細貝 萌(ほそがい はじめ、1986年6月10日 - )は、群馬県前橋市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ザスパ群馬所属。ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)、ディフェンダー(サイドバック)。元日本代表。
妻は元ファッションモデルの中村明花で、自身の30歳の誕生日である2016年6月10日に長女が誕生している[2]。
来歴
浦和レッズ
前橋育英高等学校時代は背番号10をつけトップ下を本職としていた。高校卒業後の2005年、前年に特別指定選手として加入していた浦和レッズに加入。デビュー1年目のシーズンは天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会でセンターバックとして出場した際、安定した守りを見せた。U-22日本代表では右サイドバックでもプレーし、新境地を開いている。ブッフバルト監督体制下においては主にセンターバック、オジェック監督体制下においてはセンターバックやサイドバック、ウイングバックで、エンゲルス監督体制下では本職のボランチで起用されていた。フィンケ監督就任後は、本職である堤俊輔が負傷した影響もあり、左サイドバックとして起用されていたが、2010年は堤俊輔の復帰と宇賀神友弥の加入で同ポジションにある程度の人員が揃ったこともあり、キャンプや練習試合でもボランチで固定され、Jリーグ第1節・鹿島アントラーズ戦ではキャプテンの鈴木啓太を押しのける形で先発出場を果たした。これ以降もボランチとしてレギュラーポジションを確保し、前年までと同様にチーム事情や試合展開によってはサイドバックを務めることもあった。
FCアウクスブルク
2010年12月22日、ブンデスリーガ1部の強豪バイエル・レバークーゼンと2013年6月末までの複数年契約で完全移籍し[3]、移籍後2012年6月末まではブンデスリーガ2部のFCアウクスブルクへレンタル移籍する事が決定した[4]。
2011年2月19日、TSV1860ミュンヘン戦に途中出場しデビュー。同年3月19日、SCロートヴァイス・オーバーハウゼン戦で初先発した。3月10日のブログで、元ファッションモデルの中村明花と3月3日に入籍したことを発表し、2015シーズン終了後に結婚式を行った。
2011-12シーズン、1部昇格を果たしたアウクスブルクは常に残留争いの渦中に立たされるも、自身はレギュラーとして定着し、9月9日の第5節・レバークーゼン戦でブンデスリーガ初得点を決めた。2012年3月10日、第25節・ボルシア・ドルトムント戦では、首位を走るドルトムントの中心選手である香川真司を激しいマンマークで抑える活躍を見せこの節のベストイレブンに選ばれた[5]。最終的に2011-12シーズンのブンデスリーガに所属する日本人選手では最多の32試合に出場し、クラブの1部残留に貢献した。
レバークーゼン
2012年6月、アウクスブルクへのレンタル移籍満了に伴い、新たにレバークーゼンと3年契約を結び、併せてレバークーゼンへの復帰が決定した。2012-13シーズン前半戦は左サイドバックのミハル・カドレツの長期離脱により出場機会を得る。しかしシーズン途中に加入したセバスティアン・ボエニシュが好パフォーマンスを見せたこともあり徐々に出場機会が減少。結局シーズン通してレギュラーを獲得するまでには至らなかった。
ヘルタ・ベルリン
レバークーゼンは複数ポジションをこなせるユーティリティー性を評価し残留を望んでいたが、ボランチでの出場を希望していたため移籍を決断。2013年5月、1部に昇格したヘルタ・ベルリンと2017年6月末までの4年契約での完全移籍が発表された[6]。ヘルタ・ベルリンの監督がアウクスブルク時代にともに残留を勝ち取ったヨス・ルフカイで、そのことが移籍を後押しした。ヘルタ・ベルリンでは開幕から1年間ボランチのレギュラーの座を守り、緊急時はセンターバックも務めた。
2014-15シーズンは、開幕当初こそスタメンで起用されていたが、シーズン途中に監督のルフカイが解任されると定位置を失い、左足の怪我もありシーズン終盤は全く出場機会がない苦しいシーズンとなった[7]。
ブルサスポル
2015年8月27日、トルコ・スュペル・リグのブルサスポルへの1年間の期限付き移籍が発表された。
シュトゥットガルト
2016年7月25日、ブンデスリーガ2部に降格したVfBシュトゥットガルトへ2018年6月までの2年契約で完全移籍した[8]。シュトゥットガルトではアウクスブルク、ヘルタ・ベルリン時代に続きヨス・ルフカイ監督に師事することとなった。しかしそのルフカイが9月15日に電撃辞任し[9]、後任となったハネス・ヴォルフがチームの若返りを図った上に、細貝自身も右足太もも前の肉離れや右足小指の骨折といった怪我に悩まされ、出場機会を失ってしまった[10]。
柏レイソル
2017年3月24日、柏レイソルに加入することで合意したことが発表された[11]。元々小学校の卒業文集に「(将来は)柏レイソルに入る」と書いたほど以前から思い入れがあり[12]、細貝と同じ群馬県出身でかつてレイソルに所属していた大野敏隆に憧れていた経緯もあったという[13]。4月1日、第5節のサンフレッチェ広島戦で移籍後初出場を果たした。
ブリーラム・ユナイテッド
2018年12月6日、タイ・リーグ1のブリーラム・ユナイテッドFCへの完全移籍が発表された[14]。
バンコク・ユナイテッド
2019年12月12日、バンコク・ユナイテッドFCへの期限付き移籍が発表された[15]。2020年2月に開幕したタイ・リーグは、新型コロナウイルスの影響による長期中断を挟み大幅に長引いたこともあって、シーズン途中で完全移籍に移行した。2021年5月30日、契約満了により退団することが発表された[16]。
ザスパクサツ群馬
2021年9月23日、ザスパクサツ群馬への加入が発表された[17][18]。ザスパクサツ群馬は故郷のクラブであること、細貝がプロデビューした2005年にJリーグ参入を果たしたこともあって気に掛けており、いつかは群馬のためにプレーしたいと考えていたという。また以前から自身のシーズンオフに群馬のホームゲームを訪問し、トークショーやサイン会を行い関係を築いていた。
2022年9月4日の栃木SC戦で、試合終了間際にPKを決めて移籍後初ゴールを決めた。Jリーグでは、浦和在籍時代以来となる10年ぶりのゴールとなった。
2024年10月23日、今シーズン限りでの現役引退を発表した[19]。
日本代表
U-16から各世代の日本代表を経験しており、2010年8月には2010 FIFAワールドカップ後に再始動した日本代表に初選出され、9月4日に行われた国際親善試合・パラグアイ代表戦にボランチで先発フル出場を果たし、国際Aマッチ初出場を記録した[1]。
2011年1月25日のAFCアジアカップ2011準決勝の韓国代表戦で、延長前半に本田圭佑のPKのこぼれ球を詰めて代表初得点を挙げた。その後もアルベルト・ザッケローニ体制では代表に呼ばれ続けたが、2014年のブラジルワールドカップには攻撃面を重視した選考がなされたためメンバー入りはできなかった。
人物
所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
その他の国際公式戦
- 出場歴
タイトル
クラブ
- 浦和レッズ
代表
- 日本代表
個人
代表歴
出場歴
- U-16日本代表
- U-21日本代表
- U-22日本代表
- U-23日本代表
- 日本代表
試合数
- 国際Aマッチ 30試合1得点(2010年 - 2014年)[1]
出場
ゴール
脚注
関連項目
外部リンク
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FW | |
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- 12 サポーター / ザスパンダ
- 31 永久欠番
- 932 湯友
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関連項目 | |
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