柴田勲
柴田 勲 (しばた いさお、1944年2月8日[1] - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)・コーチ、解説者・評論家。現在は日本プロ野球名球会理事[2]、巨人OB会顧問。
高校時代は甲子園優勝投手として名を馳せ、読売ジャイアンツに入団後はリードオフマンとして巨人のV9に貢献した。通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。セ・リーグ最多記録となる盗塁王を6回獲得[3]。セ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している[4]。
経歴
プロ入りまで
小学生時代に当時米軍キャンプの子息らと対戦するために結成されたチームで野球を始め、横浜市立大鳥中学校時代では野球部で投手を務める[5]。当初はチームメイトと公立校へ進むつもりだったが、好投した試合の審判がOBであったことから声がかかって[5]法政二高へ進学後は甲子園に4回出場、甘いマスクもあって人気者であった。
1959年夏の選手権に甲子園初出場。1回戦で西条高に敗退するが、この試合で1年生ながらリリーフとして甲子園初登板を果たす[6]。1960年夏の甲子園県予選は決勝で慶應高の渡辺泰輔と投げ合い、延長11回の激闘の末に辛勝、夏の選手権への出場を決める。大会では順調に勝ち進み、決勝では石山建一のいた静岡高に3-0で完封勝利、初優勝を飾る[6]。
1961年春の選抜は、決勝で左腕エース松下利夫(明大-四国電力)を擁する高松商を4-0で降し、前年からの夏春連覇を達成する[7]。同年夏の選手権にも出場。準決勝で、これまで甲子園で2勝している因縁の浪商と対決、柴田と尾崎行雄との投手戦となり、延長11回の熱戦の末2-4で敗退した[6]。浪商はこの大会で優勝を飾っている。プロ入りした高校同期に三塁手の是久幸彦、中堅手の的場祐剛(大洋)がおり、後に法大監督をつとめる五明公男も右翼手として出場していた。また1年後輩には後に日本人初のメジャーリーガーとなる村上雅則がいた。投手としては直球と小さいカーブがレパートリーだった[8]。
現役時代
1961年10月19日に投手として読売ジャイアンツに入団。1年目の開幕から一軍に抜擢され、開幕第2戦に先発。しかし、肩の痛みを抱えていたこともあってか[9]、阪神タイガースの村山実と投げ合うが5回途中までに4点を失い降板、敗戦投手となる。5月3日にも広島カープを相手に先発するが、初回に1安打2四球を与え降板。3度目の先発となった8月5日の中日ドラゴンズとの対戦でも長谷川繁雄に本塁打を浴びるなど打ち込まれ、6失点を喫し3回に降板、敗戦投手となる。同年は0勝2敗に終わり「投手失格」の烙印を押された。このため強肩俊足を活かし外野手に転向するとともに、左打ちにも取り組み、日本初のスイッチヒッターとなる[10]。
1963年には5月末から中堅手、一番打者に定着、打率.258(18位)ながら高木守道に次ぐ43盗塁を記録する。
1965年は4月末に故障欠場、2ヶ月を棒に振るが無事に復活した。この年に巨人は日本シリーズを制覇し、ここから1973年までセ・リーグと日本シリーズの双方でNPB最長の9連覇(V9)を達成することになるが、柴田は長嶋と王に並んで、この全期間を通じて野手のレギュラーポジションを維持した3人の一人となった。
1966年には初の盗塁王を獲得。同年の南海ホークスとの日本シリーズでは、全6試合で23打数13安打7打点2本塁打と活躍、また連続打席出塁の記録も達成[11]。シリーズ最優秀選手賞(MVP)、打撃賞を獲得する。
1967年は打撃にも進化が見られ、打率.287(11位)、本塁打18本と好記録を残し、初のベストナインに選出された。
1968年には前年の五番打者であった高倉照幸が故障の影響もあって不振に陥り先発を外れる。このため首脳陣の意向で、打線のアキレス腱であった五番への定着を図るため、長打力のある「右打ち」に特化する。この年のオールスターゲーム第2戦では鈴木啓示から3点本塁打を放つなど、3安打1盗塁の活躍でMVPを獲得した。しかし同年は自己最多の26本の本塁打を放つが、確実性を欠いたフルスイングから三振が急増、三振も自己最多となってしまい、転じて出塁と盗塁機会も減ったことから盗塁王のタイトルも古葉竹識に奪われた。
1969年7月3日の対阪神戦では、当時、破竹の勢いを続けていた相手投手江夏豊への苦手意識を払拭する「刺激療法」として、川上監督は1試合のみ「3番・長嶋茂雄、4番・柴田、5番・王貞治」というクリーンナップで4番打者に抜擢し、見事に本塁打を放っている。
1970年には背番号「7」に変更[12]。
「右打席」専念は数年間の打撃低迷の一因となった[13]。
1971年にはスイッチヒッターに戻し打率.282(4位)を記録。
1972年は自己最高の打率.293(6位)を記録する。同1972年には45盗塁を記録して盗塁王を獲得[14]。
1976年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、第4戦の9回に山口高志から勝利を決める2点本塁打を放つ。日本一はならなかったが27打数11安打5打点2本塁打と気を吐き、シリーズ敢闘賞、打撃賞を受賞した。
1980年にはロイ・ホワイトの入団、松本匡史の台頭もあって出場機会が減少するが、8月7日のヤクルト戦(神宮)で酒井圭一から[15]巨人の生え抜き選手としては4人目の通算2000本安打を達成。翌8日から1番・中堅は松本で柴田はベンチを温めることが多くなり、10月20日の広島とのシーズン最終戦(広島)は久しぶりに高田と1、2番を組む[16]。引退試合ではなかったが、長嶋がV9戦士の2人に花を持たせた試合になった。柴田は一塁内野安打、四球、中飛、左翼線二塁打で迎えた9回の5打席目に右翼席へ勝利を決定付ける7号ソロ本塁打を放つ。
1980年限りで現役引退することを決意していたが、シーズン終了後に辞任した長嶋に代わって新監督に就任した藤田元司から慰留され[17]、1981年もコーチ兼任として現役を続行した[16]。巨人はその年リーグ優勝と日本一を達成した。日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第4戦から先発出場。同シリーズでは通算10打数4安打1打点を記録した。この年限りで現役を引退した。
名球会の会員で引退までシーズン3割未達なのは柴田と田中幸雄のみで、打撃の三冠タイトルを獲得していない数少ない選手でもある。
2000試合出場の記録を持ち、出場数そのものは長嶋茂雄よりも上である[18]。
引退後
引退後は巨人で二軍打撃兼外野守備コーチ(1982年)、一軍守備・走塁コーチ(1983年 - 1985年)を務めた。実際に引退してコーチに専念する際、年俸は3分の1に減った。当時の球団は外部から連れてくるコーチには契約金を出すが、元々球団にいた人間には1円も出さず、一度球団を離れて監督やコーチで戻ってくる場合は出していた。おかしいと思った柴田はこうした球団の慣例に一石を投じ、藤田が球団に交渉して貰えるようになった[16]。コーチ2年目で一軍に昇格した1983年からは体調の優れない牧野茂に代わり、三塁コーチスボックスに立って2年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、王貞治監督時の1984年と1985年はマスコミから「壊れた信号機」と酷評されることが多かった。巨人は1984年、1985年と連続で優勝を逃し、その責任を取る形で堀内恒夫一軍投手コーチと共に退団。
その後はフジテレビ(1986年 - 1995年)・ニッポン放送(1986年 - 1993年)[注 1]→ラジオ日本(1998年 - )[注 2]の野球解説者を務める。また、巨人OBという立場ながら阪神中心のデイリースポーツの評論家を2004年から2006年まで務めた(巨人OBのデイリースポーツ評論家は他にも関本四十四がいる)。1992年にポーカー賭博で松尾雄治などとともに逮捕されるが、釈放後の会見では、ポーカー賭博に対する謝罪会見であるにもかかわらずトランプ柄のセーターを着ていたため話題となった。その後、起訴猶予処分となる。2004年に死去した夫人は広川弘禅・元農林水産大臣の孫。
2008年12月7日、巨人OB会の新副会長に選出された(新会長は王貞治)。2009年12月には前任者である金田正一の退任に伴い、株式会社日本プロ野球名球会の代表取締役社長に就任した(株式会社としての法人は、2011年2月12日の株主総会で解散。2014年12月、巨人OB会の第9代会長に選出された。2019年12月7日、巨人OB会会長を退任し、顧問に就任。
プレースタイル
スイッチヒッター
NPBにおけるスイッチヒッターの草分け的存在であると言える。日本プロ野球での通算2000安打達成者の中では、2015年に松井稼頭央が達成するまでは唯一のスイッチヒッターであった[19]。また、奇しくもスイッチヒッターでは安打数一位だったのも松井に抜かれることとなった[20]。194本塁打を記録したパンチ力をもちながらも、左打席での長打力の弱さは度々指摘されており(打席数は左の方が多いにもかかわらず通算の本塁打数は左右で大差がなかった)、左右打席本塁打は1度も記録できなかった[注 3]。
1968年から、首脳陣から乞われたこともあり、一時的に右打者に専念した。これは、ONに続く5番打者が不在というチームの課題を克服するために、右打席で長打力のある柴田を右打ちに専念させて5番打者として起用したいという首脳陣の意向によるものだった。68年は期待に応え、26本塁打を記録したものの、69年、70年と成績が下降したため、監督の川上哲治に直訴して再びスイッチヒッターに戻った。
スイッチヒッターに最初に挑戦したのは中学時代、メジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースで、スイッチヒッターとして活躍していたミッキー・マントルを意識したものだったが、高校入学後、当時の監督だった田丸仁の「右投げのピッチャーが左打席で右肩にデッドボールを受けたら利き腕がダメになる」と助言を受け、プロ入りし、打者転向まで右打ちに専念していた。また、入団から1969年まで背番号「12」を背負っていた。パリーグには、自身と同じく投手から転向し俊足で鳴らした南海の広瀬叔功も「12」の背番号を背負っていたが、柴田は1970年以降引退までミッキー・マントルと同じ背番号「7」を背負うことになる。
盗塁
通算盗塁数579はセ・リーグ記録で、NPBの通算でも福本豊、広瀬叔功に次ぐ第3位である。一方で通算盗塁死193も福本と高橋慶彦に次ぐ第3位で、盗塁死の影響を考慮した赤星式盗塁に従うと柴田の順位はNPBで7位、セ・リーグ単独ではこの方式の考案者でもある赤星憲広に次ぐ2位となる。また、下記の通り赤い手袋をトレードマークに盗塁王を6回獲得した。1978年、「34歳で開幕を迎えたシーズンの盗塁王獲得」は現在もセ・リーグ最年長記録である[注 4]。自己最高は1967年の70盗塁。なお、盗塁は全てサインだったという[21]。
得点
上記の通り、1965年から1973年にかけて巨人が達成した9連覇、「V9」の中で柴田はレギュラー野手として出場を続け、特に1番打者や2番打者で出塁した後に3番の王や4番の長嶋の長打で生還する役割を果たしたため、得点数は継続して多くなった。通算1223得点は現在のNPB記録において第14位、巨人の球団記録では王と長嶋に続く第3位となっている。
人物
赤い手袋
柴田は現役時代、「赤い手袋」をはめてプレーしたことで有名だが、松井秀喜、落合博満など、一部を除き、現在では打者のバッティンググローブ着用は珍しくなくなったが、当時、素手でバットを握る選手が多い中、下記の事情もあって、結果としてバッティンググローブ着用者の先駆けとなる。
これを着用し始めたのは1967年からである[22]。巨人はこの年の春季キャンプとして、ドジャースのベロビーチキャンプに参加。柴田は走塁練習中に手を擦り、バッティング練習が出来なくなった。柴田は隣のゴルフ場に手袋を買いに行ったが、柴田の手に合うものが女性用の赤い手袋しかなかったので、やむを得ずそれを買った。その後ナイトゲームに赤い手袋をつけてプレーし、安打と盗塁を記録した。ナイトゲーム下での緑の芝との赤い手袋が映えているようでカッコイイとチームメイトに言われ、日本でも赤い手袋をしたままバッティングするようになった[23]。
そして、柴田に変わって巨人の中堅手のレギュラーを獲得した松本匡史は柴田にあやかって「青い手袋」を着用し、ここから付いた「青い稲妻」が松本の代名詞として定着した。
多摩川ブルース
甲子園での2連続優勝という実績を引っ提げて巨人に入団し、投手としてプロでやっていこうと張り切っていた柴田だったが、プロ初登板となった開幕第2戦では打ち込まれて途中降板し、またその後のピッチングも芳しくなく、柴田は早くも挫折感を味わうことになる。そしてついに投手失格の烙印を押され野手に転向し、二軍生活を味わうことになる。
柴田は「練鑑ブルース」の替え歌「多摩川ブルース」を作ったが、その詞が練習場の多摩川グラウンド[注 5]で巨人の二軍選手が味わう悲哀をよく表現していると評され、巨人の二軍選手の間で長らく語り継がれていった[24]。
DH制度に対する考え
セ・リーグへのDH制導入に賛同している一人でもある[1]。
交友
1963年の日本公開映画『白い熱球』では、高校生の柴田が甲子園で投げている映像が使われている[25]。同作に主演した千葉真一は、実際に超満員の甲子園で投球するシーンを撮影できなかったため、柴田のニュース映像を買い、千葉がマウンドで振りかぶって投げに入る瞬間、カメラが引き、その映像に切り替わっていると製作事情を述べている[25]。後年、千葉は柴田にこの経緯を話すと、柴田は知らなかったので驚いたが、間接的にとはいえ、千葉と共演できたことを喜んでいた[25]。
現役時代には歌手の伊東ゆかりとの交際が幾度となく噂されており、そのため柴田が打席に入ると、相手チームの応援団が柴田を揶揄する意味で、伊東の代表曲である「小指の想い出」を演奏するシーンが頻繁に見られた。野村克也もささやき戦術で柴田に向けて歌ったというが、柴田は「野村のささやきを発憤材料にし立ち向かっていった」と、野村死去後にデイリー新潮のコラムで述べている[26]。また、甲子園で優勝した後、デビュー間もない吉永小百合からファンレターをもらったことがあると言われていたが、真相は逆で柴田の方から吉永へファンレターを送ったと週刊ベースボールの取材で述べている[27]。
後に柴田が明らかにしたところによれば、本当に伊東と1970年頃に交際していた時期があり、一時は当時巨人のヘッドコーチだった牧野茂を仲人として結婚する話まで進んでいたという。しかし当時トップアイドルだった伊東が結婚により収入を減らすことを恐れた伊東の両親が結婚に猛反対したためこの話は流れ、結局交際は自然消滅してしまった[28]。
ちなみに二人は映画「ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗」で共演している。
詳細情報
年度別打撃成績
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S
|
1962
|
巨人
|
8 |
4 |
4 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
.250 |
.250 |
.250 |
.500
|
1963
|
126 |
466 |
415 |
72 |
107 |
9 |
3 |
7 |
143 |
27 |
43 |
14 |
1 |
2 |
44 |
0 |
4 |
71 |
2 |
.258 |
.333 |
.345 |
.678
|
1964
|
134 |
566 |
495 |
86 |
125 |
20 |
6 |
15 |
202 |
40 |
50 |
11 |
2 |
0 |
68 |
0 |
1 |
77 |
4 |
.253 |
.344 |
.408 |
.752
|
1965
|
92 |
356 |
309 |
47 |
74 |
8 |
0 |
8 |
106 |
26 |
26 |
6 |
6 |
4 |
37 |
0 |
0 |
48 |
2 |
.239 |
.317 |
.343 |
.661
|
1966
|
114 |
481 |
406 |
72 |
102 |
14 |
3 |
7 |
143 |
25 |
46 |
13 |
5 |
1 |
65 |
0 |
4 |
66 |
4 |
.251 |
.359 |
.352 |
.711
|
1967
|
126 |
541 |
470 |
88 |
135 |
15 |
2 |
18 |
208 |
50 |
70 |
13 |
1 |
3 |
64 |
0 |
3 |
70 |
3 |
.287 |
.374 |
.443 |
.817
|
1968
|
130 |
523 |
473 |
79 |
122 |
28 |
6 |
26 |
240 |
86 |
37 |
10 |
5 |
5 |
40 |
1 |
0 |
106 |
7 |
.258 |
.313 |
.507 |
.820
|
1969
|
111 |
394 |
349 |
44 |
80 |
15 |
1 |
9 |
124 |
32 |
35 |
10 |
4 |
0 |
36 |
3 |
5 |
67 |
7 |
.229 |
.310 |
.355 |
.666
|
1970
|
128 |
387 |
355 |
34 |
91 |
11 |
2 |
9 |
133 |
40 |
22 |
16 |
8 |
0 |
23 |
0 |
1 |
60 |
6 |
.256 |
.303 |
.375 |
.678
|
1971
|
119 |
490 |
436 |
55 |
123 |
23 |
3 |
3 |
161 |
32 |
35 |
20 |
4 |
2 |
46 |
0 |
2 |
43 |
8 |
.282 |
.352 |
.369 |
.721
|
1972
|
128 |
538 |
454 |
88 |
133 |
12 |
8 |
6 |
179 |
28 |
45 |
19 |
6 |
2 |
73 |
1 |
3 |
48 |
4 |
.293 |
.393 |
.394 |
.787
|
1973
|
125 |
552 |
495 |
81 |
137 |
17 |
6 |
6 |
184 |
34 |
24 |
11 |
2 |
3 |
51 |
1 |
1 |
68 |
2 |
.277 |
.344 |
.372 |
.715
|
1974
|
128 |
500 |
448 |
67 |
123 |
14 |
2 |
12 |
177 |
50 |
13 |
9 |
5 |
2 |
44 |
0 |
1 |
64 |
9 |
.275 |
.339 |
.395 |
.734
|
1975
|
126 |
517 |
450 |
73 |
118 |
13 |
4 |
10 |
169 |
45 |
24 |
10 |
0 |
2 |
59 |
1 |
6 |
48 |
3 |
.262 |
.354 |
.376 |
.730
|
1976
|
121 |
454 |
395 |
69 |
112 |
24 |
1 |
10 |
168 |
36 |
20 |
6 |
3 |
3 |
47 |
3 |
6 |
45 |
1 |
.284 |
.366 |
.425 |
.791
|
1977
|
127 |
565 |
506 |
94 |
145 |
24 |
7 |
18 |
237 |
52 |
34 |
5 |
2 |
3 |
51 |
0 |
3 |
50 |
5 |
.287 |
.353 |
.468 |
.822
|
1978
|
125 |
542 |
459 |
90 |
134 |
32 |
6 |
13 |
217 |
50 |
34 |
8 |
1 |
2 |
76 |
1 |
4 |
59 |
5 |
.292 |
.396 |
.473 |
.868
|
1979
|
114 |
449 |
395 |
53 |
95 |
18 |
1 |
9 |
142 |
33 |
10 |
9 |
4 |
0 |
47 |
3 |
3 |
59 |
3 |
.241 |
.326 |
.359 |
.685
|
1980
|
86 |
247 |
213 |
28 |
53 |
7 |
1 |
7 |
83 |
18 |
10 |
2 |
0 |
1 |
32 |
1 |
1 |
27 |
2 |
.249 |
.348 |
.390 |
.738
|
1981
|
40 |
47 |
43 |
3 |
8 |
1 |
0 |
1 |
12 |
4 |
1 |
1 |
0 |
1 |
3 |
0 |
0 |
8 |
1 |
.186 |
.234 |
.279 |
.513
|
通算:20年
|
2208 |
8619 |
7570 |
1223 |
2018 |
305 |
62 |
194 |
3029 |
708 |
579 |
193 |
59 |
36 |
906 |
15 |
48 |
1087 |
78 |
.267 |
.347 |
.400 |
.747
|
年度別投手成績
タイトル
- 盗塁王:6回 (1966年、1967年、1969年、1972年、1977年、1978年)※6回はセ・リーグ記録、5年のブランク受賞は同賞史上最長タイ(他に河野旭輝、高橋慶彦、石井琢朗)
表彰
記録
- 初記録
- 初出場・初登板・初先発登板:1962年4月8日、対阪神タイガース2回戦(後楽園球場)、4回2/3を4失点で敗戦投手
- 初打席:同上、2回裏に村山実の前に三振
- 初安打:1962年7月19日、対中日ドラゴンズ17回戦(後楽園球場)、2回裏に権藤博から単打
- 初盗塁:1963年4月17日、対広島カープ2回戦(広島市民球場)、9回表に坂崎一彦の代走として出場し二盗(投手:長谷川良平、捕手:川原政数)
- 野手として初先発出場:1963年5月11日、対国鉄スワローズ3回戦(後楽園球場)、1番・中堅手で先発出場
- 初本塁打:1963年5月25日、対広島カープ6回戦(広島市民球場)、4回表に長谷川良平から
- 節目の記録
- 1000試合出場:1971年5月23日、対大洋ホエールズ6回戦(川崎球場) ※史上150人目
- 2000安打:1980年8月7日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、4回表に酒井圭一から単打[29] ※史上13人目
- 500盗塁:1977年5月3日、対大洋ホエールズ4回戦(後楽園球場) ※史上3人目、セ・リーグ初
- 550盗塁:1978年8月13日、対横浜大洋ホエールズ21回戦(後楽園球場) ※史上3人目、セ・リーグ初
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:12回 (1963年 - 1968年、1970年、1971年、1973年、1974年、1977年、1978年)
背番号
- 12 (1962年 - 1969年)
- 7 (1970年 - 1981年)
- 77 (1982年 - 1985年)
関連情報
現在の出演番組
過去の出演番組
CM出演
脚注
注釈
出典
関連書籍
関連項目
外部リンク
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1952年は最高打撃賞、1953年から1963年は首位打者賞、1964年から1979年は打撃賞。1979年限りで廃止。 |
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1980年代 |
- 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰
- 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正
- 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義
- 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清
- 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊
- 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二
- 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実
- 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己
- 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治
- 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸
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1990年代 |
- 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤
- 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎
- 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也
- 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也
- 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦
- 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾
- 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー
- 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛
- 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広
- 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司
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2000年代 |
- 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成
- 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満
- 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之
- 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎
- 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信
- 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁
- 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲
- 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博
- 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広
- 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一
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2010年代 |
- 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平
- 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩
- 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー
- 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也
- 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太
- 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太
- 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔
- 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大
- 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃
- 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩
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2020年代 |
- 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐
- 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎
- 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆
- 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸
- 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ
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1950年代 |
- 1951 川上哲治, 野口明, 林義一
- 1952 飯島滋弥
- 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男
- 1954 中西太, 山内和弘
- 1955 山内和弘, 西沢道夫
- 1956 森下正夫, 吉田義男
- 1957 大下弘, 宮本敏雄
- 1958 宮本敏雄, 中西太
- 1959 山内和弘, 中利夫
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1960年代 |
- 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲
- 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎
- 1962 ブルーム, 張本勲
- 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅
- 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ
- 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一
- 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識
- 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男
- 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司
- 1969 土井正博, 船田和英
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1970年代 |
- 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎
- 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司
- 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩
- 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之
- 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲
- 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博
- 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司
- 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治
- 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之
- 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二
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1980年代 |
- 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊
- 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博
- 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之
- 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満
- 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓
- 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美
- 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章
- 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博
- 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三
- 1989 村田兆治, 彦野利勝
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1990年代 |
- 1990 R.ブライアント, 清原和博
- 1991 古田敦也, 広沢克己
- 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広
- 1993 清原和博, T.オマリー
- 1994 秋山幸二, G.ブラッグス
- 1995 落合博満, 松井秀喜
- 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲
- 1997 松井稼頭央, 清原和博
- 1998 川上憲伸, 松井秀喜
- 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志
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2000年代 |
- 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博
- 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋
- 2002 G.アリアス, 的山哲也
- 2003 高橋由伸, 金本知憲
- 2004 松坂大輔, SHINJO
- 2005 金城龍彦, 前田智徳
- 2006 青木宣親, 藤本敦士
- 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助
- 2008 山﨑武司, 荒木雅博
- 2009 青木宣親, 松中信彦
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2010年代 |
- 2010 阿部慎之助, 片岡易之
- 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀
- 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼
- 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一
- 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐
- 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼
- 2016 筒香嘉智, 大谷翔平
- 2017 内川聖一, A.デスパイネ
- 2018 森友哉, 源田壮亮
- 2019 森友哉, 近本光司
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1970年代 |
- 1972 柴田勲, 高田繁, 山本浩司
- 1973 柴田勲, 高田繁, 山本浩司
- 1974 柴田勲, 高田繁, 山本浩司
- 1975 高田繁, 山本浩二, ローン
- 1976 池辺巌, 柴田勲, 山本浩二
- 1977 柴田勲, 山本浩二, 若松勉
- 1978 J.ライトル, 山本浩二, 若松勉
- 1979 J.ライトル, J.スコット, 山本浩二
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1980年代 |
- 1980 J.ライトル, J.スコット, 山本浩二
- 1981 J.ライトル, 松本匡史, 山本浩二
- 1982 北村照文, 平野謙, 松本匡史
- 1983 北村照文, 長嶋清幸, 松本匡史
- 1984 長嶋清幸, 屋鋪要, 山崎隆造
- 1985 平野謙, 屋鋪要, 山崎隆造
- 1986 平野謙, 屋鋪要, 長嶋清幸
- 1987 長嶋清幸, 屋鋪要, 山崎隆造
- 1988 彦野利勝, 屋鋪要, 山崎隆造
- 1989 栗山英樹, 彦野利勝, 山崎賢一
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1990年代 |
- 1990 彦野利勝, 柳田浩一, 山崎賢一
- 1991 飯田哲也, 前田智徳, R.J.レイノルズ
- 1992 飯田哲也, 亀山努, 前田智徳
- 1993 飯田哲也, 新庄剛志, 前田智徳
- 1994 飯田哲也, 新庄剛志, 前田智徳
- 1995 飯田哲也, 緒方孝市, 音重鎮
- 1996 飯田哲也, 緒方孝市, 新庄剛志
- 1997 飯田哲也, 緒方孝市, 新庄剛志
- 1998 緒方孝市, 新庄剛志, 高橋由伸
- 1999 緒方孝市, 新庄剛志, 高橋由伸
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2000年代 |
- 2000 新庄剛志, 高橋由伸, 松井秀喜
- 2001 赤星憲広, 高橋由伸, 松井秀喜
- 2002 高橋由伸, 福留孝介, 松井秀喜
- 2003 赤星憲広, 高橋由伸, 福留孝介
- 2004 赤星憲広, アレックス, 英智
- 2005 赤星憲広, 金城龍彦, 福留孝介
- 2006 青木宣親, 赤星憲広, 福留孝介
- 2007 青木宣親, 高橋由伸, 金城龍彦
- 2008 青木宣親, 赤星憲広, 鈴木尚広
- 2009 青木宣親, 松本哲也, 亀井義行
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2010年代 |
- 2010 青木宣親, 廣瀬純, 赤松真人
- 2011 長野久義, 青木宣親, 大島洋平
- 2012 大島洋平, 長野久義, 荒波翔
- 2013 長野久義, 丸佳浩, 荒波翔
- 2014 丸佳浩, 大島洋平, 大和
- 2015 福留孝介, 丸佳浩, 大島洋平
- 2016 丸佳浩, 大島洋平, 鈴木誠也
- 2017 丸佳浩, 桑原将志, 鈴木誠也
- 2018 丸佳浩, 大島洋平, 平田良介
- 2019 丸佳浩, 鈴木誠也, 大島洋平
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2020年代 |
- 2020 鈴木誠也, 大島洋平, 青木宣親
- 2021 鈴木誠也, 近本光司, 大島洋平
- 2022 塩見泰隆, 岡林勇希, 近本光司
- 2023 近本光司, 岡林勇希, 桑原将志
- 2024 秋山翔吾, 岡林勇希, 近本光司
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1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞 |
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