不利なる妥協をするを得さる場合の講和条件(対英米)」には、ハル四原則の承認、三国同盟の破棄、中国については支那事変以前の状態へ復帰、仏印以南の東南アジア地域については仏印進駐前の状態へ復帰などが明記されている)[422]。
日付は日本時間
「ハル・ノート」についての評価はハル・ノート#研究者による評価の節を参照。
ハルが乙案に対して「日本の提案を受諾することによって米国が負う義務は全く降伏に等しいものであった」と評価していることについて、「ハルのこの判断の若干の点については多少の疑問がないことはなかった。ハルが提案乙の若干の項目について読み取った意味は、必ずしも正しい解釈であったかどうかは確かでない。また日本が後退を開始すると申し出たことについてのハルの全体的推定が正しかったかどうかも確かではない」と疑問を呈している[461]。しかし、米国が乙案に同意したとしても「日・米両国が行なっている軍事行動について必ず紛議がおこったであろう」「石油についての紛議が重大化して協定を危うくするであろう」として、「太平洋における戦争は避けられなかっただろう」としている[461]。
「この段階に至ってもABCD陣営の存続が最優先視されたのであり、したがって米国としても単独で日本と取引するわけにはいかなかった。たとえ、三カ月でもABCD陣営を対日譲歩の犠牲にするわけにはいかないという決意のために、暫定協定案は日本側に提示されることはなかった」「ABCD陣営維持が最優先だとされた以上、日本と米国が交渉する意味はなかった」[462]。
佐藤元英との対談で、佐藤の「日米トップ会談や、『乙案』あるいはアメリカの『暫定協定案』には、交渉妥結の可能性があったのではないか。(中略)ハルやホーンベックなど国務省の問題になるのでしょうか」という質問に対して、「戦争を回避する機会が昭和十六年の八月以降もまだあったということです。しかし、国務省、特にハルやホーンベックらの反対によって、小さいながらも残されていた戦争回避の機会を失ったことは遺憾と言わざるを得ません。ハル・ノートは、日本に仏印や中国からの全面撤兵と汪兆銘政権の否認を求め、日本の「新秩序外交」の全面的否定を明らかにし、いわば日本に満洲事変前に戻ることを求めた厳しい内容であり、日本にとって受け入れがたいものでした。もとより、一九三〇年代、日米戦争に向けての歴史の潮流を推し進めていったのは、日本の中国大陸に対する侵略政策であり、あるいは「東亜新秩序」建設を目指した日本の外交です。(中略)このことを前提としても、ここで考察した時期のアメリカ国務省の対応ぶりにも問題があったことを指摘せざるを得ないのです」と述べている[463]。
「振り返ると、11月26日のハルの決定は、おそらく間違っていた。たとえハルが日本に暫定協定を提案していても、中国は崩壊しなかったであろう。大統領の言質と軍事物資の輸送がおこなわれていれば、中国の士気は維持され、可能性はわずかであったが戦争を回避するチャンスも残されていたであろう」[464]。
「両国とも戦争は望んではいなかった。日本の指導者たちはアメリカの莫大な経済軍事資源に一目を置いており、そうした大国と戦うことはまったく思慮を欠くものと考えていた。他方、アメリカの指導者たちに日本人に対する尊敬の念があったわけではない。ただアメリカの現実的利益がヨーロッパに存在すると考えていたために、アジアでの戦争を極力避けたかったのである。双方が平和を希求していたからこそ、外交の機会がありえたのである」「そもそも外交の目的とは、利害対立を有する国家が戦場においてでなく相互の差異を解消する方法を見出すことにある。…こうした基準からすると、アメリカの外交政策担当者は失敗したことになる。四年以上の期間を通して、彼らはアメリカの政策、日本の政策、いずれも戦争を回避する方向に導くことができなかったのである」[465]。
「どちらかというと日本人と同じく、力ずくでなければ日本人には通じないと思いこんだ米国は、交渉への取り組みが異常なほどかたくなで、日本が納得しうる妥協を切望しているのを判断し損なった」「米国政府が中国の陳情とチャーチルの発言通りにするや、真の暫定協定の可能性も消えうせてしまった。日本は、壁に背を向けて、これ以上の話し合いは全く無益であると悟った」「とりわけ強調すべきなのは、米国が加えた対日経済制裁と、適度の強さ、柔軟性、想像力で外交交渉を行うのに米国が失敗したため必然的に生じた結果が、日本としてみじめな降伏に屈しないためには、太平洋戦争しか代案がなかったということだ。問題の核心は、あの戦争を避けられたかもしれない対日政策をとるのは、米国と英国の権力者の手中にあったのである」 [466]。
「もしハルが、東アジアの政治的現実にもっと関心を示し、さらに他国民もすぐれて法律的かつ道徳的な原理にたいし口先だけでも好意をしめすべきだということにハル自身があまり執着しなかったら、太平洋戦争はたぶん避けえたろうと思われる」「しかしながら、アメリカ国民はこの事実を当時も理解しなかったし、現在にいたるまで理解していない。自分たちは攻撃され挑発された、したがって防御しなければならない、だからこの戦争の目的は自分たちを攻撃した勢力を打倒することにある。こういう単純な印象のもとにアメリカ国民は太平洋戦争に乗りこんでいったのである。それで彼らは本当のところ、自分たちが何のために戦っているかについて、第一次大戦や第二次大戦のヨーロッパ戦線の戦争目的以上に明確な目的を持ちえなかったのである」[467]。
「日本側は松岡を除いて、確固たる対米観が存在しておらず、十分に説明すれば、日本の立場を理解してくれるはずという楽観的見方が支配的で、(日本に対して)悪しきイメージをアメリカ当局者達が抱いているとは想像もしていなかった。一方、アメリカ側は、日本は説明してもわからない国であり、制裁という態度で示すのが最も効果のある説得方法であると確信していた。それは日本に対する不信感に裏打ちされていた」として、松岡の強硬論も誤算であったこと、近衛の楽観論は結局裏切られたこと、そして、ホーンベックの力による封じ込めで日本は屈服するという合理主義も、日本には弱い者でも時には強い者に立ち向かうという非合理主義があり通用しなかったことを挙げ、「結局のところ、(日米)相互に誤ったイメージの上に作られた政策の行き違いが悲劇を生む結果」となったと指摘している[468]。
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