ハンブルク (ドイツ語 : Hamburg [ˈhambʊʁk] ( 音声ファイル ) [1] , 現地発音[ˈhambʊɪ̯ç] ( 音声ファイル ) 、低ザクセン語 ・低地ドイツ語 : Hamborg (Hamborch) [ˈhambɔːç] 音声 )は、ドイツ 第二の都市。正式名称は自由ハンザ都市 ハンブルク (Freie und Hansestadt Hamburg)。
ドイツ北部、北海のエルベ川 河口から100 km ほどにある港湾都市 で、ロッテルダム やアントワープ と並ぶ欧州最大級の港、ハンブルク港 を擁する。人口はドイツ第2位の約194万人[2] で、欧州連合 (EU)内では第6位、非首都 では最大である。周囲のニーダーザクセン州 、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州 、メクレンブルク=フォアポンメルン州 の諸都市とともにハンブルク大都市圏 を形成しており、その人口は510万人を超える。
中世の時代からハンザ同盟 の主要都市の一つとして発展してきた。その自由帝国都市 としての歴史を反映する形で、現在でも一市単独で連邦州 (ラント)を構成する特別市 (都市州 )となっている。
現在はドイツにおけるメディア ・物流 ・金融 の一大拠点となっている。北ドイツの放送局NDR や、全国紙のシュピーゲル誌 ・ZEIT誌 など、ドイツを代表する様々なメディア企業が本社をハンブルクに置いており、国民的ニュース番組 『ターゲスシャウ 』はハンブルク制作となっている。海運 を中心とした物流のキャピタルでもあり、エアバス 、ルフトハンザ 、ハパックロイド 、バイヤスドルフ 、ユニリーバ 、スタインウェイ・アンド・サンズ など様々な企業が本社や主要拠点をハンブルクに構えている。またフランクフルト・アム・マイン に次ぐ国内第二の金融センター でもあり、ドイツ最古の証券取引所 や、世界最古の商業銀行であるベレンベルク銀行 がある。国際海洋法裁判所 の所在地となっている。
地名
「ハンブルグ」と慣例的に表記されることもあるが、ドイツ語 の発音ではこの語尾の "g" は無声音であるため、仮名転写は「ハンブルク」[3] [4] となる。現地での低地ドイツ語 系の低ザクセン語 に属するハンブルク方言 (ドイツ語版 ) またはハンブルク語 (ドイツ語版 ) による「ハンブイヒ」([ˈhambʊɪç] ) や、低ザクセン語の「ハンボーホ」の発音も聞かれる。この地名の最も古い形は、834年 古高ドイツ語 ’Hammaburg’である。これは、高い乾燥した砂地の岬にあるカロリング朝 の城塞を指している。’Hamma’ は、現在のドイツ語で ’Hinterschenkel, Kniekehle’「太もも、大腿、膝窩(しっか)、ひかがみ」、転じて ’Winkel, Krümmung, Bucht’「角、湾曲、湾」を意味した。しかし、この地は高地ドイツ語ではなく、低地ドイツ語の地域に入るので、現在のドイツ語で ’umfriedetes Stück Weideland’「(柵、堀などで)囲われた牧場あるいは(魚や鳥の)餌場」を意味する中低ドイツ語(mittelniederdeutsch) ’hamme’の古い形が存在したかもしれない。’burg’ は「城塞」を意味する[5] 。漢字表記の「漢堡」は、「Hamburg 」の音訳であり、日本語と中国語の両方で同一表記である(※漢字の「堡」は「とりで」を意味しており、「burg」の直訳)。ハンバーグ の語源はハンブルクの労働者の食事として流行っていたタルタルステーキ から来ている。英語 でもハンブルクのことを“ハンバーグ”に近い 発音 で呼ばれる。なお、フランス語 では「Hambourg 」(アンブール)と表記される。
地理
位置
エルベ川 の支流・アルスター川の河口にある港湾都市で、ドイツ北部における経済の中心地。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 とニーダーザクセン州 に境を接する。近隣の都市としては、約80 km 北のキール市 、55 km 北東のリューベック 市、95 km 南西のブレーメン 市、95 km 西のブレーマーハーフェン 市、90 km 東のシュヴェリン 市などが挙げられる。
市域は、アルスター川東岸の旧市街と西岸の新市街、それらをとりまく地域からなる。旧市街は昔から商業地域の中心で、数多くの運河が流れている。町の景観の特色のひとつが運河にかかる橋で、アムステルダム とヴェネツィア をあわせたよりも多くの橋がある。そのほかの名所としては、港にかかる長いつり橋ケールブラント橋や、アルスター川をせきとめてつくった内アルスター湖と外アルスター湖[6] 、現在では旧市街を囲む公園・遊歩道となっている古い市壁跡地があげられる。また、ナイト・クラブが並ぶレーパーバーン は歓楽街 として有名である。
なお、市の中心部とは約100 km 離れ、ブレーマーハーフェン以北約40 km のエルベ川 河口付近のワッデン海 (北海 )の島嶼 および干潟 の一部は同市の飛地 である。一帯はゼニガタアザラシ 、ハイイロアザラシ および多くの鳥類 と魚類 の生息地であり、1990年にラムサール条約 登録地[7] 、1992年にユネスコ の生物圏保護区 に指定された[8] 。
行政区画
市の区域
ハンブルク特別市は、7つの区域(Bezirk)に区分されている。
アルトナ区 (Altona)
ベルゲドルフ区 (ドイツ語版 ) (Bergedorf)
アイムスビュッテル区 (ドイツ語版 ) (Eimsbüttel)
ミッテ区 (ハンブルク) (ドイツ語版 ) (Hamburg-Mitte)
ノルト区 (ハンブルク) (ドイツ語版 ) (Hamburg-Nord)
ハールブルク区 (ドイツ語版 ) (Harburg)
ヴァンツベック区 (ドイツ語版 ) (Wandsbek)
気候
ハンブルク (1991-2020)の気候
月
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
年
最高気温記録 °C (°F )
14.3 (57.7)
17.4 (63.3)
23.0 (73.4)
29.7 (85.5)
33.5 (92.3)
34.8 (94.6)
36.9 (98.4)
37.3 (99.1)
32.3 (90.1)
27.1 (80.8)
20.2 (68.4)
15.7 (60.3)
37.3 (99.1)
平均最高気温 °C (°F )
4.2 (39.6)
5.2 (41.4)
8.7 (47.7)
13.9 (57)
18.0 (64.4)
20.9 (69.6)
23.2 (73.8)
23.0 (73.4)
18.8 (65.8)
13.6 (56.5)
8.2 (46.8)
5.0 (41)
13.6 (56.5)
日平均気温 °C (°F )
2.1 (35.8)
2.4 (36.3)
4.9 (40.8)
9.1 (48.4)
13.0 (55.4)
16.0 (60.8)
18.3 (64.9)
18.0 (64.4)
14.4 (57.9)
10.0 (50)
5.7 (42.3)
2.9 (37.2)
9.7 (49.5)
平均最低気温 °C (°F )
−0.5 (31.1)
−0.5 (31.1)
1.1 (34)
4.0 (39.2)
7.6 (45.7)
10.8 (51.4)
13.3 (55.9)
13.1 (55.6)
10.1 (50.2)
6.3 (43.3)
2.9 (37.2)
0.4 (32.7)
5.7 (42.3)
最低気温記録 °C (°F )
−22.8 (−9)
−29.1 (−20.4)
−15.3 (4.5)
−7.1 (19.2)
−5.0 (23)
0.6 (33.1)
3.4 (38.1)
1.8 (35.2)
−1.2 (29.8)
−7.1 (19.2)
−15.4 (4.3)
−18.5 (−1.3)
−29.1 (−20.4)
降水量 mm (inch)
67.0 (2.638)
55.0 (2.165)
57.0 (2.244)
39.0 (1.535)
58.0 (2.283)
74.0 (2.913)
82.0 (3.228)
78.0 (3.071)
65.0 (2.559)
63.0 (2.48)
61.0 (2.402)
73.0 (2.874)
772.0 (30.394)
出典:Wetter Hamburg
歴史
2世紀の学者プトレマイオス が著した『地理学 』の15世紀写本より、Treva と書かれた部分が現在のハンブルクである
1730年のハンブルクの様子
1800年のハンブルク
1890 - 1900年のハンブルク
古代
石器時代 の石器が発見されていることから、石器時代にも人間が住んでいたことがわかっている。紀元前4世紀の巨石を使った墓なども現存している。ローマ人は、このあたりの場所をTrevaと呼んでいた。ローマの金貨が出土していることから貿易も行われていたようである。ローマ側の記録では琥珀 の輸送に使われていたとされる。
中世
この地の古い部分には、スラブ人 が居住していたと思われる[9] 。
カール大帝 は804年 に国王荘館(Königshof)を置き、811年 に洗礼教会(Taufkirche)をアルスター川(die Alster)のエルベ川 に合流する地点の近くに建設する指示を下したと推測される。825年 頃ルートヴィヒ1世 (敬虔王)は「ハンマブルク城砦」(Kastell Hammaburg)を築かせる[10] 。831年 アンスガル(Ansgar)がこの地の大司教に叙任される[11] 。
教会建設と結びついた集落(旧市区)は845年 、デーン人 の襲来により破壊され、848年 には大司教座がブレーメン に移される。983年 にはスラブ人 との戦争により再びこの街は破壊される。1066年 と1072年 にもスラブ人に襲われている。12世紀 の新市区の建設がハンブルクの歴史の転機となる。1188年 ホルシュタイン 伯アドルフ3世(Graf Adolf III. von Holstein)はミニステリアーレ のヴィーラト・フォン・ボイツェンブルク(Wirad von Boizenburg)をリーダーとする人々に入植権を与える。新規入植者は税金を支払うことなく割り当てられた土地を所有することが許されるものだった。1189年 5月7日アドルフは神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世 から、旧市区と新市区の両集落に対する特権状を獲得する。これは、住民にエルベ川下流での無関税船舶運航を保証するものだった[11] 。
1201年 、ハンブルクはホルシュタインと一緒にデンマーク 領になる(26年間にわたる)。1216年 、旧市区と新市区は合併する。1228年 、ブレーメン大司教は旧市区に対して保有していた都市君主としての権利をホルシュタイン伯に譲渡する。司教座教会参事会の不入地域(der Immunitätsbezirk des Domstifts)は統合市域(Stätische Integration)から長い間除外されたままになり、それがために14世紀 に市民側と激しい抗争を引き起こすことになった[11] 。この頃ハンブルクは一大貿易港へと急速に発展する[10] 。市長を置き、参事会を設置するなど都市君主からの自由度を高めてゆき、ツンフト が形成される。参事会会員は世襲の都市貴族に限られなかったので、社会的上下間の流動性が見られた[12] 。
また、関税特権、経済特権を獲得したことで交易都市としての発展が進み、1241年にリューベック と、1249年にブレーメン と防衛同盟をむすんだ。同年、シャウエンブルク伯爵より完全な自治を許され、貨幣製造権も与えられる。このことがやがてハンザ同盟 の成立へとつながっていく。たかだか同盟のビール生産地にすぎなかったハンブルクは、リューベック が衰えるのと反対に繁栄し富裕な有力都市のひとつとなった。
14世紀 以降、北オランダと北ドイツの諸都市では市場向けビールが大量に生産されたが、その「代表は北ドイツのハンブルクだった。1376年 にハンブルクで営業していた商工業者1075名のうち、ビール醸造職人は実に456名を占め、1369年 のハンブルクのビール総生産高は17万樽に上った。1411年 のブリュージュ の課税記録によれば、オランダ産のビールと蜂蜜酒5500樽に対して、ハンブルク産のビールは5万1000樽の多きに及んでいる」[13] 。
1376年 、ハンブルクのビール醸造職人数は上記のとおりであるが、他の職種について言えば、178人が独立遠隔地商人(84人のフランドル渡航者+35人のイングランド渡航者+40人のリューベック渡航者)、19人が織物商、31人が小売商(21人の雑貨商+10人の行商人)、残りが各種手工業者(鋳物工、金細工師、皮なめし工など)であった[14] 。なお、当市での手工業者組合の結成は早く、1152年ハインリヒ獅子公により生地屋に対してその許可が与えられている[15] 。ハンブルクには、異なった職業を営む者が構成する兄弟団もあった。大聖堂の聖母マリア兄弟団は漁師、小売商、行商人によって構成され、仕事上の関係だけでなく聖ヨブ病院を維持することも兄弟団の目的であったし、ハルフェステフェーデにある修道院のヨハネス兄弟団には、仕立て屋、桶屋、屠殺人のほか、市参事会員などの商人層も多く加わっており、その目的は同地の修道女の生活に必要な物資を届けることであった[16] 。
14世紀 、北海 での海賊との戦闘において名声を挙げ、ハンザ同盟 の同盟結成当初からのメンバーとして北海とバルト海 地域の間の最重要積み替え地となった[17] 。1400年 頃、市の人口は約8000人であったが[9] 、1430年 頃には約16000人になっている[17] 。1510年 頃にはじめて出版されたドイツの民衆本『ティル・オイレンシュピーゲル の愉快ないたずら』の第74話は、主人公が、理髪店に雇われたものの例によっていたずらをしたせいで店から追い出される笑話だが、その町が当地とされている[18] 。
ジギスムント ( 神聖ローマ皇帝 )の治下、市は初めて「帝国直属」(reichsunmittelbar)とされ、1510年 のアウクスブルク 帝国会議において「ニーダーザクセン帝国クライスの帝国都市」(Reichsstadt im niedersächsischen Reichskreis)とされ、1618年 には帝室裁判所(Reichskammergericht)もハンブルクの独立を確認している[17] 。
その後、三十年戦争 によりハンブルクの商業は大打撃をこうむった。もっとも、市域は強固な防御施設に守られ、戦争の被害は被らなかった[17] 。しかし、フランス でフォンテーヌブローの勅令 が出て逃げてきたユグノー が、当時において先進的な工業技術と潤沢な資金により復興させた。
近世
1709年からアメリカへの移住が始まった。
1720年、ユグノーに厚いプロイセン王国 がオランダへ黄金海岸 を売却した。このころよりサンクトペテルブルク の開発が進み、それに呼応してロシア帝国 に干渉しオスマン帝国 を攻撃するための、政治・経済・軍事拠点としてハンブルクは活躍するようになった。
1810年、ハンブルクはナポレオン1世 の軍隊に占領された。しかし、ナポレオンの没落後ふたたび自由都市となり、1815年にドイツ連邦 に加盟した。このころにスペイン・ポルトガルから独立していたラテンアメリカ 諸国が欧州との貿易を望み、ハンブルクは旧来の取引関係をさらに拡充する機会として積極的に応じた。
1842年 に4日間にわたる火災で市街地は被害をうけた(ハンブルク大火 )。
近代
1871年のドイツ帝国 成立の際、ハンブルクはどこの州にも属さず独立を維持した。
1892年にはコレラ の流行で8605人もの死者が出た。このときプロイセン王国 に属するアルトナ市 は、市街地をハンブルクに隣接させていたが、水道 を濾過する設備を整えており、コレラの侵入を全く阻んで瘴気説の終焉をもたらした[20] 。
近現代
現代
会議に合わせて7月6日より市内で大規模デモ行進が行われ少なくとも1万3,000人が参加。一部は暴徒化し、警官75人が負傷した[21] 。
人口統計
国別の海外出身者の人口 [22]
出身国
人口 (2022)
トルコ
44,780
ウクライナ
33,570
アフガニスタン
24,635
ポーランド
23,310
シリア
17,725
ポルトガル
11,465
ルーマニア
10,510
イラン
9,725
ロシア
9,375
ブルガリア
8,830
北マケドニア共和国
7,870
ガーナ
7,650
イタリア
7,570
セルビア
7,405
クロアチア
6,785
インド
6,420
中国
6,235
ギリシャ
6,095
スペイン
6,040
フィリピン
5,740
イラク
5,180
フランス
4,940
オーストリア
4,610
ボスニア・ヘルツェゴビナ
4,235
アメリカ
3,880
エリトリア
3,085
ベトナム
2,965
エジプト
2,875
イギリス
2,750
現在ハンブルクの人口はおよそ186万人でベルリン に続くドイツで2番目に大きい都市である。ハンブルク港 の影響でハンブルクは国際的な都市になった。ハンブルクは大きなポルトガル人 コミュニティがあり、およそ11,000人が住み、ドイツの中でも一番多い。ハンブルク港の近くにはポルトガル人街 (ドイツ語版 ) があり、ポルトガルのレストラン、カフェや機関がある。アフガン人 のコミュニティも多く、およそ25,000人でヨーロッパの中でも一番多い。ハンブルクにはアフリカ系のコミュニティも多くおよそ70,000人のアフリカ系市民が住んでいる[22] 。ハンブルクは1893年 に50万を超え、1919年 に100万、1963年 に185万を超えた。ハンブルクは欧州連合 で7番目に大きな都市で、その中でも首都以外では1番目に大きな都市である。
政治
ハンブルク市議会の議場
ハンブルク市議会の勢力図(2021年現在) 現在も市民にはプロテスタント が多い。政治的には中道左派のドイツ社会民主党 (SPD) が長期間市政を担うなど、南ドイツ第一の都市・ミュンヘン 市とはサッカー に限らずあらゆる点で対照的である。
ミュンヘンのあるバイエルン州はカトリック の地盤であり、政治では保守政党のキリスト教社会同盟 (CSU) の勢力が強い[注釈 2] 。
市長
市の首長は正式には「第一市長 」(Erster Bürgermeister )である。2011年からSPD党首代行のオラフ・ショルツ が市長を務めていたが、2018年3月にメルケル 連立政権の連邦副首相として入閣することとなり、同月28日、SPDのペーター・チェンチャー がハンブルク市長に就任した。
議会
ハンブルク市議会 の定数は123。2020年2月23日に行われた選挙での、各党の「得票率/獲得議席数(前回2015年選挙からの増減)/議席占有率」は以下の通りである。
2020年の市議会議員選挙では、前回2015年選挙以降、SPDとの連立与党の座にある同盟90/緑の党が15議席から33議席へと躍進を遂げた。国政与党のCDUは、前々回2011年選挙以降の低落傾向に歯止めがかかっていない。右派AfDは2015年選挙で初めて議席を獲得、今回も1減ながら7議席を確保した。
経済
コメルツ銀行 アトリウム
ブレーメン市 と同様に、中世以来の自由都市 としての地位を現代まで維持している。人口は、ベルリン特別市 に次ぐ、ドイツ第2の都市である。現在、大型クルーズ船の桟橋や文化・商業・居住機能をもつ臨港地域「ハーフェンシティ 」の開発計画が進行中である[23] 。
物流拠点
中世よりハンザ同盟 の中心的役割を果たした都市の一つでもあり、エルベ川沿いの港湾商業都市として発展した。コンテナ 貨物用の広大な施設をそなえ、造船と船舶修理用の大きなドックを持つ港は、ドイツ第一、欧州連合 第二の港湾規模、大小約500の海運関係企業があるといわれている。鉄道と高速道路網によって中央ヨーロッパの諸都市とむすばれ、ドイツ最大の物流拠点となっている。購買力平価説に基づき、2020年のハンブルクの一人当たり実質国民総所得は91,074ドルと予測される[24] [25] 。
金融センター
2020年 、イギリス のシンクタンク によりハンブルクは世界29位の金融センター として評価された。これはドイツ国内でフランクフルトに次ぐ[26] 。
拠点を置く企業
近年ハンブルクは産業構造改革の一環として技術集約産業の誘致に熱心で、多くの多国籍企業 が拠点をおいている。エアバス 社が専用滑走路をもつドイツ最大の工場を置いている他、ハンブルク空港にはルフトハンザ ・テクニック社がある。また、モンブラン や日本名ニベア花王 で知られるバイヤースドルフ の本拠地でもある。
交通
ハンブルク中央駅
ハンブルク地下鉄
空港
ハンブルク空港 は、年間1730万人(2017年)の利用者を抱える国際空港で、ドイツでは5番目の規模である。ドイツの各都市をはじめ、ロンドン 、パルマ・デ・マヨルカ 、ウィーン 、アンタルヤ 、モナスティル など欧州・地中海 沿岸の各主要都市および行楽地 への便が就航する。
中心部から10 km ほど離れた市内北部のフースビュッテル(Fuhlsbüttel)地区に位置し、中央駅 とはSバーン(S1線)で結ばれている。
鉄道
長距離・地域間輸送
ハンブルクは北ドイツの鉄道ハブであるだけでなく、デンマーク やスウェーデン など、北欧へのゲートウェイ としても機能している。長距離列車(ICE・IC)が停車するドイツ鉄道 (DB)の駅は以下の5つである。
ドイツ最大、ヨーロッパではパリ北駅 に次いで第2位の乗降客数を誇るターミナル駅。ドイツの幹線であるベルリン-ハンブルク線 やハノーファー-ハンブルク線 の終点。市内中心部に位置し、西には市庁舎 に続く目抜き通り 「メンケベルク通り 」が通じ、東には移民街 かつゲイ・タウン として知られるザンクト・ゲオルク 地区が広がる。
市内中心部にほど近いアイムスビュッテル 地区に位置する。ハンブルク・メッセ やハンブルク大学 の最寄り駅で、東に市内随一の公園「プランテン・ウン・ブローメン 」、西にアルスター湖 を望む。
西部の郊外地区アルトナ に位置する頭端式の駅。中央駅ではなく当駅を終着駅とする列車も多い。
南部の郊外地区ハールブルク に位置する。ブレーメン やクックスハーフェン 方面からハンブルクへの玄関口となる。
東部の郊外地区ベルゲドルフ に位置する。ベルリン、チェコ、バルト海方面からハンブルクへの玄関口となる。
都市内輸送
上記の5駅および中心市街地のユンクフェルンシュティーク駅 /市庁舎駅をハブ駅として、Sバーン (都市高速鉄道システム)とUバーン (地下鉄)がハンブルク市内および近郊地域を結んでいる。ハンブルクSバーン は4系統で144km、ハンブルクUバーン は4系統で106 km の路線網を展開しており、さらに現在、新たに3路線(S4・S6・U5)の建設が進行中である。Uバーンは、全線の半分以上で地上を走ることから「Hochbahn(高架鉄道)」とよばれ、運営会社の名前もハンブルク高架鉄道(Hamburger Hochbahn)となっている。
ハンブルク都市圏 内の鉄道、バス、船舶を含むあらゆる公共交通機関は、ハンブルク交通局 (HVV)によって組織・管理されており、HVVはこの種の組織としては世界初である[28] 。
路面電車は1866年に開通したが、1978年に廃止された[29] 。
港湾
ハンブルク港 はドイツ最大規模の港湾施設を備えている。
観光
欧州屈指の歓楽街を持つ。市の中央にアルスター湖があり、観光客も多い。観光では、最近はエリカ街道 の起点にもなっている。
税関近くの運河
夜の倉庫街
ハンブルク市庁舎
名所・旧跡
観光スポット
文化
音楽
ハンブルク国立歌劇場
ハンブルク国立歌劇場 (実際は市立だが、独立性の高い政府組織を持つ他の州立歌劇場と同様、一般にはハンブルク国立歌劇場と呼ばれる)はヨーロッパ屈指の長い歴史を有し、バロック音楽 中期のイタリアオペラ 全盛期であった1678年の初公演からドイツ語オペラ上演を盛んに行なっていた名門オペラハウスである。専属オーケストラはハンブルク・フィルハーモニカー の名でコンサートも行う。同歌劇場は1970年前後に北ドイツ放送と共同で質の高いオペラ映画を多数製作し、それらの一部は現在でもDVDなどで親しまれている。北ドイツ放送交響楽団 は戦後創設の団体だが、創立者ハンス・シュミット・イッセルシュテット 、ギュンター・ヴァント ら名指揮者の薫陶を受けてドイツでも有数の地位を獲得、現在はNDRエルプフィルハーモニー管弦楽団 と改称している。
エルプフィルハーモニー
18世紀にはゲオルク・フィリップ・テレマン 、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ がハンブルク市音楽監督を勤めた。ロマン派 時代の作曲家フェリックス・メンデルスゾーン 、ヨハネス・ブラームス の生誕地でもあり、NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団の本拠地でもある。2017年に新しいコンサートホール、エルプフィルハーモニー が開業した。ハンブルクはミュージカル の興行が盛んな街としても知られる。
ビートルズ が下積み時代にハンブルクでリーゼントヘア で活動していたことでも知られ、その後、マッシュルームカット にイメージチェンジして英国でデビューした際、「ハンブルクから来た男たち」の触れ込みで売り出されたため、ドイツ人バンドと誤解されたというエピソードもある。ロンドンとは外国ながら北海を挟んで意外と密接な関係にあり、巨大イージー・リスニング・オーケーストラとして知られる101ストリングス・オーケストラ (当初ハンブルク、現在はロンドンが本拠)には両都市の主要オーケストラ団員が参加している。
スポーツ
フォルクスパルクシュタディオン
メディア
ARD 加盟の公共放送 局・北ドイツ放送 (NDR)の本部がハンブルクに置かれている。また、ハンブルクは連邦を構成する州のひとつでもあるため、各州に拠点を置くもう1つの公共放送である第2ドイツテレビ (ZDF)も拠点を置いている。
北ドイツ放送テレビスタジオ
第2ドイツテレビ・ハンブルク支局
生活基盤
電力
ハンブルクは1998年に電力自由化をとげ、やがてバッテンフォール がハンブルク電力会社(HEW)を買収した。その後ヴァッテンファルは、市内で石炭火力発電所の建設計画を進めたが、地球温暖化の観点から市民の反対運動にあった。
訴訟なども経て、2008年にハンブルク市は建設を認めたが、市民はこれに納得せず、ヴァッテンファルへの不買運動を展開した。市がもつ公共空間利用権の付与権限が市民の強力な武器となった。
2011年にハンブルク市は、市が25%、ヴァッテンファルが75%を出資する共同会社の設立を提案し、配電事業の経営に市民の意向を反映させることを約束した。
しかし、これに満足しなかった市民は、あくまで100%の出資を主張し、2013年9月に住民投票に持ち込んだ。
その結果、僅差であったが市民の提案が支持され(50.9%)、市も100%の電力網公社の設立に同意した。
ドイツ連邦は2011年8月に原子力法を改正し原発再稼動を禁じた。しかしRWEとE.ONとバッテンフォールは財産権の侵害を連邦憲法裁判所に提訴した。
前二社は残存発電電力量を事業者固有の財産と主張。バッテンフォールはドイツ政府の政策変更が「エネルギー憲章に関する条約」の定める「外国企業の財産権侵害」にあたるとして、投資紛争解決国際センター に調停を申し入れ、その上で連邦憲法裁判所へ提訴していた[34] 。
2016年12月6日、連邦憲法裁判所は政府の賠償責任を認めた。具体的な賠償額などは示していないが、電力会社が今後の訴訟や交渉で賠償請求するための根拠となる[35] 。
出身関連著名人
ア行
カ行
サ行
タ行
ナ行
ハ行
マ行
ヤ行
ラ行
対外関係
姉妹都市・提携都市
姉妹港・提携港
脚注
注釈
^ 1938年にアルトナ 、ハールブルク、ワンツベックなどを併合。
^ ただし、ミュンヘン市の市政レベルではSPDが戦後の大半の市長を輩出している
出典
^ Duden Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverlag. (2005). p. 387. ISBN 978-3-411-04066-7
^ “Bevölkerung in Hamburg am 31.12.2022 nach Stadtteilen - FragDenStaat ”. 2024年4月28日 閲覧。
^ “在ハンブルク日本国総領事館 ”. 2018年6月22日 閲覧。
^ ドイツ外務省. “ハンブルク州 ”. 2018年6月22日 閲覧。
^ Dieter Berger: de:Duden , geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern , Bibliographisches Institut, Mannheim/Wien/Zürich 1993 (ISBN 3-411-06251-7 ), S. 124.
^ "アルスター湖" . デジタル大辞泉 . コトバンク より2018年5月4日閲覧 。
^ “Hamburgisches Wattenmeer | Ramsar Sites Information Service ”. rsis.ramsar.org (1992年1月1日). 2023年2月21日 閲覧。
^ “Wadden Sea of Hamburg, Germany ” (英語). UNESCO (2020年1月16日). 2023年2月21日 閲覧。
^ a b Lexikon des Mittelalters . Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2 ), Sp.1884.
^ a b Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder . 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 230.
^ a b c Lexikon des Mittelalters . Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2 ), Sp.1883.
^ Lexikon des Mittelalters . Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2 ), Sp.1883-1884.
^ 堀越宏一 『ものと技術の弁証法』(「ヨーロッパの中世」5)岩波書店 2009(ISBN 978-4-00-026324-5 )、267-268頁
^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、235頁
^ 阿部謹也『中世の窓から』朝日新聞社 1981年、95頁。
^ 阿部謹也 『中世の窓から』朝日新聞社 1981年、52-53頁
^ a b c d Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder . 6. Aufl. München: C.H.Beck 1999 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 231.
^ 阿部謹也 訳『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』岩波文庫 1990年 (ISBN 4-00-324551-2 ) 264-267頁。- 藤代幸一 訳『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』法政大学出版局 1979年 213-215頁。
^ G.Klein, Vierhundert Jahre Hamburger Börse, 1558 bis 1958 , Hamburg, Anfänge.
^ Norman Longmate, King Cholera: The Biography of a Disease , London, 1966, pp.228-229.
^ 米独首脳が北朝鮮など協議、G20抗議デモで警官約75人負傷 ロイター(2017年7月7日)2017年7月8日閲覧
^ a b Statistisches Amt für Hamburg und Schleswig-Holstein: Ausländische Bevölkerung in Hamburg 2011 (PDF )
^ 生井澤幸子 「ハンブルク港の再開発 : SpeicherstadtからHafenCityへ」 川村学園女子大学研究紀要 27(1), 1-14, 2016
^ “statistik-bw ”. 2022年3月10日 閲覧。
^ “GNI per capita, PPP (current international $) | Data ”. data.worldbank.org . 2022年3月10日 閲覧。
^ “GFCI 27 Rank - Long Finance ”. www.longfinance.net . 2020年7月14日 閲覧。
^ 山口博教 「ハンブルク証券取引所の伝統と組織改革 : 地域取引所とガバナンス(IT革命と企業経営)」 經營學論集 73(0), 152-153, 2003
^ Goisauf, Reinhard (2020). Die Kilimanjaro-Strategie . doi :10.1007/978-3-662-61436-5 . http://dx.doi.org/10.1007/978-3-662-61436-5 .
^ Light Rail Transit Association『Tramway & Light Railway Atlas – Germany 1996』London、1995年、262頁。ISBN 0-948106-18-2 。
^ Kunst und Handwerk in Japan by Justus Brinckmann Published 1889 arcive.org
^ Ephemeral beauty in the lives of Edo women The Japan Times, Nov 12, 2010
^ 高橋洋 (2014年12月25日). “ハンブルグ電力網公社の誕生 ”. 自然エネルギー財団 . 2017年10月6日 閲覧。
^ “ハンブルグ都市州におけるエネルギー供給事業の再市営化 ”. 自治体国際化協会ロンドン事務所 (2015年2月28日). 2017年10月6日 閲覧。
^ ロイター "E.ON seeks 8 billion euros in nuclear exit damages", June 13, 2012
^ 産経ニュース 「独政府の賠償責任認定 脱原発決定めぐり憲法裁」 2016年12月6日
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
ハンブルク に関連する
メディア および
カテゴリ があります。
公式
日本政府
観光
その他