酒井 高徳(さかい ごうとく、1991年3月14日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ヴィッセル神戸所属。ポジションはディフェンダー(サイドバック)、ミッドフィールダー。元日本代表。
四人兄弟の次男で、兄は柔道家の酒井高喜、弟はプロサッカー選手の酒井宣福(レノファ山口FC所属)、酒井高聖。
日本人の父親とドイツ人の母親との間にアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市で生まれ、2歳の時父親の仕事の都合で新潟県三条市に引っ越した[4]。
10歳でサッカーを始め、三条サッカースポーツ少年団、レザーFSジュニアユースを経て、2006年にJAPANサッカーカレッジ高等部に進学し、開志学園高等学校に籍を置くとともに、アルビレックス新潟ユースに入団。寮生活によって、勉強とサッカーを両立させた[5]。2008年には、2種登録選手としてトップチームにも在籍した[6]。同年11月5日に昇格が発表された[7]。2種登録期間中の11月15日、とりぎんバードスタジアムで行われた天皇杯5回戦(対戦相手: FC東京)に出場し[8]、公式戦に初出場した。
2009年3月7日に味の素スタジアムで開催されたJ1第1節(対戦相手: FC東京)にてリーグ戦に初出場した。同年度は途中出場を中心にリーグ戦18試合に出場した。2010年度よりレギュラーとして試合出場するようになり[9]、翌2011年10月1日の横浜F・マリノス戦(東北電力ビッグスワンスタジアム)にてプロ初得点を挙げた[10]。
2011年12月23日、ブンデスリーガ・VfBシュトゥットガルトへの期限付き移籍が発表された[11][12]。期限は2013年6月30日まで。新潟の生え抜きの選手が欧州のクラブに移籍するケースはこれが初である。2012年2月11日、第21節ヘルタ・ベルリン戦でスタメンフル出場しブンデスリーガ初出場を果たした。以降途中加入ながらレギュラーに定着し、地元紙からその活躍を絶賛されドイツ紙『WELT』からドイツ代表に招集すべきと報道された[13]。
2013年1月10日、VfBシュトゥットガルトへ完全移籍[14]。契約は16年6月まで。
2015年2月14日、ブンデスリーガ第21節ホッフェンハイム戦でブンデスリーガ初得点を決めた。2014-15シーズンは、開幕当初こそスタメンで起用されたが、チームが残留争いの渦中に立たされたシーズン終盤は控えに甘んじることが多かった。
シュトゥットガルトでの出場機会は減少した為、移籍を検討。シュトゥットガルトの監督(2011年当時)であったブルーノ・ラッバディアの熱望を受け、2015年7月5日にハンブルガーSVへ完全移籍した[15]。11月7日、第12節ダルムシュタット戦で初先発。2016年2月7日、第20節ケルン戦以降はレギュラーに定着し、3月6日、第25節ヘルタ・ベルリン戦ではブンデスリーガ通算100試合出場を記録[16]。
2016年11月18日、マルクス・ギズドル監督からチームキャプテンに指名された[17]。ブンデスリーガで日本人選手がチームキャプテンを務めるのはこれが史上初である[18]。また、この時より本職であるサイドバックだけでなく、ボランチでプレーする事も増えた。2017年1月28日、ブンデスリーガ第18節FCインゴルシュタット04では自身約2年ぶりのゴールとなるミドルシュートを決めた。最終節、同じく1部残留を争うVfLヴォルフスブルク戦ではフル出場し、2-1の勝利に貢献[19]。結果的にキャプテン就任時はリーグ最下位だったチームを1部残留させる事に成功した[20]。シーズン終了後には今まで一度も2部に降格した事のないチームのキャプテンを任される事について「何が何でも『2部に降格させた初めてのキャプテンが日本人だ』なんていうのは、もう絶対に、絶対に俺のプライドが許さないっていう感じのがありました。その重圧っていうのはすごくありましたね。何なら最終節の試合の途中でも『マジかよ』と思いながらプレーした時間帯もありました」とプレッシャーがかかっていた心境を吐露した[21]。
2017-18シーズンもキャプテンとしてプレーするも、チームは55年目のシーズンでクラブ史上初の2部降格が決定した[22]。スュペル・リグのベシクタシュJKが関心を示していたものの、シーズン終了後にハンブルガーとの契約を延長し、残留した。
2018-19シーズンは、終盤まで自動昇格圏内の2位以内を維持していたが終盤に大失速し、プレーオフに参戦できる3位にも入れず、4位に終わった。1年での昇格を逃したチームの状況によりサポーターから槍玉にあげられ、最終節のMSVデュースブルク戦ではサポーターからブーイングを浴びせられた[23]。そのブーイングに対して、試合終了後にルイス・ホルトビーらチームメイトが批判し、酒井をかばっている[24]。しかし、昇格を逃した戦犯扱いは変わらず、19-20シーズンに向けてのキャンプに参加した酒井が映っている写真がチームのInstagramに上がると、それが炎上する事態となった[25]。
2019年8月14日、ヴィッセル神戸への完全移籍を発表した[26]。8月17日、第23節の浦和レッズ戦で2011年以来8年ぶりのJリーグ復帰を果たした[27]。以降は神戸の主力選手として活躍し、翌年1月1日に行われた鹿島アントラーズとの天皇杯決勝戦で勝利し、自身初のタイトルを獲得した。
2020年1月13日、石川県羽咋郡宝達志水町の特使になる[28]。3月30日、2019新型コロナウイルスに感染した事が発覚し入院。4月25日に退院した。Jリーガーとして初の新型コロナウイルス感染者となった[29]。9月5日、第14節の湘南ベルマーレ戦で神戸移籍後初ゴールを挙げた。J1リーグでの得点は9年ぶりとなった[30]。自身初のAFCチャンピオンズリーグでは6試合に出場し、ベスト4進出に貢献した。
2021年シーズンは、リーグ戦全38試合にフル出場し、ACL圏内で神戸のJ1最高順位となるリーグ3位に貢献。Jリーグ優秀選手賞にも選出された[31]。
2022年シーズンも前年に引き続きリーグ戦全34試合にスタメン出場。メディアからは「鉄人」と称された。
2023年シーズンは開幕から右サイドバックを任され、第3節のガンバ大阪戦でプロ入り後自身初となる1試合2ゴールを決めた。チームに負傷者が続出したこともありチーム状況によってはセンターバックを任され、シーズン終盤に盟友山口蛍が負傷欠場した際にはボランチとして穴を埋めるなどそのポリバレントぶりを遺憾なく発揮。また高いリーダーシップでチームを統率するなど、クラブを初のJ1リーグ優勝に導いた。シーズン終了後には自身初のJリーグベストイレブンに選出された。
2006年、U-16日本代表に選出され、以後U-17、U-18と各カテゴリの代表チームに選出された。2008年にはU-20日本代表へも選出され、SBSカップ 国際ユースサッカーへ出場した[32]。
2010年1月6日にはAFCアジアカップ2011最終予選第5戦(対戦相手: イエメン)に出場する日本代表に選出された[33] が、これがA代表への初選出であった。2010 FIFAワールドカップでは代表チームに選出されなかったが、サポートメンバーの一員としてチームに帯同した[34]。
同年10月にはAFC U-19選手権2010に出場するU-19日本代表チームに選出され、ミッドフィールダーとして3試合に出場したが、準々決勝で敗退し2011 FIFA U-20ワールドカップへの出場権を得る事はできなかった。12月にはAFCアジアカップ2011本大会に出場する日本代表に選出された[35] が、腰痛のためチームから離脱した[36]。
2011年6月より、U-22日本代表に選出されロンドンオリンピック予選 に出場した[37]。2012年のオリンピック本大会のメンバーにも選出され、右SBの酒井宏樹、左SBの徳永悠平のバックアップという位置付けながら[38] 酒井宏樹の負傷もあって4試合に出場し、ベスト4入りに貢献した。
2012年9月6日に故郷、新潟にある新潟スタジアムで行われたキリンチャレンジカップ2012、対UAE戦でA代表デビューを果たした[3]。
2014年5月12日にW杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出された[39]。しかし、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。
日本代表がハビエル・アギーレ体制になってからは、それまで右SBを務めていた内田篤人の負傷離脱などの影響で重用されるようになり、アギーレ体制での試合全てに出場する[40][41]。2015年1月のAFCアジアカップ2015でも全ての試合で先発フル出場するも、チームは準々決勝で敗れた。
代表監督がヴァイッド・ハリルホジッチに変わってからも引き続き招集され、当時クラブで担当していた事もあり、手薄であったDHとして出場した試合もあったが、目立った活躍ができずDH要員から構想外となると、両SBのバックアッパーと言う立場は変わらなかった。2018年5月31日にW杯ロシア大会の日本代表メンバーに選出された[42]。第3戦のポーランド戦に先発でW杯初出場を果たしたが、ポジションは本来とは違う右MFであった。敗退後に、「次のW杯を、僕は目指すつもりはない。未来と希望がある選手が目指したほうがいい」と述べ、今大会を最後のW杯とする意向を明かしている[43]。
利き足含めスポーツを行う際は右利きだが、利き手は左である[44]。ちなみに筆記も左手で行うが、サインは右手で書く。
フィジカルが強く、長い距離をアップダウンすることができるスタミナが持ち味で[45]、左右サイドハーフのポジションでもプレーする事ができる[46]。「キックは両足とも自信がある」と語っており、利き足ではない左足のフリーキックを託されることもある[47]。また、対人守備おいて絶対的な安定感をみせチームからの信頼は厚い(後述)[48]。
ハンブルガーSVの監督であるブルーノ・ラッバディアからは「彼のメンタリティーはピカイチ」「彼はものすごくフレキシブルな選手。両利きで、左サイドバックも右サイドバックもできる。それに、攻撃の起点としても強力だ」などと称賛されている[49]。
ドルトムントU-17の監督として2013-14シーズンから2季連続優勝などしたハネス・ボルフ監督には「『6番のポジション』でもプレーできるサイドバックはなかなかいないから」とユーティリティー性を同じく評価されている[50](6番とは守備的ミッドフィルダーのポジション[51])。
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