高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は、長崎県南島原市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはフォワード(FW)。元日本代表。大阪商業大学卒業。2023年現在はJリーグ・V・ファーレン長崎の取締役兼CRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)を務める[1]。
家族は妻と一男一女。第一子の長男はサッカー選手の高木利弥。
現役時代は、184 cm・85 kg(選手時代は188cm・82kgとなっていた)という恵まれた体格を生かしたポストプレーやヘディングを武器に得点を重ねたセンターフォワード。「アジアの大砲」と呼ばれ[2]、ハンス・オフト監督政権下の日本代表におけるキーマンであった[3]。マーク・ヒューズを憧れの選手としていた[3]。
長崎県南高来郡北有馬町(現・南島原市)出身。小学生時代は野球少年で、「堀内2世」と周囲に言われた豪腕投手だった[注釈 1]。 中学3年生の時、2年後に島原商業高校サッカー部監督の小嶺忠敏が国見高校に異動するという情報を耳にしていた[注釈 2]。高校2年生から指導を受けられる予定であったため、島原商業ではなく、国見高校に進学する。2年生になり、小嶺が国見高校に赴任してきたとき、新3年生の部員はおらず、また、2年生の部員も小嶺の指導のあまりの厳しさに1人、2人と減り、秋になる頃には高木1人しか残っていなかった。そのため、小嶺新体制の国見高校サッカー部のいわば「長男坊」として、早くからチームのまとめ役を任された。3年時には主将としてインターハイに初出場し、国見高校の選手を中心に編成された長崎県選抜チームで臨んだ国体サッカー少年男子の部では、準優勝と得点王に輝いたが、全国高校サッカー選手権では県予選で後に同僚となる前川和也を擁する平戸高校に敗れて初出場は果たせなかった[4]。
高校卒業後の1986年に大阪商業大学へ入学し、同大学のサッカー部でプレー。小嶺の師でもある上田亮三郎から指導を受け、関西学生サッカーリーグ戦では1987年と1988年の2度、1部リーグで優勝した。
大学卒業後、当時のマツダサッカー部監督・今西和男からの誘いを断り[5]、フジタ(現:湘南ベルマーレ)に入団[5]。しかしチームに合わず[5]、1991年今西からもう一度声を掛けられマツダに入団[5]。早くから攻撃の中心選手として活躍した。またマンチェスター・ユナイテッドFCに短期留学したこともあった。マツダがサンフレッチェ広島F.Cとして発足するとプロ契約、1992年にはJSL新人王を獲得。
1993年5月26日の第4節横浜マリノス戦での決勝ゴールが[6] Jリーグ初ゴールとなった[7]。しかしこの年11ゴールは決めたものの、期待されていた程のゴールは挙げられずに終わった[8]。
1994年には、イワン・ハシェックと抜群のコンビで、第19節で首位争いをしていた清水エスパルスとの首位攻防戦で2ゴールを決め[9]、優勝を決めた第21節のジュビロ磐田戦では同点を奪うなど[10]、広島の1stステージ優勝の原動力となった。しかし、同年のJリーグチャンピオンシップの第2戦でV川崎の加藤久のスライディングにより負傷し、1995年の1stステージは怪我で全く出場出来なかったが、2ndステージから複帰、第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会準決勝のガンバ大阪戦では先制点を決めて決勝進出に貢献した[11]。1996年9月21日のジェフ市原戦では、サンフレッチェの日本人選手としては初となるハットトリックを決めた[12]。1997年5月3日の京都パープルサンガ戦でのゴールはJリーグ3500点目のゴールとなった[13]。
1998年、広島の経営悪化に伴い移籍金を得るため放出を余儀なくされ、本人も環境を変えるいい機会として、ヴェルディ川崎へ移籍。前線の基点としてプレーし、開幕戦となったベルマーレ平塚戦で移籍後初ゴールを挙げ、第9節のアビスパ福岡戦ではハットトリックを決めるなど[14]、ファーストステージだけで9ゴールを挙げたが、怪我でセカンドステージのほとんどを欠場し、1シーズン目は22試合9ゴールの成績を残した[7]。しかし、次第に怪我により活躍できなくなっていく。V川崎で2シーズンプレーした後、1999年末には日本代表のコーチや監督として指導を受けていた岡田武史監督に誘われ、コンサドーレ札幌へ移籍。初めてJ2でのプレーとなった2000年は札幌のJ2優勝メンバーとなった。2000年12月3日、天皇杯2回戦、草津東高戦では現役最後のゴールとなったゴールを決めたが、リーグ戦初の年間ノーゴールに終わり[7]、同年を最後に、膝の負傷などを理由にして現役を引退した。
1992年にはハンス・オフト監督が指揮する日本代表にも初選出され、ダイナスティカップ1992では決勝の韓国戦でのゴールを含め[15]、4試合で5ゴールを挙げて得点王に輝き、広島で開催されたアジアカップでは決勝のサウジアラビア戦で決勝ゴールを決め[16]、日本の初優勝に貢献[17]。「アジアの大砲」というキャッチフレーズで[18]、人気選手の一人となった。同年のFIFAワールドカップ・アジア最終予選にも出場したが、2試合ノーゴールに終わり、またイエローカード累積で次節の北朝鮮戦は出場停止となった。これまで代表チームのFWの主軸であったものの、北朝鮮戦以降は中山雅史の活躍でポジションを奪われ[19]、予選最終戦のイラク戦でも出場機会は与えられなかった。
1997年、1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の一次予選では、3月25日のマカオ戦[20]、3月27日のネパール戦と[21]、釜本邦茂以来と2人目となる代表2試合連続ハットトリックを達成した[22]。最終予選直前に行われた、JOMO CUP、Jリーグ外国籍選抜との対戦以降は代表に呼ばれていなかったが、最終予選最終節のカザフスタン戦に招集され[注釈 3]、後半途中から出場して1ゴールを挙げた。この試合が代表最後の出場となった。続くプレーオフのイラン戦(ジョホールバルの歓喜)では招集されず、翌年はJリーグで好調であったものの、本大会でも日本代表には選ばれなかった。
サッカー解説者として活動する傍ら、2005年には将来のJリーグ参入を目指して高木の故郷である長崎県で結成されたV・ファーレン長崎から監督就任のオファーを受けた。しかし、解説者としての仕事の都合や、当時はまだS級ライセンス取得中であったことから監督就任は見送り、技術アドバイザーとしてチームを支えることになり、主にサッカー解説のない時に来訪して指導していた。
S級ライセンス取得後、2006年からはJ2の横浜FCのコーチに就任し、指導者としての第一歩を踏み出した。更にチーム始動から1ヶ月程しか経っていない第1節終了後の3月6日には足達勇輔監督が解任されたことに伴い監督に昇格し、チームを指揮することになった。指導経験に乏しく、準備期間も与えられなかった上、先輩に当る三浦知良を選手として起用することへの指導面も含め、難しい立場と思われていた。フロントの決断はサポーターの批判も招き、高木の初指揮となった第2節のホーム開幕戦では横断幕ゼロ、一切のコールを行わず試合を見守るのみという沈黙の抗議を行なう事態となった。
しかし高木就任後、チームは15戦無敗[注釈 4]。新監督として過去にない好成績を残し、J2加入以来5年間下位に沈んでいたチームを一気に昇格争い出来るチームへ変貌させた。更にイタリア代表の堅固な守備を称したカテナチオをもじって名付けられた「ハマナチオ」は、770分間連続無失点のJリーグ新記録[注釈 5] 及び7試合連続無失点のJ2タイ記録も樹立し、選手・サポーターの信頼を勝ち得た。11月26日、第51節(残り1試合)でのサガン鳥栖戦の勝利と、同節の他チームの結果によってJ1昇格を決定させると共に、指導者として初のタイトル(J2優勝)を獲得。初物づくしの一年となり、高木の手腕はサッカー評論家などの間で高く評価された。
2007年も同チームを指揮、開幕戦では敗れたものの前年王者の浦和レッズを苦しめ、第2節の「横浜ダービー」横浜FM戦で勝利するなど、開幕直後はJ1でも通用するかに見えた。しかし、他クラブとの戦力差は否めず、「ハマナチオ」はあっという間に崩壊、大量失点を繰り返した。新戦力の奥大介や久保竜彦も故障で離脱するなどし、大差での最下位(18位)に低迷。三浦淳宏獲得などの補強方針を巡ってフロントとの確執も表面化し、8月27日をもって監督を解任された[注釈 6]。
その後はTBSのスーパーサッカー[注釈 7] などでサッカー解説者を務め、2008年、J1に復帰した東京ヴェルディのコーチに就任。2009年からはクラブのJ2降格に伴い退任した柱谷哲二の後を受け、東京Vの監督に就任した。経営難から満足な戦力が整わない中、中盤には6連勝を含む10戦負けなしを記録するなど奮闘したが、クラブの身売り・存続の危機というピッチ外での騒動の影響もあって、徐々に成績は下降。1年でのJ1復帰がなくなったことに加え、第89回天皇杯の初戦でJFL所属のホンダロックSCに敗れたことが引き金となり、7試合を残した10月に途中解任された。
2010年より、ロアッソ熊本の監督に就任。守備に重点に置きながらカウンターを狙うという戦術が功を奏して失点数を大幅に減らすことに成功し、J2昇格後3年目のチームを初めて1桁順位(7位)に押し上げた。しかし翌年11位に後退、更にその次2012年も12位以下が確定したことから、クラブは2012年11月8日、同年シーズンの公式試合が終了次第退任させることを発表した[23]。
2013年より、かつてアドバイザーを務めたV・ファーレン長崎の監督に就任。J2初年のチームを6位に導き、J1昇格プレーオフ進出を果たした。2014年は14位に終わったものの、2015年には6位となり2年ぶりにJ1昇格プレーオフへ進出した。2016年は15位に終わったが、2017年には2位となりチームをJ1初昇格に導いた。
2018年シーズンは、J1開幕戦から第6節・FC東京戦まで2分4敗と苦しむが、第7節・清水エスパルス戦で長崎のJ1初白星を記録する[24] と、第11節・ジュビロ磐田戦まで4連勝を達成[25]。J1リーグ前半戦終了となる第17節終了時点で、15位・5勝2分10敗の成績で折り返す[26]。J1リーグ後半戦開始となる第18節・FC東京戦で勝利を挙げるが、第19節・北海道コンサドーレ札幌戦から第25節・湘南ベルマーレ戦まで1分6敗と苦しみ、チームは最下位へ転落。第26節・名古屋グランパス戦で7連勝中の名古屋を4-3で下し勝利する[27] と、続く第27節・ベガルタ仙台戦でも勝利を挙げ、2連勝を達成する[28]。しかし、最下位脱出とはならず、11月10日、第32節・横浜FM戦に敗れたことで自動降格圏である17位以下が確定[29][30]。11月17日、J2リーグの最終節でFC町田ゼルビアの4位が確定したことにより、J1残留の可能性が消滅。1年でのJ2降格が決定した[31]。11月19日、契約満了に伴い、2018シーズン限りで退任することが発表された[32][33][34]。第33節・ガンバ大阪戦で敗れ、長崎は最下位での降格が決定[35]。最終節では清水と対戦し、4-4で引き分け[36]、長崎のJ1初挑戦となった2018年シーズンの勝ち点は30となった。J1リーグの最下位チームとしては、現行の18チーム制になった2005年以来、過去最多を記録した[37][38]。
2019年シーズンより、大宮アルディージャで監督を務める[39]。自動昇格圏内の僅差の3位までチームを引き上げたが、J1参入プレーオフ初戦でモンテディオ山形に敗れ、J1昇格を逃した。2020年は開幕4連勝で首位に立ったが、コロナ禍による過密日程やけが人続出もあり次第に成績が下降し最終的には15位と低迷。12月8日、大宮の監督を退任すると発表された[40]。
2021年6月1日、解任された三浦文丈の後任として、SC相模原の監督に就任することが発表された[41]。2022年5月20日、解任が発表された[42]。
2022年12月、V・ファーレン長崎に復帰し、同社取締役兼CROとなる[1]。
その他の公式戦
高校時代
クラブチーム
代表
指導者