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金光 秀憲(かねみつ ひでのり、1935年6月2日 - )は、兵庫県[1]出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。
浪華商業から清水谷高校を経て、1955年に関西学院大学へ進学し、関西六大学リーグでは1年次の同年秋季に優勝を経験。リーグ通算73試合に出場し、263打数88安打、打率.335、2本塁打の成績を残した。
卒業後の1959年に大洋ホエールズへ入団し、1年目の同年から一軍に定着[1]。2年目の1960年にはエースの秋山登を開幕戦の事故で欠いて6連敗したが、その連敗を止めたのが金光であった。シーズン当初は主に代打での起用だったが終盤には故障の黒木基康に代わり、3番・右翼手として球団史上初のリーグ優勝に貢献[1]。大毎との日本シリーズでは全4戦に5番打者として先発出場し、10月11日の第1戦(川崎)で7回に中西勝己から決勝本塁打、同14日の第3戦(後楽園)で2本の適時打を放つなど活躍。シリーズ通算15打数6安打4打点で首位打者となる[1]が、初戦の本塁打は0対0の7回に三原脩監督から「初球ストレートが来る」と言われ、中西のカーブを打った。結果的に三原の予想は外れた訳だが、なぜか金光本人は打ったのがストレートと思いこんでおり、「三原さんはなぜストレートと解ったのか、恐ろしいくらい」とコメント。打ったのがカーブと聞かされると非常に驚いた。3年目の1961年には5番・左翼手の定位置を獲得し、4月11日の中日戦(川崎)では板東英二からサヨナラ本塁打を放っているが、1962年には長田幸雄が台頭して出場機会が減る。その後も長く外野の控えや代打の切り札として活躍し、1969年に現役を引退。
引退後は大洋で一軍コーチ補佐(1970年)、二軍打撃コーチ(1971年・19732年 - 1974年)、一軍打撃コーチ(1972年)を務めた[1]。退団後は横浜のスイミングクラブ支配人などを経て、静岡県田方郡函南町で温泉管理業を営み[1]、現在は母校・関学大野球部OB会の会長を務める。