東京ガスサッカー部(とうきょうガス・サッカーぶ)について、以下の2つがあり、それぞれこの記事内で記載する。
- かつて存在した日本のサッカークラブ。東京ガスのサッカー部として1935年に創部し、1997年および1998年は「東京ガスフットボールクラブ」と呼称していた。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟のFC東京の前身となったクラブ。
- 1999年に設立された東京ガス社員によるサッカー同好会チームであり、東京都社会人サッカーリーグに所属する。
東京ガスサッカー部(1935年 - 1998年)
歴史
太平洋戦争以前
本サッカー部の最初の公式戦である第6回関東実業団蹴球大会(1回戦)が開催された東京高等学校
- 1935年
東京瓦斯株式会社のサッカー部として創部。
- 1936年
関東蹴球協会主催の第6回関東実業団蹴球大会に参加し、1回戦(3月15日)で第一生命保険に1-4で敗北。なお、この試合が東京瓦斯サッカー部として文献から確認できる最初の公式戦である[1]。
- 1937年
東京実業団蹴球リーグが創設され、航研や航技などと同じBクラスに所属することとなった[2]。第7回関東実業団蹴球大会の1回戦の日本光学戦(5-0で勝利)が、文献から確認できる最初の勝利試合である[3]。
- 1940年
第9回関東実業団蹴球大会に参加して、1回戦(3月21日)でマツダに0-3で敗北[4]。これが文献から確認できる太平洋戦争開戦前の最後の公式戦である。
- 1941年
4月16日に関東実業団蹴球連盟(現:関東サッカー協会)の総会で「関東東実業団蹴球」(リーグ戦)を創設することが決定し、2部(他に三共や日本興業銀行、日本銀行など)に所属することとなった[5] が、12月の太平洋戦争開戦に伴って小平の厚生閣練習場が農場に変えられ、選手も徴兵されていった[6]。
太平洋戦争終戦後
- 1945年
日本蹴球協会加盟。
- 1948年
チーム再建が進み、物資不足の中で実業団リーグへ参加[6]。
- 1967年
第1回関東サッカーリーグに参加するも、入れ替え戦で敗れ降格。
- 1970年
東京都社会人サッカーリーグに所属して2位の成績。なお、同年の東京都リーグは読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)が優勝したが、直接対決(1試合)は、東京ガスが5-3で読売クラブに勝利した[7]。
1980年代
- 1985年
第19回関東社会人サッカー大会で優勝。サッカースクール開校[8]。
- 1986年
関東サッカーリーグに昇格。
全国社会人選手権では、奈良教員、YKK、地元沖縄の海邦クラブ、茨城日立を下し決勝戦へ進出するも、古河電工千葉に敗れ準優勝[9][10]。
- 1988年
入部2年目の大熊清が主将を務め[8]、第12回全国地域リーグ決勝大会に初出場。中央防犯と松島クラブを抑えてグループ1位で決勝リーグに進んだが、マツダオート広島、京都紫光クラブに阻まれて昇格ならず[11]。第24回全国社会人選手権ではベスト4進出[12]。
- 1989年
前年に続き第13回全国地域リーグ決勝大会に出場するも、西濃運輸に敗れグループ2位で決勝リーグ進出を逃した[11]。
1990年代
- 1990年
大熊、川勝良一、小林伸樹、大金直樹、矢野眞光(後にFC東京育成部長)を擁し[8]、第14回全国地域リーグ決勝大会で優勝。第26回全国社会人選手権ベスト4進出[13]。
- 1991年
日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。
- 1992年
ブラジル人FWのアマラオが加入。この年初めて外国籍選手枠を3つ全て使うことになった[8]。Jリーグへの参入は行わず、企業内チームのままジャパンフットボールリーグ(JFL)へ参加した。
- 1993年
6月、調布市議会にて「プロサッカーチーム誘致に関する決議」が可決された[18]。9月、東京ガスサッカー部は東京スタジアム(後の味の素スタジアム)建設計画に伴い発足した「つくる会」や東京都サッカー協会から[19]、同スタジアムをホームとするJリーグクラブ創設を打診された。「つくる会」は、スタジアム完成前にできることを模索し[14] 開業までに地元のプロクラブを育てようというスタンスでいたため[15]、東京ガスサッカー部代表としてJFLの評議員を務めていた上原英治は、これを好意的に受け止め前向きに検討すると回答。程なく、東京ガスが調布を拠点にJリーグ加盟を目指す方針と報じられた[20]。
時系列
日付 |
出来事
|
1992年12月 |
つくる会(正式名称「東京にプロサッカーチームをつくる会」)発足
|
1993年 06月17日 |
調布市議会がJリーグ誘致決議を全会一致で可決。誘致予算880万円を計上
|
09月27日 |
つくる会が東京ガスへ調布進出を打診。
|
10月19日 |
誘致する会(正式名称「スタジアム建設促進とプロサッカーチームを調布に誘致する会」)発足。誘致予算全額が誘致する会のものとなる[14]。
|
11月29日 |
誘致する会が、ヴェルディ川崎と東京ガスへ調布進出を打診。
|
12月08日 |
東京ガスが進出を断念
|
また、10月には新たに「誘致する会」も発足。同会は東京ガスサッカー部が東京都のサッカーチームとして最上位のカテゴリーにいることや、「つくる会」が候補としていること[21]、サッカー教室などの地道な地域活動を評価し[22]、東京ガスにJリーククラブ創設を打診。さらに「誘致する会」は発足当初からヴェルディ川崎(後の東京ヴェルディ)に対しても調布進出を打診する意向であった[23]。ヴェルディ誘致が急速に行われた結果、「つくる会」との対立に発展[23]。時間をかけて東京ガスと協議するつもりでいた「つくる会」においても結論を急がざるを得なくなり、東京ガス側でも“無関係な騒ぎ”による動揺が広がった[17]。
12月、東京ガスは、公益企業としての限界から現時点でプロ化はできない[24][25]、時期尚早である[注 1] として[19]調布進出を見送り、JFLと地域貢献に力を入れるとした[16]。なお、ヴェルディ川崎も同月に移転を断念。これ以後、元東京ガスサッカー部監督で同部部長の鳥原光憲を中心に、Jリーグ参画に向けての足固めと強化を図っていった。同年、ジュニアユース及びジュニアチームを創立[26]。
一連の誘致劇は市民に大きなしこりを残し、後にFC東京として市関係団体との折衝を行う際には難航させられたという[23]。
- 1994年
大熊清がコーチとしてチームに復帰。ヴェルディ川崎からFW関浩二、ベルマーレ平塚からMF立石敬之を獲得。さらに社員選手のMF藤山竜仁を含む3名に対し、創部以来初めてとなる日本人選手とのプロ契約を結んだ[27]。大卒ルーキーのGK堀池洋充、DF浮氣哲郎も活躍し、全国リーグでは初の勝ち越しに成功。
また、関東地区代表として天皇杯全日本サッカー選手権大会に初出場を果たした。急遽監督を退任した今井敏明に代わって大熊が指揮を執り、初戦で鹿島アントラーズを破ってベスト8へ進出。
- 1995年
大熊が正式に監督に就任。ヘッドコーチの倉又寿雄と共にチームを率いた。藤山を左SBに下げ、立石と新加入の岡島清延でドイスボランチを構成、攻撃陣にMFエドウィンを加えた布陣が機能。関は日本人得点王となった。
- 1996年
関は活躍が買われ、平塚に移籍。結果、アマラオの1トップを採用することになった。本田技研、ヴィッセル神戸との優勝争いに敗れ3位に終わったが、新條宏喜、浮氣を中心にリーグ最少失点となる堅守を構築し、Jリーグ準加盟クラブのJリーグ昇格を阻んだ[注 2]。また、4月よりユースチームを創立[26]。
この年、JFL各クラブにはJリーグ2部(J2)の創設と、その参加条件が提示されていた[28]。
- 1997年
第77回天皇杯 準決勝 布陣
|
『東京ガスフットボールクラブ』に改称し[8]Jリーグへの参加を表明。8月にJリーグ2部への加盟申請が行われ[29]、12月に承認された[18]。
また、6月には「東京フットボールクラブ創設準備事務局」を発足させ、東京ガス(メンバーは上原英治、鳥原光憲、村林裕、城福浩、小林伸樹ら)を始めとする中核出資予定企業、東京都、東京都サッカー協会、東京商工会議所、東京青年会議所がこれに参加した[30]。
チームはJFLで準優勝してJリーグ昇格条件である2位以内に入るも、準会員資格を有していないため、Jリーグへの昇格は見送られた。大塚製薬から加入したDF本吉剛が浮氣哲郎(ジェフ市原へ移籍)の穴を埋め、藤山、大卒新人のMF浅利悟と共にベストイレブンに選出された。
その年の天皇杯では名古屋グランパスエイト・横浜マリノス・平塚のJリーグ勢3クラブに勝利してベスト4へ進出。準決勝(鹿島戦)では創部以来初めて国立競技場の地を踏んだ。
- 1998年
4月、翌年からクラブ名称が『FC東京』になる[18]と共にプロクラブ化し、新たに2部制となるJリーグ ディビジョン2(J2)への参加を決める。JFL最終年となったこのシーズンは、MF岡島清延(引退)の穴埋めに苦しみ一時停滞したが[31]、終盤に12連勝と追い上げ、最終節で川崎フロンターレを逆転してJFL初優勝を果たした。しかし、Jリーグ準会員ではなかったため、J1参入決定戦へは参加できなかった。
10月1日(この日は都民の日とされている)に、東京瓦斯、東京電力、エーエム・ピーエムジャパン、テレビ東京、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(TSUTAYA)、日本石油、清水建設、三菱商事の8社を中核に[32]、計161団体の出資で[33][34] 運営法人『東京フットボールクラブ株式会社』を設立[18]。同月20日にJリーグ理事会によって法人化を認められ[35]、1999年より発足したJ2へ参戦。東京ガスサッカー部としての歴史を終えた。
スタジアム
成績
年度 |
所属 |
順位 |
勝点 |
試合 |
勝 |
分 |
敗 |
得 |
失 |
差 |
備考 |
天皇杯 |
全社
|
1948 |
東京実業団3部 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
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|
オープン化前 |
|
1949 |
東京実業団2部 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1950 |
東京実業団1部 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1951 |
東京実業団2部 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1952 |
東京実業団1部 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1953 |
東京実業団2部 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1954 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1955 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1956 |
関東実業団2部 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1957 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1958 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1959 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1960 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1961 |
関東実業団3部 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1962 |
関東実業団2部 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1963 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1964 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1965 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1966 |
関東実業団1部 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1967 |
関東 |
8位 |
4 |
14 |
2 |
0 |
12 |
21 |
56 |
-35 |
|
|
1968 |
東京都1部 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
関東社会人大会 2位 |
|
1969 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1970 |
2位 |
23 |
13 |
11 |
1 |
1 |
|
|
|
関東社会人大会 2位 |
|
1971 |
3位 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1972 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
地区予選 敗退 |
|
1973 |
5位 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1974 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1975 |
3位 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1976 |
4位 |
|
|
|
|
|
|
|
|
関東社会人大会 2位 |
|
1977 |
関東 |
8位 |
9 |
16 |
3 |
3 |
10 |
11 |
27 |
-16 |
|
|
1978 |
9位 |
20 |
18 |
5 (PK1) |
- |
13 (PK2) |
15 |
36 |
-21 |
|
1回戦[9]
|
1979 |
東京都1部 |
2位 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1980 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1981 |
3位 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1982 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1983 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1984 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2回戦[9]
|
1985 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
関東社会人大会 優勝 |
ベスト8[9]
|
1986 |
関東 |
4位 |
22 |
18 |
9 |
4 |
5 |
32 |
26 |
+6 |
|
準優勝
|
1987 |
8位 |
14 |
18 |
3 |
8 |
7 |
15 |
18 |
-3 |
|
|
1988 |
2位 |
25 |
18 |
11 |
4 |
3 |
32 |
18 |
+14 |
地域決勝 3位 |
ベスト4
|
1989 |
2位 |
23 |
18 |
8 |
7 |
3 |
33 |
13 |
+20 |
地域決勝 GL敗退 |
|
1990 |
優勝 |
33 |
18 |
15 |
3 |
0 |
48 |
13 |
+35 |
地域決勝 優勝 |
ベスト4
|
1991-92 |
JSL2部 |
7位 |
46 |
30 |
12 |
10 |
8 |
30 |
28 |
+2 |
|
|
1992 |
JFL1部 |
7位 |
20 |
18 |
5 |
5 |
8 |
22 |
34 |
-12 |
|
|
1993 |
8位 |
- |
18 |
7 |
- |
11 |
20 |
31 |
-11 |
延長勝3/PK勝1/延長敗1/PK敗1 |
|
1994 |
JFL |
7位 |
- |
30 |
18 |
- |
12 |
55 |
43 |
+12 |
延長勝2/PK勝1/延長敗1/PK敗1 |
ベスト8 |
|
1995 |
3位 |
61 |
30 |
20 |
- |
10 |
66 |
35 |
+31 |
延長勝0/PK勝1/延長敗1/PK敗1 |
1回戦 |
|
1996 |
3位 |
73 |
30 |
24 |
- |
6 |
63 |
28 |
+35 |
延長勝2/PK勝1/延長敗3/PK敗1 |
3回戦 |
|
1997 |
2位 |
68 |
30 |
24 |
- |
6 |
70 |
30 |
+40 |
延長勝2/PK勝1/延長敗1/PK敗0 |
ベスト4 |
|
1998 |
優勝 |
69 |
30 |
24 |
- |
6 |
67 |
17 |
+50 |
延長勝3/PK勝0/延長敗1/PK敗0 |
3回戦 |
|
『東京都サッカー協会五十年史』1996年、127-147頁。 参照
タイトル
背番号
『Japan Soccer League yearbook 1991-1992』南雲堂、1991年、84頁。 参照
歴代監督
氏名
|
在籍年
|
現在
|
村井茂雄 |
19??-19?? |
|
木下幸男
|
19??-19??
|
|
三浦哲二 |
19??-1959 |
|
平光夫 |
1960-1964 |
|
石井徹 |
1965-1970 |
|
橋本昭一 |
1971-1973 |
|
吉田慶次 |
1974-1975 |
|
小川隆莞 |
1976-1979 |
|
鳥原光憲 |
1980-1983 |
東京ガス相談役
|
菅野義裕 |
1984-1986 |
美浦ガス取締役社長
|
渡辺公義 |
1987-1992 |
江東ベイエリアFC代表
|
今井敏明 |
1993-1994 |
チャイニーズタイペイ代表監督
|
大熊清 |
1995-1998 |
清水エスパルスGM
|
歴代所属選手
ゴールキーパー(GK)
ディフェンダー(DF)
ミッドフィルダー(MF)
フォワード(FW)
東京ガスサッカー部(1999年創部)
概要
1999年よりFC東京の名称でプロクラブ化した東京ガスフットボールクラブは、Jリーグ仕様のチームを作るべく更なる体制の強化を図ることとなった。
これにより、社員選手の何名かは「社業復帰」を余儀なくされたため、彼らを中心としてサッカー部を創部し、「東京ガスサッカー部」の名称で東京都社会人サッカーリーグへ参加している。
成績
年度 |
所属 |
順位 |
勝点 |
試合 |
勝 |
分 |
敗 |
得点 |
失点 |
得失差
|
1999 |
東京都4部21ブロック |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2000 |
東京都3部 |
2位 |
|
|
|
|
|
|
|
|
2001 |
東京都3部4ブロック |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
|
|
2002[36] |
東京都2部1ブロック |
5位 |
16 |
12 |
5 |
1 |
6 |
29 |
26 |
3
|
2003[37] |
東京都2部3ブロック |
10位 |
11 |
12 |
3 |
2 |
7 |
18 |
32 |
-14
|
2004[38] |
東京都2部2ブロック |
3位 |
20 |
11 |
6 |
2 |
3 |
27 |
25 |
2
|
2005[39] |
東京都2部3ブロック |
7位 |
14 |
11 |
4 |
2 |
5 |
18 |
26 |
-8
|
2006[40] |
東京都2部2ブロック |
8位 |
14 |
12 |
4 |
2 |
6 |
18 |
25 |
-7
|
2007[41] |
東京都2部3ブロック |
5位 |
16 |
11 |
5 |
1 |
5 |
30 |
31 |
-1
|
2008[42] |
東京都2部2ブロック |
12位 |
8 |
12 |
2 |
2 |
8 |
24 |
52 |
-28
|
2009[43] |
東京都3部5ブロック |
3位 |
22 |
11 |
7 |
1 |
3 |
36 |
16 |
20
|
2010[44] |
東京都3部1ブロック |
3位 |
22 |
10 |
7 |
1 |
2 |
40 |
14 |
26
|
2011[45] |
東京都3部3ブロック |
優勝 |
27 |
9 |
9 |
0 |
0 |
50 |
6 |
44
|
2012[46] |
東京都2部3ブロック |
7位 |
16 |
12 |
5 |
1 |
6 |
22 |
28 |
-6
|
2013[47] |
5位 |
23 |
13 |
7 |
2 |
4 |
36 |
20 |
16
|
2014[48] |
東京都2部2ブロック |
9位 |
16 |
13 |
5 |
1 |
7 |
30 |
26 |
4
|
2015[49] |
6位 |
21 |
13 |
6 |
3 |
4 |
30 |
37 |
-7
|
2016[50] |
東京都2部1ブロック |
7位 |
19 |
13 |
5 |
4 |
4 |
26 |
23 |
3
|
2017 |
東京都2部2ブロック |
9位 |
15
|
13
|
5
|
0
|
8
|
23
|
34
|
-11
|
2018
|
東京都2部1ブロック
|
9位
|
16
|
13
|
5
|
1
|
7
|
20
|
31
|
-11
|
2019
|
東京都2部2ブロック
|
12位
|
9
|
13
|
2
|
3
|
8
|
14
|
45
|
-31
|
2020
|
東京都3部1-1ブロック
|
2位
|
8
|
4
|
2
|
2
|
0
|
11
|
4
|
7
|
2021
|
東京都3部2ブロック
|
新型コロナウイルスの影響によりトーナメント方式で開催 1回戦敗退
|
2022
|
3位
|
19
|
10
|
6
|
1
|
3
|
20
|
14
|
6
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2023
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2位
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28
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11
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9
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1
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1
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23
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8
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15
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歴代所属選手
脚注
- 注釈
- ^ 当時は全国リーグ参入3年目。JFL内での成績も芳しいものではなく、また、ユースチームも発足していなかった。詳細は#成績およびFC東京の下部組織の項を参照
- ^ 準加盟クラブでは鳥栖フューチャーズが4位、コンサドーレ札幌が5位、ブランメル仙台が6位。
- 出典
参考文献
外部リンク