平繁 龍一(ひらしげ りゅういち、1988年6月15日 - )は、広島県東広島市(旧賀茂郡黒瀬町)出身[1]の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。広島県立吉田高等学校卒業。
サンフレッチェ広島初のジュニアから昇格したJリーガーである[1]。
小学校3年生からサンフレッチェ府中サッカースクールに加入[1]。横竹翔と共にFWとして活躍しすぐに才能を見出される。このころの同期に酒井貴政がいる。ジュニアIIからジュニアを経て、4年生の時にはすでにジュニアユースの練習に参加、2000年には全日本少年サッカー大会出場[2]、全日本少年フットサル大会準優勝に貢献し大会優秀選手に選ばれる[3]。2003年にはマンチェスター・ユナイテッド・プレミアカップ出場している[4]。
2003年、中学3年次からユースの練習に参加[1]。2004年、高校1年生でレギュラーをつかみ高円宮杯初制覇やクラブユース選手権制覇に貢献。2年生から10番を背負いエースとして活躍し、2006年のJユースカップ優勝[5] に貢献した。また、同年9月に2種登録選手となった[6] が出場は無い。
2007年、トップ昇格[7]。同期入団は、ユース時代の同級生である遊佐克美。すぐにミハイロ・ペトロヴィッチに主力として評価され、同年3月3日リーグ第1節で初ベンチ入りし途中出場、デビューを飾る。同年のナビスコカップで初得点しチーム初のGL突破に貢献[8]、同年末のJ1・J2入れ替え戦第1戦で得点を上げた[9]。また、同年にはFIFA U-20ワールドカップにMFとして1試合出場している。2008年は、佐藤寿人と2トップを組みレギュラーとしてシーズンを迎える[10]。リーグ戦第1節でリーグ戦初得点を挙げるものの、チームが佐藤の1トップに布陣を変えたことによりポジションを失い[11]、さらに7月に椎間板ヘルニアの手術を受けて長期離脱[12]。同年12月の天皇杯で復帰したが、2009年怪我の影響もあり不調に陥り[11]、チームが李忠成を補強したことにより出場機会が減っていった。
2010年、出場機会を求めて美濃部直彦率いる徳島ヴォルティスへレンタル移籍する[7]。開幕当初は津田知宏とともに2トップのレギュラーの座にいた[13] が、佐藤晃大の成長[14] によりレギュラーを奪われ出場機会が減っていった。
2011年、川勝良一率いる東京ヴェルディに引き続きレンタル移籍する[7]。当時東京Vは経営面に問題を抱えており、満足な補強ができない状況でのオファーだった。ここでも序盤は主力として活躍し、第12節対ギラヴァンツ北九州戦においてプロ入り後初のハットトリックを達成した[15]。その後、怪我[16] や阿部拓馬の成長[17] や、マラニョンや巻誠一郎などの前に出場機会が減っていった。
2012年、サンフレッチェ広島に復帰した[7]。序盤は主力としてベンチ入りしていたものの、中盤以降は森崎浩司や石原直樹が切り札として重用され、何より佐藤寿人からレギュラーの座を奪うことが出来なかった[18]。
2013年、ザスパクサツ群馬に完全移籍[19]。移籍1年目ながらキャプテンを任され、翌年も同様にキャプテンを務めた。
2015年、ロアッソ熊本に完全移籍した[20]。同シーズンは負傷で開幕に間に合わず、守備的なタスクを多く要求されることから満足な活躍ができず出番を失った。シーズン後半にチームにフィットし主力の座を奪い返したが、わずか1得点でシーズンを終えた。2016年シーズンはFWの主力に定着し8得点をあげた。
2017年7月、カターレ富山へ期限付き移籍[21]。
2018年、ザスパクサツ群馬へ4年ぶりに復帰した[22][23]。シーズン終了後、契約満了により退団[24]。
2019年2月、現役引退とサンフレッチェ広島のアカデミー普及部コーチ就任が発表された[25]。
あいテレビ(itv)のアナウンサー平繁かなえは親戚にあたる[26]。
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