松原 良香(まつばら よしか、1974年8月19日 - )は、静岡県浜松市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者、実業家。Jリーグ選手OB会副会長。元サッカー選手の松原真也は兄、サッカー選手の松原后は甥(真也の息子)。
プロサッカー選手となる3歳年上の兄・真也にあこがれ小学校3年生よりサッカーを始める。真也は高校2年生の時にアルゼンチンに渡り、プロ契約を果たした[1]。その影響を受け、自らもアルゼンチン行きを周囲に相談するが反対され断念。
東海大一高校の同学年には伊東輝悦、白井博幸、1学年上には服部年宏、岩下潤がいる[2]。高校卒業後、特待生として阪南大学に進んだが、3日間で辞めて静岡に戻る[3][2][4][5]。世代別日本代表コーチとして面識があったヤマハ発動機(のちのジュビロ磐田)の山本昌邦から連絡を受け、海外に挑戦することを勧められる[5]。帰国後はジュビロ磐田でプレーするという約束を交わした上で、山本に紹介されたウルグアイのCAペニャロールにてプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる[5]。
CAペニャロールには1993年4月から12月まで在籍し、トップチームのひとつ下のカテゴリーに所属した[5]。帰国後は同年よりJリーグに参入したジュビロ磐田に加入。FWには中山雅史、サルヴァトーレ・スキラッチがおり、松原はスーパーサブとして起用された[6]。1年目は18試合に出場し、チーム内ではスキラッチに次ぐ7ゴールを記録した[7]。
1996年、28年ぶりの出場となったアトランタ五輪に出場するU23日本代表に選出。「マイアミの奇跡」として知られるブラジル戦に途中出場した他、ハンガリー戦にもスタメンで出場した。
磐田監督のハンス・オフトと折り合いが悪く[8]、1996年は清水エスパルス、1997年はジェフユナイテッド市原でプレー。1998年に磐田に復帰したが、1度も出場機会が訪れないままシーズンを終えた。
1999年はプルヴァHNL(クロアチア1部)のNKリエカに移籍[9]。チームメイトには財前宣之がいた。移籍にまつわる手続きに時間がかかり、実際に試合に出場できるようになったのは4月ごろからだった[9]。移籍先を探してスイスやドイツを転々とし[9][10][11]、10月にスイス・スーパーリーグ(スイス1部)のSRドレモンに加わり、年末まで在籍した[11]。
2000年、日本に戻りJ2の湘南ベルマーレに加入。前園真聖は「自分の年俸を削って構わない。だから松原を獲得してくれ」とクラブのフロントに懇願したと語る[12]。松原はこの年のリーグ戦でチーム最多の12点をあげた[13]。
2001年、ウルグアイのCAプログレッソから1年間の期限付き移籍という形でアビスパ福岡に加入[14][15]。
2002年には代理人からの紹介によりウルグアイのデフェンソール・スポルティングに渡ったが、すでに同クラブでは外国人枠が埋まっており登録できなかった[16]。同年後半はブラジルのクラブで練習に参加していた[16]。
2003年、加藤久が監督を務める九州サッカーリーグ所属の沖縄かりゆしFCに加入、主将を任された[17]。メインスポンサーの撤退を受けて同クラブの全所属選手が退団するなか、松原も第28回全国地域リーグ決勝大会を間近に控えた2004年10月に静岡FCに移籍[17][18][19]。 2005年は静岡FCで選手兼任監督を務めた[20]。
2005年にFELICEサッカースクールを開校[21]。2009年にFELICE MONDO株式会社、2017年に一般社団法人FELICEスポーツクラブを設立し、それらの代表を務めている[21]。 現在Uー15は千葉県1部で奮闘中
2009年から2015年までは暁星国際学園アストラインターナショナルコースゼネラルマネージャーを務めた[21]。
2015年11月、SC相模原の監督に就任した[22]。J3リーグ残り3戦での監督就任で2勝1分けの好成績を残すも2015年シーズン限りで退任。
2016年4月より、筑波大学大学院人間総合科学研究科スポーツ健康システム・マネジメント専攻に在学し、2018年に体育学の修士学位を取得。2019年より吉備国際大学スポーツ社会学科の非常勤講師を、2022年より筑波大学大学院人間総合科学研究科の非常勤講師を務める。
2019年、大学院での研究論文をまとめた書籍「ストライカーを科学するーサッカーは南米に学べ!」を岩波書店より出版する。
2023年からは、いわてグルージャ盛岡の監督を務める[23]。
2023年9月、成績不振の為、解任[24]。
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