名良橋 晃(ならはし あきら、1971年11月26日 - )は、千葉県千葉市花見川区出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者。現役時代のポジションはディフェンダー(右サイドバック)。元日本代表。
長男の名良橋拓真もプロサッカー選手(J3リーグ・テゲバジャーロ宮崎所属)。
小学校時代は地元千葉のサッカー少年団で、キックボクサーの元日本チャンピオン立嶋篤史とチームメートであった。
千葉英和高等学校を卒業後、1990年に日本サッカーリーグ1部のフジタ(現:湘南ベルマーレ)に加入。同時に日本ユース代表にも選ばれ、サイドバックとしてのいろはをデットマール・クラマーに叩き込まれた。後にベルマーレでもチームメートとなる田坂和昭とはこの時以来の親友。
平塚では、左サイドバックの岩本輝雄と共に、攻撃型サイドバックとしてチームを牽引。1993年のジャパンフットボールリーグ1部ではサイドバックにも関わらずアシスト王となった。
1994年3月12日、ヴェルディ川崎戦でJリーグデビューを果たし、同年9月27日、オーストラリア戦で日本代表デビューを果たした[1]。しかし代表監督が加茂周に変わると代表からしばらく遠ざかった。
1997年、代表復帰のためにはJリーグで優勝を争うチームに所属する必要があると考え鹿島アントラーズに移籍。当時の鹿島には、名良橋が尊敬する右サイドバックの名手、ジョルジーニョ(鹿島ではボランチとしてプレイ)が在籍しており、それが移籍の決め手になった。
代表ではそれまでレギュラーだった柳本が怪我により長期離脱すると、名良橋はアントラーズで活躍を見せ目論見通り代表に復帰し、レギュラーに定着。 フランスW杯でも日本代表の右ウイングバックとして全3試合に出場した。 その後、監督がフィリップ・トルシエに変わると、右サイドは望月、伊東、明神、酒井、石井など、本来ボランチの選手を主に起用する形となり召集されることはなかった。 それでもJリーグでは好調なプレーを見せていたため、代表監督がジーコに変わるとさっそく召集される。しかしチーム立ち上げ当初のレギュラーだったが、ディフェンスラインの総入れ替え以降は代表に招集されなくなった。
2006年、本田泰人と共に鹿島と来季の契約を更新しない事が発表された。現役引退を表明した本田と対照的に名良橋は現役続行を希望し、2007年2月に古巣ベルマーレに11年ぶりに復帰したが、同年7月末に契約満了により退団。現役続行を希望し、新たな移籍先を探すも決まらずに2008年2月に引退を発表。今後は指導者を目指すことにし、2009年度よりSC相模原で、ジュニアユース総監督を務めることが決まった。
2008年3月13日、JFAアンバサダーに就任。同月17日、元U-23日本代表の松原良香が主催するフェリーチェFCのコーチとして参加した。
2009年からはNHKやCS日テレ、スカパーなどでサッカー解説を務めている。また、SC相模原ジュニアユースの総監督も務めている。サッカーのコメンテーターとして、あるいはバラエティ番組などで度々テレビ出演している。
攻守に長ける右サイドバック。バルセロナオリンピック予選出場時には左サイドバックを務めていた[2]。
その他の公式戦
その他の国際公式戦