広田内閣(ひろたないかく)は、外務大臣の広田弘毅が第32代内閣総理大臣に任命され、1936年(昭和11年)3月9日から1937年(昭和12年)2月2日まで続いた日本の内閣。
1936年(昭和11年)3月9日任命[1]。在職日数331日。
1936年(昭和11年)3月10日任命[5]。
1936年(昭和11年)4月15日任命[6]。
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
1936年2月26日、急進的な社会革新(昭和維新)を目論む陸軍青年将校(皇道派)や民間右翼がクーデターを決行(二・二六事件)。同事件は未遂に終わったが、時の岡田内閣は責任を取り内閣総辞職する。後継を巡って、首相奏薦権を持つ西園寺公望元老は、血統・社会的名声ともに当代随一であった近衛文麿貴族院議長を「中正な人物」として最適任者とみなす[11]。しかし近衛議長は、心情的に皇道派の革新主義に近しいところがあり、皇道派に代表されるテロリズムを抑え込むための象徴として自分を取り立てようとしている西園寺元老に反発、体調不安を理由に辞退する[12]。
近衛議長にかわり、広田外相が新たな首相候補となり、大命降下される。廣田は、外務省同期の吉田茂を組閣参謀に人事を行うが、皇道派を放逐して陸軍省内を掌握した統制派が、皇道派の完全追放や政官界などの要求を押し付けてくるのを無視することはできず[注釈 4]、吉田の外相就任を取りやめるなど、人事の入れ替えを余儀なくされた。
予算審議の最中、浜田国松議員と寺内寿一陸相との間に「割腹問答」が起きる。これに憤慨した寺内が単独辞任をちらつかせながら衆議院を懲罰解散することを広田に要求、これに政党出身の4閣僚と永野修身海相が真っ向から反対、議会は2日間の停会となり政局が混迷した。これを見た広田はあっさりと閣内不一致を理由に総辞職を選ぶ。後継の予算管理内閣として林内閣が成立すると、前後して上述の「三羽烏」が復権、予算の修正が行われ、総額は2億円の減額となったが、肝心の軍事費はほぼ当初額のままとなった[17]。