称号:王子 敬称
殿下 His Royal Highness the Prince พระเจ้าวรวงศ์เธอ พระองค์เจ้า
ナラーティップポンプラパン親王 (ワンワイタヤーコーン親王 とも、 พระเจ้าวรวงศ์เธอ พระองค์เจ้าวรรไวทยากร กรมหมื่นนราธิปพงศ์ประพันธุ์ , 1891年 8月25日 - 1976年 9月5日 )は、タイ王国 の外交官である。日本に於いては、モムチャオ =ワンワイタヤーコーン・ワラワン の名が有名で、ワラワン殿下 、ワン殿下 などと称された。ラーマ4世 (モンクット)の子息であるワラワナーコーン親王 の息子である。
伝記
生い立ち
ワンワイタヤーコーンは1891年 バンコク 生まれ。生まれた時には、モムチャオ位の王族であった。幼少期をバンコクで過ごした後、マールボロ・カレッジで5年間学ぶ。1910年 からはオックスフォード大学 で文学を学び、その後パリに渡ってパリ大学 で外交学を勉強した。
外交
卒業後は駐仏大使館で勤務、帰国後は外務省で働き国際連盟 の役員に就任、1929年 には駐英し公使 をつとめた。1931年 にはチュラーロンコーン大学 文学部教授となり、外務省の顧問を兼任した。1932年 に起こった立憲革命 では王族が軒並み国外に逃げるなどしたが、ワンワイタヤーコーンはその教養の高さと穏和な性格から新政府内でも地位を保守した。
格上げ
その後は欧米列強との不平等条約改正などを精力的に行い、その努力が認められ、ピブーンソンクラーム 内閣では外相を務めている。1939年9月20日、モームチャオ位の王族からワンワイタヤーコーン親王(プラウォーラウォントゥープラオンチャオ位 )に格上げされた。
第二次世界大戦での活動
大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ 、張景恵 、汪兆銘 、東條英機 、ワンワイタヤーコーン親王、ホセ・ラウレル 、スバス・チャンドラ・ボース 仲介役を日本政府が務める1941年 のタイ仏国境紛争 の講和会議「東京会議」では、『東京条約 』を締結。2年後の大東亜会議 にはピブーンが仮病を使って欠席したため代役として会議に出席。この年の10月15日にはプラチャオウォーラウォントゥープラオンチャオ位の王族に昇格した。
国連総会議長
1952年 には外務大臣をつとめ、5月5日には、ラーマ9世 (プーミポン)によりクロムに叙されナラーティップポンプラパン親王の名称を与えられた。1956年 に国連 代表として第11回国連総会の議長を務めた。
副首相
1959年 には一連の軍事政権、サリット 政権、タノーム 政権下では副首相に任命される一方で1971年 までタンマサート大学 の学長をつとめた。このほかコロンビア大学 の名誉教授なども務めた。また、憲法 、革命 、クーデター などのタイ語における語彙を作り出した人物でもある。
関連項目
参考文献
Finestone, Jeffrey: The Children and Grandchildren of King Mongkut (Rama IV) of Siam , Thailand: Goodwill Press (Thailand) Co., Ltd., 2000, p.236,248 ISBN 9748714888
石井米雄 ・吉川利治 『タイの事典』 同朋舎、1993年、p.371 ISBN 9784810408539
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