永井 柳太郎[1](ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1944年〈昭和19年〉12月4日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の政党政治家。憲政会・立憲民政党所属。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。族籍は東京府士族(旧加賀藩士)[2]。
来歴
石川県金沢の貧しい小学教員の家庭に生まれる[1]。石川県士族・永井登の長男[2]。
新堅町尋常小学校、長町高等小学校を経て旧制石川県尋常中学(現石川県立金沢泉丘高等学校)に入学するも喧嘩が原因で中退し[3]、1897年(明治30年)に同志社尋常中学校3学年に編入するもストライキを起こして中退[4][5]。関西学院普通学部を経て1905年(明治38年)に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業する。
関学時代にキリスト教の洗礼を受け[6]、早大では雄弁会に所属し、同会での演説が大隈重信に認められ、ユニテリアン団体の支援によりマンチェスター・カレッジ(現・ハリス・マンチェスター・カレッジ (オックスフォード大学)に留学[7]。帰国後は母校早稲田大学で植民学の教鞭をとったが、早稲田騒動で「天野派幕僚中の謀士」とみなされ、教授職を罷免された[8]。
1917年(大正6年)の第13回総選挙で石川県第1区に憲政会から立候補するが、政友会の中橋徳五郎に203票差で敗れる。中橋が大阪9区に回った1920年(大正9年)の第14回総選挙では政友会の米原於菟男を破って初当選した[9]。以後連続8回連続当選。民政党幹事長、齋藤内閣の拓務大臣、第1次近衛内閣の逓信大臣を務め、阿部内閣では鉄道大臣と逓信大臣を兼任した。
民政党内では親軍派の中心におり、聖戦貫徹議員連盟に参加。近衛文麿主唱の新体制運動にもいち早く呼応し、1940年(昭和15年)には同志議員35名とともに民政党を離党。民政党解党・大政翼賛会合流の先鞭をつけた。
大政翼賛会では常任総務・東亜局長を務めた。1943年(昭和18年)、大日本育英会創立とともに会長に就任。
1944年(昭和19年)12月4日、慢性腹膜炎のため大東亜中央病院で死去[10]。道雄の話では、東京で空襲が本格化する状況下、「国民に申し訳ない」と言い残して永眠したという。墓所は野田山霊園。
人物
貧しい小学教員の家庭に生まれた永井は青年時代から「貧しい者の為に自分の一生を献したい」という気持ちになったという[1]。
大隈と同様、グラッドストンを深く尊敬しており、1922年(大正11年)にはグラッドストンの伝記を著している。またグラッドストンの反帝国主義思想を受け継いで拓相在任中には帝国主義政策の改善にあたった[11]。
荘重さを本領とする雄弁家として知られ、歯に衣着せぬ演説で高名だった中野正剛と対称をなした。また敬虔なクリスチャンでもあった。1982年(昭和57年)5月3日放送のNHK特集「昭和の名演説」に出演した二男の永井道雄によると、柳太郎は演説の前には必ず「演説によって一人でも多く良い影響を与えられますように、また一人でも悪い影響を与えませんように」と祈りを捧げていたという。また演説は「お金の代わり」、すなわち金銭によらない選挙を実現するための道具と捉えていたという。
栄典
著書
単著
共著
翻訳
家族・親族
- 永井家
- 親戚
政策・主張
政見綱領
社会改造を念願とし、日本の内治外交を建て直し、即ち国民生活の再建設、国民能力総動員に因って最高度の生産能率を挙げ、経済組織を改め新社会を造り、同時に過去数世紀白人種の暴圧に虐げられたアジア民族を解放し、新興アジアの建設を使命とする[1]。
手がけた政策
語録
- 「来たり、見たり、敗れたり」
- 「西にレーニン、東に原敬」
- 1920年(大正6年)の初当選後に衆議院で初めて行った演説より(「選挙の天才」原総理率いる立憲政友会が第14回総選挙で地滑り的大勝を収めたことを受けて、原を独裁者レーニンに喩えたもので、永井はこの演説で初に懲罰を受ける羽目になった)。
出典
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 『粛正選挙代議士名鑑』選挙粛正中央会編纂部、1936年。
- 『永井柳太郎』編纂会編 『永井柳太郎』 1959年。
- 杉原四郎 編『近代日本とイギリス思想』日本経済評論社、1995年(平成7年)。ISBN 978-4818808201。
外部リンク
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