■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート
高木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - 2020年1月17日[1])は、岐阜県稲葉郡鏡島村(現:岐阜市)出身[2](愛知県名古屋市生まれ[3])のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。
現役時代は中日ドラゴンズで活躍し、その華麗かつ堅実な守備で「プロ野球史上最高の二塁手」と称されることも多い[2]。引退後はコーチ・監督を歴任し、初代・西沢道夫に続く2代目の「ミスタードラゴンズ」と呼ばれる。2007年1月 - 2012年11月25日まで中日ドラゴンズOB会会長を務めた。
2012年から2013年の登録名は髙木 守道(読み同じ)[4]。
岐阜市立鏡島小学校・岐阜市立精華中学校出身[5]。1951年8月19日、当時10歳であった高木は後に自身が選手としてプレーした中日スタヂアムの一塁側スタンドで兄と共に巨人戦を観戦していたが、その試合の3回裏に球場ネット裏上段から出火した。この火災は内野席・球場施設がほぼ全焼し死者4人・重軽傷者318人を出す大惨事(中日スタヂアム火災)となったが、高木は事なきを得た[6]。少年時代の高木にとって、プロ野球の試合を観客として観戦したのはこれが最初で最後となった。
中学で野球部に入部し、1957年には県内の名門として知られる県立岐阜商業高校に進学[2]。当初は遊撃手であったが、肩を痛め、二塁手に転向。高木の入学直後、野球部は打力向上のため東京六大学で活躍していた立大4年生の長嶋茂雄を特別コーチとして招聘したが、高木は長嶋から二塁手として高い評価を受け[2]、自身も長嶋を目標に野球人生を歩むこととなった[7]。「長嶋は高木の肩がそれほど強くないことを見抜き、高木を二塁手として起用することを勧めた」とする逸話もあるが、高木本人は「(二塁手として)褒めていたことは聞いたことはあるが、後でとってつけた話じゃないの?」と発言している[2]。1年夏で早くもレギュラーになり[2]、2年上のエース清沢忠彦を擁した1957年夏の第39回全国選手権大会に出場するが、準々決勝で大宮高に敗退。3年次の1959年春には第31回選抜大会に出場し、[2]決勝まで進んだが、中京商業の平沼一夫(中京大 - 西濃運輸 - 東京)に抑えられ2-3で惜敗、準優勝に終わる。この試合は雨天順延で日程がずれ、皇太子(現:上皇)の御成婚パレードと日程が重なり、テレビ中継されなかった。テレビ中継が始まってから現在まで春夏通じて、中継が中止された大会は後にも先にもこの大会のみである。同年夏は岐阜大会決勝で、後にプロで同僚となる高木一巳のいた大垣商に完封負け。
1960年に中日ドラゴンズへ入団[2]。卒業後は早稲田大学へ進学することが決まっていたが[8]、中日は球団と県岐阜商のOBである国枝利通を通じて高木を翻意させ、入団を実現させた[2]。春季キャンプでは杉下茂監督から「守備はすでに完成されている。打撃も勝負強い」と、天知俊一ヘッドコーチからも「高校生離れしたプレー。プロ顔負け」とそれぞれ高い評価を受けた[2]。
1962年までの背番号は41で[9]、同年5月7日の大洋戦(中日)を前にレギュラー選手に故障者が出たことから内野手の控え選手として一軍初昇格を果たし、同試合の7回に代走で初出場すると二盗(初盗塁)に成功した[8]。そのまま二塁手として守備に就き、8回には宮本和佳からプロ入り初打席初本塁打を打ったが、試合には敗れた[8]。シーズン中盤からは内野のユーティリティープレイヤーとして20試合に先発。
1961年は二塁手、三塁手として62試合に先発出場。1962年には南海から移籍してきた半田春夫から「メジャーリーグでは当たり前のプレー。セーフになるはずの走者をアウトにできれば試合の流れを変えられる」として「バックトス」[注 1]を教わり、首脳陣から「基本を無視する無謀なプレー」と批判されても翻意することなく、数年間にわたり猛練習を積み重ねたことで自身の代名詞的プレーとして確立した[10]。その後、公式戦で遊撃手寄りのゴロをバックトスで送球したことで併殺を完成させ、水原茂監督から「これぞプロ野球」と絶賛された[10]
1963年には、その後継として二塁手のレギュラーとなり[3]、同年から背番号も1に変更した[2]。規定打席(19位、打率.254)にも到達し、同年には50盗塁を記録し、最多盗塁のタイトルを獲得[3]。中利夫と1・2番を組み、前年に放出された森徹に代わり、江藤慎一と共に中日の新たなスター選手となった。以後も1965年、1973年と3度の盗塁王に輝く俊足に加え、打撃では1969年に24本塁打するなど通算236本塁打を記録しており、守備ではバックトスやグラブトスなどを度々披露した[3]。
1965年にはリーグ4位の打率.302、1966年にも6位の打率.306と、2年連続打率3割・10傑入りを記録。1968年5月28日の巨人戦(後楽園)で堀内恒夫から顔面に死球を受け[11]、一時は意識不明となる。その影響で首から左肩・背中にかけて痛みが残り、同年以降は長期にわたる打撃成績の低迷を余儀なくされた[11]。さらに死球禍から3年後の1971年9月2日にも巨人戦(中日)で再び堀内から頭部に死球を受け、その際には激昂して堀内にヘルメットを投げつけた。しかし、後日ロッカールームで堀内に対し「ヘルメットを投げたことは悪かった」と謝罪したほか、翌日に堀内が謝罪のために自宅を訪れた際にも「気にするな」と声を掛けている[11]。
1972年に新任の徳武定祐一軍打撃コーチから「バットをミートポイントへ最短距離でぶつける」打撃フォームへの改造を提言され、二人三脚でそれまでのアッパースイングから一転し、ダウンスイングの練習に取り組んだところ、1973年にはそれまで5年連続で2割5分台止まりであった打率を.273まで回復させ、28盗塁も記録したことで3度目の盗塁王を獲得した[12]。そしてプロ15年目の1974年には経験に裏打ちされたプレーでチームを牽引し、10月12日には巨人のV10を阻止する形で20年ぶり2度目のリーグ優勝に貢献した[13]。
初打席初本塁打を記録した選手で通算200本塁打、通算2000本安打を記録した選手は高木が初めてであり[注 2]、また通算で200本塁打・200犠打を併せて記録した選手も高木が初めてである[注 3]。
1974年、優勝決定翌日の10月13日に予定されていた後楽園の対巨人シーズン最終戦ダブルヘッダーは、長嶋の引退試合であったが、降雨で翌14日に順延してしまい、中日の優勝パレードと日程が重なった。そのため、大島康徳・藤波行雄などの若手や、引退直前であった広野功を含む準レギュラー級選手のみを出場させ、中日のレギュラー選手は同日の名古屋での優勝セレモニーのために欠場するよう球団に言い渡された。この通達に高木は「偉大なる選手になんて失礼なことを」と大いに憤慨し、球団にその通達の撤回と「それが無理ならばせめて自分だけでも出場させてほしい」と抗議した。しかしその願いは聞き入れられず、高木は優勝セレモニーで終始むすっとした表情をしていた。高木はのちに長嶋へ電話し、謝罪したという[14]。
ロッテとの日本シリーズでは、第1戦(中日)の9回裏に村田兆治から逆転サヨナラ二塁打を打つなど大活躍する[15]。2勝1敗で迎えた第4戦(後楽園)でも金田留広から初回先頭打者本塁打を打つが、その試合の3打席目(5回)で自打球を左足首に当て負傷(全治3週間の骨折してしまう[15]。高木は第6戦で復帰し、シリーズ通算22打数8安打1本塁打を記録して敢闘賞を獲得したが、チームはロッテに敗れ日本一を逃した[15]。
1975年にもリーグ4位の打率.298を記録し、1978年4月5日の広島戦(広島市民)では1回表に高橋里志から中前安打を打ち、日本プロ野球史上11人目、中日の生え抜き野手としては初となる通算2000本安打を達成した[注 4][3]。
1979年にも38歳ながら打率.300(14位)と気を吐くが、視力の衰えもあり、中が監督に退任した1980年限りで現役を引退[3]。二塁手としてベストナイン7回は史上最多である。同年シーズン終了後にナゴヤで行われたセ・リーグオールスター東西対抗では、同年限りで引退した1歳上で自身より1年早くプロ入りした王貞治と共に引退セレモニーが行われた。引退の際には「王さんが引退したら自分がプロ野球選手で最年長になる[16][注 5]。最年長の選手は相応のプレーを見せなければならないが、自分にはそのプレッシャーに耐えられる強さがなかった」と発言している。1981年のオープン戦で引退試合が行われた。
中日で一軍作戦守備コーチ(1981年 - 1983年)、二軍監督(1984年 - 1985年)、一軍守備コーチ(1986年)を務めた[3]。1986年には山内一弘監督の解任を受け[17]、7月6日からシーズン終了まで監督代行を務めた[3]。中以来となる生え抜き監督として期待されたが、「みんなで力を合わせて頑張る」との意気込みも虚しく就任時点の借金7を返済するには至らず、シーズン終了をもってユニフォームを脱ぐことになった[17]。谷沢健一・大島康徳・宇野勝ら主力の相次ぐ故障や不振、エース小松辰雄が7勝どまりに終わるなど苦しい采配を強いられたとはいえ、就任時よりも勝率が悪化した[17]。大島は「最初の方こそ4番で使ってもらったんですよ。少し打てなくなるとすぐ外されました。守道さんは自分は守備の上手い選手を使っていきたいと思ったのでしょう。不満はありましたよ。守道さん、あなたもウォーリー(与那嶺要)、近藤さんと一緒かい。結局チームの成績は好転せず高木さんも監督を続けないとなって。」[18]と述べている。新聞では本来トップニュースであるはずの「山内一弘監督解任」には軽く触れる程度で、紙面の1面から3面を割いたのは高木監督代行の就任を祝う内容であった。中日ファンの芸能人からの激励メッセージなど、その扱いは監督代行のそれでは到底なく、まるで元から予定していた高木監督の就任が前倒しになったかのような祝福ぶりであった[17]。
1987年からCBC野球解説者となるが、1991年オフに星野仙一の監督辞任を受け、後任として監督に就任する[3]。ヘッドコーチに徳武定祐を呼んだ[19]。
1992年はシーズン後半に上位チームに善戦するものの、主力選手の故障等も響いて60勝70敗の最下位となる。なお、この年のセントラル・リーグは全球団が60勝台であった。
1993年は優勝したヤクルトに前半大差をつけられるも、後半一時は逆転して首位に立ったが、最終的に2位となる。特に9月5日の対阪神タイガース21回戦ではトーマス・オマリーのソロ本塁打1点だけに抑えていた先発の山本昌広を7回で降板させたが(点数も7-1)、そこから後続のピッチャーが8回1点、9回に8点を取られ、大逆転負けを喫した。高木は試合後「私が悪かった」と選手に頭を下げ、シーズン終了後には「中日がペナントをとれなかったのは、この試合にある」とまでいわれた[20]。また、落合博満は後に自著でこの試合を振り返って「勝負事では驕りは禁物である。誤った采配を招くからである」と、中4日でこの試合でも102球投げていた山本を代えたのはまだしも、当時リリーフエースだった郭源治を出すタイミングを誤ったことに苦言を呈し、「何点勝っていても、手を緩めずに完璧に叩きのめしたことを、相手の記憶に植えつけなければいけない」と述べている[21]。なお、同年オフには2年前(1991年オフ)に不祥事を起こし、横浜大洋ホエールズ(→当時・横浜ベイスターズ)を解雇され、2年間資格停止処分を受けていた中山裕章を打撃投手として採用し、翌シーズン途中から選手として現役復帰させた。落合がFAで巨人へ移籍。
1994年は今中慎二、山本昌のダブルエースと立浪和義、大豊泰昭、アロンゾ・パウエルを中心とした打撃陣がかみ合い[22]、首位巨人に前半戦で大差をつけられるが、後半戦は巨人のもたつきもあり、猛追してとうとう同率首位に立ち、両チーム共この年の130試合目の最終戦で勝った方がリーグ優勝という日本プロ野球史上に残る10.8決戦を迎えたが、結果的に敗戦で終える[3]。シーズン終盤には星野の監督復帰の話が挙がり、高木は辞任の構えを見せたが、後半戦の躍進を評価され[3]、球団オーナーの加藤巳一郎や選手会長川又米利以下、選手たちから続投要請を受けたことから、翌1995年も引き続き指揮を執ることとなった。中日で4年連続で監督を務めたのは当時、与那嶺要、星野に次いで3人目だった[23]。
1995年は投手陣の崩壊・故障者の続出により、チームは低迷を続けていた。そのため、成績不振の責任を取り、シーズン途中で監督を辞任。監督としての最後の試合となった6月2日の対阪神戦では、友寄正人審判への暴行により退場処分を受けた。中山球団社長は「先ほど高木監督と話し合って、本日指揮を執るのを最後に休養してもらうことになりました」と発表し、あくまで球団主導の解任ではなく、本人からの申し出だと中山社長は説明[19]。同シーズンは、当初はヘッドコーチに徳武が監督代行を務めたが、その徳武もシーズン途中で解任され、その後はシーズン終了まで島野育夫が監督代々行を務めた。当時、三振が多かった山崎武司を起用し続け、山崎は高木の監督退任後の1996年には本塁打王になっている[24]。
1996年からは再びCBC野球解説者・中日新聞野球評論家として活動した[3]。
2003年オフには谷沢健一・野村克也・牛島和彦らと共に中日の次期監督候補として名前が挙がったが、この時は監督復帰は実現せず、落合博満が就任した。
2006年、野球殿堂入り[3]。また、この年の日本シリーズ第1戦で始球式を務めた。2007年からは中利夫に代わり、中日OB会の会長も務めた[3]。
2011年9月22日、翌年から落合の後任としてから監督に就任することが球団から発表された[3]。「まさに青天の霹靂で驚いています。落合さんという大監督の後ということもあり悩みはしましたが、やはり野球人間なのでしょう。この年齢になっても、もう1度チャンスを頂けましたので、全力で頑張る覚悟です」と球団広報を通じてコメントした[25]。第2次監督時代の登録名は髙木 守道[4]。
2012年は2位に終わり、クライマックスシリーズではファイナルステージで巨人に3連勝の後の3連敗で3勝4敗で敗退。
2013年は2001年以来12年ぶりのBクラスと1990年以来23年ぶりの4位に終わり、セ・リーグ5球団に全て負け越す結果となった[26]。9月25日に同年限りで退任する意向であることが中日新聞で報道され[27]、10月8日に退任の会見を行った[28]。
高齢もあり、評論活動はCBCテレビ・CBCラジオの野球中継での副音声ゲストなど、散発的なものとなっている。一方、少年野球教室で子供たちを熱心に指導していたほか[29]、亡くなる5日前の2020年1月12日にはCBCラジオ『板東サンデー』に出演し、同番組パーソナリティでOBの板東英二とともに現役時代の思い出話を披露していた[1]。
2020年1月17日、急性心不全のため、4時に名古屋市内で死去[1]。78歳没[1]。2月15日には名古屋市内のイベントに出席することも予定していた。
現役時代の優勝経験は巨人のV9時代も重なってか、1974年の1度だけだったが、巨人のV10を阻んだ優勝でもある。また、コーチ時代は1982年に1度経験している。通算で2度リーグ優勝を経験しているが、日本シリーズではいずれも2勝4敗で敗れており、日本一は1度もなかった。
主に打低投高だった時代に活躍し、通算236本塁打は二塁での先発出場率が90%を超えている選手中では歴代最多である。レンジファクター系指標による二塁守備は通算でプロ野球史上歴代最高値を出している[30]。規定打席到達15シーズン中一桁本塁打だった年は3回だけ、24本塁打した年もあり、長打力をも備えたリードオフマンとして打線を牽引し続けた。
野球誌やテレビ番組などでの「プロ野球歴代ベストナイン」等の企画では、プロ野球史上最高の二塁手として高木が選出されたことがある[31][32][33]。高木は二塁手として2179試合・11477守備機会・5327刺殺・5866補殺・284失策・1373併殺という通算守備記録を残している(すべて二塁手プロ野球歴代1位)。