加地 亮(かじ あきら、1980年1月13日 - )は、兵庫県三原郡西淡町(現:南あわじ市)出身[4]の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー[5](主に右サイドバック)、ミッドフィールダー[6]。元日本代表。
小学校1年生時にサッカーを始める[7]。西淡町立御原中学校卒業後、滝川第二高等学校に入学。黒田和生監督の下でサイドアタッカーとして力を伸ばし[8]、高校総体(インターハイ)、高校サッカー選手権大会に出場。
高校卒業後の1998年、ボールタッチの柔らかさとスピードを評価され[9]セレッソ大阪に入団。しかしC大阪ではレギュラーを確保できず[8]、2000年に大分トリニータへ期限付き移籍[10]。リーグ戦34試合に出場し、移籍期間を延長した2001年には[11]、リーグ戦チーム最多出場(吉田孝行とタイ)を記録した[12]。この年限りで大分を退団[13]。
2002年、FC東京に完全移籍[6][5]。夏場以降にレギュラーを確保し、MF石川直宏と右サイドで好連携を築いた[14]。同年10月の札幌戦では派手にロングシュートを決めて[14] J1初得点を記録。代表とチームの行き来で調子を崩したこともあったが[7][15]、真摯な練習姿勢で守備のカバーリングや状況判断などの質を着実に向上させていった[16]。同年のナビスコカップ決勝ではPK戦の最後のキッカーに名乗り出て[17]、これを成功させて優勝を果たし、FC東京に初タイトルをもたらした[18]。
2006年、自身のレベルアップ[19] や関西圏でのプレーを希望し[20][21]、ガンバ大阪へ完全移籍[22]。G大阪にとっては2年越しのオファーが実った[21]。3バックを続けていたG大阪にとって加地の加入は4バックとの併用を可能とするものであり[23][21][19]、右サイドで攻守に貢献[24](シジクレイと宮本恒靖がセンターバックに入り、山口智が左サイドバックへ回った)。同年のJリーグベストイレブンを初受賞した。
2007年のナビスコカップ決勝川崎フロンターレ戦では、4バックの右サイドバックとして先発したが、後半からは3バックの右ストッパーとしてプレーし[25][26]、相手エースのジュニーニョを完璧に封じ込むことに成功し[24] 無失点勝利。加地としてはFC東京在籍時の2004年以来となる2度目、またガンバ大阪としてはクラブ初となる同大会制覇を達成した。2008年ACL及び天皇杯で優勝を果たし、クラブワールドカップの全試合に出場。2009年も、G大阪の右サイドバックの座を不動のものとした。2012年は、3度の膝内側側副靭帯損傷を繰り返し、チームも不振に陥りJ2へ降格。2013年は開幕前の練習試合で右足を負傷し、開幕には間に合わなかったものの、J2第3節横浜FC戦で復帰。以降、大きな怪我なくシーズンを乗り切り、J2優勝及びJ1復帰を掴んだ。
2014年6月24日、メジャーリーグサッカー・チーヴァス・USAへの完全移籍が発表された[27][28]。7月20日の第19節D.C. ユナイテッド戦で初出場すると、以降はリーグ戦全試合にフル出場。だが同年10月にチーヴァス・USAは解散[29]。分配ドラフトで指名されず[30]、12月に行われた無所属選手を対象としたドラフトでも指名されなかった[31]。
2015年1月9日、Jリーグのファジアーノ岡山に入団する事が発表された[32]。
2017年11月25日、同シーズン限りで引退することを発表した[33]。
1998年、U-19日本代表としてアジアユースに出場[8]。黄金世代(79年組)の一員として[8]、1999年にはU-20日本代表に選出され、FIFAワールドユース選手権(ナイジェリア大会)に出場し、準優勝を遂げた。
2003年10月、FC東京はナビスコカップ準々決勝で敗退していたが、同大会準決勝と日本代表の遠征の日程が重なっており、同代表候補の名良橋晃(鹿島アントラーズ)・山田暢久(浦和レッズ)・市川大祐(清水エスパルス)が前者を優先させたことから新戦力として[34]、加地がA代表に抜擢された[35]。チュニジア戦で国際Aマッチ初出場。加地は3バック全盛の当時においては希少な「本職」のサイドバックであり[34]、MFを追い越して繰り返し全力で駆け上がる果敢なオーバーラップ[36] が買われ[37]、以後もジーコ監督率いる日本代表に定着し、2004年には中国開催のアジアカップに出場し優勝。
2005年6月、コンフェデレーションズカップ出場。ブラジル戦での「幻のゴール[38]」(判定はオフサイド)や、好守の切り替えを怠らないプレーで評価を高めた[9]。同年、ドイツワールドカップ最終予選のイラン戦で国際Aマッチ初得点を挙げ、日本のグループ1位通過及び本選出場に貢献。
2006年開催のワールドカップメンバーにも選出されたが、本大会直前に行われたドイツとの親善試合でバスティアン・シュヴァインシュタイガーから後方からの危険なタックルを浴びせられ負傷退場[39]。第1戦の欠場を余儀なくされた[40]。懸命のリハビリで第2戦に間に合わせ[41]、2試合にフル出場した。ドイツ戦での負傷後、ジーコはシュヴァインシュタイガーを完全に卑劣なタックルだったと名指しで非難[42]。2010年の南アフリカW杯においても「もっとも個人的に、彼(シュバインシュタイガー)のことは応援できない。4年前、加地に対してあんなプレイをした奴だからね。あれは不必要なプレイだった。」と語っている[43]。
ジーコの後任監督であるイビチャ・オシムからも90分間スプリントできるスピードと持久力を高く評価され[44] 出場を続けていたが、2008年に入り岡田武史体制となってからは内田篤人がスタメンに抜擢され、同年3月に右大腿部を挫傷し代表合宿を辞退。この際、クラブと代表が並行する過密日程を強い気持ちで戦い続けることが難しくなってきており、G大阪に専念したいという気持ちの整理を付け[4]、加地自ら岡田へ日本代表引退の意思を伝えた[45]。G大阪公式ウェブサイト上でも5月20日に正式に代表引退が発表された[46]。
家族は妻と1男2女、愛犬(勝利)。2004年1月に入籍[47]。入籍日は日本代表の背番号でもある21日を選んだ。妻は高校の同級生で当時サッカー部のマネージャーをしていた。2006年4月12日に長男が誕生。この日のAFCチャンピオンズリーグ、対大連実徳戦で加地が得たPKを遠藤保仁が決め、ガンバ大阪の選手たちがゆりかごダンスで祝った。
プロ入りから数年間は全くプロ意識が無かったという。「最初は高校生の気持ちで入って、メンタル的にもプロになり切れていなかった。朝まで夜遊びして練習に行くこともありました」と当時を述懐する。当時セレッソ大阪を率いていた松木安太郎下ではプロ1年目でリーグ戦15試合に出場したものの、レネ・デザイェレ監督に代わった2年目は9試合のみでセレッソでは自分のスタイルを確立できなかった[48]。
健康のために飲料水にこだわりを持っており、現役時代は遠征先には特別な水をペットボトルで送ったりしていた。首にはArkRingというトルマリン系のネックレスを着用していた。
「サッカー選手になっていなかったら?」の問いには保育士と答え[14]、現役引退後の職として志望している[49]。
ヘアエステサロン「cazi」やレストラン「CAZIカフェ」を夫婦で経営しており、自身は皿洗いなどを担当している。
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