福田 和也(ふくだ かずや、1960年(昭和35年)10月9日 - 2024年9月20日)は、日本の文芸評論家。慶應義塾大学名誉教授。株式会社BSフジ番組審議会委員を務めた。
東京都北区田端出身。高校生の時に神奈川県葉山町へ転居した[1] 。お茶の水女子大学附属小学校、お茶の水女子大学附属中学校、慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学文学部文学科仏文学専攻で古屋健三に師事し[2] 、フランス文学研究の主流への激しい反発から「誰もテーマに選ぼうとしなかった」ファシズム作家を研究対象とし、第二次世界大戦期にナチス・ドイツへ積極的に協力(コラボラシオン)したフランスの文学者(コラボラトゥール作家)を研究テーマに選択する。初出版は1989年12月に『奇妙な廃墟――フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』で、国書刊行会の編集者・佐々木秀一に要請され執筆した。著述は難航し、大学院在学中の1983年4月から1985年3月まで2年、大学を出て家業の福田麺機製作所を手伝いながら3年、執筆に専念して2年、と計7年間を費やした。本作で江藤淳に見出される。
1990年、当時の編集長白川浩司の強いサポートにより月刊『諸君!』に「遥かなる日本ルネサンス」を連載開始、多大な反響を起こし論壇に登場した。近代日本の文芸評論を軸に文筆活動を開始した。『新潮』1991年4月号に「虚妄としての日本―モダニズムの地平と虚無の批評原理」を発表。1993年5月、『日本の家郷』(新潮社、1993年2月)で第6回三島由紀夫賞を受賞。なお同時受賞は車谷長吉『鹽壺の匙』(新潮社、1992年10月)だった。1996年、『甘美な人生』(新潮社、1995年5月)で第24回平林たい子文学賞評論部門を受賞する。なお小説部門の受賞は村上龍『村上龍映画小説集』(講談社、1995年6月)だった。1997年9月の第29回から新潮新人賞の選考委員を務める。1999年12月から、新たに創設された角川春樹小説賞の選考委員を務めるも2000年12月の第2回選考で辞任する。
2000年5月の第13回選考から三島由紀夫賞の選考委員を務める。2002年7月から週刊誌『SPA!』で坪内祐三と連載対談を開始する。2002年11月、『地ひらく』で第11回山本七平賞を受賞する。2006年、『悪女の美食術』(講談社、2006年4月)で第22回講談社エッセイ賞を受賞する。野崎歓『赤ちゃん教育』(青土社、2005年7月)が同時受賞。以降『文藝春秋』『正論』『週刊新潮』『週刊文春』『産経新聞』『週刊現代』『新潮45』などで執筆している。ラジオはニッポン放送の様々な番組にコメンテーターとして出演し、 テレビはBSフジの『メッセージ.jp』の聞き手を除いて出演していなかったが、2006年4月から毎月第三金曜日に「とくダネ!」でレギュラー出演している。1996年9月から慶應義塾大学環境情報学部勤務となったが、学会活動はしていないと公言し、江藤淳の奨めでかつては比較文学会に所属していたが、この時期あたりにはどの学会にも所属していないとされる。慶應で非常勤講師を始めた際に江藤から、批評に専念するのではなかったのかと叱責されたが、その後江藤が慶大助教授の職を斡旋してくれたと語っている[3]。福田ゼミ出身者には、一青窈、佐藤和歌子、酒井信、大澤信亮、鈴木涼美などがいる。2001年の秋学期には慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスでの福田和也研究会に菊地成孔[4]を招いた。
2003年に柳美里、坪内祐三、リリー・フランキーと共同編集で文芸誌『en-taxi』を創刊し、のちに柳が抜ける。坪内とは『SPA!』で、対談を長年続け深い関係だった。『en-taxi』ではしばしば立川談志へのインタビューを行っており、落語への造詣も深い。立川談春の文才を見抜き『en-taxi』誌上で『談春のセイシュン』(のちに単行本『赤めだか』、講談社エッセイ賞受賞)の連載もスタートさせた[5]。2007年5月、第20回選考で三島由紀夫賞選考委員を辞任した。
2010年9月、第9回選考から新潮ドキュメント賞の選考委員を務める。2011年、妻を置いて恋人とアパートに家出する[6]。なお、福田と親しくしていた西部邁(評論家)は「…色欲、暴食…など色々と「人間関係の安定化」にとって有害との理由で禁じられて然るべきプロペンシティ(性向)が人間にはある」[7]と述べている。2016年8月、第15回選考で新潮ドキュメント賞選考委員を辞する。2016年9月、新潮新人賞選考委員も辞任する。2018年4月、長年『SPA!』に連載した坪内祐三との対談が最終回となる。2022年、慶大教授を定年前に退職、名誉教授となる。なお2010年代後半から大病を患っており、本格的な著述活動を控えていた。
2024年9月20日午後9時47分、急性呼吸不全のため千葉県浦安市の病院で死去。63歳没[8]。
デビュー後しばらくは「ファシストのパンク右翼」を自称し、『日本クーデター計画』を出版するなど世の良識を逆撫でする発言を繰り返した。ファシズムの思想史的意義を強調する一方で「失敗したファシズムが丁度良い」[9] などとも発言する。
左翼思想の変種とも揶揄されるポストモダニズムを、マルティン・ハイデガーを介してファシズムに繋げたが、一時期「友人」を名乗っていた「護憲派」の大塚英志からは「実は左翼」などと評された。
2000年に出版した『作家の値うち』で、純文学と大衆文学の現役作家を五十人ずつ、全百人の主要作品を百点満点で採点し、多くの有名作家作品を「読んでいると恥ずかしい」レベルなどと評し、浅田彰や安原顕からは厳しく批判された。師匠の江藤が評価しなかった古井由吉や村上春樹を評価し、江藤が絶賛した中上健次の『千年の愉楽』を「インチキポルノ」と評するなど[10]、江藤とは文学の評価にかなりのズレがある。柳美里『ゴールドラッシュ』[11]、島田雅彦「無限カノン三部作」を厳しく批評し[12]、二人の反撥を招いたが、対談で手打ちをしている。
妻圭子は二人目の妻でもと出版関係者。一人目の妻は慶應義塾大学文学部の同級生。