この項目では、株式会社大丸松坂屋百貨店 が運営する百貨店について説明しています。その他の用法については「大丸 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
井門グループ が運営していた「株式会社大丸百貨店」とは異なります。
大丸 (だいまる、DAIMARU )は、J.フロント リテイリング グループの大丸松坂屋百貨店 が運営する日本の百貨店 である。
また、株式会社大丸 (英 : The Daimaru, Inc. )は、2010年2月28日までこれを運営していた企業である。
概要
歌川広重『名所江戸百景 』より「大伝馬町呉服店」。店の前を棟梁送り が行く。
京都 発祥の老舗 百貨店で呉服店 を起源とする。大阪 (心斎橋 ・梅田 )・京都 ・神戸 ・東京 ・札幌 に主力店舗を構えており、心斎橋店が本店にあたる。売上高1000億円を超える店舗は存在しないが、主力店舗はどれも比較的高い売上を誇り、この6店舗だけで単体の91%の売り上げを占めている。特に本店の心斎橋店と、神戸店は高級百貨店として関西 において高いブランド力を誇る。大手百貨店では唯一、京阪神 を網羅している。
1717年 (享保 2年)に下村彦右衛門正啓が現在の京都市 伏見区 京町北8丁目77に呉服店 「大文字屋」を開業し、呉服商を出発点として両替商 を兼営していた。1726年 に大坂 心斎橋筋 に進出。1728年 に名古屋本町に名古屋 店を開き「大丸屋」と称した(のち閉鎖)。幕末 には髙島屋 に対抗して幕府 側についた。
1908年 11月、個人商店「大丸呉服店」を株式合資会社 に転換。その際に下村家当主であった第11代下村正太郎 が早稲田大学 商科出身だった縁から、銀行家杉山義雄 を専務理事として迎え入れ改革に乗り出した。杉山は専務理事就任時に資本金50万円のうち3万円を出資し、従業員や別家が20万円を出資していた[ 注釈 1] が、約40軒の別家は旧態依然としていたところに杉山が急激な改革を実施。これが古手の店員や別家の反感を買い、さらに不況と重なったことから杉山は退任に追い込まれる。
その後、1910年 に東京信託会社の岩崎一 が改革案を作成し、ついで大隈重信 の斡旋により、日本生命 社長の片岡直温 が改革に乗り出す。同年秋には東京・名古屋の両店を閉店する一方で、京都・大阪・神戸店を拡張して再建に乗り出した。下村家も秘蔵の書画 骨董 を売却して約30万円を調達して資力を増強、1911年 1月22日に別宅会を解散して積立金を割り戻す決定をした。1914年 には大阪店が不渡り 手形 を出して京阪2店が休業するなど、呉服店から百貨店への転換過程では問題が続発したが、幾度もの困難を乗り越え、1928年 に大丸 と改称して近代化 に成功した。
高度成長期 は三越 (現:三越伊勢丹ホールディングス 、同社傘下の三越伊勢丹 ほか)と並び「西 の横綱 」と呼ばれた。しかし、梅田店 出店に関する三菱銀行 からの借入金など1000億円もの有利子負債を抱え、経営が一時悪化した。1990年ごろには梅田店や東京店の黒字転換が実現し、神戸店の周辺開発を進めたものの、バブル崩壊 後に再度業績は低迷。奥田務 が社長就任後、他の百貨店よりも一足早く1998年 より事業構造改革に乗り出し、国内不採算店舗の閉鎖や海外店舗の全面撤退、人員削減に取り組んだ。一方で2003年 には札幌店 を開店し軌道に乗せている。結果として改革は成功し、収益力を業界首位級に押し上げた。
なお店名の呼称については、通常「〜てん」と案内されるが、近畿圏の各店舗に関しては以前から「〜みせ」と案内されるのが通例である[ 1] 。直営店では、札幌店・東京店は「〜てん」、心斎橋店・京都店・神戸店・梅田店が「〜みせ」と呼ばれている。近畿圏でも同業他店舗は公式には「〜てん」を使っているところがほとんどで、「〜みせ」の呼称は珍しい。ただし阪急百貨店 は本店 ・メンズ館・食品館を除いてすべて「〜阪急」の呼び方に統一しているほか、髙島屋 では一部社員が非公式ながら「〜みせ」を使っている[ 1] 。
名物は、餡 入りカステラ饅頭 に「大」の焼印 が押された「大丸饅頭」であった。元々は神戸店で販売していたが、1995年 の阪神・淡路大震災 で製造機械が壊れて販売中止となった。その後、震災後10年を記念して2005年 に1週間だけ再現された。大丸梅田店[ 注釈 2] のほか、博多大丸 福岡天神店でも販売していたが、2022年 に梅田店でも販売を終えた。
2007年 9月3日、東海地方 を拠点とする松坂屋 との経営統合を発表。共同持株会社「J.フロント リテイリング 株式会社」(JFR)を設立した。2010年 3月1日に松坂屋を存続会社とする合併を行い「株式会社大丸松坂屋百貨店 」が発足した。これに伴い法人としての株式会社大丸は解散している。
沿革
『浪花百景 』より「松屋呉服店」。大阪店の屋号が「松屋」なのは、つぶれかけていた名跡を譲り受けての開店だったため。
大丸心斎橋店南館(2021年撮影)
神戸市 灘区 内にあった神戸配送センターの、1階部分が完全に押し潰された。この崩壊で配送積み込みのために駐車中のトラックの後部を、一階部分の張り出した屋根のひさし部分が直撃して跳ね上がっている。(1995年 1月25日 、撮影)
1995年(平成7年)
1997年 (平成9年)- 神戸店が復興グランドオープン。
1998年 (平成10年) - 和歌山店閉店。
2000年 (平成12年) - 町田大丸閉店。
2001年 (平成13年) - 新居浜大丸閉店。
2003年 (平成15年) - 札幌店開店。
2005年 (平成17年) - 大丸Dカードを発行。
2006年 (平成18年) - アソシア株を日本郵政公社へ譲渡、株式会社JPロジサービス へ商号変更。
2007年 (平成19年)
9月3日 - 株式会社松坂屋 と経営統合。持株会社 「J.フロント リテイリング 株式会社 」を設立。
京都店「日本生命四条ビル」「京都ダイヤビル」に周辺店舗をオープン。
神戸店「NTT西日本神戸ビル」「ブロック44(神戸御幸ビル)」に周辺店舗をオープン。
2008年 (平成20年) - 今治大丸閉店。
2010年 (平成22年)3月1日 - 株式会社松坂屋と合併し、新会社「株式会社大丸松坂屋百貨店 」発足。存続会社は松坂屋で、法人としての大丸は解散。
2020年 (令和 2年)3月1日 - 株式会社下関大丸を吸収合併し、下関大丸 を直営店化。店名を大丸下関店に改称[ 3] 。
歴代社長
大丸呉服店社長
大丸社長
11代 下村正太郎:1928年 - 1941年
里見純吉 :1941年 - 1950年
北沢敬二郎 :1950年 - 1963年
井狩彌治郎 :1963年 - 1984年
12代 下村正太郎 :1984年 - 1997年
奥田務 :1997年 - 2003年
山本良一 :2003年 - 2010年
創業者 下村彦右衛門正啓
1688年 (元禄 元年)、京都 伏見 京町北八丁目に生まれる。1748年 (寛延 元年) 5月15日没。
父・下村三郎兵衛兼誠は摂津国 茨木 の武将 中川氏 の家臣の子孫で、大坂の陣 の後で商人になった。正啓はその第五子で三男として後継ぎとなり、19歳の時に父祖の古着屋「大文字屋」を継いで行商を始めた[ 4] 。30歳で京都伏見に小店舗を開いたのち、八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋筋に「下村松屋」を開店、名古屋店から「大丸」を名乗り、1731年から単独経営となった。律儀で誠実な性格で、「現金正札販売」をモットーに豪商となっても先義後利の人であったことから、大塩平八郎の乱 の際にも義商であるとして襲撃を免れたと言われる[ 5] 。
背が低く頭が大きく、耳たぶ が垂れ下がった風貌で、人情に厚く商売を成功させたことから、「福助人形 伝説 」の一人として伝えられるようになった[ 6] 。
経営理念「先義後利」
創業者の下村彦右衛門正啓が、1736年 (元文 元年)、大丸総本店「大文字屋」開店時に定めた経営理念。
先義(而)後利(者栄)=義を先にして利を後にする者は栄える。
「義」とは「商売における正しい道」「公共のために尽くす気持ち」を意味し、「顧客第一主義に徹すれば、利益は自ずからついてくる」という考え方に徹した。
下村は毎年冬になると施餓鬼 (せがき)として、貧しい者に食べ物や古着や金銭を施し、人の集まる寺社 に大丸マークつきの灯籠 や手ぬぐい を大量に寄付するなど、今で言うボランティア 活動を行って利益を社会還元していた。
このため1837年 (天保 8年)の大塩平八郎の乱 では、百姓一揆 により利を優先させた富豪や大商人はことごとく焼き討ちに遭っていたのに対し、「大丸は義商なり、犯すなかれ 」と部下に命じていたため、焼き討ちを免れたと伝えられている。
この精神は、現在も大丸の企業理念として継承されている。
商標大丸マーク
創業時の「大文字屋」の名は、京都五山の送り火の「大文字 」にちなんで付けられた。名古屋進出にあたり「丸」の中に「大」の字をあしらった商標を使い始め、広く一般に「大丸」と呼ばれるようになった。「丸」は宇宙 を表し、「大」の文字は「一」と「人」を組み合わせて成り立っていることから、「天下一の商人になろう」という志を示した。
江戸進出に際しては、このマークを染め抜いた萌黄地 の風呂敷 を大量に作り商品を包んで運んだ。その風呂敷が派手で非常に目立つものだったため、江戸っ子 の間で話題となり、開店前から多くの人に認知されるようになった。風呂敷自体が江戸前期には銭湯 に行くときにすら使われていなかったのにもかかわらず、大流行することになった。
大丸屋江戸店での風呂敷の売上は、1750年 (寛延 3年)には14,500枚だったが、1828年 (文政 11年)には60,670枚と4倍に増加。商人ばかりでなく、一般庶民が品物を運ぶ際に使う当たり前の道具として定着することになった[ 7] 。かくして大丸屋は、越後屋(現:三越 )、白木屋 (現:東急百貨店 )と並ぶ江戸三大呉服店と称されるまでになったのだった。
1913年 (大正 2年)に類似商標と区別するため、おめでたい「七五三 」にちなんで「一」の左端に3本、「人」の字の下端左に5本、右に7本のひげをつける改定を行って登録、以来70年に渡って親しまれた[ 8] 。
1983年のCI によりシンボルマークは「孔雀 (ピーコック)」をデザイン化したものに変更され、現在に至っている。ただし正式な社章は現在も「七五三ひげの大丸」で、呉服の包装・一部店舗(心斎橋店・南館屋上や下関店など)の外装にも残されている。
「七五三ひげの大丸」を掲げる大丸下関店(2023年9月)
2010年3月の大丸松坂屋百貨店 の発足後は、各店の正面入口脇の店名の銘板 の表示も、「丸に大」のマークと「大丸 創業1717年」と記されるようになった。ちなみにそれ以前の銘板は、上部に「丸に大」のマークが孔雀の羽で縁取られ、その下に「株式会社大丸 The Daimaru, Inc. 」と記されたものであった。特に心斎橋店のものは「創業1717年」の文言が当初から記されていた。なお、梅田店の正面入口の銘板は孔雀をモチーフとしたCIマークに「DAIMARU UMEDA」と記されたものであったが、2011年4月19日の増床グランドオープンに合わせ「丸に大」のマークのものに変更された。
日本国外ブランドの独占契約・プライベートブランドの開発
大丸は積極進取の側面もあり、早くから日本国外ブランド とのライセンス 契約や、プライベートブランド の開発も行ってきた。ただし、新・百貨店モデルへの移行により、プライベートブランドはほぼ廃止されている。
クリスチャン・ディオール
1953年 秋、大丸はクリスチャン・ディオール と独占契約を結び、ライセンス による国内生産を始めた。そのお披露目として、大阪は新大阪ホテル 、京都は都ホテル 、神戸はオリエンタルホテル でファッションショー も開催している。店内には「ディオール・サロン」を開設、輸入されたディオールの型紙 を使用し、自社でオーダーメイド 服の縫製を行った[ 10] 。これは日本初の海外デザイナーとの提携となり(従来は外資法 により禁じられていた)、他の百貨店も追従したばかりではなく、アパレル 業界全体に広がっていった[ 11] 。これに先立って、1949年 6月にドレスメーカー女学院 教授の礒村春 を院長に迎え、その洋裁 教育を伝搬すべく、大丸ドレスメーカー女学院(のちのディーズファッション専門学校 。2020年閉校)を京都店6階の一角に開校。1959年 7月末には、東京店のデザイナー上原愛がパリ に渡り、ディオール社からパターン35種を持ち帰り、新しいシルエット"リーニュ・ソワサント"を提案している。
1963年 、ディオールは大丸に代わって新たに鐘紡 とライセンス契約を締結し、1992年 には日本法人を設立した。1997年 秋からは独自に店舗展開を始め[ 16] 、現在、大丸各店にはショップが入り、大丸以外の百貨店にも出店している[ 17] 。
ジバンシィ
ディオールと入れ替わりに大丸は、1964年 8月1日、ジバンシィ と独占契約を結んだ。9月下旬には新大阪ホテル、毎日ホール 、京都ホテル 、光輪閣 、日生劇場 で第1回コレクション発表会が開かれている。1970年 11月1日には各店に「ジバンシィ・ヌーベル・ブティック」が開設され、70年秋冬物から独占販売が始まった。ブティックで展開する商品は、ジバンシィ社製作のオリジナルとパターン による複製品のプレタポルテ を中心にアクセサリー、スカーフ、香水、セーターなど、オートクチュール 作品を除いたすべてだった。ジバンシィはオードリー・ヘプバーン 御用達ブランドで、長らく大丸の顔ともいうべきブランドだった。
1990年 7月、ジバンシィジャポンが60%、大丸が40%出資して「ジバンシィ・ブティック」が設立され、ジバンシィ・ヌーベル・ブティックとアクセサリーの輸入販売が行われてきた。しかし、ジバンシィ・ブティックは2000年 10月30日開催の臨時株主総会でジバンシィジャポンによる吸収合併を決議し、12月1日付でジバンシィ・ブティックは消滅した。このため、大丸との合弁契約は解約された。
独占契約の関係により、12代目下村正太郎 は日産・ローレル ジバンシィバージョン(C31型)を保有しており、1983年にユベール・ド・ジバンシィ とオードリー・ヘプバーンが大丸でのイベントのために来日した際には移動用車両として使われた。その後、長らく大丸ヴィラ(11代目下村正太郎の旧邸宅)にてナンバーがない状態で保管されていたが、2022年 に日産自動車 へ寄贈され、日産ヘリテージコレクション(旧・日産座間記念車車庫) に収蔵されている。
トロージャン
「トロイ の戦士」を意味する大丸の紳士服 で、日本で最初のプライベートブランドである。1959年 秋に販売が開始され、既製紳士服の先駆けとなった。十字屋 との提携時代には、十字屋・清水屋 でも取り扱いがあり、J.フロント リテイリング発足後は、松坂屋 でも取り扱うようになった。
当時の日本には、既製服 製造のための大規模な工場が少なく生産効率が低かった。このため既製服のサイズは「特大」「大」「中」「小」の4種類に限定されており、紳士服はテーラー で注文して作ることが一般的だった。大丸は「日本人の体型によりフィットする洋服」として開発すべくアメリカ 既製服界に精通し、自らもテーラーを経営する在米50年の奈古済一(なこせいいち)を招聘し技術指導を要請した。最新鋭の20数種のプレスマシンなどの技術を導入し、アメリカ式の流れ作業 のシステムで製造工程の合理化を行った。サイズの呼称も、「Y体」「A体」「AB体」「B体」など29種類を展開したのもトロージャンが初で、それが業界全体に広がることになった。日本人の前屈体型 にフィットさせるため肩の形状も変更し、これに合わせて湾曲したハンガー も開発した。これも業界初の試みだった。発売時の価格は、ウール 100%の生地を使用したスーツで13,000円からで、オーダースーツと変わらない価格水準で大成功を収めた。
1973年 9月から、トロージャンは新たに洋品雑貨に加え、メンズトータルファッションブランドとして展開することになった。従来の紳士服、靴、洋傘はそのまま継続し、新たにワイシャツ、セーター、靴下、ネクタイ、マフラー、手袋、ベルトなどにトロージャンのブランド名を使用。男児服にはついては1972年 から「リトル・トロージャン」として販売していたが、新たにセーターやワイシャツなどの洋品雑貨が加えられた。
1975年 秋にはトロージャンのニューモデル「トロージャン・コンチネンタル」、1977年 5月にはトロージャン「男性化粧品」も新たに販売を開始した。晩年にも「お台場仕立て、脇ざし、尻シック、キュプラ 裏地」などワンランク上の仕様を採用するなど、進化を続けていた[ 23] 。しかし、2020年夏に突如取り扱いを終了した。[要出典 ]
CMは、1966年 にダーク・ダックス [ 注釈 3] 、1975年にはトロージャン・コンチネンタルの発売を機に、イメージキャラクター としてイタリア の映画スター、ジュリアーノ・ジェンマ と契約を結んだ[ 24] 。同年10月1日には『水曜ロードショー 』(日本テレビ 系)への提供をスタートし、ジェンマが出演するCMが流された。
ジョン・ワイツ
1970年 9月、メンズトータルファッション「ジョン・ワイツ」が大丸の京・阪・神・東京の4店と関係百貨店7店、トロージャンの提携販売店32社で一斉にデビューした。ジョン・ワイツは、スーツからワイシャツ、ネクタイ、靴下、靴に至るまでのアウターウェア を中心とするファッションブランドで、ジョン・ワイツによる米国発のトータルファッションで知られていた。大丸は帝人 と共同でジョン・ワイツと契約、帝人がライセンシー、大丸がサブライセンシーとなって、両社共同のコントラクターグループを結成し、情報入手から生産までは帝人、販売を大丸が担当した。
店舗
直営店
心斎橋店
大丸における本店である。北館(心斎橋パルコ )・本館・南館及び周辺の複数の路面店で構成される。大阪のメインストリートである御堂筋 と、心斎橋 の賑わいの中心である心斎橋筋商店街 に面している。売上高は708億円(2022年)で、大阪府内・大阪市内ではあべのハルカス近鉄本店 に次ぐ4番手に留まっている[ 26] 。本店だが売上高では神戸店(839億円)の方が多く、「大丸」ブランドでは2番目の売上である[ 27] 。
沿革
1726年 大坂島之内 の木挽町北之丁(現・中央区 心斎橋筋 一丁目)に大坂店「松屋」開店。
1867年 大坂地図「浪華名所独案内 」に「大丸呉服店」として記載された。
1920年4月16日 「株式会社大丸呉服店」の「本店」に定めた。同年、失火により全焼[ 28] 。
1922年再興のため店舗新築。第1期工事完成。設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ 。
1925年9月 第2期工事竣工。中央玄関上部にテラコッタ (陶製)のピーコック(孔雀 )が掲げられた。ピーコックはファッションのシンボルとして、以来大丸のシンボルとなった。
1933年 第3期工事が完成。アール・デコ の重厚な近代建築 を今も伝える建築物として、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築 に選定されている。本館・南館の2館体制時の店舗面積は37,490m2 だった。
1983年 梅田店の開店を控え、3月より大阪店から心斎橋店に改称。
2009年11月14日 隣接するそごう心斎橋本店 が営業不振により閉店したため建物を買収。大丸の北館としたため77,000m2 の最大規模の店舗となった。
2011年度下半期 ファッションデザイナー 小篠綾子 の生涯を描いたNHK 連続テレビ小説 『カーネーション 』が放送された。11月に主人公が「心斎橋百貨店」に制服を売り込みに行くエピソードがあったが、1932年当時心斎橋にあった百貨店はこの大丸心斎橋店だけである。その縁で、放送終了後の2012年4月25日-5月1日に期間限定で岸和田コシノショップが出店した[ 29] 。また、娘コシノヒロコ も同店は勿論、ほとんどの大丸にショップを出店している。
2015年12月30日 この日をもって、建て替えのため本館は一時閉館。以降、2019年9月15日まで北館と南館の2館体制で営業を継続。北館は、パルコにリニューアルするため同日限りで閉館した。
2019年9月20日 新本館リニューアルオープン。 売り場全体の65%は、定期賃貸借契約(定借)によるテナントで構成され、不動産事業であるファッションビルやショッピングモール形式と小売事業である百貨店のハイブリッド型に転換した。また、従来型の百貨店に比べてファッションフロアの比率を下げている。ポケモンセンター やジャンプショップ 、コンビニのローソン など、従来の百貨店においては異例のテナント構成となっている[ 30] 。
2020年11月20日、本館リニューアル完成後にリニューアル工事に入っていた北館が、同じJ.フロント リテイリング傘下のファッションビル 「心斎橋PARCO (パルコ)」としてオープン[ 31] 。
梅田店
1983年 開店。大阪駅 駅ビル(大阪ステーションシティ )サウスゲートビルディング (2011年3月16日「旧・アクティ大阪」より改称)地下2階から地上15階。
店舗面積は従来40,416m2 だったものが、2011年3月から順次増床部分が開業した後、同年4月19日のグランドオープン時には既存部分と合わせて64,000m2 となった。
「新百貨店モデル」の集大成として、ハンズ やポケモンセンターオーサカ (2010年11月26日に先行して開店)など、大規模なテナント が出店している。
京都店
1717年、創業者の生地にて創業。伏見 京町北8丁目 は京阪電鉄 丹波橋駅 北方で、京都の中心地ではなく郊外だった。
1729年に「仕入れ店」を置いた柳馬場 綾小路 は、現在地より東南東方向200mに位置した。
1736年大丸総本店「大文字屋」を構えた東洞院 船屋町 は、市営地下鉄烏丸御池駅 付近と現在地より1駅北隣に位置していた。
また、1863年に新選組 が揃いの割羽織 を調達に訪れたのは、これとはまた別に設けられた「松原店 」で、松原通 御幸町・寺町間の北側[ 32] 。京阪電鉄清水五条駅 から鴨川 の東岸だった(大丸ではなく四条の呉服屋「菱屋」だったという異説もある)。
1912年、「京都大丸」が市内中心部の四条高倉に開店。ここが現在の京都店の所在地である[ 33] 。現・京都店の店舗面積は50,830m2 。心斎橋店と同じくヴォーリズ設計であるが、四条通 側の外壁は改装されている。なお、下村家の邸宅であった京都・烏丸丸太町上ルの大丸ヴィラ「中道軒」はチューダー・ゴシック 様式の豪壮な建築として知られている。日本占領期 には米第6軍 司令官 宿舎に当てられた。
この建物の他、5つの「周辺店舗」がある。
松坂屋高槻店も運営上、京都店の分店扱いとなっている。
なお、付近の四条河原町 に位置する若者向け百貨店の「藤井大丸 」と当店とは関係はない。
大丸京都店(上、1932年以前)
神戸店
神戸店店内の様子
売上高は839億円(2022年)[ 27] で、阪神 神戸三宮駅 に直結する神戸阪急 (旧:そごう 神戸店)を抑えて、売上高において神戸市内および兵庫県内最大であり[ 27] 、「大丸」ブランドの店舗としては大丸の本店にあたる心斎橋店(708億円)よりも多く、同ブランドでは最大の売上高の店舗である(大丸松坂屋としては松坂屋名古屋店 が最大)[ 27] 。神戸一の繁華街である三宮 ・元町 エリアの地域一番店。
須磨店
1980年3月15日、須磨ニュータウン 中央センターの商業施設「須磨パティオ」(地上4階建て一部5階)の核店舗としてダイエー とともに開店。新しいタイプの郊外型百貨店として、ニューファミリーを対象に、地域住民に密着した店づくりを行った。大丸が郊外型ショピングセンターに出店するのは初めてのことだった。2020年3月、開業40周年に合わせ、大規模リニューアルを実施。3月の第1期リニューアルでは、1・2階の百貨店売り場を再編・改装したほか、3階にヘアサロンや手芸店など地域密着型のテナントを導入[ 35] 。4階には、2021年3月24日、市が名谷駅周辺で進める再開発事業の一環で、市立名谷図書館 がオープンしている[ 36] 。運営に関しては、1979年6月「株式会社須磨大丸」が設立され、翌年6月、「須磨大丸」から「株式会社ダイマル」に商号変更。2001年に直営化され、神戸店の分店となった。
芦屋店
1980年10月9日、モンテメール(地下1階、地上7階建て)の核店舗として開店。芦屋店は地下1階~地上4階に出店した。2020年3月の全面改装で、本館上層階にあったレストラン街を西館3~4階に移設するとともに、百貨店と専門店が混在していたフロア構成は見直され、百貨店は本館地下1階~地上2階、専門店は本館3~6階と西館に集約となった。芦屋店は、地下1階、地上1階の食料品に「明治屋ストアー 」や和洋菓子・ベーカリーを新規導入。婦人ファッション中心の2階は定期借家契約のフロアに切り替わった[ 37] 。運営は須磨店同様、株式会社ダイマルが当たり、2001年に直営化、神戸店の分店となった。
大丸インテリア館 ミュゼ エール
個人消費の低迷とともに、家具市場の縮小が進み、大丸各店とも住関連売場の縮小を余儀なくされ、満足のいく品揃えができない状況になっていた。その一方で、高質な家具、インテリア商品にこだわりを持つ50代以上のエルダー層が増えつつあり、家具専門店が台頭していた。そうした状況を受け、2003年 5月3日、「神戸ファッションマート」2階にオープンした。運営については、心斎橋・梅田・神戸各店との共同で行うとした。
東京店
大丸東京店
建替え前の旧大丸東京店(2007年)
1954年10月、東京駅 八重洲口直結の株式会社鉄道会館 八重洲本館 に開店(賃貸入居)[ 39] 。店舗面積31,500m2 。東京駅直結のターミナルデパート であった。
旧「大丸呉服店」が明治期に閉店して以来、44年ぶりの東京再進出を果たした。開店初日には20万人が来店した。東京店開業以来、東京駅と京都駅 には「行きも大丸、帰りも大丸 」というキャッチコピーの広告が掲示されるようになった。
開店の際には、東京ではすでに月賦の「大丸百貨店」(現:井門エンタープライズ )がチェーン展開していたため、名前の競合が問題になり2社間で協議が持たれた。その結果、百貨店の(下村)大丸には百貨店をつけず「株式会社大丸」、月賦の(井門)大丸には百貨店をつけ「株式会社大丸百貨店」とすることが取り決められた。(井門)大丸には、広告宣伝においては愛称として「ライフアップ大丸」とも称し、マークは(下村)大丸とは全く異なるデザインを使用していた[ 40] 。
労働力確保のため、1957年(昭和32年)には日本では珍しかった「パートタイム」の採用を開始。パートタイマーの言葉が一般化する契機となった[ 41] 。
しかし、中規模店であり、客単価の低い旅行客などの利用が多かったため、1987年 (昭和62年)度まで長年赤字が続き、巨大なキオスク と揶揄されるほど、三越 や伊勢丹 など他の都内の百貨店よりグレードが低い店と言われていた。このため、1985年(昭和60年)閉店の八王子店や1987年(昭和62年)業態転換の町田店も合わせて東京から完全撤退するとの噂もあった。しかし、このままでは新規採用や出店・海外事業に支障をきたしかねないと判断し、50億円から70億円の予算を投じて開業以来初となる大改装を行った。内容は天井に起伏を持たせて豪華さを出したり、1階正面入り口のエスカレーターを撤去して開放感を持たせたほか、売場も婦人服、紳士服や雑貨などの高級品中心の店作りに転換し、12階のギャラリーフロアに所在した支店長室などを撤去して「大丸ミュージアム」を新設するといったものだった。梅田店の建設に携わった米国のシェイクス&ジョンソン社に委託して、1990年(平成2年)4月16日に完成した[ 42] 。
2007年10月31日にいったん旧店舗を閉店。ペデストリアンデッキ 「グランルーフ」と駅前広場整備のため建物は取り壊された。同年11月6日にグラントウキョウ ノースタワー(現在地)に移転。住所など詳細はグラントウキョウ を参照。2段階に分けて建替えられ、第1期分では地下1階 - 13階 店舗面積34,000m2 に入居。第2期工事終了後の2012年10月5日に46,000m2 に増床してグランドオープン。地下3階駐車場も完備した。
札幌店
札幌駅 南口JRタワー 西ブロック。店舗面積45,000m2 。札幌駅直結のターミナルデパートである。
京阪神や東京でしか取り扱わなかった商品の販売や立地環境の良さも手伝い、2009年 からは地元の老舗百貨店の丸井今井 を抜いて札幌市 の地域一番店となった。
西武旭川店 が2016年9月末に閉店したため、日本百貨店協会 の加盟百貨店では最北に位置する店舗となっている。
なお、札幌市中央区南1条に所在する大丸藤井セントラル は全くの別会社である。
B1階 ほっぺタウン (2014年7月)
6階(2014年6月)
8階レストラン(2014年6月)
下関店
下関店(下関大丸時代)
シーモール下関と隣接する大丸下関店(2021年3月)
山口県 下関市 のJR 下関駅 東口にある複合商業施設「シーモール下関 」の核店舗 として出店[ 43] 。地下1階-地上7階建てで店舗面積は約24,000㎡。かつては連結子会社の株式会社下関大丸が運営する「下関大丸 」であったが、2020年 3月1日 に株式会社大丸松坂屋百貨店が株式会社下関大丸を吸収合併・直営店化し、店舗名は「大丸下関店 」に改められた[ 43] 。
関連会社の店舗
松坂屋 については当該項目を参照。
連結子会社運営店舗
博多大丸 福岡天神店[ 44]
1953年開店。1975年現在地に移転。福岡市 中央区 天神 1-4-1 福岡市営地下鉄 天神南駅 3番出口。
本館(西日本渡辺ビル )地下2階-地上8階+東館「エルガーラ」地下2階-地上6階。店舗面積44,192m2 。
法人としては本体に次ぐ規模にあり、J.フロントグループにおいても九州地区の重要拠点と位置づける。
高知大丸
1947年開店。高知県高知市 帯屋町一丁目6番1号。
とさでん交通 「はりまや橋 」電停下車、京町商店街。店舗面積16,068m2 。
本館・東館に分かれており、ともに地下1階 - 地上5階(6階は屋上)で連絡通路がある。それとは別にダイマルウエストなどがある。
2002年に高知西武(旧:とでん西武 )が閉店して以降、高知県 内では唯一の百貨店である。
非連結関連会社運営店舗
大丸コム開発
1982年設立(大丸企画開発)。J.フロントリテイリング株式会社の100%出資会社で、以下の商業施設の管理運営業務ほか、新規開発やリニューアルも行っていた。「大丸松坂屋百貨店 不動産事業部」を経てこれら業務は「パルコ」に移管している。
自主編集売場
サロン・ド・グゥ・ブランシェ
特選ブランド・インポート雑貨のセレクトショップ。京都店[ 45] 。
michikake(ミチカケ)
梅田店 に2019年開業の、女性の生理用品等を扱うショップ。若手社員のアイデアによる、生理中の従業員を現すバッジの着用は議論を呼んだ。
過去には以下のような売場が存在した。
サロン・ド・グゥ・ブランシェ
心斎橋店、神戸店、福岡天神店。
サロン・ド・グゥ
特選ブランドウェアのセレクトコーナー。神戸店、京都店、札幌店。
サロン・ド・グゥ・オム
メンズ特選ブランド・インポート雑貨のセレクトコーナー。心斎橋店、神戸店、東京店。
ufufu girls(うふふガールズ)
18歳から34歳の若い女性をターゲットにした、低価格帯のカジュアルな衣料品・雑貨のフロア。
2009年11月14日に心斎橋店北館の地下1・2階に開設し好評となった。その後2010年度は、4月22日には京都店の1・2階に、10月22日には松坂屋 銀座店の本館1・2階に開設された。翌2011年度は、2月23日には神戸店の3階に、3月23日には札幌店2階に、また梅田店でも増床リニューアルオープンにあわせ(同年4月19日にグランドオープン)、同店の1階と5階に開設された。さらに2012年度は、3月2日に松坂屋名古屋店の南館2階にも開設された。
過去に存在した店舗
日本国内店舗
町田市が都市整備計画の一環として小田急線新原町田駅(当時)前にビルを建設することになり、大丸ほか百貨店数社に出店を打診した。1970年当時の人口は周辺の相模原市 、大和市 を入れると40万近くになっており、東京・新宿 から30分ほどのベットタウンで、独立商圏であることから立地条件にも優れていると判断し、大丸は出店を決定。1971年10月、東京店に続く大丸の直営店として開店した。同時に相模原市上鶴間に地下1階、地上5階建ての建物も建設。地下1階から地上3階までを大丸配送センター、4・5階は上鶴間男子寮とした。
しかし、周辺には1976年9月に小田急百貨店 、1980年10月に東急百貨店 などが出店したため、業績は次第に悪化していった。町田店は増床の余地もなく、売場面積では対抗が出来ないため、1985年7月に「町田店特別対策室」を設置し、競合店調査の結果、1987年2月に大丸は新業態店舗を運営する「町田大丸」を設立。1988年3月、同社が運営する"食生活文化バザール"おいしい暮らしの「プラザビーミー」(営業面積16,025㎡)にリニューアルを図った。プラザビーミーは地下1階から3階までをフーズ、9・10階をレストラン、"食"に挟まれた4階から8階までをファッション、リビング、カルチャーサービスで構成。全体の70%を自主運営とした[ 49] 。
1990年9月に伊勢丹 が近郊の相模原市に伊勢丹相模原店 を開設。町田大丸に隣接する小田急百貨店、東急百貨店もこれに対抗するように増床を行った。これを受けて、町田大丸も改装工事を進め、1991年3月に全館リニューアルを行った。主に地下1階と地上1階、3階の3層で構成していた食品売場を地下1階と地上1階に集約し、地域初登場のブランドを多数導入した。しかし、競合激化に抗することが出来ず、2000年2月27日に閉店。閉店に伴い、大丸は2002年2月決算で約98億円の特別損失を計上した。土地・建物は丸井 に64億円で売却され[ 51] 、翌2001年2月21日に「マルイビィ (OIOI be) 町田」としてオープン、のち「町田モディ 」となった。
八王子は前述の町田とともに「絹の道 」として輸出用の生糸が運ばれた交通の要衝で、大丸の江戸進出時の風呂敷のことが『八王子織物史』で語られるほど大丸と八王子は縁の深く、また東京近郊(都心から50km)のベッドタウン として注目され、1970年には人口が25万人を突破していた。この時期に大型店の出店が相次ぎ、1969年の伊勢丹 、1970年の西武百貨店 に続き、大丸は丸紅 と忠実屋 から熱心に勧誘を受け、八王子では3番目の百貨店として、1972年4月に「八王子大丸」を開店した。八王子大丸は丸井八王子店 とダイエー八王子店 よりも後の出店となる。
八王子大丸が立地した横山町は、市一番の繁華街として隆盛を極めた商店街 で、忠実屋や中小商店が軒を並べていた[ 52] 。だが、八王子駅周辺に大型店が進出すると客足が奪われ、地盤沈下が進んでいた[ 52] 。閉店の引き金になったのは、1983年11月のそごう八王子店 を核店舗とする八王子駅 北口駅ビル 「八王子ターミナルビル」の開業であるが、それに加えて、4月に開店した大丸梅田店 の出店に際して巨額な先行投資をしたことが財政面を圧迫し、親会社の大丸がメインバンク の三菱銀行 から応援のため取締役 を迎える羽目に立ち至っていた事情も重なっていた[ 52] 。八王子大丸の存続については、改善策が検討されたが、結果的に再建は難しいと判断され、1985年8月閉店した[ 53] 。閉店に伴い、東京店は外商八王子出張所を設置した。
大丸が撤退したビルは、その後、「サイドウォーク」という名称で営業。1987年には忠実屋がファッションビル 「FAM(ファム) 」として営業を始めるが、業績不振が続き、1994年にダイエーが忠実屋を吸収合併したことに伴い、閉店した。閉店後は長年空きビルの状態が続き、当時の黒須隆一 八王子市長も商店街衰退の象徴として問題視する発言を行っていた[ 53] 。2001年2月9日にダイエーは本館および別館の土地・建物を日本中央地所 とセントラル地所に売却[ 54] 。跡地には、2003年2月に高層マンション「マクシスタワーズアーバンデュオ」が竣工している。
2007年3月開店。東京店の分店扱い。ららぽーとのテナントとして食品売場に特化した業態「大丸フードマーケット」で出店するが、売上が計画を下回り、2013年1月31日閉店[ 55] 。
2007年10月開店。東京店の分店扱い。ららぽーと横浜店と同様、「大丸フードマーケット」での出店。しかし、オープン以来目標を下回り営業赤字が継続したため、2017年7月31日閉店[ 56] 。後継テナントはヤオコー [ 57] 。
1977年開店。神戸店の分店扱いである生活密着型店舗だったが、2013年1月31日閉店[ 58] 。後継テナントは西友 。
和歌山店
和歌山県 和歌山市 元寺町1-25 富士アイスビル 和歌山バス「ブラクリ丁 」バス停前。
地下1階、地上6階建て、店舗面積約5,000m2 。
1971年10月、廃業したニューデパート南海の建物を買収して開店。事務・仕入れについては母店(大阪店)集約形式を徹底し、事務部門は総務部門のみとした。1992年3月、婦人服と婦人雑貨を中心とした高級専門店型百貨店に業態転換し「グレイスコート」の愛称で全館オープンした。これにより食料品の取扱いをやめている。しかし、業績の改善が見られず1998年12月31日閉店。閉店後、和光デンキ のアウトレット店、ダイソー などを経て、現在はドン・キホーテ 和歌山店となっている。
1998年10月3日、山科駅前地区第一種市街地再開発事業の一環として建設された「RACTO(ラクト)山科」B棟(地下1階~地上4階)の北半分に、京都店の分店としてオープン。「やましな店(みせ)」とも呼ばれた。ストアコンセプトは「良質な市街地・コンビニエントデパート」。しかし、衣料品販売が低迷し、2010年8月31日以降、規模を縮小。2011年4月29日には3階から4階に「ニトリ ラクト山科店」が出店。2019年3月31日をもって営業終了[ 60] 。跡地は複数店のテナントゾーンとなる[ 61] 。
1937年「丸由(読みは「まるゆ」)百貨店」として開店。1949年に大丸と業務提携し「鳥取大丸」に社名変更[ 63] 、1975年現在地に移転[ 64] 。建物は、ホテルニューオータニ鳥取ともども黒川紀章 の設計。ファッション館「アクア」、鳥取空港 売店も運営する。日ノ丸グループ の1社で、大丸の出資比率14%[ 65] 。
2022年8月31日をもって商号、商標のライセンス契約 が満了となることに伴い、「鳥取大丸」としての営業を終了。9月1日より再び創業時の表記である「丸由(読みは「まるゆう」)百貨店」に屋号を変更した[ 66] 。社名変更した「株式会社丸由」と大丸松坂屋百貨店のMD 業務委託契約は継続。
1963年12月、鳥取大丸の子会社でスーパー業態の「米子ストア」として開店。1971年12月、百貨店に業態を変更するとともに「米子大丸」に改称した。しかし、その後立地環境の変化や競合の激化により業績が悪化。このため、1986年4月19日、経営権は天満屋 に譲渡された。市郊外に「米子しんまち天満屋」が開店する1990年まで、米子駅前通り東町にあった米子大丸をそのまま、株式会社米子天満屋が経営していた。
1950年別子鉱業(現・住友金属鉱山 )の子会社「別子百貨店」として開店し、翌年9月、資本参加により「別子大丸」、1975年11月には3階建てから4階建てに増築し、同時に「新居浜大丸」に社名を変更した。1978年11月には4階東側屋上部分を増築し、各階を改装オープンした。これにより売場面積は6,500㎡となった。中心商店街の核店舗として賑わい創出に寄与してきたが、売上高は1992年2月期の77億5200万円ピークに年々落ち込み、収支も長年赤字が続き、業績回復は困難と判断。また住友金属鉱山および住友林業 社宅跡地にイオン新居浜ショッピングセンター の建設計画が持ち上がっていたこともあり、2001年5月27日に閉店した。大丸跡地には地元スーパー「ママイ 」の店舗「フレッシュバリュー西原店」が建っていた(一時期閉店したがリニューアルし再オープン)が、2023年1月に閉店した[ 71] 。
今治大丸 (旧:大洋デパート)
愛媛県今治市 常盤町4-1-18 せとうちバス「今治バスセンター」そば
地下1階、地上7階建て。店舗面積10,540m²
1962年、地元資本の「大洋デパート」として開店。1974年、資本参加により「今治大丸」に社名変更。2001年、大丸の100%子会社となる。しかし、競争が激化し、累積損失解消の見通しが立たななくなったため営業終了を決議。2008年12月31日閉店した。建物は解体され、複合施設の整備を目指したが、工事費の高騰もあり目処が立たず、「芝っち広場」として利用されている。
高知大丸 唯一の支店であった。玩具店としてかつて一世を風靡したハローマック の跡地に出店し、建物もそのまま使用していた。2021年2月28日閉店[ 72] 。
1934年5月22日「岡政百貨店」開店。1969年3月提携。1987年、岡政100%出資の新会社「株式会社長崎大丸」を設立。1988年営業権の譲渡。2003年、企業再編により博多大丸 に吸収合併「博多大丸長崎店」となった。しかし、売上が低迷し2011年7月31日を以って閉店した。跡地は博多大丸によって再開発され、2014年9月、商業施設とホテルで構成の「ハマクロス411 」がオープンした。
百貨店以外の商業施設
1999年開店。不採算のため、2017年5月25日に髙島屋 が撤退したのに続き、8月25日閉店[ 73] 。
1970年、GMS業態のピーコックストア千里中央店として千里阪急 などと同時開業。のちにイオンモール へ運営が移管されるが、建物の老朽化で、ピーコックストア千里中央店と共に2023年4月30日を以って閉店した。跡地にはイオンモールと阪急阪神不動産 によって商業施設、ホテル等が整備される[ 74] 。
日本国外店舗
1960年に香港 に出店したことを皮切りに大丸は、タイ 、フランス 、シンガポール 、オーストラリア に進出したが、1990年代に入り海外資本や現地資本の大型小売店が次々に進出し競争が激化し業績が低迷した。そうしたことから、2003年3月末まで全店を閉鎖。海外店舗はすべてなくなった[ 75] 。
香港大丸百貨公司
香港大丸
香港 銅鑼湾 (コーズウェイベイ)記利佐治街(グレートジョージストリート)と百德新街(パターソンストリート)交差点に立地。売り場面積5,400+5,600m2 [ 76] 。
大丸は、1960年7月、資本金300万香港ドル で 香港商人・張玉良との合弁で「香港大丸百貨公司」を設立。11月3日、銅鑼湾に面した百徳新街にある17階建て高層ビルの1階、2階を売場、食堂として使用し「香港大丸」を開店した。日本の百貨店におけるアジア進出1号店で、取り扱い商品の6割が日本製品という中流・高級路線の店だった。開店前は、香港市民に受け入れられるか不安なまま開店を迎えたが、開店初日に10万人の客が詰め掛け、準備した品物の大半が売切れてしまう等、香港市民に支持され大成功を収めた。香港大丸が開店した頃の店舗周辺は、倉庫が立ち並ぶ場所であったが、大丸開店後は数々のショップが出店してゆき、現在では香港随一の繁華街になった。大丸は地域のランドマーク になり、ミニバスの行き先も「銅鑼湾」ではなく「大丸(DAIMARU)」と表示されていた。
1983年12月16日、本館から約50mの場所に別館をオープンした。合弁相手先が運営している専門店ビルを閉鎖し、新たに香港大丸別館として入居したものだった。2階建てで、1階にスーパーが入り、2階には旭屋書店 が入店していたほか、様々な商品を取り扱っていた。またこの頃には、大丸の後を追う様に次々と日系百貨店が銅鑼湾地域に出店し、売上を競っていた。1990年代に入ると、銅鑼湾では家賃高騰が続いた。このため、記利佐治街の店舗の存続は断念し、スーパー部門だけを残した[ 79] 。スーパー部門は引き続き人気を集めたが、家賃高騰が続いた上に、1997年のアジア通貨危機 の影響で香港の景気も低迷して業績も悪化したことから、これ以上の経営は困難と判断され、1998年12月末で閉店した。閉店日には、38年の間愛されてきた老舗の撤退に際して、現地テレビ局は特集番組を放送した。跡地には他のテナントが入居したが、2012年からは、銅鑼湾店舗跡にイオン ストアーズ香港が「マックスバリュ ・プライム」を出店している。
建台大丸百貨公司
東帝士グループに属する台湾 の大手企業「建台セメント」が新規事業として高雄市 、台中市 で1998年春に百貨店を開業することになり、丸紅 を介し大丸に経営支援の要請があった。大丸ではこの要請を受け入れ、12月29日に基本協定を締結した。大丸が受託した内容は、ノウハウとブランドだけの提携で、資本出資はせず、経営責任は負わないこととした。2店とも売上は低迷し、建台大丸と大丸との契約は2000年12月31日で終了している。
建台大丸高雄店
「東帝士85大楼 」地下1階から地上7階。売場面積は約41,300㎡。
1999年10月23日、建台セメントが建設した世界第6位(当時)の高層ビル「東帝士85大楼」に開店した。同ビルはホテル、アミューズメント、オフィス、コンドミニアムなどで構成され、百貨店としては台湾一の規模だった。しかし、売上は非常に悪く、同店は閉店に追い込まれた。2012年、出店していたフロアは裁判所による強制競売に掛けられた[ 82] 。
建台大丸台中店
「台中晶華大楼 」(グランドフォルモサリージェント。ホテル)地下1階から地上9階。売場面積約32,900㎡。
1999年12月31日、建台セメントが建設した「台中晶華大楼」(地下6階、地上32階建て)の核店舗として開店。高雄店同様、早期に撤退することになり、2000年に閉店。
タイ大丸(現地法人:Thai Daimaru Co., Ltd.)
1964年、タイ国 政府より申し出のあった百貨店設置の希望によって、タイ大丸設立の計画が具体化し、3月、本部に準備委員会が設置される。タイ大丸は1975年12月8日、株式の51%を現地法人と個人に譲渡。1998年8月末、主力店のシーナカリン店を家主の親会社プレミアグループに全株式を譲渡し閉店。タイから全面撤退した[ 84] 。
1964年12月9日、タイで初めての本格的百貨店として「ラパソン・ショッピングセンター」に開業し、1972年10月9日、「ラジャダムリアアーケード・ショッピングセンター」に移転。ラジャムダリ店と名称を変更した。ラジャダムリ店は地下1階から3階までを使用、売場面積は5,900㎡と旧店舗の約3倍となった。1994年2月、地域再開発のため閉鎖。
シーナカリン店
「セリ・センター」店舗面積は約22,000㎡。
1994年3月、ラジャダムリ店が地域再開発のために移転を余儀なくされたため、バンコク市の中心部から約12kmのシーナカリン地区に建設されたショッピングセンター「セリ・センター」の核店舗としてオープンした。だが、予定していた商圏開発の遅れや交通事情の悪化などが業績不振が続き、1996年に営業面積を約10,000㎡に縮小、大規模な改装を行ったが、業績の改善はみられなかった。
プラカノン店
「プラカノン・ショッピングセンター」地上1階から地上2階。売場面積は4,498㎡。
1980年10月4日、地元合弁相手から多店舗化について強い要請を受け、プラカノーン区 の繁華街に建設された「プラカノン・ショッピングセンター」(地上4階建て)の核店舗として開業。1998年7月末で閉鎖。
大丸シンガポール (現地法人:Daimaru Singapore Pte Ltd.)
1978年9月、「シンガポール大丸」を設立。翌年4月、大丸と現地の有力者、呉清亮との合弁で会社を設立するための基本契約書の調印を行った。資本金は2,000万シンガポールドル で、大丸の出資比率は20%。3店舗を展開した。最盛期の1991年度には約100億円の売上高だったが、2001年度は約80億円に落ち込むなど、競争激化により売上が伸び悩み、事業の継続が困難と判断。2003年3月末までに全店を閉鎖し、シンガポールから撤退した[ 75] 。
リャンコート店
「リャンコートショッピングセンター」 地下1階から地上3階。売場面積約10,600㎡。
1983年11月19日、政府の都市再開発計画に基づいて建設された「リャンコートショッピングセンター」の核テナントとして開店。日本の百貨店が展開する海外店としては最大規模だった。
ジャクソン8(エイト)店
「ジャクソン8ショッピングセンター」地下1階から地上3階の一部に出店。売場面積約4,100㎡。
1993年11月26日、シンガポール中心部から北へ約6km離れたニュータウン、ビシャン地区の複合商業施設「ジャクソン8ショッピングセンター」(地下2階、地上10階建て)に出店。周辺地域は高所得の居住者が多く、食料品を中心に現地の人々の生活に密着した商品を揃えた。
オーチャード店
「プラザ・シンガプーラ」4階 売場面積約4,000㎡。
1998年12月4日、シンガポール随一のショッピングストリート、オーチャードロード東端に位置する「プラザ・シンガプーラ」(地下2階、地上7階建て)に開店。ファッション、リビング、ギフトと特化した専門店だった。既存のリャンコート店、ジャクソン8店との3店舗でチェーンオペレーション体制をとり、売上の拡大と経営の効率化が図られた。
大丸オーストラリア (現地法人:Daimaru Australia Ltd.)
オーストラリア で様々な開発を行こなっていた熊谷組 100%出資の現地法人「クマガイ・ニュー・サウス・ウェールズ」から、メルボルン市の都市再開発計画に沿って建設中のSCに出店の要請があり、大丸は出店を決定。1988年4月、本社に大丸オーストリア計画室を設置し、室長には奥田務 (のち社長)が就いた。1989年7月、クマガイ・ニュー・サウス・ウェールズ、大丸、熊谷組の3社で合弁事業契約を締結。「大丸オーストラリア」が設立される。
1991年9月11日、初の日系百貨店として開店。対象顧客はオーストラリア人で、日本人観光客や駐在員ではなかったため、欧米流のマーチャンダイジング を行った。 しかし、オーストラリアで消費税 が導入され消費が低迷、また郊外型ショッピングセンターの台頭により売上が減少し、メルボルン店は売上目標を下回る状況が続き、2002年7月21日に閉鎖。
ゴールド・コースト店
「パシフィックフェアショッピングセンター」地上1階から地上2階 売場面積約14,000㎡。
1998年9月21日、ゴールドコースト のサーファーズパラダイスの一角に所在する「パシフィックフェアショッピングセンター」が駐車場の一部を再開発して建てた2階建ての店舗にオープン。中心となる顧客は現地の生活者としたが、日本人を中心とした観光客も対象にし、日本の書籍や食材も置いた。運営は、100%子会社だが「大丸オーストラリア・リテイル」という別会社。2002年1月末で閉鎖[ 85] [ 86] 。
大丸フランス
1973年9月24日、大丸100%出資の現地法人「大丸フランス」を設立。2店を展開した。日本人の海外旅行ブームの高まりに伴って業績を向上させるが、日仏両国の景気低迷による日本企業の駐在員の減少が加速したことで業績が悪化。観光客や在仏日本人に便宜を図るという開店当初の意義が薄れたとして、1998年12月末までに両店を閉鎖し、大丸フランスは精算された[ 84] 。
パリ大丸
「レ・ブティック・ド・パリ」地下1階から地上1階 店舗面積744㎡。
1974年3月1日、パリ商工会議所が中心となって進めるパリの総合都市再開発プロジェクトの一環として建てられた公共施設「パリ国際センター 」の中央部分にあるショッピングセンター「レ・ブティック・ド・パリ」に開店。主な取扱商品は、地下1階がジバンシィ・ヌーベル・ブティック および婦人雑貨など、1階が呉服 、陶器 、磁器 、日本人形 などだった。周辺はパリ市内で最も消費購買力の高い高級住宅地のパリ8区 、16区 、17区 などがあり、さらなる発展が見込まれていた。1998年12月末閉鎖。
リヨン大丸
「リヨン商業センター」1階 売場面積180㎡。
1975年9月9日、パリ大丸での実績を評価する現地のディベロッパーから要請され、リヨン に初めてできたショッピングセンター「リヨン商業センター」(地下1階、地上4階建て)の1階ブティックゾーンにオープン。取扱商品はきもの、陶磁器、日本人形など。1998年2月末閉鎖。
提携関係
本来、日本の百貨店 は、チェーンストア ではないため中央仕入れは行わないものとされていたが、大丸には名古屋 に進出した江戸時代 から、既にこの思想があった。「正札現金掛け値なし」の一物一価制 を実現するため、1729年に京都 ・柳馬場綾小路に「仕入れ店」を置いたのがその始まりである。呉服の生産地である丹後 や桐生 に担当者を常駐させ「本社集中仕入れ=セントラル・バイイング 」を行う一方、販売にあたっては、「顧客目線=ダイレクトマーケティング 」も行った。それこそが「先義後利」思想に基づく商売のあり方と創業者下村は考えて具体化したものだった[ 88] 。
松坂屋との提携
1970年1月16日、大丸は売上拡大および仕入れ業務の大規模化、合理化によるスケールメリット の追求を目的に松坂屋 と商品における業務提携を締結し発表。1月20日には「中央仕入機構(大丸・松坂屋CBS)」を設置した[ 90] 。大手百貨店同士の提携は画期的なものだった。提携の主な内容は、①提携業務の範囲は共同仕入れ(海外商品を含む)や新商品の共同開発、情報交換などの商品面に限定する。②提携店舗の範囲は、大丸は直営4店、関係百貨店7店、海外店2店、大丸ピーコックストア 、ピーコック産業を含めたオール大丸グループと商品提携会社で、松坂屋は上野・銀座・名古屋・大阪・静岡の5店と、横浜野沢屋 、松坂商事、松坂屋ストア 、フィリピン松坂屋などのオール松坂屋グループと商品提携会社とした。そして9月1日からは両社の顧客の利便性を図るため、商品券 の相互交流を実施。1971年3月12日には、大丸と松坂屋の共同企画第1回「超廉売」を開催。1976年3月まで11回にわたり開催されている。
十字屋との提携
1971年、関東 ・東北地方 に30数店舗を展開していた十字屋 から要請を受け、大丸は技術協力、商品提携を行い、6月には幹部社員を派遣するなど支援を続けた。1973年10月、大丸、丸紅 、富士銀行 の3社は十字屋に対するバックアップ体制を強化することになり、大丸は取締役を十字屋に派遣、派遣された取締役は、10月30日に開催された株主総会 および取締役会 で代表取締役 副社長 に選任された。なお、その後十字屋はダイエー に株を買い占められ、1982年春、ダイエー傘下となった[ 93] 。
天満屋との提携
1972年5月16日、大丸は岡山市 の天満屋 と商品の相互託送システム利用などを中心とした業務提携を発表。商品提携では9月から、大丸側から紳士服トロージャン およびジョン・ワイツ、婦人服ジバンシィ・ヌーベル・ブティック 、子供服リトルトロージャンなどのオリジナル商品が供給されている。
その他百貨店との提携
1962年、小田急百貨店 (新宿)との商品券の相互利用が始まる。
1971年11月5日、青森県 の中三 (2024年破産)からの要請に応え、同社が資本金を1億2,500万円から1億7,000万円に増資するに際し、大丸が2000万円を引き受けた。すでに大丸オリジナル商品であるトロージャンやジョン・ワイツなどで商品提携をしていたが、これをさらに進め、両社開発商品の交流などに業務提携を広げることになった。
1975年5月、トロージャンを中心に商品提携を実施していた福岡県 の松屋 (2004年破産)と業務提携を強化し、大丸のオリジナル商品斡旋拡大、商品券などの相互交流などが開始された。7月1日には徳島市 の丸新百貨店 (1995年閉店)、11月1日には姫路市 の山陽百貨店 と直配システムの提携や商品券の相互交流が始まった。
1994年には三越 と配送業務提携。東京地区を三越、大阪地区を大丸が担当。翌年には三越と商品提携を行い、相互の商品が各店店頭に並べられた。
東急グループとの提携
1972年3月1日、大丸と東京急行電鉄 は両社グループの協力・連携を前提に、大丸の副社長だった田中正佐 を東急電鉄の役員に選任することで合意。田中は5月に行われた株主総会で専務取締役に就任し、東急グループ の流通部門を担当することになり、東急百貨店 社長も務めた。その後、両社グループで提携内容を具体化し、翌年8月1日、大阪、京都、神戸の各店で東急不動産 との提携による「東急・大丸リビングローン制度」および「東急・大丸インテリア等紹介制度」が発足した。
提携店
太字 は現在も営業中。それ以外は閉店・他社と合併したもの。
中三 (五所川原、弘前)※1994年ジャスコ(現・イオン)と提携。
十字屋 (山形、仙台、足利、千葉、木更津、館山、銚子、藤沢)※1982年春ダイエー傘下に。
清水屋 (酒田)※1982年ダイエーと提携、1994年中合 と合併。
大和 (金沢 、富山 、高岡、新潟、長岡、上越)
松坂屋
山陽百貨店 (姫路 )※2007年DIAグループ。
天満屋 (岡山 、倉敷 、福山 、広島)※伊勢丹A・D・O 重複加盟。
大牟田松屋 ※2004年経営破綻のため閉店。
岡政 ※後の長崎大丸。
山形屋 (鹿児島 、宮崎 、沖縄)※伊勢丹A・D・O重複加盟。
出店を断念した店舗(店名は仮称)
浜松店
2001年に閉店した静岡県 浜松市 の松菱 百貨店跡地において、再開発計画が持ち上がり、地元不動産業者のアサヒコーポレーション・浜松市・大丸の三者で出店基本協定を締結。営業面積約34,000m2 、地下4階地上9階建の規模で2010年の開店を目指すとしていたが、多量の地下水 による難工事を理由に開店の一年延期を発表した。だが実際は、一部の地権者 が交渉を強硬に拒否し着工の見通しが立たなかったことが理由であり、後日一部マスメディアでも報道された。これにより大丸は基本合意を解除した。浜松市長も2008年9月の市議会答弁に於いて用地取得の難航を認め、2011年秋の開店は不可能という見解を示した[ 95] 。急激な景気後退による消費不振が表面化する中、2009年1月26日、大丸側も正式に出店断念を発表した[ 96] 。
高槻店
1971年、国鉄高槻駅 前に建てられる再開発ビル に大阪店の分店として出店を発表。ところが、1974年春の完成予定が3年半を越える大幅な遅れが見込まれるうえ、石油危機 による資材高騰を受け、投資額が当初予定の3倍となり採算が見込めなくなったことから、1974年7月に大丸は高槻市に対し出店辞退を申し入れた。1979年に竣工した「グリーンプラザたかつき 」2号館には松坂屋 高槻店が開店。2010年の大丸と松坂屋の統合に伴い、同年3月1日より大丸京都店の分店となっている[ 97] 。
池田店
大阪府池田市 で、丸池地方卸売市場移転後に跡地への出店計画があった。しかし、大阪駅増改築に合わせた梅田店の出店に計画変更した。
三田店
兵庫県三田市 で、1982年 に三田駅 前に建設される再開発ビル計画が浮上し、大丸の出店が決定するが、1993年 に大丸は出店断念を表明[ 98] 。その後、ライバルの阪急百貨店 が再開発ビルの保留床を買い取って出店する方針が明らかとなったが、住宅・都市整備公団 が同市で進めるウッディタウン へのサティ 出店などを理由に、阪急も出店計画を断念したと報じられた。だが、阪急は出店を賃貸方式に見直して、2005年9月15日、再開発ビル「キッピーモール」2階にサテライト店舗に近い形の三田阪急 、1階に同社系列スーパーの阪急オアシス を開店した[ 99] 。2020年3月期の三田阪急の売上高は13億6400万円だったが。減少傾向にあるため[ 100] 、阪急オアシスを残し、2階の百貨店部分は2021年8月1日で閉店した[ 101] 。
明石店
兵庫県明石市 で、計画を進める明石駅 前の再開発ビル「アスピア明石 」のデベロッパーである竹中工務店 から核テナントとして出店を要請され、大丸は再開発組合や竹中工務店と協議を重ねた。しかし、1995年2月に阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸店の再建を優先するため、計画断念を再開発組合に正式に申し入れた。代わって出店を表明したコープこうべ も計画中止となり、核店舗を持たない状態で開業した同施設は苦戦している。
広島店
1960年代に広島市 で、従来の地平施設であった「広島バスセンター 」が、土地の有効活用などを目的にビルの建設について検討をし、その提案にそごう や髙島屋 と共に出店を申し込んだ。しかし、当初計画で1階にバス施設の配置が計画されていたことで、大丸は店舗へのアプローチが悪いことにより早期に辞退した。1974年に完成した建物には広島そごう が開店。
関連会社
ピーコックストア (旧大丸ピーコック。後に持株会社傘下からイオングループ 傘下となり、現在はイオンマーケット となった。)
大丸興業
ダイコー (大丸興業の釣具ブランド。1993年に分社化したが、2003年に大丸興業に吸収。販売終了。)
J.フロント建装
ディンプル(人材派遣業 ) - 90%ほどの株式を外部に売却したが、引き続き10%ほどをJ・フロントが保有。
大丸情報センター
大丸ホームショッピング
八重洲地下街
大丸出身の著名人
野球部
1960年代は京都と大阪にそれぞれチームを持っていたが、その後京都に統合し、1981年まで活動していた。
競泳部
その他
提供番組
現在
テレビ
過去
テレビ
ラジオ
朝日放送 『ABCディスカバー・サタデー フレンドリー大丸』1972年・大丸サタデースペシャル
京都放送 『アクションヤング大丸』 京都店屋上で公開録音。
ラジオ関西 『神戸発日曜午後一時 』
ラジオ関東 『大丸ミュージックスクエア』町田店、八王子大丸屋上で公開録音 ほか
文化放送 『ミュージックスクエア 歌の百貨店』
脚注
注釈
^ 株式の譲渡については無限責任社員(出資者全7人)の同意を必要としたので、下村一族や従業員以外に株式が流れる心配はなかった。
^ 梅田店では改装工事のため一時販売を行っていなかったが、2011年3月5日より販売を再開している。
^ いずみたく 作詞のCMソングもあった。
^ 開業時の名称は「大阪店 松屋」
^ 発足時(当時は新日本放送)から大株主
出典
参考文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
大丸 に関連するカテゴリがあります。
大丸ヴィラ (迎賓館)
阪神タイガース (日本シリーズ優勝の際は、こちらで優勝セールを行う。ただし、心斎橋店・梅田店は阪神百貨店と競合するため許諾が受けられなかった)
オリックス・ブルーウェーブ (日本シリーズ優勝の際は、神戸店で優勝セールを行っていた。神戸市内の同業他社(そごう神戸店、当時ハーバーランドにあった神戸阪急)も行っていた)
大和 (石川県・富山県を地盤とする地方百貨店。創業時は大丸との提携により「宮市大丸」を名乗っており、旧社紋は大丸旧社紋の丸を加賀藩主前田氏 家紋であり宮市大丸が統合した丸越の社紋の一部でもあった梅の形に置き換えた物を使用。経営統合前の大丸の株主でもあり、現在もJフロントリテイリングの株主。)
デッチーくん 元は京都店のマスコットキャラクター。大丸松坂屋百貨店の発足後は、松坂屋上野店のマスコットであった「さくらパンダ 」とともに、同社のイメージキャラクターとなった。長崎大丸のキャラクターであった「政どん(現:でっちー)」も、デッチーくんとほぼ同じ造形である。
中田ダイマル
毎日放送 (設立当初からの大株主。ただし、現在は株主から離れている)
礒村春
ディーズファッション専門学校
外部リンク