太田 吉彰(おおた よしあき、1983年6月11日 - )は、静岡県浜北市(現:浜松市浜名区)出身のプロサッカー選手。神奈川県社会人サッカーリーグ・品川CC横浜所属。ポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。
実兄は元サッカー選手の太田圭輔。
静岡選抜で太田と一緒にプレーした経験がある長谷部誠らが証言しているように、元々はトップ下の選手だった。しかしジュビロ磐田ユースに加入後、トップ下では自分に将来がないと感じ、ずっと目標としてきた兄・圭輔と同じようなサイドアタッカーに転身することを決断。当時はスタミナもそこそこ、足も特に速いわけではなかったが、トレーニングで自身の肉体を変貌させ、高校3年時にはスピードを生かした突破力を武器とするプレイヤーとしてFWやサイドハーフのレギュラーを奪取した。その結果本人も予想もしていなかった2002年にトップチーム昇格を果たす。
クロスの精度や守備力に難があったが、磐田の世代交代の波に乗り2003年の天皇杯でトップデビューを果たすと、2004年の初先発の試合でいきなりゴールを決めるなどして一気にレギュラー格に定着。2005年シーズンはMF陣最多得点をあげ、2006年はアジウソン体制で完全に攻撃の中心として位置付けられ、2007年からは再びFWもこなすようになるなど、当時の磐田を支えた選手の1人であった。2008年シーズンは右サイドの駒野友一の移籍加入と、4月に練習試合で前十字靭帯断裂の怪我を負ったためシーズンの大半を棒に振っている。
怪我から復帰した2009年、開幕から中盤右サイドのレギュラーを任されるが不調で、李根鎬の加入によりサイドハーフに回ったジウシーニョなどにレギュラーを奪われた。その後、海外挑戦するため、7月に磐田を退団した[1]。
磐田退団後は、特別なコネクションもなく無所属のまま単身でヨーロッパへ行き、フランスのル・マンFCやベルギーのKVメヘレン、ドイツの8部リーグのアマチュアクラブなどの練習に参加。しかし、契約には至らなかった。その結果、年内いっぱいは無所属となり日本に帰国後、古巣の磐田に売り込みをかけるも断られた[2]。
2010年にベガルタ仙台へ完全移籍加入。
加入初年度こそチャンスに恵まれなかったものの、2011年は途中退団したマルキーニョスに代わってFW起用される。東日本大震災後、J再開川崎戦にて、両足が激しく攣った状態でゴールを挙げ、その直後に負傷交代した。このゴールは「やべっちF.C.」にて名波浩により「魂のゴール」と評されている。2012年は本職のサイドハーフとしてプレーし、MF梁勇基の負傷により開幕から先発。梁が復帰すると今度はMF関口訓充に代わって引き続き先発。関口の復帰後も先発を明け渡すことなく、フィールドプレーヤーで唯一のリーグ戦全試合出場を果たした。2013年、2014年もリーグ戦全試合に出場。
2015年1月7日、約6年ぶりにジュビロ磐田へ完全移籍で復帰することが発表された[3]。背番号は、かつて中山雅史が付けていた9番[4]。開幕戦となった北九州戦では、ジェイのゴールをアシストした[5]。第30節の徳島戦で移籍後初ゴールを決めた[6]。2015年シーズンは39試合に出場し、ジュビロのJ1昇格へ貢献した。
2016年シーズンでは、第2節の浦和戦でチームシーズン初ゴールを挙げる[7] など活躍し、リーグ戦全試合に出場した。
2019年12月24日、現役を引退すると発表した[8]。
2024年7月4日、神奈川県社会人サッカーリーグ1部の品川CC横浜でロールモデルプレイヤーとして現役復帰する事が発表された[9]。7月7日、リーグ戦に出場。現役復帰後初出場を果たした。
この項目は、サッカー選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:サッカー/PJサッカー選手/PJ女子サッカー)。