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新宅 洋志(しんたく ひろし、1943年12月9日[1] - )は、島根県出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・コーチ。
浜田高では1961年の夏の甲子園島根県予選準決勝に進出するが、大社高の若月宏之投手(立大-全大丸)に抑えられ敗退。甲子園には出場できなかった。高校卒業後、同期の竹野吉郎外野手とともに駒澤大学へ進学。東都大学野球リーグでは1962年から春季リーグ3回連続優勝。1964年には左腕エース盛田昌彦(北海道拓殖銀行)を擁し、全日本大学野球選手権大会決勝で早大を降し優勝した。同年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に捕手、五番打者として出場している。リーグ通算85試合出場、301打数70安打、打率.233、3本塁打、38打点。最高殊勲選手1回(1964年春季)、ベストナイン4回受賞[2]。
1966年に中日ドラゴンズへ入団[2]。捕手としてのポテンシャルは優れていたが、打力で勝る木俣達彦が正捕手に君臨していたため、出場機会は少なかった。しかし、木俣が故障した1967年には88試合に出場し、オールスターゲームにも選出されている[2]。その後も貴重な二番手捕手、右の代打として活躍した。1978年限りで現役引退[2]。
引退後は東海テレビ・東海ラジオ野球解説者、球団スカウトなどを歴任し、1984年 - 1989年、1992年 - 1993年には中日の一軍バッテリーコーチ、1994年は二軍バッテリーコーチを務めた[2]。その後は全国担当のスカウト、少年野球担当も務め、NPB12球団ジュニアトーナメントでは中日ジュニアチームの監督を務めており[3]、2008年大会では優勝を果たした[4]。2011年末に中日球団を退団。
1975年9月10日、首位を走り初優勝に邁進する広島東洋カープと2位の中日ドラゴンズが広島市民球場で対戦。9回裏二死、1点を追う広島が山本浩二の中前打で二塁走者の三村敏之が本塁に突入[5]。完全にアウトのタイミングだったが新宅のタッチが三村の顎にまともに入り三村が激怒した[6]。タッチアウトとなり4対5で中日が逃げ切ったが[5]、両軍選手及び広島ファンもグラウンドに入り乱れての大乱闘となり機動隊が出動する騒ぎに発展、翌日の試合は中止という異常事態となった[5]。
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