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杉浦 竜太郎(すぎうら りゅうたろう、1923年10月10日 - 1994年1月26日[1])は、茨城県水戸市[1]出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
水戸工業から山藤クラブ、社会人野球の熊谷組を経て、1951年に広島カープへ入団した[1]。小柄だがコーナーワークがよく、サイドスローから繰り出すカーブ、シュートを使ってのチェンジオブペースを武器に活躍した。
入団した51年に長谷川良平が中耳炎を患っていたこともあり、新人でありながら異例の開幕投手を任された。 杉浦は強力阪神打線をわずか7安打1点に抑えて完投勝利を挙げた[1]。喜びに浸るのも束の間、杉浦は翌日も先発する。その2試合後に救援で登板すると翌日は再び先発するなど、苦しい台所事情の中で大車輪の活躍を見せた[2]。
最終的に1年目はチーム99試合中34試合に登板。14完投、6勝14敗で防御率3.84の成績を挙げた。
2年目は初の完封勝利を被安打1で飾るなど、1年目を上回る好調さで、安定した投球を披露した。最終的には42試合に登板、7完投で投球回数は200回を越え、9勝12敗、防御率2.94の好成績を挙げた。11勝を挙げた長谷川と共に、チーム37勝の過半数をふたりで稼ぎ、チームの解散を防ぐ立役者の一人となった[3]。また、白石勝巳のビッグプレーが語り草となっている、8月12日に北海道夕張市で行われた巨人戦[4]では、3回から救援で登板し、9回途中までを投げ勝利投手となっている。
しかし、翌年は2勝7敗と振るわず、その次の年は未勝利に終わった。1955年には大洋ホエールズへ移籍し、登録名を「杉浦正幸」に改めた。しかしここでも2試合に登板しただけで未勝利に終わった。太平洋戦争の影響もあってプロ入りが27歳と遅く、年齢的にもピークを過ぎていたため、結局この年限りで引退した[1]。
引退後は故郷の茨城県に戻り、日立市の市議会議員などとして広く活躍した[1]。
サイドスローでコントロールの良い投手だったが、そのことが窺えるのが与死球の数である。1952年には208回を投げて4つ死球を与えたが、死球を与えたのはこの年のみで、それ以外のシーズンでは計340回余りを投げ、与死球は0となっている。
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