森重 真人(もりしげ まさと、1987年5月21日 - )は、広島県広島市安佐北区出身のプロサッカー選手[6][7]。Jリーグ・FC東京所属。ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)[4]、ディフェンダー(センターバック)[8]。元日本代表。
広島市西区三篠町生まれ[9]。3人兄弟の次男[10][11]。兄の影響により、8歳(小学校3年生)の時にサッカーを始める[12][1][2]。当時は肩まで伸びた長髪をなびかせて周囲の目を引き、「三篠のロン毛」と呼ばれた[10][13]。三篠小学校4年の時、同市安佐北区口田に引越す[9]。隣家は渡大生の実家だった[9]。少年サッカーの強豪広島高陽FCに所属し全国大会に出場した[10]。中学時にはサンフレッチェ広島ジュニアユースに所属。同期には槙野智章、左山晋平らがおり、当初はFWで[14]槙野と2トップを組んでいたが[12][15]、3年生になる頃[16]、監督の月岡利明と上野展裕によって守備的MF(ボランチ)にコンバートされ主力として活躍した[17]。上野曰く「読みがいいし、組み立てるのも上手(なので守備的MFの方が向いている)」「前 (FW) をやるにはちょっとスピードが足らない」という見方がコンバートの理由だったという[18]。
しかし、ユース[注 1]の昇格は逃す[6][20]。昇格に漏れた経緯を今でも詳しく思い出せない程のショックを受けたが、上野監督から「サンフレッチェにスカウトしてもらえるようにがんばれ」と言葉を添えられ[20]、また高校からの方がプロ入りに近付けると前向きに考え[15][21]、広島皆実高校に進学。1年生の頃から守備的MFとして試合経験を重ね、2年生以降は中心選手として活躍し、U-17日本代表に選出された[20]。高校の2年先輩には吉弘充志がいる。
世代を代表するボランチとして成長したが広島からプロ入りの声は掛からず[20]、大分でスカウトを担当していた片野坂知宏の目に留まりオファーを受け、2006年に大分トリニータへ入団。森重は片野坂を「プロへの道を切り開いてくれた恩人」と語る[22]。ボランチの選手としてプロ入りしたが[4]、大分の監督だったシャムスカは森重をセンターバック(CB)として起用[23]。フィジカルと空中戦の強さはチームメートの梅崎司からも高く評価されていた[24]。2007年シーズン後半より大分でのスターティングメンバーに抜擢され、最終節の対アルビレックス新潟戦ではプロ初得点を挙げた。
2008年からは退団した三木隆司に代わって、3バックの中央で定位置を確保すると[14][15]MFとして養った守備の判断力と攻撃のセンスを発揮し、急成長[6]。このポジションについて本人は「試合の流れを見て、読んで、相手のボールを奪う。先読みしてコースに入ってインターセプトしたり…というのが、自分に備わっている(ため合っている)」と語っている[25]。大分のナピスコカップ優勝にも貢献した。リーグ戦最小失点となる堅守を築いた一方でラフプレーが多く、リーグ戦では11枚ものイエローカードを受けており[26]、カードの多さについては本人も課題に挙げていた[27]。
2009年のシーズン終了後チームのJ2降格や深刻な経営難が表面化したため移籍を決意。川崎フロンターレや浦和レッズとの競合の末[28][29]、2010年からFC東京に移籍することが発表された[8]。FC東京では、主に4バックの右CBに入り今野泰幸とコンビを組んでいたが、新人のキム・ヨングンのCB起用が増えるのに併せて層の薄いボランチに配される機会も多かった。ボランチでのプレーについて、加入当初の監督の城福浩は中盤の選手としての運動量[30]、途中から監督に就任した大熊清は90分通してのアグレッシブさを課題に挙げており[31]、必ずしもベストな選択ではないことをうかがわせていたが、湘南監督の反町康治からは「ボールを動かす力があるし、ドリブルでひとつ持ち運ぶことができる。」[32]、LDUキト監督のエドガルド・バウサから「ディフェンスをしながら攻撃にも参加するという二重の役割をよくこなしていた。」[33] と、敵将から高く評価されることがしばしばあった。東京でもセットプレーなどでのターゲットになることが多く、FC東京での初得点はショートコーナーからのクロスを合わせたヘディングによるものだった。
2011年からは、大熊より「遊びで蹴っているのを見たら明らかに(チームで)一番うまい[34]」とフリーキックのキッカーに指名され[35]、ターゲット役と併行して務め、直接FKでの得点も挙げた。また前年のプレーを自省し[36] 地道なステップワークの練習を重ねるなど[37] ラフプレーの改善に取り組み[38]、出場停止を1試合にとどめ[39] チームでの公式戦最多出場を記録した[40]。ラフプレーの減少については、小学校時代に所属していた高陽FCの代表から「あんなプレーするな。子どもに胸張ってあれが先輩だとよう言えん」と諭されたことが転換点だという[41][42]。
2012年は今野の退団もあり、DFリーダーとして最終ラインを統率[43]。前年に続いて公式戦チーム最多出場[44]。2013年より監督のランコ・ポポヴィッチに指名され、主将を務めた[45][46]。心身両面に安定感を身に付けて[47][48]大分在籍時から続いた守備の粗さを克服[49]。初のベストイレブン選出。
2014年は、世界仕様に近付くために激しさ[50] と緻密さを磨き[51]、DF勢で最多得票を集め[52] 2年連続でのベストイレブン選出。2015年はプレースキッカー太田宏介とのホットラインもあり[53] J1での自己最多得点を記録。昨年に続き、DF勢で最多得票を集めたうえで、3年連続でのベストイレブン選出。
2016年もキャプテンとして安定したプレーを行った。ACLではセンターバックながら1試合2ゴールも記録。4年連続でのベストイレブンを受賞した。2017年は第2節・大宮アルディージャ戦で2017年シーズンのチーム初得点となるミドルシュートを決めて勝利に貢献した。しかし、7月2日のセレッソ大阪戦で負傷。左腓骨筋腱脱臼で全治4か月と発表された[54]。
2018年からはキャプテンの座を譲ったが、長谷川健太が監督に就任したチームの要として活躍、2019年には自身初となるリーグ戦全試合出場を達成した[55]。2020年は橋本拳人の移籍で空いたアンカーのポジションでも起用された[56]。
2006年10月にはAFCユース選手権2006日本代表に選出され、グループリーグ第2戦の対タジキスタン戦で梅崎からパスを受け豪快なミドルシュートを決めるなどの活躍を見せ、日本の準優勝に貢献。
2008年2月には飛び級で[23]U-23日本代表に選出。トゥーロン国際大会でアピールに成功し[57]、同年開催の北京オリンピックメンバーにも選出され、グループリーグ全3試合に出場。アメリカ戦で決定機を逸するなど[58][59]結果を残すことはできなかったが、日本サッカー協会アドバイザーのイビチャ・オシムは、守備面での能力(身体能力、精神力、ユーティリティー性[注 2])を高評価していた[59]。9月29日に森島康仁と共にA代表に選出[60]。監督の岡田武史からは「球出しのセンスがあり、ボール際もかなり戦える」と評された[61]。
2013年、7月には東アジアカップ2013の日本代表に選出され、2009年1月以来約4年半ぶりに[48][21]A代表復帰。同月21日の中国戦で国際Aマッチ初出場を果たした[21]。韓国戦では跳躍力を活かした[62] 空中戦やビルドアップで[63] 出色の活躍を見せ[64] 日本の同大会初優勝に貢献し監督のアルベルト・ザッケローニからの評価[注 3] を高めた[65]。
2014年6月開催のW杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出された[41]。硬直化していた守備陣の中で[66] 力強さと配球力を発揮して[67] 主力を脅かす存在となり[68][65]、本大会第1戦コートジボワール戦ではフル出場。しかし懸命に体を張った守備も及ばず[69][70] 逆転負けを喫した。第2戦・第3戦は出場機会が無く、グループリーグ敗退に終わった。
2015年、同年8月の東アジアカップでは、日本代表の主将を務めた[71]。