濱口内閣(はまぐちないかく)は、衆議院議員、立憲民政党総裁の濱口雄幸が第27代内閣総理大臣に任命され、1929年(昭和4年)7月2日から1931年(昭和6年)4月14日まで続いた日本の内閣。
閣僚の顔ぶれと人事
国務大臣
1929年(昭和4年)7月2日任命[1]。在職日数652日。
内閣書記官長・法制局長官
1929年(昭和4年)7月2日任命[1]。
政務次官
1929年(昭和4年)7月5日任命[9][10]。
参与官
1929年(昭和4年)7月5日任命[9]。
勢力早見表
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
出身 |
国務大臣 |
政務次官 |
参与官 |
その他
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りつけんみんせいとう立憲民政党
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7 |
10 |
11 |
内閣書記官長、法制局長官
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けんきゆうかい研究会
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1 |
1 |
1 |
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とうわかい同和会
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1 |
0 |
0 |
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とうせいかい同成会
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1 |
0 |
0 |
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こうせいかい公正会
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0 |
1 |
0 |
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むかいは無会派
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1 |
0 |
0 |
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くんふ軍部
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2 |
0 |
0 |
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かんりよう官僚
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0 |
0 |
0 |
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13 |
12 |
12
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内閣の動き
立憲民政党を中心とする政党内閣だが、一方で貴族院の親民政党議員を多く入閣させたところに特色がある。
外務大臣には外務省から幣原喜重郎を起用し、その協調外交は幣原外交と呼ばれた。また財界から信任のある井上準之助蔵相を起用して金解禁、緊縮政策、産業合理化を断行した。また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結んだ。これらが右翼からの反感を買い、1930年(昭和5年)11月に濱口首相が東京駅構内で右翼団体愛国社党員の佐郷屋留雄に銃撃されて執務不能となると、慣例により閣僚の中で宮中席次が最も高かった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた。しかし幣原は民政党員でない上に臨時代理が長期に及んだこと(結果的に最長不倒記録の116日)などから、その失言をきっかけとして野党政友会からの激しい攻撃を受けることになり、加療入院中の濱口が杖を突きながら復帰することとなったが、病状の悪化により総辞職した。その4か月後に濱口は死去した。
濱口は、初の明治生まれ、高知県(土佐藩)出身の総理大臣である。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
関連項目
外部リンク
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名前は内閣総理大臣、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。
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