中村 北斗(なかむら ほくと、1985年7月10日 - )は、長崎県諫早市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー(サイドバック[2][6][7])及びミッドフィールダー(ウイングバック[2]、サイドハーフ[8][2][7]、ボランチ[9][7])。
実兄は元プロ野球選手の中村隼人[2]。
来歴
プロ入り前
小学3年(8歳)でサッカーを始める[2][5]。当時はFWを務めていた[10]。高校サッカー界の名門、長崎県立国見高等学校へ進学。1年時からレギュラーを獲得する[11]。ここでFWから[2]ボランチにコンバートされ[10]、「エースキラー」として活躍[12]。同期には平山相太、兵藤慎剛がいた。在籍中の3年間で全国高校サッカー選手権・総体・高円宮杯に優勝5回、準優勝2回の成績を残した。高校サッカー選手権の決勝戦に3年連続で先発フル出場しており、この記録を持つのは戦後の高校選手権史上、中村ただ一人である。
アビスパ福岡
高校卒業後の2004年、当時J2のアビスパ福岡に入団[13]。
1年目は出場機会を得られなかったが、翌2005年3月5日、J2第1節鳥栖戦で初出場・初先発。同月12日、同2節の水戸戦で初得点(2得点)を挙げた[14]。同年6月には、大熊清監督の下、U-20日本代表としてワールドユース・オランダ大会に参加。右ウイングバックのレギュラーとして4試合にフル出場したが[11]、オランダ戦では自身のサイドをクインシー・オウス=アベイエに[15][2]破られ[16]、チームはベスト16で敗退した。福岡でのリーグ戦終盤には主にボランチとして出場を重ね、主力の一人としてチームを牽引[11]。福岡の5年ぶりのJ1昇格に貢献した。
2006年も先発出場を続け、同年のJリーグ優秀新人賞を受賞[17]。2008年の北京オリンピック出場を目指すU-21日本代表にも招集されていたが、2006年11月21日の親善試合対U-21韓国戦で相手選手との接触により右膝前十字靭帯を痛め、全治半年の重傷を負った[18][19]。その後、長期のリハビリを経て、2007年7月7日のJ2第26節湘南戦にて公式戦復帰[20]。しかし、先発出場となった同月15日のJ2第28節仙台戦で試合開始早々に[20] 右膝内側半月板を負傷し、全治2ヶ月の重傷で戦線を離脱[21][19]。
2008年2月、2度の重傷を乗り越え[22] 実戦復帰[23]。J2第2節水戸戦ではスピードに乗った攻撃でPKを獲得[24]、同7節岐阜戦では得点を挙げるなど復調を印象付け[25][23]、4月、1年5ヶ月ぶりにU-23代表に復帰[23]。代表合宿で好プレーを見せ[16]、翌5月のトゥーロン国際大会参加メンバーに選出されたが[26]、北京オリンピックのメンバーからは外れた。
同年のリーグ戦では38試合に出場[19]。当時、JFAアドバイザーを務めていたイビチャ・オシムは、中村の機動力あふれるプレーを評価し、ヨーロッパトップリーグで通用しうる長所を持つ選手の一人として名前を挙げていた[27]。オフには千葉、横浜FM、FC東京からオファーを受け[28][19] 争奪となった。2006年以降毎オフ、オファー受けていたが[29]、トゥーロン国際大会以来、J1に在籍する同世代選手との成長の差を痛感し[30][29]退団を決意。
FC東京
2009年、FC東京に完全移籍[31][4][29]。足首の痛みが長引き[32] 出遅れたが、初のベンチ入りとなったJ1第12節横浜FM戦では、国見高の同期で親友の平山相太のアシストから[33] 移籍後初得点を挙げ、これが決勝点となって勝利[34]。J1では938日ぶりの得点となった[35]。
東京移籍当初は守備的なユーティリティープレイヤーとしての起用が目されていたが[36]、城福浩監督から強靭な精神力[37] や攻撃意識を[1] 買われ、右サイドMFの石川直宏が負傷離脱したシーズン終盤はサイドアタッカーとしても起用された[38]。直接FKのキッカーも担当し、地元・長崎で行なわれた天皇杯草津戦では無回転のブレ球FKによる直接ゴールを決め[39][40] 勝利に貢献した。
2010年2月22日に入籍[41]。同年7月に左SBを務める長友佑都が退団すると、城福、大熊(9月から就任)両監督から左SBとして先発起用されるようになった[42]。また、右SBの徳永悠平をCBなどへスライドさせる形で右SBに配されることもあった[6]。
2012年11月、古傷の右膝痛を抱えながらプレーを続けていたところ[43]、同月J1第32節神戸戦で再び右膝内側半月板を損傷し離脱[44]。2013年夏場にかけて復帰し[45]、その後はベンチ入りを続けた[46]。必死の調整を続け[47] 復調を見せていたものの[48][49]、公式戦出場は無いままこの年限りで退団となった。
大宮アルディージャ
U-20代表やFC東京で指導を受けた大熊からの誘いを受け[7][49]、2014年より大宮アルディージャへ完全移籍[3][50]。自身の希望する右SBと[51] 選手層の薄い左SBの[52] 両方に配された。
福岡復帰
2015年、古巣アビスパ福岡へ完全移籍[53][54]。副将を担った[55]。第38節徳島戦で3季ぶりの得点を挙げると、この試合を含め終盤の5試合で3得点と好調ぶりを見せ[56] チームは8連勝に貢献。J1自動昇格に届かずも、3位でJ1昇格プレーオフ(PO)に臨んだ。PO決勝戦・4位C大阪戦では試合終了間際に同点弾を挙げ、年間順位で上回るチームを5年ぶりのJ1に導いた[57]。
V・ファーレン長崎
2018年より地元のV・ファーレン長崎に加入[58]。
2020年1月31日、現役引退とアビスパ福岡U-18コーチ就任を発表[59]。
12月6日、J2第39節福岡-金沢戦の試合後に引退セレモニーが行われた[60]。
所属クラブ
- ユース経歴
- プロ経歴
個人成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
2001 |
国見高 |
22 |
- |
- |
- |
2 |
0 |
2 |
0
|
2002 |
8 |
- |
- |
3 |
0 |
3 |
0
|
2003 |
- |
- |
2 |
0 |
2 |
0
|
2004 |
福岡 |
29 |
J2 |
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
0 |
0
|
2005 |
22 |
34 |
4 |
- |
0 |
0 |
34 |
4
|
2006 |
J1 |
30 |
4 |
2 |
0 |
1 |
0 |
33 |
4
|
2007 |
J2 |
3 |
0 |
- |
0 |
0 |
3 |
0
|
2008 |
14 |
38 |
3 |
- |
1 |
0 |
39 |
3
|
2009 |
FC東京 |
J1 |
10 |
2 |
2 |
0 |
2 |
1 |
14 |
3
|
2010 |
28 |
0 |
8 |
0 |
2 |
0 |
38 |
0
|
2011 |
J2 |
24 |
0 |
- |
4 |
0 |
28 |
0
|
2012 |
J1 |
11 |
1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
13 |
1
|
2013 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
2014 |
大宮 |
20 |
0 |
2 |
0 |
1 |
0 |
23 |
0
|
2015 |
福岡 |
22 |
J2 |
30 |
3 |
- |
1 |
0 |
31 |
3
|
2016 |
J1 |
16 |
0 |
4 |
0 |
1 |
0 |
21 |
0
|
2017 |
J2 |
5 |
0 |
- |
2 |
0 |
7 |
0
|
2018 |
長崎 |
14 |
J1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
2019 |
J2 |
2 |
0 |
4 |
0 |
1 |
0 |
7 |
0
|
通算 |
日本 |
J1
|
115 |
7 |
20 |
0 |
7 |
1 |
142 |
8
|
日本 |
J2
|
136 |
10 |
4 |
0 |
9 |
0 |
149 |
10
|
日本 |
他
|
- |
- |
7 |
0 |
7 |
0
|
総通算
|
251 |
17 |
24 |
0 |
23 |
1 |
298 |
18
|
- その他の国際公式戦
- 出場歴
タイトル
クラブ
- 長崎県立国見高等学校
- FC東京
代表
- U-18日本代表
個人
代表歴
脚注
関連項目
外部リンク
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