工藤 公康
基本情報 国籍
日本 出身地
愛知県 名古屋市 昭和区 (現在の天白区 ) 生年月日
(1963-05-05 ) 1963年 5月5日 (61歳) 身長 体重
176 cm 80 kg 選手情報 投球・打席
左投左打 ポジション
投手 プロ入り
1981年 ドラフト6位 初出場
1982年4月10日 最終出場
2010年8月25日 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
福岡ソフトバンクホークス (2015 - 2021) 選出年
2016年 得票率
76.6%(337票中258票) 選出方法
プレーヤー表彰
工藤 公康 (くどう きみやす、1963年 5月5日 - )は、愛知県 名古屋市 昭和区 (現在の天白区 )[ 注 1] 出身(同県豊明市 出身とする文献もある。後述 )の元プロ野球選手 (投手 、左投左打)[ 2] 、野球解説者 ・野球評論家 ・監督 。
概要
投手 としてNPB (西武ライオンズ 、福岡ダイエーホークス 、読売ジャイアンツ )では14度のリーグ 優勝、11度の日本シリーズ に貢献[ 3] 。個人ではNPBで合計18個のタイトル(10個)[ 注 2] ・主要表彰(8個)[ 注 3] を獲得している[ 4] 。
西武・ダイエー・巨人の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人 と呼ばれた[ 3] [ 5] 。日本シリーズ通算最多奪三振(102奪三振)記録を保持する[ 6] 。また、最高勝率 もNPB最多タイ記録となる4回獲得している。
現役引退後は、2012年 - 2014年 の3年間にわたり野球解説者 ・野球評論家 として活動し、2015年 から2021年 まではダイエーの後身であるソフトバンクの監督 (第21代)として指揮を執っていた[ 7] [ 8] 。監督としては2020年 までにソフトバンクを3度のパシフィック・リーグ (パ・リーグ)優勝[ 9] 、5度の日本一(日本シリーズ優勝)に導いている[ 10] 。監督退任後は再び野球解説者・野球評論家として活動している。
愛称は「カリメロ 」。
2男3女の父[ 12] で、長男は俳優 の工藤阿須加 [ 13] 、長女はプロゴルファー の工藤遥加 [ 14] 。
経歴
プロ入り前
出生
1963年 5月5日 、愛知県 名古屋市 南区 で生まれた[ 注 4] 。出生当時は3人兄弟の三男で[ 16] 、「公康」の名は父親から「公(ひろ)く庶民的であってほしい」との願いを込められて名付けられた。父親[ 注 5] は公康が生まれた当時、故郷の九州 から名古屋に出てきたばかりで、名古屋市交通局 のバス 運転手として働いていたが、2歳の時に妻(公康の実母)と離婚[ 16] 。そして公康が6歳のころに後妻(公康の継母)と再婚し、妻の連れ子と、結婚後に2人の間に生まれた息子を加えた7人家族で暮らしていた[ 注 6] [ 16] 。
出身小中学校は名古屋市天白区 [ 注 7] (当時は昭和区 )[ 注 1] の市立高坂小学校 ・市立久方中学校 で[ 注 8] [ 19] [ 23] 、工藤の高校時代、家族は天白区高坂町 の市営住宅「高坂荘」に住んでいたが[ 24] 、工藤が西武に在籍していた1984年に同県豊明市 二村台に引っ越している[ 注 9] 。1987年11月の『週刊現代 』によれば、豊明市にあった工藤の実家は4年前(1983年ごろ)に工藤本人が父とともに共同名義で購入した住宅だという[ 26] 。
『ホームラン 』(日本スポーツ出版社 →廣済堂出版 )の選手名鑑 によれば、工藤の出身地は1982年版 - 1984年版では「愛知県名古屋市天白区」とされていたが[ 28] [ 29] 、1985年版および2015年版・2020年版選手名鑑では「愛知県豊明市」とされている[ 30] [ 31] [ 2] 。
小中学校時代
工藤は高坂小学校3年生から野球を始めた。まず父親から野球を教えられ、一緒にキャッチボール をするなどしていたが、幼少期の工藤[ 注 10] は野球は好きではなかった。これは、熱狂的な読売ジャイアンツ (巨人)ファンであった工藤の父親が、巨人が負けると機嫌を損ねて子供たちに当たり散らしたり、キャッチボールの際に息子がうまく投球できないと自分でボールを拾いに行かず、「早く取ってこい!」と怒鳴るなどしていたためだった。一方、工藤は父親にカーブ を教えてもらって投げたところ、ドロップ気味に大きく変化したため、父親から「お前は投手をやったらいいかもしれない」と言われていた。父によれば兄弟たちは右利きだったが、公康だけは左利きだった。
工藤は4年生で高坂小の野球部に入部すると、5年生からはカーブを武器にエースとして活躍。6年生の時には4番打者(投手)として中日新聞 杯少年野球 大会に出場し、名城公園 で満塁本塁打を打ち、チームを大会優勝に導いている。ただし、一学年上の生徒にいじめられ一時的に体操部に転部してから戻っている[ 36] 。
少年時代には野球週刊誌を購入してプロ野球選手の投球フォームを研究したり[ 注 11] 、バッティングセンター に通ったりして野球に打ち込んだが、中学入学直後は野球部ではなく、ハンドボール 部に入部。しかし、工藤の野球センスに注目した教師(ハンドボール部の顧問)によって野球部に強制的に移籍させられ(野球部からハンドボール部に移籍したい生徒がいたためトレードされた[ 36] )、すぐにエースとなる。中学3年生の時には名古屋市大会の優勝投手になったが、愛知県大会決勝戦で敗退し、全国大会には出場できなかった。
名古屋電気高校時代
久方中学校を1978年度(1979年3月)に卒業[ 41] 。工藤家は経済的に貧しく、子供5人全員を無条件で高校まで進学させる余裕がなかった[ 注 12] ため、父は工藤に対し「野球で特待生として声がかかれば(高校に)行かせてやる。そうでなければ働け」と言っていたが、中学時代から評判の好投手だった工藤は地元・名古屋市の野球部名門校である名古屋電気高等学校 (現:愛知工業大学名電高等学校〈愛工大名電〉)や享栄高校 などからスカウトされた[ 注 13] 。社会人野球まで経験した中学校の用務員が人脈を生かして複数の高校でテスト受験の機会を作ってくれたという[ 43] 。当時は「甲子園を目指す」「プロ野球選手になる」という夢を持っていたわけではなかったが、工藤は結果的に野球を高校進学の手段とすることになった。名古屋電気は当時まだ新興校だったが、当時監督に就任したばかりの中村豪 が工藤の才能に惚れ込んでスカウトし、入学させた。工藤は高校入学後、実家を出て寮生活を送るようになり、1年生の秋からエースとして背番号 1を着用した。同校野球部は、工藤の他にも中村稔 (1番打者・遊撃手 / 後に日本ハム 入り)・高橋雅裕 (2番打者・二塁手 / 後に大洋 入り)・山本幸二 [ 注 14] (4番打者・捕手 / 後に巨人 入り)らが在籍したタレント集団だった。。高校時代は制球力を鍛えるため、学校とグラウンドの間(約13 km )を連日走ったり、山本とともに投球練習を繰り返したりしていた。
高校時代は、同学年かつドラフト同期の槙原寛己 (大府高校 から巨人1位指名)・浜田一夫 (愛知高校 から中日 2位指名)とともに、愛知三羽烏 と呼ばれ[ 30] 、速球 と大きく割れるカーブ を武器に活躍[ 47] 。2年生秋の愛知県大会では自らの牽制 悪投で西尾東高校 に敗れた。
高校時代の練習試合では2安打から3安打での完封がざらで、あまりに工藤の球が打てないため「打てないと選手が自信を無くすので勘弁してください」と学校側が練習試合を断られることも多かった。それでも本人は「カーブを投げると相手が面白いように空振りしてくれる」程度にしか思わなかった。
1981年 4月29日、春の愛知県大会の準々決勝(熱田球場 )で槙原を擁する大府高校と対戦[ 注 15] し、槙原から場外本塁打を打って7対1で勝利。そして県大会で優勝し、中部大会に進出したが、2回戦(静岡代表・御殿場西高校 との試合)で延長12回二死から連続5四球により逆転サヨナラ負けを喫した。これにより、中村監督が2年生の左腕・長谷川に夏の大会を託すことを考えたほどのスランプに陥ったが、槙原の活躍や長谷川の成長に触発され復調。夏の愛知県大会 では第5回戦(熱田球場・対東邦高校 戦)で打席に立ったところ、右目付近に死球を受けて医務室に搬送されたが、意識朦朧状態になりながらも続投を志願。中村も「将来のためにも、このまま終わらせたくない」と続投させ、4被安打に抑えて完封勝利。そして浜田にも投げ勝ち、念願の甲子園(第63回全国高等学校野球選手権大会 )出場を果たした。
甲子園デビュー戦は長崎代表 の長崎西高校 との試合(第2回戦・8月13日)[ 52] 。この試合では16奪三振を記録し、史上18人目(19度目・金属バット 採用後では初)のノーヒットノーラン [ 注 16] を記録(4対0)[ 52] 。3回戦(対北陽高校 戦)でも高木宣宏 と投げ合い、速球の球速は138 km/h を、投球成績も延長12回21奪三振[ 注 17] を記録。チームは延長12回裏に中村稔 のサヨナラ本塁打により勝利し、準々決勝・志度商業高校 (香川代表 )戦では5回表に自らソロ本塁打を放ち、相手打線を2被安打に抑えて完封勝利を記録[ 56] (12奪三振)。これにより、チームを史上初のベスト4進出へ導き[ 56] 、金村義明 を擁する兵庫代表 ・報徳学園高校 との準決勝(8月20日)に臨む[ 24] 。しかし蓄積疲労により上腕に違和感を覚えるようになり、7奪三振・13被安打の投球内容で、試合も3対1で敗れ、決勝戦進出を逃した[ 24] 。同大会における試合数は4試合[ 58] ・投球回 数は39イニング、奪三振 数は56(当時・大会歴代5位)[ 47] 。
ドラフト指名
甲子園での活躍をきっかけに「屈指のサウスポー」と高い評価を得るようになり、熊谷組 ・リッカー ・東京ガス ・本田技研 など社会人野球 チーム二十数社が名古屋電気高校に工藤の入社を依頼していた。一方でプロ球界のスカウト からも「即戦力の左腕」と評価され、同年(1981年)のドラフト会議 における目玉選手として注目されるようになり、会議直前の『毎日新聞 』では金村・槙原とともに「大型投手トリオ」「高校のビッグスリー 」 と[ 注 18] [ 58] 、『中日スポーツ 』(中日新聞社 )では「ドラフトでは人気を集め、1位指名は確実。(パシフィック・リーグ 〈パ・リーグ〉の)西武ライオンズ を除く11球団が事前調査を済ませている」と報道されていた[ 55] 。日本ハムファイターズ ・横浜大洋ホエールズ ・ロッテオリオンズ の3球団を除く9球団が工藤に対し、事前に指名の挨拶をしていた[ 60] が、地元・愛知県に本拠地(ナゴヤ球場 )を置く中日ドラゴンズ は特に工藤を強く勧誘し[ 61] 、同じく「愛知三羽烏」とうたわれた槙原[ 注 19] ・浜田や、尾上旭 (中央大学 )・津田恒美 (協和醗酵 )[ 注 20] とともに1位指名候補に挙げていた[ 65] (最終的には尾上を1位指名)[ 64] 。
一方で工藤本人はセントラル・リーグ (セ・リーグ)球団[ 58] (特に巨人)[ 注 21] を希望していた[ 55] が、ドラフト会議4日前(11月21日)に突然「プロ入り拒否」を宣言[ 66] 。同日に工藤の父も、指名の挨拶をしてきた9球団に対し「指名お断り」の文書を発送した[ 60] 。
しかし、ドラフト会議当日(11月25日)に西武が6位で工藤を強行指名した[ 60] 。工藤は指名直後こそ「進路は決定している。『プロには行かない』と言ったのに指名されてびっくりしている」と述べたほか、工藤の父も入団交渉に応じない構えを見せていたが[ 67] 、根本陸夫 管理部長が指名直後に出向き、その後も西スカウトを中心に粘り強く交渉[ 68] 。その結果、工藤も両親も最終的には翻意[ 注 22] し、工藤は12月28日に西武入団を表明して西武と契約[ 68] 。その後、工藤の父親が一転して「いったん入ることになっていた熊谷組が(西武入りの)了承をしていない[ 注 23] ことが分かった。約束が違う」と態度を硬化させ、契約の白紙撤回を求めた[ 70] が、1982年1月6日に熊谷組野球部 部長・大塚本夫(同社専務)が「工藤本人と父親から『熊谷組入りしない』との意思表示がない限り、当社野球部との間で交わした入社の約束は有効だが、この件に関して熊谷組が圧力をかけることはない」と表明[ 71] 。工藤の父は同月8日に熊谷組本社を訪ねて工藤の入社内定取り消しを申し入れ[ 72] 、名電高にも西武入りの了承を得た[ 注 24] ため、工藤は同月12日に正式に西武への入団を発表した[ 76] 。
入団時の経緯については、管理部長(編成責任者)の根本陸夫 が主導して工藤をドラフト指名し、入団に至らせたとされ、俗に「根本マジック」と称される出来事のひとつとされている。しかし、広岡達朗 (1982年 より西武の監督に就任)は「ドラフト会議時の根本は工藤の指名に反対する立場で、西武監督に就任したばかりの自分が指名を強く進言した。結果、ドラフト会議当日に会場で6位指名することを決めた」と述べている[ 78] 。背番号は47 で、同年のドラフト1位だった伊東勤 が契約金5000万円・年俸300万円の契約だったのに対し、工藤は契約金6000万円・年俸480万円とともに伊東より高額だった。西武入団時には「目標となる選手もライバルもいない。自分だけの独特の型を持ちたい」と発言した[ 60] 一方、「尊敬する人」としては同じ左腕の金田正一 を挙げていた[ 76] 。高校3年生夏ごろの体重は70 kg (本人曰く「ベスト体重」)だったが、プロ入り時には体重が7 kg増えていた。
なお「愛知三羽烏」全員について高い評価を下していた中日は、最終的に3人のうち浜田一夫のみを「3人の中で1番」として2位指名したが[ 80] 、工藤・槙原[ 注 19] はともにNPBで通算150勝以上を挙げた[ 82] [ 83] 一方、浜田は1勝もできず球界を去った[ 84] 。また、中日はドラフト5位でプロ入り拒否を表明していた浜田知明 (電電東海 )を指名[ 注 25] したが、これについて『中日スポーツ』には「今年のドラフトは『不作』『コマ不足』と言われており、指名枠が増えたので『交渉権だけでも確保しておこう』という球団が出てきてもおかしくない。名電からは山本が巨人から2位指名を、中村稔が日本ハムから3位指名を受けたが、名電関係者は『地元の中日にも1人くらい指名してほしかった』と言っていた。入団説得が困難な浜田知を指名するぐらいなら、純地元選手である工藤を指名すべきではなかったのか」というコラムが掲載された[ 87] 。
西武時代
入団1年目の1982年 から監督の広岡達朗 から「坊や 」とかわいがられていたが[ 88] 、一方でその広岡から、特に基本練習の反復や食生活の重要性などに関して厳しい指導を受け[ 注 26] 、大きな影響を受けた[ 90] [ 91] [ 92] [ 93] [ 94] [ 95] [ 96] 。広岡からは「マウンドでオドオドせず度胸がある。球の力もプロ級で、短いイニングなら使える」と評価を受け、高卒新人ながら開幕一軍ベンチ入りを果たす。8月31日の対日本ハムファイターズ 後期9回戦[ 88] (西武ライオンズ球場 )でプロ初勝利。同年は中継ぎで起用されて27試合に登板し、1勝1敗・防御率3.41と好成績を残した。この年のパ・リーグプレーオフ に登板し、第2戦では江夏豊 と投げ合って勝利投手になっている[ 注 27] 。なお前期後期制時代のプレーオフはこの年が最後であった。
2年目の1983年 は「新人王 候補の筆頭」として注目されたが、オープン戦開始後はその声も薄れていった。3月ごろには武器であるカーブの切れ味が鈍り、本人も自信を喪失しかけていたが、5月15日の対近鉄バファローズ 戦(藤井寺球場)で3番手投手として登板し、シーズン初勝利。同年も主に中継ぎで起用され、防御率も3.24を記録した一方、2試合に先発した。しかし、入団3年目の1984年 はわずか9試合の登板に終わり、アメリカ のマイナーリーグ (1A級サンノゼ・ビーズ)へ留学させた。これに関して広岡は「最初はワンポイントで使っていたのですが、ランナーを背負った厳しい場面でもビシッと抑えてくれました。それが、じゃあもう1イニングとなるとボコボコに打たれてしまう。まるで別の投手でした。ピンチを切り抜けた瞬間に緊張が切れてしまっていたのでしょう。このままではこの子は伸びない。より厳しい環境に放り込む必要がある、と考えました。」と語っている[ 103] 。工藤は留学先でメジャーリーグ を目指して真摯に野球に取り組む選手たちと過ごしたが転機となり、また帰国後に宮田征典 コーチ の指導を受け、以降主力投手となった[ 104] 。
1985年 1月5日(自主トレーニング開始日)にキャッチボールをしていたところ、肩を痛めて選手生命の危機に立たされる。そのため開幕直後は二軍 (イースタン・リーグ )で治療に専念したが、4月中旬に一軍昇格して以降も中継ぎ・ワンポイントで登板。7月9日の対南海ホークス戦でプロ入り初の完投勝利を挙げると、8月2日の対日本ハム戦、8月8日の対近鉄戦と3戦連続で完投勝利を記録。先発ローテーション に加わり、34試合登板・8勝3敗・防御率2.76の成績を残し、最優秀防御率 のタイトルを獲得して広岡西武の3度目のパ・リーグ優勝に貢献。
1986年 は初勝利が5月8日の対近鉄戦と出遅れたが、7月13日の対近鉄戦では9回一死までノーヒットノーランに抑える快投を見せた。それ以降は調子を上げ、2桁勝利(11勝)を挙げた。また完投数も10を記録した。広島東洋カープとの日本シリーズ では西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ 安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2セーブを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。
1987年 は15勝を挙げたほか、シーズン最多の23完投を記録し、2度目となる最優秀防御率、最高勝率 とベストナイン のタイトルも合わせて獲得。しかし、この年のMVP は優勝争いの後半戦に9勝1敗と活躍した東尾修 が選出された。それでも、この年の日本シリーズ では巨人相手に1完封を含む2勝1Sで前年に続き2年連続MVPを受賞し、名実共にパリーグを代表する左投手となる。24歳の若さで正力松太郎賞 を受賞した[ 106] 。
1988年 は開幕戦は完封勝ちも、その後は打ち込まれる試合が続き、6月には中継ぎに回り二軍落ちした[ 106] 。10月9日の南海 戦(西武球場)で175球を投げて完封勝利、中3日で13日の日本ハム戦(同)で160球を投げて2失点完投、これで10勝に届き、成績は10勝10敗1セーブ(11完投)を記録し、3年連続2桁完投を記録したが、防御率は2.41から3.79まで落ち込んだ[ 106] 。1989年 は開幕から6連敗、夏場には中継ぎに配置転換・二軍落ちも繰り返し、4勝8敗2セーブ防御率4.96の成績でシーズンを終えた[ 106] 。
1990年 は前年からの不調が続き、左肘を痛めたこともあり長期離脱も[ 107] 、8月中旬に一軍復帰して以降は6勝0敗と復調、シーズン全体で9勝2敗防御率3.36まで戻した[ 107] 。1991年 は開幕から2完封を含む5試合連続完投勝利を飾り、6月から9月にかけての10連勝を含む終始安定して好調を維持し、16勝3敗。防御率2.82[ 107] 、最高勝率のタイトルを獲得。広島との日本シリーズ でも2勝を挙げ、3勝3敗で迎えた第7戦では5回から登板し、最後まで投げ切って胴上げ投手になった[ 107] 。1992年 も11勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。
1993年 のシーズンは15勝3敗、防御率2.06、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、そして自身初となるパ・リーグMVPを受賞する。この年のシーズンオフから始まったFA の権利を取得するも西武に残留。
1994年 も11勝を挙げ、4年連続2桁勝利を記録したが、秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないことから11月9日にFA権行使を表明し、11月15日に西武を退団した。根本が球団社長、王貞治 が監督に就任した福岡ダイエーホークス への移籍が12月6日に発表された。同年、石毛宏典 もFAでホークスへ移籍したが、同一チームの2選手が、別の同一球団へ同一年度にFA移籍した史上初の事例となった。西武の黄金時代を支えた秋山幸二 と再びチームメイトになり、ダイエーの再建を託された。
ダイエー時代
1995年 、移籍後の初登板は古巣西武との開幕戦の先発で、この試合は大乱打戦で工藤も4回を投げ8失点だったが試合はチームが勝利したため負けは免れた。シーズンでは6月に1か月ほど故障離脱はあったものの、チームトップの12勝を挙げたが、チームは不振で自身初のBクラスを味わった。
1996年 は2年連続の開幕投手を務め29試合に先発し、9完投を記録し8勝を挙げ、初の178奪三振で最多奪三振 のタイトルを獲得。一方、開幕から黒星先行で月間勝ち越しが一度もなかった。結局、同年の成績は29試合登板・8勝15敗・202イニング2/3投球回・防御率3.51(パ・リーグ規定投球回 到達者数20人中12位)の成績で、リーグ最多の15敗(近鉄 ・酒井弘樹 と同数)を喫した。一方、同僚の武田一浩 は防御率(3.84、20人中16位)、投球回数(171回)とも工藤を下回っていたが、リーグ3位[ 注 28] となる15勝[ 110] (8敗)を挙げている。
1997年 は背番号を西武時代と同じ47に戻した。同年は2年ぶりの2桁勝利となる11勝を挙げたが、一軍定着後初となる完投0でシーズンを終えた。
1998年 は2年ぶりに開幕投手を務めたが故障離脱があり、7勝に留まった。しかし、チームはダイエー譲渡後初となるAクラス入りを果たし、オリックス・ブルーウェーブ と同率の3位(しかし前年の成績はオリックスが上だった為開幕権はオリックスになった)に入り、工藤自身西武時代の1994年以来4年ぶりにAクラスを経験した。
1999年 は、工藤はエースとして11勝を挙げ4度目となる最優秀防御率と、2度目となる最多奪三振 のタイトルを獲得。ダイエーの福岡移転後初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。中日ドラゴンズ と対戦した日本シリーズ でも第1戦に先発し、シリーズ新記録となる13個の三振を奪って完封したこの試合で自身の日本シリーズ通算奪三振数を86に伸ばし、稲尾和久 が持っていた記録(84)を塗り替えた[ 112] 。中日監督の星野仙一 は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさを露にしてコメントした。工藤自身はこの試合のピッチングは「生涯最高の出来だった」と評し、三振を奪うのもゴロを打たせるのも自分の思い通りにいったと後に自著で語っている。「圧倒的中日有利」との下馬評の中、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーが4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。
球団代表・高塚猛による工藤への介入行為
直後の10月下旬に行われた契約更改の席上で、球団よりそれまでとは異なる年俸査定方法の提案(具体的には、従来の年俸をベースに提案をされたこと)が工藤に対してなされ、かつ、当時ダイエー球団代表であった高塚猛 より「工藤君の登板の火曜日は一番客の入りが悪い」と工藤に放言をしたことで、工藤は球団に不信感を募らせて「この1年間の努力が何だったのかと言う気持ちになりました。」「出て行くしかないのかな」「残ることはないと思う」「福岡のファンには大変申し訳ないが、こうなった以上、前を向いて歩いて行くしかない。移籍先の希望はありません」とコメントした上で、シーズン終了後の11月1日にFA宣言した[ 113] 。
すると代表の高塚が球団名義で10月下旬の契約更改時の工藤の行動と言動について、球団の公式サイトで公表して報復的な応戦を実行した。また、高塚は工藤に対して「FA宣言をすることは、福岡でなくともよいということになってしまう」との文章も記述し、工藤のダイエー残留に反対する姿勢をも見せた。これに対して、工藤はこれらの内容が事実と異なる旨を公表し、後に高塚による虚偽内容の文書であることが発覚した。加えて、高塚が仕掛けたこの応戦もファンからのブーイングで不発に終わったことで、公開から約2時間半後に球団公式サイトより削除された。これが工藤に対して火に油を注ぐ形となり、球団と工藤との関係は修復不可能な状態に陥ったかに見えた[ 114] 。しかし翌日、球団オーナーの中内功 が高塚のこの行為を撤回し、中内が張本人の高塚に成り代わる形で謝罪した上で工藤に残留を要請した[ 115] が、高塚と工藤は互いに感情的に拗れてしまったこともあり、工藤は残留を拒否し、移籍を決断した。
なお、高塚は後に小久保裕紀 に対しても、工藤以上の規模で、「小久保事件」と呼ばれる報復行為を実行している(その詳細は小久保裕紀#突然の巨人への無償トレード を参照)。
この間、11月8日に、福岡ダイエーホークスのファンに対して感謝の意と移籍の決断をした旨のメッセージを公表した[ 116] [ 117] 。
一時は中日ドラゴンズかメジャー移籍に絞られたとも報道されたが[ 118] 、最終的に読売ジャイアンツ への移籍が12月14日に発表され、背番号「47 」、4年契約を辞退し、単年契約を結んだ[ 119] [ 120] 。FAにあたっては「もっと(ダイエーで)やりたかった」とも語った。巨人は同年オフ、工藤に加えて江藤智 もFAで中日との獲得競争を制する形で獲得に成功していたが、中日の現場の本命は江藤であり、工藤は中日のフロントの意思で急遽獲得に乗り出したものであり、最終的に中日はどちらも巨人にさらわれ、新たな主軸候補として獲得したディンゴ も期待外れに終わっている[ 121] 。
2008年に『週刊ベースボール 』のインタビューで、オークランド・アスレチックス からもオファーがあったことを明らかにした。結果的に日本を選んだのは、相談した野茂英雄 に「迷っているなら、それは日本に残りたいということ。一度でも迷ったら海は渡らないほうがいい」と助言を受けたからだという[ 122] 。
移籍に際し、福岡では工藤の残留を願う17万3000人もの署名が集まった。工藤は移籍後、約7年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送った[ 123] 。
巨人時代
移籍1年目の2000年 は「優勝請負人」として投手陣を引っ張りシーズン序盤から快調に勝ち星を重ね、前半戦だけで10勝を挙げる活躍を見せる。シーズン終盤に右ふくらはぎを痛め一時離脱したものの、12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、最優秀投手 賞を受賞。日本シリーズ では故障をおして第1戦に先発し、前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。しかし、翌年2001年 は左肩の故障に苦しみ、5試合の登板に終わる。
2002年 は移籍後初、自身としても1999年以来の防御率2点台だったが援護に恵まれず9勝8敗止まり。それでもチームのリーグ優勝に貢献した。そして同年の日本シリーズ では古巣の西武と対戦。第3戦に先発し、古巣相手に8回2失点8奪三振と好投した。試合はそのまま巨人が勝ち、自身も勝利投手となり、自身の持つシリーズ奪三振日本記録を102まで伸ばしたうえ、チームも続く第4戦を制して日本一を果たした。しかし、2003年 は故障で戦列を離れたこともあり、7勝6敗、防御率4.23に終わる。
2004年 8月17日の対ヤクルト 戦で2失点完投勝利し、通算200勝を達成した。日本プロ野球史上23人目、41歳3ヶ月での200勝は当時の史上最年長記録であった。またこの試合で8回にジェイソン・ベバリン から右翼席へプロ入り初の本塁打 となる決勝の2点本塁打を放った。41歳3ヶ月、プロ入り23年目での初本塁打も日本プロ野球史上最年長記録である[ 注 29] 。自著の中で「昔日本シリーズで打ったイメージがあるらしく、巨人に入った時は『バッティングも期待してるぞ』と声をかけてもらったが途中から『バッティングはもういい。バントだけしっかりやってくれ』と言われるようになった」と述べている。同年は防御率こそ4点台だったが、規定投球回に到達[ 注 30] し4年ぶりの二桁勝利を挙げた。
2005年 5月19日の対ソフトバンク 戦でセ・リーグ最年長完投勝利記録、8月26日の対阪神 戦では42歳3ヶ月で最年長二桁勝利記録を更新した[ 注 31] 。同年のオールスターゲーム では第2戦にリリーフで登板し、オールスター最年長登板記録(42歳2ヶ月)を樹立した[ 注 32] 。この年は11勝を挙げ2年連続で二桁勝利を記録したが、規定投球回には到達しなかった。
2006年 はシーズン前半に3勝を挙げる好スタートを切り、7月には大野豊 (引退時43歳1ヶ月)を上回り、実働10年以上の選手としてはプロ野球史上初めて43歳2ヶ月以上の現役左腕投手 となった[ 注 33] 。しかし、6・7月の2試合で計20失点を喫し、更に肩を痛めて登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績に終わってしまう。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。年越し、トレーニング地へ渡米していた。オフには、巨人の若手の成長株3人(会田有志 、山口鉄也 、木村正太 )をアリゾナ自主トレに帯同させ、プロとしての私生活やトレーニングの大切さを一から指導を行い、才能を開花させた。また、この自主トレ期間中に門倉健 がFA移籍したことに伴う人的補償で横浜ベイスターズ への移籍が決まった。
横浜時代
2009年、横浜時代
2007年 1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意であり、工藤投手に大変失礼なこと」と表明。これに対し、工藤自身は「あ、入ってなかったんだとは思ったが、僕がフロントだったら43歳の選手はプロテクトに入れないですね」と巨人フロントへの理解を示し、1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。この移籍に際しては、渡辺恒雄 巨人軍オーナーから「元々、我々(巨人)がお願いして来てもらった偉大な投手。今回の件は残念だが、引退後は巨人軍でフロントに入ってもらいたい」とコメントを出すなどの対応がとられた。自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智 に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。
横浜へ移籍後も背番号は47。年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。
2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也 の持つプロ野球最長記録に並んだ。しかし開幕当初は不安定な投球が目立ち3連敗で自ら二軍行きを志願し調整、5月11日の対広島戦の9回に9年ぶりのリリーフ登板で一軍復帰。5月23日、対西武戦に先発登板し勝利投手になったことで、米田哲也 と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。
同じ年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一 から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎 から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した[ 注 34] 。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄 を含めた全13球団から勝ち星 を挙げた投手になった。規定投球回には満たなかったものの4年続いた防御率4点台を3点台に収め7勝を挙げた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。
2008年 、4月1日の対ヤクルト 戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム 対湘南 戦(鎌ケ谷 )16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ 最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。
2009年 には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールド を記録。同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実 を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎 の若林忠志 を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。この試合は地方である山梨・小瀬球場 で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。この年自己最多の46試合に登板したが、2年連続の最下位が濃厚となった中でチームの若返りを模索していた[ 124] 球団は、9月15日に戦力外通告 とシーズン終了をもって自由契約 にすると発表した[ 124] [ 125] 。移籍先については「国内しか考えていない」とした上で現役続行の意思を示した[ 124] [ 125] 。
第2次西武時代
その中で、2009年11月14日に手薄な中継ぎ左腕の補強を目指していた西武が獲得を発表し[ 126] 、1994年以来の古巣への復帰となった[ 126] 。工藤のデビュー以来、ほぼ毎年つけ続けてきた背番号47は主軸左腕投手の帆足和幸 が着用していたが、帆足は「47は元々工藤さんの番号。球団や工藤さんが望まれるのであれば喜んで返還する」とコメントした。帆足自身は西武入団時に尊敬する投手として工藤の名を挙げ、47をつけたいと球団に対して数年来にわたって願い出ていた末の着用であったが、工藤本人も「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」と固辞[ 127] 。尚、帆足は後にソフトバンクへ移籍し、工藤がソフトバンクの監督に就任した際にも背番号47を背負っている。11月16日、背番号は「55 」と発表された。これについて工藤は「家で子どもたちに相談したら、イケイケゴーゴーだと言われた」「藤井 の背番号15の5も入っていて、いいなと思った。彼の分も野球を続けていきたいと思っている」とコメントした[ 128] 。
2010年 7月18日、前半戦終了間際に復帰後初めて一軍登録された。7月20日の対ソフトバンク 戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム )で、7回裏に先発・野上亮磨 の後を受けて2番手で登板し、自身が持つ実働年数の記録を29年に更新した。しかし、以後は10試合で0勝2敗、防御率10.50。8月25日の対ロッテ戦では同点の場面で登板したものの勝ち越しの本塁打を打たれ、28日に登録抹消となった。9月27日に球団から戦力外通告を受け、10月1日に退団[ 129] 。
西武退団後・引退表明
西武退団後も現役続行の意思を表明していたが、2011年 シーズンは獲得に名乗りを上げる球団が現れず、トレーニングを続けながらメジャーリーグへの挑戦も視野に入れて1年間浪人した[ 130] 。現役続行に向けてトレーニングを積む傍ら、文化放送 のゲスト解説者も務めた。この頃父親が死去しており、告別式に顔を出せないほど多忙だったという[ 131] 。
7月、秋にメジャーリーグのトライアウト を受験するつもりである旨表明した[ 132] が、後述の通り肩の傷が癒えなかったことから受験には至らなかった。
2011年11月22日のスポーツ報知 の取材で、肩関節唇に炎症を抱えるなど肩の調子が上がらないことで、本人の口から引退を示唆する発言が出た。最終的な進退判断は、家族と話し合って決めるとしていた[ 133] 。その後、横浜ベイスターズを買収したDeNA に新監督就任を要請されたが、12月5日に交渉が合意に至らず破談したことが明らかになった[ 134] 。工藤はこの時鹿取義隆 と達川光男 の入閣を要求したが、高田繁 GMにより却下されている[ 135] 。12月9日、自身のブログで肩の故障が治癒しないことから現役引退を決意したことを表明した[ 136] 。
2012年 4月7日、西武ドームでの西武対ソフトバンク戦の試合前に工藤による始球式と引退セレモニーが行われ、工藤と共に西武黄金時代を支えた西武監督の渡辺久信がキャッチャー、ソフトバンクの監督の秋山幸二が打席に立った[ 137] 。工藤の投じたゆるい大きなカーブはワンバウンドし、「マウンドから届かなかったのは初めて」とコメントしている[ 138] 。
引退後
2012年からは、日刊スポーツ 野球評論家や文化放送 『ライオンズナイター 』の野球解説者として活動[ 139] 。テレビ朝日 の『報道ステーション 』にも、日本ハム の監督に就任した栗山英樹 の後任扱いで、プロ野球担当スポーツキャスターとして定期的に出演している[ 140] 。
また、2011年 まで栗山が務めていた朝日放送 の「熱闘!高校野球ナビゲーター」を継承。全国高等学校野球選手権大会 の予選・本大会期間中には、プロ野球の解説・評論活動と並行しながら、同局が制作する大会関連番組(『速報!甲子園への道 』『熱闘甲子園 』など)で司会や取材を担当する[ 141] 。
2013年 7月19日、自身のブログ で筑波大学 大学院 に合格したことを発表[ 142] 。翌年4月、同大学院人間総合科学研究科に仁志敏久 ・吉井理人 とともに入学した[ 143] 。2014年 には伊原春樹 の後任として、西武監督の候補に挙がっていた[ 144] 。
福岡ソフトバンクホークス監督時代
2014年 11月1日、西武、ダイエーの先輩でもあり、前任監督であった秋山幸二の勇退を受け、その後を引き継いで福岡ソフトバンクホークス監督に就任することが決定し、王貞治 球団会長同席の下に就任記者会見を行った[ 7] [ 145] [ 8] 。投手出身のホークスの監督は杉浦忠 以来26年ぶりである。なお、監督就任にあたり、工藤の背番号は当初、王がダイエー / ソフトバンク監督在任時代に着用していた「89 」をつけるという報道もされていたが[ 146] 、前任者の秋山が着用していた「81 」を引き継ぐことになった[ 7] [ 145] 。
2015年 の就任1年目のシーズンでは、交流戦は12勝6敗、首位・日本ハムと0.5ゲーム差の2位で終えるも、6月16日の阪神対日本ハム戦で日本ハムが敗れたことで、ソフトバンクの交流戦勝率1位が確定[ 147] [ 148] 。チーム打率・287、チーム本塁打・23本、90得点はいずれも12球団トップ[ 149] 。福岡移転後最速でマジック38が点灯し[ 150] 、9月6日の対楽天戦に5-3で勝利し3位以内が確定、両リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決めた[ 151] 。9月17日、本拠地での対西武戦に勝利し、パ・リーグ最速でリーグ優勝を決める[ 152] 。最終的に90勝を挙げ、2002年 の伊原春樹 (西武)が記録した新人監督最多勝利記録に並んだ[ 注 35] 。クライマックスシリーズ ファイナルステージでは、ファーストステージ勝者のロッテと対戦。3連勝でアドバンテージの1勝を含めて4勝0敗で日本シリーズ へ進むこととなった[ 153] 。
10月29日の日本シリーズ 第5戦では、5-0で迎えた最終回を守護神のデニス・サファテ が締めくくり、就任1年目にしてレギュラーシーズン、クライマックスシリーズ 、日本シリーズの3部門において完全優勝を成し遂げた。2016年1月18日、野球殿堂 入りを果たした[ 154] [ 155] [ 156] 。
日本一後の胴上げ(2017年11月4日、日本シリーズ第6戦後)
日本一後の胴上げ(2018年11月3日、日本シリーズ第6戦後)
2016年 は首位を独走し、一時は2位に最大11.5ゲーム差をつけていたが失速、日本ハムに逆転されて2位に終わり、CS でも敗退し、秋山監督時代から続いた日本シリーズ連覇が2で途絶えた。野手総合巡回コーチに関川浩一 を起用したが、試合中の作戦面やブルペンとの連携、また選手の昇降格などで試行錯誤を繰り返した[ 157] 。関川は一年で解任された。
2017年 は参謀役に達川光男 を一軍ヘッドコーチに招聘し、森浩之 を一軍作戦兼バッテリーコーチ補佐を抜擢しベンチを強化した[ 158] 。2位西武に13.5ゲーム差をつけてのリーグ優勝。CSは楽天に4勝2敗、日本シリーズはDeNAに4勝2敗で日本一になった。なお、この勝利で選手監督通じて、選手時代に所属した球団全てから日本一を上げることとなった。その後、2018年 ・2019年 は2年連続でシーズン2位からの下剋上を果たし、日本シリーズ3連覇を達成した。就任5年でリーグ優勝2回・日本一を4度達成し、2019年シーズン終了後2021年までの契約延長が発表された[ 159] 。
2020年 は中盤から首位に立ち一時は独走状態となりながら、10月に入り9日には2位ロッテにゲーム差なしまで迫られたが、直後の12連勝で2位以下を突き放し、10月27日、2位ロッテとの直接対決に勝利し3シーズンぶりのリーグ優勝を果たす。そのままの勢いで更に6連勝を記録し、日本プロ野球新記録となる月間22勝を達成[ 160] 。特別に2位チームとの3戦先勝方式のみとなったCS をロッテに連勝し突破、巨人と2年連続対戦となった日本シリーズ では、第4戦の1回表以外巨人にリードを許すことなく前年に続き4連勝で優勝、2018年の第3戦から続く日本シリーズにおけるチームの試合連勝記録を12、また2011年の第7戦から続く日本シリーズにおける本拠地連勝記録を16にまで伸ばした。
2021年 3月27日のロッテ戦(福岡PayPayドーム )での勝利で、戦後 生まれおよびドラフト制 導入後[ 161] に就任した監督としては最速の837試合で監督通算500勝を達成した[ 162] [ 163] 。同年4月29日の対北海道日本ハムファイターズ 6回戦の勝利で監督通算513勝を挙げ、野村克也 が南海ホークス時代に挙げた512勝を抜き、球団歴代1位の鶴岡一人 の1773勝、同2位の王貞治 の968勝に次ぐホークス球団史上歴代3位の勝利数となった[ 164] 。10月10日に自身初のBクラス確定が濃厚になったことを受けて監督を辞任する意向であることが報道され[ 165] 、10月25日に行われた最終戦をもって監督を退任。これがソフトバンクの監督生活7年間で唯一のBクラス(4位)かつシーズン負け越しとなった。王貞治 球団会長は「本当に、考えていた成績とは違った。今年は今年で来年も、と思っていたんだけども。常に、意思が固かったので受け入れざるを得なかった。」とコメントし、工藤監督の退任を認めた[ 166] 。工藤は直接指導も含め、投手陣の整備に力を発揮した[ 167] 。育成出身の千賀滉大 をエースに育て上げ、東浜巨 や石川柊太 も先発ローテーションに定着[ 167] 。中継ぎも毎年のように若手が台頭し、投手王国を築き上げた[ 167] 。野手では17年から育成出身の甲斐拓也 を正捕手起用し、日本代表の扇の要にまで成長させた[ 167] 。
ソフトバンク監督退任後
2022年2月18日、監督在任中の2020年3月に修士課程を修了し、修士(体育学) を取得した筑波大学大学院の博士課程 に合格したことが報じられた[ 168] [ 169] 。
2022年からは日本テレビ の野球解説者を務める他、福岡の各放送局(テレビ西日本 ・RKBテレビ ・NHK福岡 )やニッポン放送 等のゲスト解説者としても出演。2023年からはTBSチャンネル の解説者も務める。
また、2023年から株式会社KONAMIが企画するインフルエンサーによって構成された草野球チーム「パワフルスピリッツ」で監督を務める。背番号は811[ 170] 。
選手としての特徴
最速149km/h のストレート とスピンの効いた大きな軌道のカーブ を武器としていた[ 171] 。晩年になるにつれ、スライダー やシンカー など徐々に球種を増やしていったが、基本的にはストレートとカーブを軸としたピッチングを組み立てていた。本人は自著にて「ストレートとカーブだけではプロのバッターは抑えられません。でも、それぞれを何種類か持っていればいいのです。要は緩急をつけることです」と語っており、ストレートは130km/h後半と140km/h中盤~後半、カーブは100km/h~130km/h台までを約10km/h刻みで操り、且つそれをバッターに悟られないよう同じフォームや腕の振りからコーナーにそれを投げ分ける投球術を磨くことで勝ち星を重ねた[ 172] 。これは工藤が西武ライオンズ時代に慕っていた東尾修 から「9回2アウト満塁、2ストライク3ボールから、百発百中で狙ったところに緩急自在にコントロールできるのか?それができない球種は、自分の持ち球とは言えない」と教えを受けていたことを起点としており、巨人時代に上原浩治 から球種を増やすことについて相談を受けた際にも「今持っている球種を、もっと正確に磨いた方がいいんじゃない?」と同様の助言をしている。[ 173]
現役時代、肉体管理を徹底し[ 174] 、特に栄養値の高い食事を摂ったり青汁を飲むなど体調管理には気を遣っていたことで知られるが[ 96] 、この姿勢は結婚後に始まったもので、それ以前は連日朝まで飲み歩いては二日酔いのまま登板するという不摂生な生活を繰り返していた[ 175] 。それが蓄積され1988年シーズン途中から不調に陥り、89年には肝機能障害を発症した。医師からは「選手生命以前に死ぬよ」と告げられるほどの状態となり、1989年シーズンは何度も二軍落ちを繰り返し、4勝8敗・防御率4.96という散々な成績で、戦力外通告を覚悟したという。同年オフに結婚した際のプロポーズは「(野球を辞めて)山に籠って暮らそうよ」だったが、妻が「夫をもう一度野球が出来る身体にして、野球で喜ぶ顔が見たい」と、引退を考えていた工藤を説得し、夫婦二人三脚で体質改善に取り組むようになった。工藤はその後約1年間のリハビリを経て復調し、以降は体調管理に非常に気を遣うようになった[ 176] [ 177] 。
現役時代は股関節 のトレーニングを重点的に行っていた。きっかけは、西武時代の1992年に大腿部の肉離れを起こした際、筑波大学 教授及びスポーツトレーナーの白木仁[ 注 36] のもとを訪れたことであった[ 179] 。同年のシーズンオフに白木のもとで肩のトレーニングに加えて股関節のトレーニングも同時に行うこととなり、白木がドイツ で学んだレッグランジ[ 注 37] 、腰割り[ 注 38] といったトレーニングを行った。白木によるとこのトレーニングを始めた当初の工藤は股関節が全く動かなかったが、トレーニングを積んだ結果股関節が柔らかくなり、足が上がるようになったことで投球の際の動作が良くなった。さらにランニングがよくなる(楽に走れるようになった)という効果が表れ、その後も工藤はランニングの最中に腰割りを取り入れていたという[ 179] 。元力士 で1983年の初土俵から昭和以降の力士で最高齢となる46歳11か月で現役を引退した2007年まで24年間大相撲の土俵に上がった一ノ矢充 は、白木との対談の中で工藤は股関節のトレーニングを行っていたことで野球界のさまざまな最年長記録を更新できたのではないかと述べている[ 179] 。
監督・指導者として
在任7年間で978試合558勝378敗42分け(勝率.596)を記録。クライマックスシリーズ の通算成績は24勝8敗で、敗退したのは日本ハムとの2016年ファイナルステージのみだった。日本シリーズ は出場5度で20勝4敗1分で、全て日本一を手にした。日本シリーズは2018年第3戦から退任まで12連勝、ポストシーズン全体では2019年ファーストステージ第2戦から16連勝と短期決戦に無類の強さを誇った[ 181] 。ソフトバンクを常勝球団として構築した一人と認められる[ 182] 。
ペナントレースでも3度のリーグ優勝を成し遂げたが、2016年 は北海道日本ハムファイターズ に最大11.5ゲーム差を逆転されリーグ優勝を逃した。後に工藤は「自分の思っている野球だけでは勝つことはできないし、強いチームはできない。それからは選手にアドバイスする時も自分の話し方や言葉の使い方を変えながらやっていけるようになった。」と述べ、「自分にとっては転機になる1年だった。」と振り返っている[ 183] 。
翌年の2017年 は正捕手 の固定に向け、育成選手 出身の甲斐拓也 を抜擢。2018年 からは甲斐が試合や練習で感じたことをその日のうちにつづり、工藤がチェックする「交換日記」を始めた。また、シーズン中には遠征先の部屋に甲斐を招いて3, 4時間ほど対話をすることもあった。甲斐は後にゴールデン・グラブ賞 を5度獲得する球界屈指の捕手に育ち、「めちゃくちゃ厳しかったけど、その中に愛情があった。1人の人間、社会人、野球人としてたくさん教えてくれたのも、キャッチャー甲斐拓也をつくってくれたのも工藤監督だった」と感謝を口にしている[ 184] 。
2020年 は新型コロナウイルス の感染拡大によりシーズン開幕が延期される中、複数の開幕予定日を想定し、そこへ向けた選手の調整法を何通りにも渡って自宅でシミュレーションしていた。結果としてこの年は3年ぶりのリーグ制覇及び日本シリーズ4連覇を達成している[ 183] 。
キャンプ では「長く現役でやるのに必要なものを作り上げる為」におよそ10種類ほどのメニューを考案し、強化指定選手を指導[ 185] 。メディアからは「工藤塾 」と呼ばれた。 練習後には選手全員が悲鳴を上げながらその場に倒れこむほどハードな練習だったが、強化指定を受けた千賀滉大 、岩嵜翔 、東浜巨 らはその後チームの主力として活躍している[ 186] 。また、投手部門には巡回コーチを配置し、三軍を抱える大所帯の中でも選手に一貫した指導を行えるシステムを構築した[ 183] 。
自宅の仕事部屋には選手の成績、データ、コンディショニングの分析のほか、組織づくりや故障防止についての考えをまとめたファイルが並んでいる[ 183] 。また、試合中にメモするノートとは別のノートに選手やコーチに伝える内容を整理するルーティーン を監督就任以降欠かさず続けていた[ 183] 。
人物
ドラフト会議前の『中日スポーツ』では「好きなプロ球団は巨人 。好きなプロ野球選手は原辰徳 ・篠塚和典 (ともに巨人)」と報道されており、本人も「近所の人に(地元の)中日 に入ったら、とよく言われますが、僕は巨人が好きなんです。巨人戦はテレビでよく放送するから…」と話していた[ 55] 。
顔つきから、入団1年目には「カリメロ 」のあだ名で呼ばれていた。また、新人年の1982年にはビッグマウス[ 注 39] で知られ、1年先輩の秋山幸二 ・小野和幸 から「変わったやつだ」と見られていた。巨人時代の2004年オフには、母校の名古屋市立久方中学校 で講演会を行い、在校生から将来の夢について尋ねられ「メジャー に行くこと」と答えていた[ 41] 。
1980年代当時の野球選手の普段着は、大き目の襟のゴルフシャツ、ベスト、スラックス、エナメル 靴、ヘアスタイルも角刈り、パンチパーマ が当たり前であったが、DCブランド 、ジーンズ、スニーカーを着こなし、ヒーローインタビュー で笑いをとったり、優勝決定時の胴上げ に加わらず、カメラ に向かってはしゃぐ等のパフォーマンスをよく行っていた。そのため、先輩等に酷評されることもあったが、1986年の新語・流行語大賞 では、その年の流行語「新人類」を象徴して清原和博 、渡辺久信 と共に表彰され、球界に新風を吹かした先駆者であった[ 189] [ 190] 。また渡辺とは翌1987年の春季キャンプの頃、テレビ朝日 『ニュースステーション 』で「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー 」というコーナーを持ったことがある。
1987年の日本シリーズ で巨人に勝利する直前、一塁 を守っていた清原 が号泣していたというのはよく知られるエピソードだが、この試合に先発し9回まで投げていたのが工藤であった。清原を見て「打者は左バッターの篠塚 さん、清原は涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危ない」と判断し、ファーストに打たせない投球を心がけアウトコースで勝負することを選択、篠塚を外角高めへのストレートでセンターフライに打ち取り完投、胴上げ投手となっている。これについて、工藤を兄と慕っていた清原は自著の中で「泣き虫の弟にどこまでも優しい兄だった」「ゲームセットの瞬間、工藤さんに抱きついて思いっきり泣いた」と感謝を述べているが、工藤自身は試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったため)どんなガッツポーズにしようかマウンド上で考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつ「自分のこれまでの野球人生の中で、最も力を込めて投げた一球だというふうに思う。あの涙は本当に美しかった」と語っている。[ 191]
ダイエー時代の1999年9月11日の近鉄戦、ノーヒットノーランがかかった8回二死の場面において、打者の鈴木貴久 に3ボール1ストライクとなり、捕手の城島健司 がマウンドに来て「歩かせましょう。次のバッターで勝負しましょう。ノーヒットノーラン、チャレンジしましょうよ」と言った際には、「俺はノーヒットノーランをするためにマウンドに上がってるんじゃない。勝つために上がっているんだ。いいから座ってろ」と拒否。結果的には、続く5球目を左翼スタンドに運ばれホームランとなったものの、結局このソロ本塁打のみの被安打1で完投勝利した。これについては、この試合前の時点で2位西武とのゲーム差が0.5であり、ダイエーとしてはなんとしても勝たねばならなかった状況だったことに加え、工藤が四球で走者を出すことでピンチが広がったり大量失点につながる可能性を生むことを嫌い、鈴木との勝負を選んでいた。工藤は「打たれた瞬間、城島はガックリしていたけど、俺は別に何も思わずに投げていた。とにかく『個人成績ではなく、チームとして勝つ 』ことに執着することで、ホークスを勝てる組織にしたいとずっと思っていた」と振り返っている[ 192] 。
巨人移籍1年目の2000年7月14日の対ヤクルト戦では、6回まで無四球被安打1で投げ終え、唯一ピンチを迎えた7回一死一・二塁の場面でペタジーニ ・古田敦也 に対し、打席内でのわずかな目線の動きと素振りの軌道、前の打席までの結果から内角狙いと見抜き、外角低めのストレート3球勝負に出て3球三振(共に見逃し三振)に獲った。当時の監督であった長嶋茂雄 はこのピッチングに感動し、次の試合もあるのでとこの回での交代を希望した工藤に「工藤、次の試合はいいから、この試合だけ最後まで投げてくれ。これだけのピッチングを見せられて、こんなところで俺は代えられない。ファンの方々に申し訳ない。」と目を爛々とさせて工藤を説得、工藤は9回を投げ切り1-0で完封勝利を挙げ、長嶋からは「2000年ペナントレースのベストゲーム」と称された。[ 193]
読売ジャイアンツ球団公式サイト内に『僕の野球塾』という少年野球指導コーナーを長きにわたって掲載しており、野球少年に「正しいトレーニング」の重要性を伝えていた。全国の野球少年からの質問が殺到する人気コーナーのため、データの蓄積は膨大な量となった。工藤は2006年に同タイトルの書籍を講談社 から刊行している。横浜移籍後は横浜球団ウェブサイトにデータ・権利が引き継がれていた。
子供たちに夢を与える活動「夢の課外授業」の発起人として、2000年より全国の小学校を訪問している。毎年オフに神宮の室内球技場で行っているチャリティキッズベースボールスクールも2009年までに15回開催(主催二十一世紀倶楽部)。
選手の指導に関しては、特に投手がプロ入り後に投球フォームを変える風潮について、「利き手を右から左に変えるようなもの」として否定的な態度を示している[ 194] 。また、自身が監督やコーチに就任した場合は「いじらない。いじったら自信もなくなってしまう。それでダメなら納得いく」という考えも示している[ 194] 。
左利きながら、ペン・箸は右で持つ。
人間関係
ダイエー時代のチームメイトであった藤井将雄 とは良き理解者として親交があった[ 195] [ 196] 。ダイエー時代の工藤はチームを強くしたい一心で嫌われ役に徹し、他選手に対して厳しい言葉を投げかけていたため、不平不満が溜まることも少なくなかった[ 195] [ 197] 。それに対し藤井は「工藤さんは、決してお前たちのことが嫌いだから言っているんじゃない。お前たちやチームのためにと思って言ってくれているんだ!」とフォローする[ 196] など、孤立しかねない状況の中で間に入ってくれる存在でもあった[ 195] 。そのエピソードを聞いた工藤自身も「涙が出るほど嬉しかった」と振り返っている[ 196] 。また、巨人移籍後に藤井が2000年 のホークスリーグ優勝決定後6日後に肺がん で31歳の若さで急逝した際には葬儀に参列、同年の日本シリーズ 第一戦で先発した際、ダイエーの先発であった若田部健一 と共に、藤井の右肩の遺骨をポケットに偲ばせマウンドに上がった[ 198] 。
横浜時代のチームメイトであった加藤康介 は、工藤の姿を見て大いに勉強させられ、横浜を戦力外通告後に阪神に移籍した際の活躍の原動力になったと語っている[ 199] 。工藤自身も『報道ステーション』2013年7月12日放送分にて加藤の奮闘ぶりを讃える発言をしている。
詳細情報
年度別投手成績
年 度
球 団
登 板
先 発
完 投
完 封
無 四 球
勝 利
敗 戦
セ 丨 ブ
ホ 丨 ル ド
勝 率
打 者
投 球 回
被 安 打
被 本 塁 打
与 四 球
敬 遠
与 死 球
奪 三 振
暴 投
ボ 丨 ク
失 点
自 責 点
防 御 率
W H I P
1982
西武
27
0
0
0
0
1
1
0
--
.500
122
28.2
22
0
21
2
1
29
1
0
11
11
3.41
1.50
1983
23
2
0
0
0
2
0
0
--
1.000
138
33.1
30
6
13
0
0
24
0
0
13
12
3.24
1.29
1984
9
0
0
0
0
0
1
0
--
.000
53
12.1
10
1
10
0
1
8
0
0
4
4
2.92
1.62
1985
34
14
8
0
1
8
3
0
--
.727
554
137.0
84
13
73
2
2
104
1
1
44
42
2.76
1.15
1986
22
20
10
2
1
11
5
0
--
.688
586
145.1
111
22
56
3
1
138
1
0
53
52
3.22
1.15
1987
27
26
23
2
2
15
4
0
--
.789
899
223.2
181
18
64
4
2
175
2
0
65
60
2.41
1.10
1988
24
20
11
2
0
10
10
1
--
.500
694
159.0
164
18
70
6
1
94
4
0
77
67
3.79
1.47
1989
33
17
4
0
0
4
8
2
--
.333
540
118.0
126
12
76
4
2
94
9
0
70
65
4.96
1.71
1990
13
13
4
1
0
9
2
0
--
.818
359
85.2
58
11
46
1
2
89
4
0
33
32
3.36
1.21
1991
25
23
10
4
1
16
3
0
--
.842
705
175.1
124
17
75
1
0
151
4
0
55
55
2.82
1.13
1992
25
24
6
3
0
11
5
0
--
.688
645
150.2
140
17
69
3
3
133
4
0
60
59
3.52
1.39
1993
24
23
4
0
0
15
3
0
--
.833
697
170.0
129
10
65
4
2
130
5
0
46
39
2.06
1.14
1994
24
22
4
1
1
11
7
0
--
.611
554
130.2
120
12
44
0
3
124
2
1
54
50
3.44
1.26
1995
ダイエー
22
22
6
1
1
12
5
0
--
.706
652
163.0
137
15
48
0
0
138
4
0
69
66
3.64
1.13
1996
29
29
9
1
0
8
15
0
--
.348
867
202.2
207
17
70
2
1
178
6
0
94
79
3.51
1.37
1997
27
27
0
0
0
11
6
0
--
.647
670
161.1
153
14
48
2
3
146
2
0
61
60
3.35
1.25
1998
15
14
1
0
1
7
4
0
--
.636
386
93.2
90
8
28
1
2
65
0
1
35
32
3.07
1.26
1999
26
26
7
3
2
11
7
0
--
.611
754
196.1
143
12
34
1
1
196
6
1
56
52
2.38
0.90
2000
巨人
21
21
1
1
1
12
5
0
--
.706
545
136.0
127
14
16
0
1
148
5
0
53
47
3.11
1.05
2001
5
5
0
0
0
1
3
0
--
.250
103
21.1
35
3
7
1
0
8
2
0
21
20
8.44
1.97
2002
24
24
1
1
0
9
8
0
--
.529
681
170.1
157
21
26
3
2
151
5
0
61
55
2.91
1.07
2003
18
18
4
2
1
7
6
0
--
.538
483
117.0
117
15
22
2
3
115
1
0
56
55
4.23
1.19
2004
23
23
2
0
0
10
7
0
--
.588
596
138.2
160
27
33
1
1
128
3
0
78
72
4.67
1.39
2005
24
24
1
0
0
11
9
0
0
.550
595
136.0
159
26
44
3
1
130
4
0
73
71
4.70
1.49
2006
13
13
0
0
0
3
2
0
0
.600
295
70.0
69
12
19
0
3
52
0
0
41
35
4.50
1.26
2007
横浜
19
18
0
0
0
7
6
0
0
.538
442
103.2
118
6
28
1
4
73
2
0
46
45
3.91
1.41
2008
3
3
0
0
0
0
2
0
0
.000
70
13.2
21
3
5
0
1
7
2
0
13
8
5.27
1.90
2009
46
1
0
0
0
2
3
0
10
.400
172
37.1
53
11
14
1
0
24
2
1
30
27
6.51
1.79
2010
西武
10
0
0
0
0
0
2
0
0
.000
33
6.0
11
1
4
0
0
7
0
0
7
7
10.50
2.50
通算:29年
635
472
116
24
12
224
142
3
10
.612
13890
3336.2
3056
362
1128
48
43
2859
81
5
1379
1279
3.45
1.25
各年度の太字 はリーグ最高、赤太字 はNPBにおける歴代最高
タイトル
最優秀防御率 :4回(1985年、1987年、1993年、1999年)
最多奪三振 :2回(1996年、1999年)
最高勝率 :4回(1987年、1991年、1993年、2000年)※最多タイ記録(他は山田久志 )、両リーグで獲得は他に杉内俊哉 のみ
表彰
記録
この選手の記録に関する文献や情報源 が必要です。 出典を明記する ためにご協力をお願いします。 (2015年2月 )
初記録
投手記録
初登板:1982年4月10日、対阪急ブレーブス 前期1回戦(西武ライオンズ球場 )、6回表二死に2番手で救援登板、1/3回無失点
初奪三振:同上、6回表にウェイン・ケージ から
初勝利:1982年8月31日、対日本ハムファイターズ 後期9回戦(西武ライオンズ球場)、5回表二死に2番手で救援登板、3回1/3を無失点
初先発:1983年8月4日、対南海ホークス 16回戦(西武ライオンズ球場)、3回1/3を2失点
初先発勝利・初完投勝利:1985年7月9日、対南海ホークス12回戦(大阪スタヂアム )、9回2失点
初完封勝利:1986年6月18日、対南海ホークス11回戦(西武ライオンズ球場)
初セーブ:1988年6月5日、対阪急ブレーブス11回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
初ホールド:2009年5月5日、対読売ジャイアンツ 4回戦(東京ドーム )、7回裏に2番手で救援登板、1回無失点
打撃成績
節目の記録
1000投球回:1991年6月1日、対ロッテオリオンズ 8回戦(宮城球場 ) ※史上241人目
1000奪三振:1992年8月6日、対近鉄バファローズ 17回戦(藤井寺球場 )、2回裏にアルビン・デービス から ※史上85人目
100勝:1993年9月4日、対福岡ダイエーホークス 21回戦(西武ライオンズ)、9回1失点完投勝利 ※史上109人目
1500投球回:1994年7月17日、対福岡ダイエーホークス16回戦(福岡ドーム ) ※史上138人目
1500奪三振:1996年6月29日、対近鉄バファローズ14回戦(福岡ドーム)、5回表に水口栄二 から ※史上39人目
2000投球回:1997年6月10日、対千葉ロッテマリーンズ 10回戦(福井県営球場 ) ※史上75人目
150勝:1998年9月9日、対千葉ロッテマリーンズ23回戦(千葉マリンスタジアム )、先発登板で7回1/3を4失点(自責点3) ※史上43人目
2000奪三振:1999年9月23日、対オリックス・ブルーウェーブ 25回戦(グリーンスタジアム神戸 )、1回裏に藤井康雄 から ※史上16人目
2500投球回:2000年8月17日、対阪神タイガース22回戦(東京ドーム ) ※史上41人目
500試合登板:2004年4月21日、対横浜ベイスターズ 2回戦(東京ドーム )、先発登板で4回1/3を7失点(自責点3) ※史上73人目
2500奪三振:2004年6月4日、対ヤクルトスワローズ 9回戦(明治神宮野球場 )、5回裏にビリー・マーチン から ※史上8人目
200勝:2004年8月17日、対ヤクルトスワローズ20回戦(東京ドーム)、9回2失点完投勝利 ※史上23人目
3000投球回:2005年5月12日、対オリックス・バファローズ3回戦(東京ドーム) ※史上25人目
600試合登板:2009年7月9日、対読売ジャイアンツ 12回戦(東京ドーム)、8回裏一死に3番手で救援登板・完了、2/3回無失点 ※史上34人目
日本シリーズにおける記録
出場14回 ※史上最多タイ
通算102奪三振 ※史上最多
1試合奪13三振:1999年 第1戦 ※歴代2位タイ[ 201]
イニング三者連続三球三振 :1994年第2戦3回 ※シリーズ史上初
両リーグ勝利投手:パ8勝(西武で7勝、ダイエーで1勝)、セ1勝(巨人で1勝) ※史上3人目
その他の記録
監督としての記録
節目の記録
500勝:2021年3月27日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(福岡PayPayドーム )、3-2で勝利 ※史上31人目(球団史上4人目)、837試合での到達は球団最速、歴代3位[ 203]
背番号
現役時代
47 (1982年 - 1994年、1997年 - 2009年)
21 (1995年 - 1996年)
55 (2010年)
21 をつけたダイエー時代の1995年と1996年以外は2009年まで47 を背負い続けたことから、47 は工藤、あるいは左腕投手の代名詞と言える背番号となっている[ 注 40] 。2010年は背番号を55 にした。
1995年ダイエー移籍時、西武時代と同じ背番号47 を希望したが、1994年途中よりケビン・ライマー に与えられていたためやむなく21 をつけた。その後、1995年限りでライマーが解雇されたが、1996年はスコット・ライディ が47 を引き継いだため、移籍3年目の1997年 に希望通り47 が与えられた。21 は西武時代の先輩でプロ選手の心構えを教えてもらった東尾修 の現役時代と同じ番号で、西武在籍時のチームメイトでもある渡辺久信 が1998年にヤクルトに移籍した時も工藤同様、背番号21 をつけている。
21 をつけていた2年間はかなりの違和感を覚えていたといい、1999年シーズン終了後に巨人に移籍する際も47 を希望。当時47 を付けていた小野仁 は13 に変更した。横浜に移籍する際も背番号47をつけ、前年まで47 を付けていた堤内健は36 に変更した。
背番号47 が左腕投手に与えられる例として、ダイエーは工藤の退団後に入団した左腕の杉内俊哉 に、工藤の背番号であった47 を与えたが、二人には左腕という他に、夏の甲子園でノーヒットノーランを記録しながら優勝できなかった、カーブが得意、隔年で調子を崩す傾向があるなどといった共通点がある。また、杉内は入団時、工藤について尊敬していると語り、目標にしている選手であると語った。なお、杉内は2012年に巨人に移籍した際に背番号18 を与えられた(47 をつけていたのは左腕投手の山口鉄也 )。西武での後輩にあたる左腕の帆足和幸 は、2001年の入団以来何度も47 への変更を訴え、2006年にようやく認められている。その後、帆足は2009年 オフに工藤が西武復帰を決めた際、背番号47 を工藤に返還する意向を見せたが、工藤はそれを固辞し、55 を選んだ。なお、帆足は2012年にソフトバンクへ移籍し、背番号を11 としたが、2013年から背番号を47 としている。また、同じく左腕投手の野口茂樹 が中日時代(1995年~2005年)に47 を付けたが、1999年の日本シリーズ ・第1戦で「背番号47 」同士の先発投手対決となった。
2009年11月16日に埼玉西武ライオンズ の入団会見を行った際に、背番号55 を選んだ理由として、ホークス時代のチームメイトであり急逝した藤井将雄が生前に着用していた背番号15 を意識し、「彼の5番が入るのでいいと思う。彼の分も野球を続けていこう、と心に決めていた」と語った。また「子供たちから『イケイケゴーゴー』だと言われたし、自分の誕生日も5月5日なので」とも語った。
背番号の上の名前の英字表記はいずれも「KUDOH 」であったが、西武(第1次)在籍時の1985・1986年頃は同姓選手が在籍していなかったにもかかわらず「K.KUDOH 」のユニフォームも併用(ビジター用は1985年の日本シリーズ第3戦登板時、ホーム用は1986年のリーグ優勝を決めた10月9日のロッテ戦登板時に着用を確認)。
監督時代
背番号の上の名前の英字表記は「KUDO 」。
年度別監督成績
リーグ公式戦
年 度
球 団
順 位
試 合
勝 利
敗 戦
引 分
勝 率
ゲ | ム 差
本 塁 打
打 率
防 御 率
年 齡
2015
ソフトバンク
1位
143
90
49
4
.647
-
141
.267
3.16
52歳
2016
2位
143
83
54
6
.606
2.5
114
.261
3.09
53歳
2017
1位
143
94
49
0
.657
-
164
.259
3.22
54歳
2018
2位
143
82
60
1
.577
6.5
202
.266
3.90
55歳
2019
2位
143
76
62
5
.551
2.0
183
.251
3.63
56歳
2020
1位
120
73
42
5
.635
-
126
.249
2.92
57歳
2021
4位
143
60
62
21
.492
8.5
132
.247
3.25
58歳
通算:7年
978
558
378
42
.596
Aクラス6回、Bクラス1回
ポストシーズン
※1 リーグ優勝したチームに与えられるアドバンテージの1勝を含む。
※2 ディスアドバンテージの1敗を含む。
※3 2020年は新型コロナウイルス の影響によりファーストステージを実施せず、レギュラーシーズン1位チームと2位チームによる1ステージのみとし、当初の日程を変更したため試合数も4戦3勝先取制に規模を縮小して開催。
関連情報
著書
単著
共著
監修
関連書籍
出演
テレビ出演
ラジオ出演
その他
脚注
注釈
^ a b 天白区(かつての愛知郡 天白村 )は1975年2月1日に昭和区から分区独立した[ 20] 。
^ 最優秀防御率 4個、最多奪三振 2個、最高勝率 4個
^ 最優秀選手 2個、ベストナイン 3個、ゴールデングラブ賞 3個
^ 天白区で誕生したとする文献もある。
^ 工藤の父親は宮崎県 延岡市 出身[ 16] 。2011年9月29日に延岡市内の病院で肺がん により死去(76歳没)[ 17] 。
^ 公康の父親や、黒井克行 (2006) は「(公康は)5人兄弟の四男として生まれた」と述べている。
^ 『中日新聞』 (1981) は天白区高坂町出身と報道している[ 19] 。
^ 小中学校の1年先輩には佐藤啓 (中京テレビ アナウンサー)が[ 21] 、2年後輩には紀藤真琴 (中京高校 から1983年のドラフト会議 で広島 から3位指名 / 広島・中日 ・楽天 )がいる[ 22] 。
^ 『週刊朝日』 (2011) は「公康の父は、息子がプロ入りした際の契約金 で名古屋に自宅を建てたが、後にその家を売り払って帰郷した」と述べている[ 25] 。
^ 公康は後年に「自分だけでなく、兄たちも父親に強制的に野球を教えられていたが、最終的には野球が嫌いになって辞めていった」と述べている。
^ 後に投球フォームは江夏豊 を参考にしたと語っている[ 37]
^ 上2人の兄は私立高校に入学したが、公康の時点では公立高校でなければ経済的に進学は困難だった。しかし公康は当時、公立高校へ進学できる程度の学力を有していなかった。
^ ベースボール・マガジン社 (1987) によれば、最初に享栄高校から勧誘され、次いで名古屋電気高校からも勧誘された。また同じ名古屋市にあった中京高校(現:中京大中京高校) に兄が通学しており、工藤自身は中京からの勧誘を待っていたが、結局は中京からは勧誘されなかった(工藤の父は、中京からの勧誘が来た時点では既に名電入学の話が進んでいたため断ったと述べている)。工藤の父親によれば、工藤は自身とともにある高校の野球部監督と寿司屋で会合した際、監督から言われるがままに寿司を食べた(一時は遠慮したが「野球選手がたくさん食えんでどうする」とさらに勧められた)ところ、監督を「オレの前で寿司を食ったヤツは、オマエが初めてだ!」と憤慨させてしまい、その件が原因で同校への進学は見送ることになったと述べている。
^ 山本は中学時代から県下一の捕手として知られており、中村は山本を活かす投手を探していたところ、工藤に目をつけた。
^ 高校時代、槙原との直接対決はこれが唯一だった。
^ 選手権大会としては8年ぶり。
^ 当時、大会史上3位タイ[ 55] 。このうち、9回までに奪った三振は16で、この試合で与えた四死球はゼロだった。
^ 同年のドラフト会議では社会人野球に好投手がいたため、(1巡目入札で)1位指名される可能性がある高校生はこの3人のみと予想されていた[ 58] 。
^ a b なお、槙原はドラフト会議前に「希望する球団は(地元の)中日、その次は在京のセ・リーグ球団。それ以外ならセ・リーグならどこでも」と表明していた[ 81] 。
^ 複数球団の競合が予想されていたが[ 62] 、本人は広島入りを強く希望し、広島や大洋・阪神以外の球団への入団は拒否する意向を表明していた[ 63] 。結局、広島が単独1位指名[ 64] 。
^ 工藤は同年の国体 終了後に「セ・リーグに入りたい。できれば小さいころからファンだった巨人がいい」「パ・リーグに指名されたら熊谷組に就職する」と表明していた[ 55] 。
^ 実際に西武との入団交渉に入ったところ、工藤の父が態度を軟化させたことについては、「(西武が)他球団に指名させないために芝居を打たせた」と指摘する声が上がり、ヤクルトスワローズ のスカウトは「バカバカしい」とコメントしていた[ 60] 。
^ 熊谷組は当時、「工藤は我が社に入社する約束をしており、二重契約ではないか」と反発していた[ 60] 。また当時は「(工藤が西武に入団すると)父は名古屋市交通局に勤めづらくなるので、西武系企業に転職するのではないか」と噂されたり、「熊谷組に入社すれば3年後に中日に入団させる」という密約があったとまことしやかに伝えられたりしたことで、工藤家は地元ファンからの嫌がらせを受け、電話番号を変えることを余儀なくされた。
^ 名電高校の校長・後藤淳は野球部監督・中村豪とともに「学校に相談せず、熊谷組への就職を反故にして西武から契約金を受け取り、入団を決めた工藤の行動は遺憾だ。企業の信頼を裏切る結果になった」との態度を表明していたが、工藤のプロ入りについては「学校が決めるものではない」としていた[ 73] 。結局、後藤校長は熊谷組から入社内定取り消しの連絡を受け、工藤の父に対し「名電OBとして、プロに入っても恥ずかしくないよう頑張るように」と答えたほか、この件で高校側から工藤にペナルティが課されることはなかった[ 74] 。ただし、工藤は(この件とは別に)父親の意向で学校の許可なく指定外の自動車教習所 に通っていたことが発覚し、校則 違反のペナルティとして、停学と丸坊主にさせられた[ 60] [ 75] 。
^ 最終的に入団拒否[ 85] 。翌1982年度のドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団[ 86] 。
^ ただし、広岡は自著 (2016) で「工藤を『坊や』と呼んではいたが、特別扱いしたわけではなく、自分のそばに置いて私生活も野球も厳しく鍛えていた」と述べている。
^ 19歳でのプレーオフ勝利投手は2021年現在まで史上最年少
^ キップ・グロス (日本ハム)の17勝、西口文也 (西武)の16勝に次ぐ[ 110] 。
^ ただ打者としては、2000年から2002年にかけて84打席連続無安打というセ・リーグ記録を残している(日本記録は嵯峨健四郎 の90打席)。
^ この年は本来140試合制であり、工藤はそれに1⅓回不足していたが、プロ野球ストライキ の影響で2試合が中止となり代替試合が行われないまま138試合でシーズンが終了したため、規定投球回に到達したことになる。また工藤にとってこの年が規定投球回に達した最後のシーズンとなった。
^ のちに最年長200勝を含めいずれも山本昌 が記録を更新している。
^ 2018年 に上原浩治 が43歳ヶ月で更新。
^ 実働10年未満では一軍公式戦初登板時すでに45歳9ヶ月であった浜崎真二 がいる(実働3年)。
^ プロ野球記録は1950年9月28日、阪急の浜崎真二 が対大映 戦で打った48歳9か月。
^ 2024年に小久保裕紀 (ソフトバンク)が記録を更新。
^ 工藤のほかにもプロゴルファーの片山晋呉 のコンディショニングを担当したほか、2000年のシドニー五輪 及び2004年のアテネ五輪 ではシンクロナイズドスイミング 日本代表のトレーナーとして帯同し、同代表の銀メダル獲得に貢献した実績を持つ[ 178] 。
^ 足を肩幅くらいに開いて立ち、一歩前に足を踏み出して膝を曲げ、腰を落とすトレーニング[ 179] 。
^ 足を軽く広げ、腰を少し上下させる運動[ 180] 。白木はイチロー がバッターボックスに入る前に行っていた動作はまさに腰割りであると述べている[ 179] 。
^ 厳しいことで知られていた広岡について「ウチのオヤジより優しそうな人です」と発言したり、栗橋茂 (近鉄)に頭部死球を与えた際に「野球人生、いろいろありますから…デッドボールだって、与えますよ」と発言したりしており、後者の発言に対し栗橋は「高校生新人のくせに生意気だ」と憤慨していた。また西武の厳しい練習については「これなら、中日に行っていたほうがましだった」と軽口を叩いていた。
^ 日本プロ野球名球会 所属の投手では、工藤に先立ち小山正明 が1958年から引退した1973年まで47を付けていた。小山は右腕投手である。また、現役最終年は横浜の前身に当たる大洋ホエールズに所属したため、工藤と同じチームで背番号47をつけた「先輩」でもある。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
業績 競技者表彰
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代
90 真田重蔵 , 張本勲
91 牧野茂 , 筒井修 , 島岡吉郎
92 廣岡達朗 , 坪内道則 , 吉田義男
93 稲尾和久 , 村山実
94 王貞治 , 与那嶺要
95 杉浦忠 , 石井藤吉郎
96 藤田元司 , 衣笠祥雄
97 大杉勝男
99 中西太 , 広瀬叔功 , 古葉竹識 , 近藤貞雄
2000年代 プレーヤー
エキスパート
特別表彰
1950年代 1960年代
60 飛田忠順 , 河野安通志 , 桜井彌一郎
62 市岡忠男
64 宮原清
65 井上登 , 宮武三郎 , 景浦將
66 守山恒太郎
67 腰本寿
68 鈴木惣太郎 , 田邊宗英 , 小林一三
69 三宅大輔 , 田部武雄 , 森岡二朗 , 島田善介 , 有馬頼寧
1970年代
70 田村駒治郎 , 直木松太郎 , 中馬庚
71 小西得郎 , 水野利八
72 中野武二 , 太田茂
73 内海弘蔵 , 天野貞祐 , 広瀬謙三
74 野田誠三
76 小泉信三
77 森茂雄 , 西村幸生
78 伊丹安広 , 吉原正喜 , 岡田源三郎
79 平沼亮三 , 谷口五郎
1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 新世紀
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 特別賞
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代
1980 木下富雄 , 山根和夫 , 平野光泰
1981 平田薫 , 江川卓 , 河埜和正
1982 大田卓司 , スティーブ , 中尾孝義
1983 田淵幸一 , テリー , 中畑清
1984 山本浩二 , 高橋慶彦 , 福本豊
1985 R.ゲイル , 真弓明信 , 長崎啓二
1986 清原和博 , 石毛宏典 , 津田恒実
1987 石毛宏典 , 秋山幸二 , 槙原寛己
1988 清原和博 , 森山良二 , 郭源治
1989 岡崎郁 , 香田勲男 , 阿波野秀幸
1990年代
1990 渡辺久信 , 辻発彦 , 伊東勤
1991 工藤公康 , 渡辺久信 , 野村謙二郎
1992 石毛宏典 , 秋山幸二 , 飯田哲也
1993 飯田哲也 , 高津臣吾 , 潮崎哲也
1994 桑田真澄 , H.コトー , 辻発彦
1995 T.ブロス , 池山隆寛 , 高津臣吾
1996 大島公一 , 鈴木平 , イチロー
1997 石井一久 , 稲葉篤紀 , 池山隆寛
1998 斎藤隆 , 石井琢朗 , 駒田徳広
1999 工藤公康 , 永井智浩 , 城島健司
2000年代
2000 仁志敏久 , 村田真一 , 高橋尚成
2001 岩村明憲 , 石井一久 , 真中満
2002 清原和博 , 上原浩治 , 斉藤宜之
2003 井口資仁 , 城島健司 , 桧山進次郎
2004 A.カブレラ , 和田一浩 , 谷繁元信
2005 渡辺俊介 , サブロー , 李承燁
2006 ダルビッシュ有 , F.セギノール , 森本稀哲
2007 山井大介 , 森野将彦 , 荒木雅博
2008 中島裕之 , 平尾博嗣 , 鈴木尚広
2009 亀井義行 , D.ゴンザレス , 小谷野栄一
2010年代
2010 内竜也 , 清田育宏 , 大島洋平
2011 杉内俊哉 , B.ファルケンボーグ , 和田一浩
2012 長野久義 , 阿部慎之助 , J.ボウカー
2013 田中将大 , 銀次 , 内海哲也
2014 柳田悠岐 , D.サファテ , 武田翔太
2015 明石健志 , R.バンデンハーク , 武田翔太
2016 A.バース , 西川遥輝 , 中田翔
2017 柳田悠岐 , 内川聖一 , 濵口遥大
2018 森唯斗 , 柳田悠岐 , 中村晃
2019 高橋礼 , A.デスパイネ , 松田宣浩
2020年代
2020 M.ムーア , 中村晃 , 柳田悠岐
2021 高橋奎二 , D.サンタナ , 杉本裕太郎
2022 吉田正尚 , 山﨑福也 , 塩見泰隆
2023 森下翔太 , S.ノイジー , 山本由伸
2024 筒香嘉智 , A.ジャクソン , A.ケイ
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1989年にタイトル制定
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
2002年から2012年は最優秀投手 として表彰。
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1973年から2012年までは表彰なし
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
投手 - 捕手
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
第1回(1984年)
第2回(1985年)
第3回(1986年)
第4回(1987年)
第5回(1988年)
第6回(1989年)
第7回(1990年)
※受賞者の役職は当時のもの。
歴代出演者
メインキャスター サブキャスター コメンテーター スポーツキャスター スポーツキャスター(メイン以外) お天気キャスター リポーター
テーマ曲の アーティスト・作曲家 派生番組 前身番組 関連番組 関連人物 関連項目
^ a b 2018年10月から月曜 - 木曜の出演に移行したが、現在は木曜・金曜。2021年10月から金曜。
^ 月曜 - 木曜に出演し、現在は月曜 - 水曜。2021年10月から金曜。
^ a b c d e f g 金曜のみの出演。小木は月曜 - 水曜(→月曜 - 木曜)を、森川は木曜・金曜を担当。
^ 月曜 - 木曜に出演し、現在は月曜 - 金曜。
^ a b 月曜 - 木曜に出演。
^ a b 『ニュースステーション』から同時間帯続投。
^ 『ミュージックステーション 』から異動。
^ a b 2013年9月まで金曜の『ミュージックステーション』を引き続き兼務。
^ 2015年3月までは『報道ステーション SUNDAY 』に出演。2018年10月からは平日版に出演。
^ a b c d 『報道ステーション SUNDAY』のみの出演。
^ a b c 『報道ステーション SUNDAY』ではメインキャスターを担当。
^ a b c d e 古舘、河野、小川の夏季休暇・不在時のキャスター代理。
^ a b 富川の夏季休暇・不在時のメインキャスター代理。
^ 『サンデーステーション』ではメインキャスターを担当。