中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県志太郡岡部町(現:藤枝市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。現在はJリーグ・アスルクラロ沼津の監督を務める。
日本プロサッカー選手会名誉会長。愛称の「ゴン」「ゴン中山」は元サッカー選手の鋤柄昌宏がつけた。これは大学時代、当時の先輩に「オレたちひょうきん族に登場したビートたけし扮する鬼瓦権造に顔が似ている」と言われたことから[注釈 1][1]。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。1996年から1998年までジュビロ磐田でキャプテンを務めた。
日本代表として1998 FIFAワールドカップ、2002 FIFAワールドカップにも出場。1998年のFIFAワールドカップ本大会で日本代表のW杯初ゴールを決めている。Jリーグ(J1)最優秀選手賞(1回)、得点王(2回)、ベストイレブン(4回)を受賞した経験を持ち、Jリーグシーズン最多得点、J1での最年長記録、W杯本大会日本代表初ゴールなどの個人記録なども持つ。さらに国際試合における最短ハットトリックのギネス世界記録保持者でもある。なお、2016年3月に佐藤寿人に抜かれるまで通算J1最多得点(157得点)記録保持者であり、同年11月にステファン・ルチヤニッチに抜かれるまでハットトリック連続世界記録保持者(4試合連続)であった。
妻は女優・タレントの生田智子で、2004年に誕生した長女がいる。実父の中山儀助は元岡部町町議会議員。
来歴
学生時代
静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍した。高校2年次の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、当時台頭していた東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し、第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にした。本大会では準決勝まで駒を進めたが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPKの末に敗れた。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍した。
1986年、筑波大学体育専門学群に入学し蹴球部に入部。井原正巳とは同期でセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務めた[2]。当初は静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーを務めたが、後に先輩である長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻った。
ヤマハ、1994年ジュビロ磐田とJリーグへ
1990年、ヤマハ発動機に入社し、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。当時のヤマハは完全プロ化への移行は成されていなかったため、サラリーマン生活も経験した。同年の第1回ダイナスティカップ北朝鮮戦で日本代表デビュー。翌年、ヤマハ発動機サッカー部がJリーグ開幕10チームから落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハに残留した。
1993年秋の1994 FIFAワールドカップ・アジア予選での熱いプレーや活躍、また陽気なキャラクター(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)が話題となり、一躍全国区の人気者となる。またこの年、ジュビロ磐田はJFL1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たした。
1994年、ジュビロ磐田のJ1昇格により中山はJリーグデビューを果たし、3月19日の第3節ヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決めるなど[3][4] 開幕当初は試合に出場したが、前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニア[注釈 2] が悪化し、4月末に戦線から離脱。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手もいたが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎や福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術を受ける。以後リハビリが続き、8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振った。
1995年に怪我から復帰し、開幕から好調なスタートを切った。前年にジュビロへ入団した元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビは、当時Jリーグ最強の2トップと言われた。
1997年は、ドゥンガや山本昌邦らとのトレーニングにより、「オフ・ザ・ボールの動きの質」に開眼。第2ステージ、9月20日のヴェルディ川崎戦では自身Jリーグにおいては自身初となるハットトリックも記録するなど[注釈 3][5]、結果を出してステージ優勝に貢献。鹿島アントラーズとのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。
ワールドカップ出場、磐田の黄金期を築く
1998年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居陸上競技場)での5得点[6] を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦(ジュビロ磐田スタジアム)で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦(熊本市水前寺競技場)で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦(ジュビロ磐田スタジアム)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された[注 1]。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点を記録した。これは2023年現在もリーグ戦における最多得点記録となっている。この年は得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱を期する鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。
1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水エスパルスとのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。
2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、11月23日のサンフレッチェ広島戦で自身通算7回目となるハットトリックを記録するなど[5]、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された[注釈 4]。
2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れ年間優勝を逃す。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末に敗れるなど、無冠に終わる。
2002年、W杯からのリーグ再開後にはゴールを量産し、得点王となったチームメイトの高原直泰に次ぎ、日本人としては2位となる16ゴールを上げ、磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献、ベストイレブンにも選出された。
2003年5月に10年前の恥骨結合炎が再発し、戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰。復帰初戦となった東京ヴェルディ1969戦では、試合中にもかかわらず中山がユニホーム姿になると場内が騒然とした。相手DF米山篤志は「あれは異様な雰囲気だった」とコメントするほどだった。試合後、監督の柳下正明は「当初はこの試合では(中山を)起用しないつもりだった」としたうえで「エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」とコメント。事実、投入直後のコーナーキックで磐田は同点に追いつき、その勢いのまま逆転勝利を収めている。しかしながら、最終節の横浜F・マリノス戦に敗れたことによりリーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。
2005年5月1日の柏レイソル戦(柏の葉公園総合競技場)での前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏戦(ヤマハスタジアム)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。
2006年9月17日の川崎フロンターレ戦(等々力陸上競技場)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールを達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮アルディージャ戦で達成)。この記録は過去に三浦知良[注釈 5]、澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。
2007年には5月3日の清水エスパルス戦(日本平スタジアム)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日に、2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り、名誉会長に就任した。
2008年3月15日のガンバ大阪戦でロスタイムにゴールを挙げ[8]、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。歴代3位となる自身のゴール時年齢記録も伸ばしている(40歳5か月22日)。なおJ1リーグ戦史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3か月、2位はその後40歳6か月まで記録を伸ばしている三浦知良である。5月25日にはナビスコカップでの清水エスパルス戦で、後半43分にコーナーキックをヘディングで決め[9]、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜き、ナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える[注釈 6] 快挙を達成したが、試合には敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。また、この得点が中山が公式戦で挙げた最後の得点となった。
2009年シーズンは出場機会が激減。自身が同年42歳の高齢となったこともあり、11月9日にジュビロ磐田から戦力外通告を受け、同時にスタッフとしての残留要請を受けた。しかし現役続行に強い意欲を示す中山はこれを固辞し、新天地を探すことを選択した。また、この年は中山と同じく磐田がJリーグに加盟した1994年から在籍し、この年の時点で中山と共に2002年の完全優勝を知る選手であった鈴木秀人も戦力外通告を受けた。同年のヤマハスタジアムでの公式戦最終戦となった11月28日の広島戦の後半途中から出場し、当時ラモス瑠偉が保持していたJ1最年長出場記録(41歳9か月5日)を更新(42歳2か月5日)。試合後には中山が挨拶を行ない、サポーターへの感謝と現役続行への意欲を表明した。最終節のヴィッセル神戸戦(ホームズスタジアム神戸)での出場機会は回ってこなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え、1万5000人の拍手を浴びながら磐田での最後の試合を終えた。
2010年、コンサドーレ札幌で再起
退団発表後、ロアッソ熊本、横浜FC、コンサドーレ札幌(以上J2)、FC町田ゼルビア、V・ファーレン長崎(以上JFL)、藤枝MYFC(東海リーグ)の6クラブが興味を示し、獲得の意思を表明。年俸提示は最も低かったが、「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」、施設や医療体制が充実している札幌への移籍を決断した。12月24日に開かれた移籍会見では、「現役生活が一番幸せ。辞めたり、諦めたりするのはいつでも出来る。無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」と、あくまでも現役にこだわり続ける姿勢を表明した。
2010年シーズンは途中出場で主に出場するも、得点には至らなかった。また、11月に膝の手術を行った。
2011年は前年の手術した膝の影響もあり、試合にはまともに出られず、9月には両膝関節炎を発症し、この年は公式戦無出場に終わった。しかし、来季も現役続行の意志を示し、また所属する札幌のJ1昇格が決まり、中山自身にとっては3シーズン振りのJ1となることが決定した[10]。
オフには、東日本大震災の慈善試合で仙台で行われた「日本サッカー選手会 クリスマス・チャリティーサッカー2011」に出場し、会場を盛り上げた[11]。また、この際に複数の選手たちと共に被災地へも訪問している[12]。
2012年、「東日本大震災復興支援Jスペシャルマッチ」のファン投票で13万票を獲得し、Jリーグ選抜に選出された[13]。
11月24日の横浜F・マリノス戦で、後半から途中出場を果たし、45歳2ヵ月1日でのJ1出場で、自身が持つ最年長J1出場記録を更新した[14]。またこの記録は、2020年9月23日に三浦知良に更新されるまで『J1最年長出場記録』だった。
シーズン終了後、現役続投か引退かの結論を保留していたが、12月に今季限りでの現役引退の決意を固め[15]、4日に現役引退を発表した[16]。記者会見では、引退の原因は両膝が思うように動かなくなったことと話し、まだ未練タラタラであり、元気になったらカムバックするつもりとも述べ、またサッカーを愛するがゆえにそういう怪我も負ってしまったが、サッカーを愛したことに後悔はしていないとも語った[17]。引退会見ではあったが、中山は「第一線を退く」という言葉を使い、「引退」という言葉を使っていない。また自身の引退試合の開催についても現時点で否定する発言もしている。
中山の引退に対して、自身のブログにて妻である生田智子、代表など多くの場面で共にした三浦知良を始めとする、日本代表やジュビロ磐田、コンサドーレ札幌で共にプレーした経験のある選手や元選手、また個人的に中山を尊敬している選手、現日本サッカー協会会長の大仁邦弥など数多くの選手やサッカー関係者がコメントを寄せている。
日本国内だけでなくフランス紙の「レキップ」やFIFAの公式HP、中国メディアの中国新聞社などが中山の引退について取り上げた。
引退後
引退後は、マネジメント会社ARSと契約し、バラエティ番組やスポーツ番組、ニュース番組などにゲスト出演したり、「第91回全国高校サッカー選手権大会 決勝」のゲスト解説や「第21回全日本高校女子サッカー選手権大会」のイメージキャラクターも担当している。2013年4月からはテレビのレギュラー番組や初のパーソナリティを担当するラジオ番組などに出演している。サッカー解説は主にテレビ朝日、スカパーでの試合中継時に行っている。
2013年10月に発売した『プロサッカークラブをつくろう!』のCMに出演し、同作のパッケージも担当しており、ゲーム内にも自身が登場している[18]。
複数の企業による共同の東日本大震災被災地支援プロジェクトで、福島県相馬市に屋内型の遊び場を建設する企画の『みんなの遊び場プロジェクト』などにも参加している[19]。
同年10月15日、2013年度のJリーグアウォーズにて、功労選手賞として表彰される事が決まり[20]、12月10日、Jリーグアウォーズにて、功労選手賞が授与された[21]。
アスルクラロ沼津で現役復帰
2015年9月5日、磐田時代にコーチや2004年から2006年に監督として指揮を執った山本昌邦が理事長を務めるJFL・アスルクラロ沼津の練習に参加し[22][23]、9月14日には現役復帰することが発表された[24]。10月11日には、古巣のジュビロ磐田との練習試合で実戦に復帰した[25]。中山の影響で沼津の試合で観客が増えたり、ベンチ入りしない試合でも試合会場に駆けつけチームメイトを鼓舞するなどしていたが、2015年シーズンに試合には出場しなかった[26]。(サッカー解説者の活動も並行で継続。)
J1通算157ゴール(最後の得点は2008年3月15日のG大阪戦)記録を約7年間並ばれることはなかったが、2015年11月22日にサンフレッチェ広島の佐藤寿人が通算157ゴール目を決め中山に並んだ。また、中山はスタンドで観戦しており「現時点で追いつかれただけですからね。ここから引き離していけるように頑張れればいい。素晴らしいゴールを間近で見させて頂き、勉強になりました。ああいうゴールを決めたいなと情熱をたぎらせてくれる」と中山節でコメントした[27]。
2016年シーズンも公式戦の出場は無かったが、チームはJFL年間3位となり悲願のJリーグ入りが決定した[28]。
指導者時代
アスルクラロ沼津の選手兼任育成チームコーチ時代
それ以後も選手登録は継続しているものの試合の出場機会には恵まれず、2019年シーズンからは選手兼任で沼津のU-18コーチを務めることとなった。中山は既にJFA 公認S級コーチの資格を取得するためのカリキュラムを終えていたが、取得のために必要な指導実績が足りないことからユースチームの指導を行うこととなった[29]。
2020年3月14日に日本サッカー協会が2020年度の第3回理事会を行い、そこで中山へのS級コーチライセンスを付与することが決定した。現役Jリーガーの取得は初めてとなった[30]。
ジュビロ磐田
2021年1月13日、沼津を退団してジュビロ磐田のコーチに就任する事が発表された[31]。同日に放送された『報道ステーション』では、中山の特集が組まれテロップには「現役引退」[32] と表示されたが、本人の口からは発せられず、「(引退の)2文字に抗いたい」とコメント[33] し、就任に際してのコメントでも「選手としてのトレーニングはひとまず休む」と強調している[34] が、テレビ朝日関東ローカルの「Get Sports」2020年3月8日(7日深夜付け)生放送のインタビューでは「選手卒業なんですかね。留年かな。休学かな。休学してますけど。そりゃプレイヤーの方がいいでしょ。そりゃ選手が一番ですよ」[32] と、現役復帰を示唆するようなコメントも残している。
また、YouTubeに「ゴン中山チャンネル」を開設した[35]。
2022年11月13日、 契約満了によるコーチ退任が発表された[36]。
アスルクラロ沼津
2022年11月13日、古巣のアスルクラロ沼津の監督就任が発表された[37]。
2023年シーズンは、J2昇格も狙える3位まで順位を上げた時期もあったが、最終的には15勝6分17負で13位となり監督1年目でのJ2昇格は叶わなかった[38]。
日本代表
1990年、横山謙三監督に選出されダイナスティカップの北朝鮮戦でAマッチデビューを果たした[39]。以降は代表を遠ざかっていたが、1992年にハンス・オフトが代表監督になると代表に復帰、主に試合終盤に投入されるスーパーサブとして活躍、第2回ダイナスティカップ決勝の韓国戦では代表初ゴールとなる同点ゴールを挙げるなど[40]、優勝に貢献、アジアカップでは準決勝の中国戦で決勝ゴールを決めるなど[41]、優勝に貢献した。1993年はクラブがジャパンフットボールリーグ(JFL)在籍にもかかわらず、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選のメンバーにヤマハのチームメイトであった吉田光範と共に選ばれた。最終予選では1-2で敗戦した第2戦のイラン戦で途中出場から1ゴールを決めると、累積警告で出場出来なかった高木琢也に変わって先発の第3戦北朝鮮戦でもゴールを決め勝利に貢献[42] すると、高木が出場停止から復帰後も先発に定着。最終戦のイラク戦でも勝ち越しゴールを決めたが、ロスタイムに同点ゴールを決められ引き分け、ワールドカップ行きの切符を逃した[43]。
1995年のキリンカップで復帰したが[39]、6月のアンブロ・カップ英国遠征にて故障し、翌シーズンの不調もあり一時期代表から遠ざかる。
1998 FIFAワールドカップ・アジア予選のグループリーグ最終戦のカザフスタン戦で約2年半振りに代表へ復帰しゴールを決めると[39]、イランとのアジア第3代表決定戦でもスタメン起用の期待に応え先制点を決め、日本のワールドカップ初出場(「ジョホールバルの歓喜」)の重要な役割を果たした。
翌年、1998 FIFAワールドカップにも選出されると、全敗でグループリーグ敗退したものの、3試合すべてで先発し、最終節のジャマイカ戦では、日本代表のワールドカップ初ゴールにして今大会唯一のゴールを決める。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了までプレーし続けたことで、その闘志が称賛された[注釈 7]。
代表監督がトルシエに変わると、定期的に招集は受けるものの、若手の台頭などもあり、当落線上を前後していた。2000年のアジアカップ予選のブルネイ戦では三浦知良とツートップを組み、ハットトリックを決めた[44][注釈 8]。2002年には、世間からは「中山待望論」はあったものの、リーグ開幕からワールドカップによる中断までわずか1得点と不調で、直前の海外遠征のメンバーから外された事や、トルシエが落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測や報道が多数を占めた。しかしベテラン抜きで挑んだ直前遠征で結果が出せなかった事もあり、代表に足りない「精神的支柱」としての意味も含め秋田豊とともに2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立ち、「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手となった。
2002年10月、ジーコ監督就任以降も代表に選出され4試合でプレー、2003年のキリンカップ、アルゼンチン戦で先発出場。この試合が代表最後の試合となった[39]。
2004年、ジーコは既にアジア1次予選の突破を決めていたことから、最終戦のシンガポール戦へ三浦知良と共に招集したい意向を示していたが[45][46]、日本サッカー協会が難色を示したことから招集が見送られ、代わりに新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ、ジーコ・ジャパン・ドリームチームのメンバーとしてプレーした[45]。
背番号
ジュビロ磐田
- 9 (1997-2009年)
- 前身のヤマハ発動機サッカー部に加入直後から背番号9を付けて以来、Jリーグでも固定背番号制ではなかった1994年から1996年にかけてもほとんどの試合で9をつけている。Jリーグの公式戦での例外は以下の2試合のみ。
- このシーズンの開幕戦で、スキラッチが9番、中山は11番で登場。しかし次のホーム・ジュビロ磐田スタジアムでの開幕試合(3月22日G大阪戦)から2人は背番号を入れ替える。
- 直前の静岡ダービーで怪我を負い、ベンチスタートしたため背番号はサブ用の15。
コンサドーレ札幌
- 9 (2010年 - 2012年)
アスルクラロ沼津
- 39 (2015年 - 2020年)
日本代表
- 16 (1992-1993年)
- オフト監督時代の背番号。中山の名を一躍有名にした1994年アメリカW杯予選の際もこの背番号を背負っていた。
- 14 (1995年)
- 加茂監督時代の背番号。1995年のイングランド遠征時もこの背番号だった。
- 32 (1997年)
- 1998 FIFAワールドカップ地区予選の土壇場で2年ぶりに代表復帰した際の背番号。この背番号で、ジョホールバルの歓喜として記憶されるイラン戦で先制点を挙げている。アジア予選では、1次予選から通しての固定登録制の規定により、31番まではすでに他の選手で登録されていた[注釈 9] ため、このような大きな番号になった。
- 9 (1998-2000年、2002-2003年)
- 磐田ではおなじみの背番号。日本人初のワールドカップにおける得点などは、この背番号を背負って挙げている。2002年にジーコが監督に就任してからは再び9番でプレーした。
- 11 (2001年)
- 9番を西澤らに譲り、僚友カズの背番号だったこの背番号を背負った。
- 10 (2002年)
- 2002 FIFAワールドカップ時の背番号。それまで代表で10番を付けていた名波浩と中村俊輔の両名が落選したこと、既に9番は西澤、11番は鈴木に定着していたことで、中山が10番を背負うことになった。本人にとっては藤枝東高校以来の背番号10で、日本のW杯初勝利となったロシア戦のピッチに立った。中田英寿は「ゴンちゃん似合わねー」とコメントした。
所属クラブ
- アマ経歴
- プロ経歴
個人成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本 |
リーグ戦 |
JSL杯/ナビスコ杯 |
天皇杯 |
期間通算
|
1990-91 |
ヤマハ |
9 |
JSL1部 |
13 |
4 |
2 |
1 |
|
|
|
|
1991-92 |
18 |
15 |
1 |
0 |
|
|
|
|
1992 |
旧JFL1部 |
16 |
13 |
- |
2 |
2 |
18 |
15
|
1993 |
18 |
18 |
0 |
0 |
1 |
0 |
19 |
18
|
1994 |
磐田 |
- |
J |
12 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
12 |
3
|
1995 |
45 |
18 |
- |
0 |
0 |
45 |
18
|
1996 |
27 |
9 |
13 |
7 |
0 |
0 |
40 |
16
|
1997 |
9 |
27 |
18 |
11 |
6 |
4 |
2 |
42 |
26
|
1998 |
27 |
36 |
0 |
0 |
3 |
4 |
30 |
40
|
1999 |
J1 |
23 |
6 |
1 |
1 |
1 |
2 |
25 |
9
|
2000 |
29 |
20 |
4 |
1 |
3 |
2 |
36 |
23
|
2001 |
30 |
16 |
8 |
4 |
1 |
0 |
39 |
20
|
2002 |
29 |
16 |
7 |
3 |
3 |
2 |
39 |
21
|
2003 |
12 |
3 |
2 |
1 |
5 |
0 |
19 |
4
|
2004 |
19 |
3 |
5 |
0 |
4 |
1 |
28 |
4
|
2005 |
29 |
6 |
2 |
0 |
2 |
0 |
33 |
6
|
2006 |
13 |
1 |
3 |
1 |
1 |
0 |
17 |
2
|
2007 |
15 |
1 |
5 |
1 |
2 |
0 |
22 |
2
|
2008 |
16 |
1 |
3 |
1 |
2 |
1 |
21 |
3
|
2009 |
1 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0 |
3 |
0
|
2010 |
札幌 |
J2 |
12 |
0 |
- |
1 |
0 |
13 |
0
|
2011 |
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
0 |
0
|
2012 |
J1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0
|
2015 |
沼津 |
39 |
JFL |
0 |
0 |
- |
- |
0 |
0
|
2016 |
0 |
0 |
- |
- |
0 |
0
|
2017 |
J3 |
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
0 |
0
|
2018 |
0 |
0 |
- |
- |
0 |
0
|
2019 |
0 |
0 |
- |
- |
0 |
0
|
2020 |
0 |
0 |
- |
- |
0 |
0
|
通算 |
日本 |
J1
|
355 |
157 |
65 |
26 |
32 |
14 |
452 |
197
|
日本 |
J2
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12 |
0 |
- |
1 |
0 |
13 |
0
|
日本 |
J3
|
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
0 |
0
|
日本 |
JSL1部
|
31 |
19 |
3 |
1 |
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|
日本 |
旧JFL1部
|
34 |
31 |
0 |
0 |
3 |
2 |
37 |
33
|
日本 |
JFL
|
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
0 |
0
|
総通算
|
432 |
207 |
68 |
27 |
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その他の公式戦
- 1990年
- 1991年
- 1992年
- 1997年
- 1998年
- 1999年
- 2000年
- 2001年
- 2003年
- 2004年
その他の国際公式戦
その他
- Jリーグオールスター選出 : 8回 (1995, 2000, 2001, 2002, 2004, 2005, 2006, 2007)
指導歴
- 2019年 - 2020年 アスルクラロ沼津U-18 コーチ
- 2021年 - 2022年 ジュビロ磐田 コーチ
- 2023年 - アスルクラロ沼津 監督
監督成績
タイトル
クラブ
- ジュビロ磐田
- アスルクラロ沼津
代表
- 日本代表
個人
代表歴
出場大会など
試合数
- 国際Aマッチ 53試合 21得点 (1990年 - 2003年)
出場
ゴール
出演
レギュラー番組
ゲスト・特番
映画
マンガ・アニメ
ドラマ
出版物、広告媒体
CM
参加CD
- J-100として
- コーラス
- PV出演
その他
書籍
- 「スポーツの知と技-トップ・アスリートへの軌跡」共著(大修館書店 1998年5月)
- 週刊少年サンデー「中山雅史物語」 全2話(村枝賢一画、1993年)
- 「魂の在処」中山雅史/時見宗和 著(幻冬舎、2014年7月24日)
DVD
- 「中山雅史 ゴンゴールズ」(2006年5月26日、日活)
- 「コンサドーレ札幌J1昇格記念DVD〜2011戦いの記録〜」(兼解説、ラジオCM 2012年 札幌テレビ放送)
注釈
- ^ これが縁で大日本除虫菊のタンスにゴンのCMに出演している。
- ^ 現在は「グローインペインシンドローム」と総称される、サッカー選手に頻発する股関節障害
- ^ ジュビロ磐田の日本人選手として初。
- ^ これ以前の記録は、1938年11月16日にイングランド代表のジョージ・ホールがマークした3分30秒である
- ^ 2006年に当時J2の横浜FCにシーズン通して在籍しており、J1リーグ連続ゴール記録は断絶している。
- ^ 中山は40歳8か月2日で達成。
- ^ 一部で「骨折していながらもゴールを決めた」「ゴールと引き換えに骨折した」とも報道されたが、誤りである。
- ^ 代表では初にして唯一のハットトリック。
- ^ 同じく最終予選途中で追加召集された高木琢也や北澤豪がそれぞれ9番と13番を付けたのは、1次予選の段階でその番号で登録され出場しているため。
- ^ 2016年11月にクロアチア東部の地域リーグであるドラーチチェ・ジャコボ所属のFWステファン・ルチヤニッチが5試合連続ハットトリックを達成して記録は塗り替えられている[7]
出典
関連項目
外部リンク
獲得タイトル・記録 |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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J1 |
1990年代 |
- 93: 三浦知良, ディアス
- 94: 武田修宏, 高木琢也
- 95: 福田正博, 三浦知良, ストイコビッチ, 森島寛晃
- 96: 三浦知良, ストイコビッチ, 岡野雅行
- 97: 中山雅史, エムボマ
- 98: 中山雅史, 柳沢敦
- 99: ストイコビッチ, 黄善洪
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2000年代 |
- 00: ツゥット, 中山雅史, 西澤明訓
- 01: ウィル, 柳沢敦
- 02: エメルソン, 高原直泰, 中山雅史
- 03: エメルソン, ウェズレイ, 久保竜彦
- 04: エメルソン, マルケス, 大黒将志
- 05: アラウージョ, 佐藤寿人
- 06: ワシントン, マグノ・アウベス
- 07: ジュニーニョ, バレー
- 08: マルキーニョス, 柳沢敦
- 09: 岡崎慎司, 前田遼一
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2010年代 |
- 10: 前田遼一, ケネディ
- 11: ケネディ, ハーフナー・マイク
- 12: ウイルソン, 佐藤寿人, 豊田陽平
- 13: 大迫勇也, 大久保嘉人, 川又堅碁
- 14: 大久保嘉人, 宇佐美貴史, パトリック
- 15: 大久保嘉人, 宇佐美貴史, ドウグラス
- 16: 小林悠, レアンドロ
- 17: 興梠慎三, 小林悠, 杉本健勇
- 18: ジョー, ファン・ウィジョ
- 19: ディエゴ・オリヴェイラ, 永井謙佑, 仲川輝人, マルコス・ジュニオール
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2020年代 | |
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J2 |
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J3 |
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ベストイレブン(GK - DF - MF - FW) - JCB |
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1993年から2012年までの20年間での「ベストイレブン」(2013年にJリーグ誕生20周年を記念した企画) | GK | |
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DF | |
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MF | |
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FW | |
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ベストイレブン(GK - DF - MF - FW) - J30 |
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※記述のない年は該当者なし | 1990年代 | |
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2000年代 |
- 00: 松永成立
- 01: ストイコビッチ
- 02: サントス
- 03: 井原正巳, 福田正博, 北澤豪
- 05: ビスマルク
- 06: 相馬直樹, 小島伸幸, 澤登正朗
- 07: 本田泰人, アマラオ, 城彰二
- 08: 秋田豊, 名良橋晃, 黒崎久志, 山口素弘
- 09: 小村徳男, 加藤望, 名波浩, 福西崇史, 森岡隆三, 森島寛晃
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2010年代 |
- 11: 三浦淳宏, 松田直樹
- 12: 藤田俊哉, 田中誠
- 13: 中山雅史, 土肥洋一, 服部公太
- 14: 伊藤宏樹, 岡野雅行, ジュニーニョ, 服部年宏, 波戸康広, 山田暢久, 吉田孝行, ルーカス
- 15: 宮本恒靖, 柳沢敦, 中田浩二, 新井場徹, 藤本主税
- 16: 山口智, 鈴木啓太
- 17: 市川大祐, 大島秀夫
- 18: 石原克哉, 加地亮, 坂田大輔, 土屋征夫, 羽生直剛
- 19: 小笠原満男, 川口能活, 中澤佑二, 楢﨑正剛, 播戸竜二, 巻誠一郎, 森﨑和幸, アレックス
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2020年代 |
- 20: 佐藤勇人, 那須大亮, 明神智和
- 21: 大黒将志, 佐藤寿人, 清水健太, 曽ヶ端準, 徳永悠平, 中村憲剛, 前田遼一
- 22: 青木剛, 阿部勇樹, 石原直樹, 大久保嘉人, 角田誠, 小林祐三, 高橋義希, 田中達也, 田中マルクス闘莉王, 田中佑昌, 玉田圭司, 谷澤達也
- 23: 上里一将, 大谷秀和, 駒野友一, 田中隼磨, 鄭大世, 富田晋伍, 中村俊輔, 橋本英郎, 藤本淳吾, 槙野智章, 水本裕貴, 本山雅志, 赤嶺真吾
- 24: 遠藤保仁, 柏木陽介, 柴﨑晃誠, 林卓人, 南雄太, 梁勇基, 渡邉千真
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Jリーグアウォーズ(最優秀選手賞 - JB11 - 得点王 - JBYP賞 - JFP個人賞 - J2MEP - 功労選手賞 - 最優秀監督賞 - 最優秀主審賞 - 最優秀副審賞 - JBP賞) |
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歴代出演者 |
メインキャスター | |
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サブキャスター | |
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コメンテーター | |
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スポーツキャスター | |
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スポーツキャスター(メイン以外) | |
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お天気キャスター | |
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リポーター | |
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テーマ曲の アーティスト・作曲家 | |
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派生番組 | |
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前身番組 | |
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関連番組 | |
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関連人物 | |
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関連項目 | |
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- ^ a b 2018年10月から月曜 - 木曜の出演に移行したが、現在は木曜・金曜。2021年10月から金曜。
- ^ 月曜 - 木曜に出演し、現在は月曜 - 水曜。2021年10月から金曜。
- ^ a b c d e f g 金曜のみの出演。小木は月曜 - 水曜(→月曜 - 木曜)を、森川は木曜・金曜を担当。
- ^ 月曜 - 木曜に出演し、現在は月曜 - 金曜。
- ^ a b 月曜 - 木曜に出演。
- ^ a b 『ニュースステーション』から同時間帯続投。
- ^ 『ミュージックステーション』から異動。
- ^ a b 2013年9月まで金曜の『ミュージックステーション』を引き続き兼務。
- ^ 2015年3月までは『報道ステーション SUNDAY』に出演。2018年10月からは平日版に出演。
- ^ a b c d 『報道ステーション SUNDAY』のみの出演。
- ^ a b c 『報道ステーション SUNDAY』ではメインキャスターを担当。
- ^ a b c d e 古舘、河野、小川の夏季休暇・不在時のキャスター代理。
- ^ a b 富川の夏季休暇・不在時のメインキャスター代理。
- ^ 『サンデーステーション』ではメインキャスターを担当。
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