大橋穣

大橋 穣
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都新宿区
生年月日 (1946-05-29) 1946年5月29日(78歳)
身長
体重
176 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1968年 ドラフト1位
初出場 1969年4月12日
最終出場 1982年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

大橋 穣(おおはし ゆたか、1946年5月29日 - )は、東京都新宿区出身(富山県氷見市生まれ[1])の元プロ野球選手遊撃手)・コーチ監督

愛称は「ペロ」(現役時代、打つ時、捕球の時、舌を出す癖があることから[2])。台湾における表記は大橋 穰正体字)。

パ・リーグ初の遊撃手部門のダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞している[3]

経歴

プロ入りまで

中学時代に野球を始めると同時に遊撃手となり、以後ずっと遊撃でプレーする[1]日大三高では1年次の1962年、控え内野手として夏の甲子園に出場するが、準々決勝で村上公康のいた西条高に敗れる[4]。2年次の1963年には同期のエース若宮秀雄を擁し秋季東京大会に優勝し、3年次の1964年に行われる春の選抜出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で浪商に敗退している[5]。高校同期に外野手小松時男、1年下に捕手石塚雅二、控え投手の佐藤道郎がいた。

高校卒業後は早大を希望していたが[6]1965年亜細亜大学へ進学し、東都大学野球リーグでは、東山親雄内田俊雄らと共に中心打者として活躍。同期のエース森永悦弘を擁し、2年次の1966年秋季リーグで初優勝に貢献、最高殊勲選手となる。3年次の1967年秋季リーグでは、同じく同期の西尾敏征(電電中国)の好投もあって2回目の優勝を飾り、同年の第7回アジア野球選手権大会日本代表に選出されている。リーグ通算83試合出場、274打数69安打、打率.252、20本塁打、47打点。ベストナイン4回。通算20本塁打は当時の東都大学野球リーグ新記録[1]だったが、1996年、青学大井口資仁に更新(24本)された。のち日大村田修一が20本を放ち大橋と並び2位タイとなる。

現役時代

1968年のドラフト1位で東映フライヤーズに入団[1]。この年のドラフトは後にプロで活躍する選手が多い大豊作であったが、いの一番での指名であった[6]熊谷組へ内定しており、在京セ・リーグを希望していたために当初は入団を躊躇していた[6]日本人離れした強と守備力が認められ、1年目の1969年から遊撃手のレギュラーとして起用され、前年までの正遊撃手であった大下剛史二塁手コンバートされた。大下との二遊間コンビの完成度は高く、大下がゴロを逆シングルで捕り、そのまま大橋にグラブトス、そして大橋が一塁に送球しアウトにする「スイッチトス」と呼ばれるプレーを日本で初めて見せたのは、東映時代の大下 - 大橋だと言われている[7]。期待されていた打撃は低調で、本塁打こそ毎年7~8本を放ったものの、2割前後の低打率に喘いだ。

1971年オフに、守備力強化を目指す阪急ブレーブス西本幸雄監督の求めにより、種茂雅之と共に阪本敏三岡村浩二との同一リーグ内で正遊撃手・捕手同士を交換するという珍しいトレードで阪急へ移籍。

1972年には初めて規定打席に到達し(30位、打率.216)、以後3年間は2桁本塁打を記録して長距離打者としての片鱗を見せたが、相変わらず打率の低迷に悩んだ。一方の守備面では二塁手・ボビー・マルカーノとの鉄壁の守備で、阪急黄金時代の不動の遊撃手として活躍。

1974年に就任した上田利治監督からは「勝っている場合」と条件付きながら、絶対に(遊撃手からは)代えないと絶対的な信頼を得ていた。1972年から5年連続ベストナイン、7年連続ダイヤモンドグラブ賞に輝く。

1975年からの4年連続リーグ優勝と3年連続日本一に貢献。ダイヤモンドグラブ賞の遊撃手での7年連続受賞はパ・リーグでは大橋のみで、セ・リーグでも山下大輔(8年連続)しか達成していない[8]。受賞期間のうち規定打席に到達したのは1972年の一度にもかかわらず選出され続けたことからも、その守備力への評価の高さが窺え、野村克也からは「お前がいなかったら、俺は3000本(安打)(通算安打2901本)打っていた」と言われたという[2]。また、ロッテで三冠王を二度獲得した落合博満からも、落合自身のYoutubeチャンネル内にて「超一流」と絶賛されている[9]

1978年ヤクルトとの日本シリーズまで全試合に先発出場し、広島との1975年の日本シリーズでは、10月28日の第3戦(広島市民)の9回表に宮本幸信から試合を決める勝ち越し本塁打を放ち、19打数7安打4打点を記録して打撃賞を獲得。

1981年の春季キャンプ中、ユニフォームの下に着ていた汗取り用のウィンドブレーカーとアンダーシャツが汗で引っ付いた状態で外野からのカット後、捕手に送球した際、右肩骨折してしまう。結果、新人の弓岡敬二郎にポジションを奪われた。

1982年オフに上田からコーチ就任を打診されて現役を引退[1]

引退後

引退後は阪急→オリックスで二軍内野守備・走塁コーチ(1983年 - 1985年)→一軍守備・走塁コーチ(1986年 - 1990年)を歴任し、引退から数年後に、コーチ兼任でもいいから現役復帰してくれないかと上田から打診されたが、その時には「もうできません」と固辞している[2]。上田の退任によりオリックスを退団すると、同学年の星野仙一監督に請われて中日に移り、一軍内野守備・走塁コーチ(1991年)→一軍守備・走塁コーチ(1992年)を務めた。ヤクルトスワローズの球団代表の日大三高時代の監督・田口周が招聘、一軍守備・走塁コーチ(1993年 - 1994年, 1999年 - 2000年)、二軍総合コーチ(1995年)→二軍総合兼守備・走塁コーチ(1996年 - 1997年)→二軍作戦守備コーチ(1998年)を歴任した。

阪急、オリックスコーチ時代に指導したブーマー・ウェルズは「守備については大橋さんに教わったんだよ。あの人に教えてもらったら、誰でも守備がどんどんうまくなっていくんだよ。」[10]と述べている。ヤクルトでは一軍コーチ1期目に上田阪急の御家芸であった走塁戦術「ギャンブルスタート」を伝授した。上田は1970年代後半に、無死または一死の場面で三塁走者に対し、打球がゴロと判ってから走る一般的な「ゴロ・ゴー」だけではなく、バットがボールに当たると同時に走り出す「当たり・ゴー」、さらにはバットに当たる前から走らせる(投球の高さがストライクゾーンにきたら三塁走者がスタートを切る)「ヒット・エンド・ラン」の三種のサインを状況に応じて使い分ける戦術を考案して貴重な一点をもぎ取っていた。上記のような局面での「当たり・ゴー」と「ヒット・エンド・ラン」は、打者がライナーを打ってしまった場合等には逆に併殺打になるため、非常にリスクの高い作戦であった[11][12][13][14]大熊忠義は「監督も一、三塁でよくエンドランのサインを出した。満塁の場面でもあったから、さすがにこっちはサイン間違いかなと思ったくらいです。1点を取る上田さんの野球です」と語っている[15]。ヤクルトは、大橋がコーチに就任する直前の西武との1992年の日本シリーズ第7戦、7回裏一死満塁、1-1の同点の場面で、代打杉浦享のセカンドゴロの間に三塁走者の広沢克己が本塁で封殺されてこの回を無得点に終わると、延長10回表にエースの岡林洋一が力尽きて犠飛により1点を失い、1-2で敗れて日本一を逃した。ヤクルトの敗因としてこの広沢の走塁死がクローズアップされたため、野村克也監督は大橋から「ウエ(上田)がやっていたあれは、どういうケースで(打者、走者が)どういう条件でやるんだ?」と聞き出し[2]、キャンプでは大橋の指導の下、その走塁戦術を練習させた。同じ顔合わせとなった1993年の日本シリーズ第7戦、8回表一死三塁、3-2とヤクルト1点リードの場面で、三塁走者の古田敦也は三塁ベースコーチの大橋に「行きますから」と小声で伝えると、ベンチの指示を待たず独断で「当たり・ゴー」での本塁突入を敢行し、広沢のショートゴロの間に生還して追加点を挙げ、ヤクルトは4-2でこの試合に勝利して15年ぶりの日本一を達成した。

その後再び星野に請われて中日に復帰し、二軍ヘッドコーチ(2001年)→二軍監督(2002年 - 2003年)を歴任。その後は台湾CPBL統一監督(2005年 - 2007年)→韓国KBOSK二軍守備コーチ(2008年)を歴任[1]し、2009年2010年にはキャンプから5月までSK臨時コーチを務め、2015年にはハンファ・イーグルス春季キャンプ内野守備臨時インストラクターを務めた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1969 東映 122 390 351 33 76 9 1 8 111 31 7 1 6 2 24 0 7 97 8 .217 .279 .316 .595
1970 112 321 279 26 51 5 1 7 79 20 6 8 11 1 22 1 8 93 3 .183 .261 .283 .544
1971 112 371 324 39 69 8 1 7 100 12 9 2 9 1 32 0 5 82 5 .213 .293 .309 .601
1972 阪急 112 405 352 40 76 10 2 15 135 42 6 5 9 2 37 1 5 77 8 .216 .298 .384 .682
1973 117 393 350 45 75 17 1 17 145 47 6 3 9 1 30 1 3 78 11 .214 .281 .414 .696
1974 110 341 301 43 63 9 2 10 106 28 3 3 8 2 23 0 7 74 5 .209 .279 .352 .631
1975 121 389 345 43 79 5 0 7 105 24 8 9 10 1 30 0 3 71 9 .229 .296 .304 .600
1976 116 306 267 30 51 7 0 2 64 15 6 6 17 1 17 0 4 61 7 .191 .249 .240 .489
1977 119 339 289 29 62 4 0 4 78 22 3 7 23 1 26 0 0 60 5 .215 .278 .270 .548
1978 106 254 220 31 48 10 0 6 76 23 12 3 15 1 14 2 4 44 2 .218 .276 .345 .622
1979 88 235 207 27 43 8 0 4 63 22 14 1 6 3 16 0 3 44 6 .208 .271 .304 .575
1980 85 213 187 30 41 9 0 9 77 22 6 1 6 2 16 0 2 46 5 .219 .285 .412 .697
1981 10 9 9 1 2 0 0 0 2 2 1 0 0 0 0 0 0 4 0 .222 .222 .222 .444
1982 42 38 31 4 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 6 0 1 8 0 .097 .263 .097 .360
通算:14年 1372 4004 3512 421 739 101 8 96 1144 311 87 49 129 18 293 5 52 839 74 .210 .280 .326 .605
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1977年8月5日、対近鉄バファローズ後期4回戦(阪急西宮球場)、9番・遊撃手として先発出場 ※史上193人目(福本豊と同日達成)
その他の記録

背番号

  • 3 (1969年 - 1971年)
  • 6 (1972年 - 1982年)
  • 66 (1983年 - 1990年)
  • 79 (1991年、1993年 - 2003年)
  • 78 (2005年 - 2007年)
  • 85 (1992年)

脚注

  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、111ページ
  2. ^ a b c d 上田利治さんをしのぶ、“上田野球の申し子” 大橋穣さんが思い出語った”. スポーツ報知 (2017年12月26日). 2023年9月27日閲覧。
  3. ^ a b 三井ゴールデングラブ賞 歴代受賞選手”. 2021年2月17日閲覧。
  4. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  5. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  6. ^ a b c プロ野球「ドラフト読本」2001 ベースボールマガジン社
  7. ^ 『週刊プロ野球データファイル』2011年25号、ベースボール・マガジン社、P25-P26
  8. ^ ファンを一目ぼれさせた昭和の名手たち”. スポーツナビ (2014年7月12日). 2023年9月27日閲覧。
  9. ^ 落合博満氏 守備がうまいと思った選手一人だけ即答「超一流だったよ」球場“改造”の逸話も”. スポニチ Sponichi Annex (2022年5月18日). 2023年9月27日閲覧。
  10. ^ ベースボールマガジン 2023年10月号(山田久志と阪急ブレーブス)SPECIAL TALK 山田久志×福本豊×ブーマー「80'sブレーブス同窓会」ベースボールマガジン社、2023年、15頁
  11. ^ 福本豊『走らんかい!』98頁
  12. ^ 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』131頁
  13. ^ 浜田昭八『監督たちの戦い 決定版 下』227頁
  14. ^ スターでなくとも名将になれる/上田氏編5”. 日刊スポーツ (2021年3月6日). 2023年9月27日閲覧。
  15. ^ 西本監督に通ずる「頑固もん」野球/上田氏編9”. 日刊スポーツ (2021年3月12日). 2023年9月27日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク