長澤 徹(ながさわ てつ、1968年5月28日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。2024年シーズンからJリーグ・大宮アルディージャ(2025年からは「RB大宮アルディージャ」)の監督を務める。
清水東高校(武田修宏の1年後輩)から筑波大学へ進み、筑波大では中山雅史、井原正巳の1年後輩。1991年に大学を卒業し、山本昌邦にスカウトされて[4]日本サッカーリーグ1部所属のヤマハ発動機サッカー部に入団、ヤマハからジュビロ磐田への変革期に主に右サイドバックとしてチームを支え、磐田のJリーグ昇格に貢献した。
その後、ジャパンフットボールリーグの本田技研へ移籍。1996年のジャパンフットボールリーグ優勝にも貢献した。1998年より現役を引退して同チームのコーチとなり、指導者としてのキャリアをスタート。
2001年、現役時代から志望していた[5]Jリーグ・FC東京に籍を移し、大熊清監督の下でトップチームコーチに就任[6]。選手一人一人を丁寧に観察し、若手や出場機会を得られない選手を技術面・メンタル面ともにサポート[7][8]。試合出場機会を得られなかった時期に基本的な技術を見つめなおす助言を与えたり、クサりがちになる精神面のケアなど丁寧に話し掛け[9]、真摯に向き合った指導法[注 1]によって、選手[注 2]に大きな影響を与えた。
2006年、FC東京U-15深川監督に就任し[15]、ユース世代の育成担当となったが、同年8月にトップ監督のガーロが解任となり、倉又寿雄新監督就任と共にトップチームヘッドコーチに就任。2008年、深川監督に再任。橋本拳人、野沢英之、二瓶翼らの活躍により、この年のU-15高円宮杯で優勝を果たした。
2010年5月、S級ライセンスを取得した[16]。同年9月、監督に再任した大熊の要請を受け[5]トップチームのコーチに再任[17]。契約満了により、2011年限りでFC東京を退団[18]。
2012年、古巣の磐田より招聘され[19]、共にS級ライセンスを受講した[20]森下仁志の下でトップチームのヘッドコーチを務めた[21]。2013年5月、成績不振による森下の監督退任に伴い暫定監督に就任[22]、10節から13節まで指揮を執った。5月19日、関塚隆が監督に就任し、14節以降は再びヘッドコーチに戻った。
2014年からファジアーノ岡山のコーチ[23]、2015年からは監督に就任[24]。同年はハードワークと献身性を拠り所に堅実なチーム作りを進め[25]、終盤14試合を5失点の堅守、1敗に抑え浮上の手ごたえを掴んだ[26]。2016年は、当初目標に掲げていた前年比+10の勝ち点・得失点差を[27] ほぼ達成し(勝ち点は54から65、得失点差は+5から+14に上昇)クラブ史上最高成績を残した。J1昇格プレーオフに進出したものの、決勝戦でかつて共闘した因縁の[5]大熊が率いるC大阪に敗れ、J1昇格を逃した。
2018年シーズン終了をもって岡山の監督を退任した[28]。
2019年より古巣FC東京に復帰し、トップチームのコーチ兼U-23監督に就任[29]。翌2020年も引き続きU-23チームの監督を務める予定であったが、新型コロナウイルス流行の影響を受けU-23チームの同シーズンJ3参加辞退が決定、自身はトップチームコーチに専任することとなった[30]。
2021年、京都サンガF.C.のヘッドコーチに就任[31]。
2024年、京都サンガF.C.のヘッドコーチを退任[32] し、大宮アルディージャの監督に就任[33]。
大宮では開幕当初から強さを見せ、4月にはJ3の月間最優秀監督賞を受賞する。1年を通して安定した強さを見せ、第32節福島戦で6試合を残して昇格を確定させ、続く第33節今治戦で引き分けJ3優勝を決めた。
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