外木場義郎
外木場 義郎
| 基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
鹿児島県出水市 |
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生年月日 |
(1945-06-01) 1945年6月1日(79歳) |
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身長 体重 |
175 cm 78 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1965年 |
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初出場 |
1965年4月21日 |
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最終出場 |
1979年10月14日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
|
コーチ歴 |
| |
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選出年 |
2013年 |
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得票率 |
76.3%(29票) |
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選出方法 |
競技者表彰(エキスパート部門) |
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|
外木場 義郎(そとこば よしろう、1945年6月1日 - )は、鹿児島県出水市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
現役時代は、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の広島カープ(1968年以降の球団名は「広島東洋カープ」)でエースとして活躍、1975年には球団史上初のリーグ優勝に貢献した。2リーグ制以降のプロ野球で、3回のノーヒットノーラン(うち完全試合1試合)を達成した唯一の投手である。
来歴
出水高校では1963年に夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、鹿児島高のエース・竹之下五十三(のち西鉄)と投げ合い0-1で惜敗、甲子園出場を逃した。卒業後は電電九州に進み、1964年の都市対抗に出場。1回戦でリリーフとして登板するが、北海道拓殖銀行に敗れた。[要出典]
村山実に憧れを抱き[1]、阪神タイガースのスカウトが来ていたら必ず入団していたとされるが阪神からの誘いはなかった[2][要出典]。そして広島カープ、大洋ホエールズ、近鉄バファローズ、東映フライヤーズの4球団からプロ入りの打診を受ける。結局、セ・リーグ希望であったことと、九州地方出身者が多かった理由で、1964年9月に広島へ入団。
入団当時、外木場は曲がり落ちるカーブに自信を持っていたが、直球もエースの大石清を除けば引けを取るとは思わなかった。一方で、社会人野球時代は制球力に自信を持っていたがプロ入り後は周りに負けたくないとの気負いが力みに繋がり、制球がままならなくなってしまったという。投手コーチの藤村隆男は体力を付けるためにランニングを重視し、投球練習が終わると、野手の打撃・守備練習が終わるまでひたすら走らされた。しかし、この時の走量がのちの自分を作ったと外木場自身が回想している。
1965年10月2日に膝を痛めた大羽進に代わり急遽登板[6]。そのプロ2度目の先発となった阪神戦で、外木場は憧れの村山と投げ合って僅か1四球を与えただけのノーヒットノーランでプロ初勝利を飾った[1]。新人選手のノーヒットノーランは過去3人目であったが、初勝利と同時の記録は史上初めてであった。この年は閉幕までにもう1勝を挙げるが、以後2年間は0勝、2勝と伸び悩んだ。
1967年オフにはトレードの噂も出るようになったため、外木場は新監督の根本陸夫に真意を問うたところ「来季も一軍でやってもらう」との返事があった。
1968年になると、それまでのランニングが実を結んで下半身が安定し、春のキャンプからオープン戦にかけて自分でも驚くほど制球力が向上して直球のスピードが増した。この年、外木場は根本監督から安仁屋宗八とともに先発の柱を任せられる[要出典]。シーズン2度目の先発となった4月14日の大洋戦で完封勝利を収めるとそのまま波に乗り、21勝、防御率1.94の好成績を挙げて最優秀防御率のタイトルを獲得する。23勝を挙げた安仁屋とともに、広島の史上初のAクラス入りに大きく貢献した。また、同年の9月14日の大洋戦では2回目のノーヒットノーランを完全試合で達成、この試合ではリーグタイ記録となる16奪三振も記録している[注釈 1]。
その後も先発投手の軸として活躍し、1976年までの9シーズンで8度の二桁勝利を記録する。
1972年4月29日の巨人戦では史上2人目となる3回目のノーヒットノーランを達成する[9]。プロ野球史上、3度のノーヒットノーランを達成したのは沢村栄治と外木場の二人のみであり、2リーグ制以降の投手としては唯一の達成者である[1]。
1974年は18勝、防御率2.82(リーグ7位)の好成績を挙げた。
1975年の春のキャンプを前に、外木場は新監督のジョー・ルーツに呼ばれ41試合の登板と最低でも20勝を求められる。ルーツからは、オープン戦に入るまで投げ込みは3,4日に一度、オープン戦に入ってからは公式戦と同じ中三日の登板パターンを作る、なるべく無駄な投球はせず肩を大事にする、などアメリカ式合理主義を叩き込まれた。ルーツは4月末に退任するが、外木場は投手陣の柱として20勝を挙げ、チーム初優勝に大きく貢献するとともに最多勝、最多奪三振、沢村賞のタイトルを獲得した。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは第1戦に先発。1回に3点を先制されるが、その後は9回途中まで好投し延長13回引き分けに持ち込んだ。外木場も第4戦でも先発として起用され、延長13回を投げきるがまたもや引き分けに終わった。
1976年のオープン戦で霧雨の中で投球を続けたところ、右肩の肩板を損傷した。その年は誤魔化しながらも、10勝を挙げる。
1979年にチーム初の日本一を機に現役を引退した。
引退後は広島に残り、1980年から1990年は同球団の二軍投手コーチを務めた。土井正三に請われ[13]、1991年から1993年までオリックス・ブルーウェーブの二軍投手コーチ、1994年から1995年までカープアカデミーのコーチ、1996年から1999年は再び広島の二軍投手コーチを務めた。
2000年から2005年までは中国放送解説者を務め、2006年からは広島市のプロ育成野球専門学院で後進の指導に当たっていた。外木場はこの際、アマチュア野球を統括する日本野球連盟の規定により引退から25年経った2004年に自由契約の手続きを取ったために話題となった。
2013年にエキスパート部門表彰で野球殿堂入りした[14]。
2015年より、NHKラジオ第一「おはよう中国」(中国地方ローカル月曜~金曜 7:40~7:58)のプロ野球情報(不定期)のコーナー担当(電話出演)を務める。
プレースタイル
外木場はオーバースローからの豪速球と縦に鋭く割れるカーブを武器とした[15]。外木場の投げるカーブは、堀内恒夫などに見られるタイミングを外すカーブとは異なり、メジャーリーグにおいて "power curve" と呼ばれる、曲がりの鋭さで打者を翻弄するものであった。
高橋慶彦によると、外木場のカーブの切れは凄まじく、高田繁(巨人)が面食らって尻もちをついたことがあるという[16]。
田淵幸一への頭部死球~耳あて付きヘルメットの義務化へ
1970年8月26日の対阪神戦(甲子園)で、外木場は当時2年目だった田淵幸一の左こめかみに死球を与え、田淵は耳から流血して救急車で病院に搬送された[17]。このシーズン、外木場は田淵に12打数6安打4本塁打とカモにされていて、田淵を苦手にしている外木場からすれば、「胸元の厳しいところを突かなければ抑えられない」というプレッシャーがあった[17]。この試合の最初の打席も、ヒジに死球を与えていた。なお、これ以降、外木場は田淵に対して内角高めを攻めきれなくなってしまったという。
この一件は球界に大きな衝撃を与え、これを機に耳あて付きのヘルメットが義務化となった[17]。しかし、この措置に衣笠祥雄は、「耳あて付きのヘルメットをかぶると視界が遮られ、逆に頭部付近のボールから逃げられなくなる」と主張。機構側も衣笠の主張を一部認め、プロで一定年数を満たした選手に限り、耳あて無しのヘルメットの着用が許可されたという[17]。王貞治も同様の理由で耳あて無しのヘルメットを着用していたとされる[17]。
人物・エピソード
外木場は気性の強い選手であり、ノーヒットノーランを初めて達成した時のインタビューで「こういう記録を達成した人は意外と短命」との記者からの声に「何ならもう一度やりましょうか」と答え[1][18]、後に二度も達成することになった。
外木場が完全試合を達成した日の試合は、後に広島で捕手として入団する達川光男が球場で観戦していた[19]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1965
|
広島
|
16 |
7 |
2 |
1 |
1 |
2 |
1 |
-- |
-- |
.667 |
190 |
51.1 |
30 |
1 |
12 |
1 |
0 |
34 |
0 |
0 |
9 |
8 |
1.41 |
0.82
|
1966
|
25 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
-- |
-- |
.000 |
133 |
32.1 |
26 |
5 |
11 |
0 |
1 |
23 |
1 |
0 |
14 |
13 |
3.66 |
1.14
|
1967
|
22 |
10 |
2 |
0 |
0 |
2 |
3 |
-- |
-- |
.400 |
301 |
78.1 |
50 |
5 |
17 |
1 |
4 |
57 |
2 |
0 |
26 |
23 |
2.65 |
0.86
|
1968
|
45 |
40 |
19 |
6 |
2 |
21 |
14 |
-- |
-- |
.600 |
1169 |
302.1 |
198 |
22 |
83 |
6 |
6 |
260 |
2 |
0 |
78 |
65 |
1.94 |
0.93
|
1969
|
43 |
39 |
15 |
1 |
1 |
11 |
20 |
-- |
-- |
.355 |
1216 |
304.1 |
226 |
24 |
84 |
4 |
9 |
223 |
2 |
2 |
101 |
91 |
2.69 |
1.02
|
1970
|
39 |
30 |
13 |
4 |
2 |
13 |
14 |
-- |
-- |
.481 |
893 |
228.1 |
169 |
28 |
49 |
6 |
11 |
157 |
3 |
0 |
74 |
67 |
2.64 |
0.95
|
1971
|
37 |
21 |
2 |
0 |
0 |
9 |
12 |
-- |
-- |
.429 |
665 |
155.1 |
145 |
20 |
47 |
5 |
10 |
113 |
1 |
0 |
80 |
67 |
3.89 |
1.24
|
1972
|
41 |
29 |
11 |
3 |
1 |
11 |
15 |
-- |
-- |
.423 |
936 |
230.2 |
200 |
23 |
60 |
2 |
7 |
158 |
1 |
0 |
93 |
86 |
3.35 |
1.13
|
1973
|
44 |
31 |
10 |
3 |
0 |
12 |
19 |
-- |
-- |
.387 |
998 |
249.0 |
199 |
23 |
74 |
4 |
5 |
160 |
0 |
1 |
81 |
73 |
2.64 |
1.10
|
1974
|
46 |
38 |
21 |
4 |
2 |
18 |
16 |
3 |
-- |
.529 |
1236 |
310.1 |
259 |
34 |
85 |
6 |
9 |
196 |
0 |
0 |
105 |
97 |
2.82 |
1.11
|
1975
|
41 |
40 |
17 |
3 |
2 |
20 |
13 |
0 |
-- |
.606 |
1174 |
287.0 |
240 |
29 |
89 |
7 |
9 |
193 |
3 |
0 |
105 |
94 |
2.95 |
1.15
|
1976
|
25 |
23 |
6 |
2 |
0 |
10 |
5 |
0 |
-- |
.667 |
607 |
144.1 |
136 |
19 |
52 |
1 |
2 |
86 |
3 |
0 |
71 |
63 |
3.94 |
1.30
|
1977
|
6 |
5 |
0 |
0 |
0 |
1 |
2 |
0 |
-- |
.333 |
99 |
21.1 |
26 |
2 |
10 |
0 |
1 |
4 |
1 |
0 |
14 |
13 |
5.57 |
1.69
|
1978
|
14 |
3 |
0 |
0 |
0 |
1 |
3 |
0 |
-- |
.250 |
110 |
23.1 |
22 |
4 |
18 |
1 |
2 |
14 |
1 |
0 |
17 |
15 |
5.87 |
1.71
|
1979
|
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
3 |
1.0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
0.00
|
通算:15年
|
445 |
318 |
118 |
27 |
11 |
131 |
138 |
3 |
-- |
.487 |
9730 |
2419.1 |
1926 |
239 |
691 |
44 |
76 |
1678 |
20 |
3 |
868 |
775 |
2.88 |
1.08
|
タイトル
- 最多勝利:1回 (1975年)
- 最優秀防御率:1回 (1968年)
- 最多奪三振:1回 (1975年) ※当時連盟表彰なし、セントラル・リーグでは、1991年より表彰
表彰
記録
- 初記録
- 初登板:1965年4月21日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:1965年9月5日、対読売ジャイアンツ21回戦(広島市民球場)、8回表に須藤豊から
- 初先発:1965年9月23日、対サンケイスワローズ26回戦(広島市民球場)、2回2/3を無失点
- 初勝利・初完投勝利・初完封勝利:1965年10月2日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場) ※ノーヒットノーラン(後述参照)
- 初セーブ:1974年6月12日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に2番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初本塁打:1968年7月10日、対読売ジャイアンツ13回戦(後楽園球場)、高橋明からソロ本塁打(通算2本塁打)
- 節目の記録
- 1000奪三振:1972年8月14日、対大洋ホエールズ19回戦(広島市民球場)、4回表にジョン・シピンから ※史上44人目
- 100勝:1975年4月5日、対ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、9回1失点完投勝利 ※史上63人目
- 1500奪三振:1975年8月8日、対阪神タイガース16回戦(西京極球場)、5回裏に遠井吾郎から ※史上21人目
- その他の記録
- ノーヒットノーラン:3回 ※史上33人目(3度の達成は史上2人目)
- 1965年10月2日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場) ※史上41度目
- 1968年9月14日、対大洋ホエールズ18回戦(広島市民球場) ※史上49度目(史上10人目の完全試合)
- 1972年4月29日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場) ※史上57度目
- オールスターゲーム出場:6回 (1968年 - 1970年、1972年、1974年、1975年)
背番号
- 14 (1965年 - 1979年)
- 73 (1980年 - 1993年)
- 80 (1996年 - 1999年)
関連情報
出演番組
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
業績 |
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競技者表彰 |
1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
---|
2000年代 | |
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プレーヤー |
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エキスパート |
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|
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特別表彰 |
1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
新世紀 |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
---|
1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1947年制定。記述のない年は該当者なし。 |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 |
- 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰
- 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正
- 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義
- 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清
- 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊
- 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二
- 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実
- 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己
- 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治
- 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸
|
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1990年代 |
- 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤
- 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎
- 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也
- 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也
- 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦
- 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾
- 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー
- 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛
- 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広
- 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司
|
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2000年代 |
- 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成
- 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満
- 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之
- 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎
- 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信
- 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁
- 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲
- 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博
- 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広
- 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一
|
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2010年代 |
- 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平
- 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩
- 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー
- 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也
- 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太
- 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太
- 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔
- 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大
- 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃
- 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩
|
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2020年代 |
- 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐
- 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎
- 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆
- 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸
- 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ
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1930年代 | |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1991年にタイトル制定 |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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