「首相官邸 」はこの項目へ転送 されています。その他の首相官邸、その他の政府首脳 の官邸については「官邸 」をご覧ください。
内閣総理大臣官邸 (ないかくそうりだいじんかんてい、英語 : Prime Minister's office/Prime Minister's Official Residence )は、日本 の内閣総理大臣 の官邸 。
総理大臣官邸 (そうりだいじんかんてい)ともいい、略称 は総理官邸 (そうりかんてい)、通称 は首相官邸 (しゅしょうかんてい)。所在地は東京都 千代田区 永田町 二丁目3番1号。
名称
正式名称
官邸の名称については複数あるため、公文書にも表記ゆれがみられる。
内閣総理大臣官邸
重要施設の周辺地域の上空における小型無人機等の飛行の禁止に関する法律 2条1項ロの規定[ 注釈 1] および内閣官房 の告示[ 1] のほか、国会議員 の質問主意書 に対する政府答弁書[ 2] [ 3] 、外務省 告示[ 注釈 2] 、他省の主催行事の場所表示[ 4] [ 注釈 3] などに用例がある。
総理大臣官邸
1952年 以降、内閣官房 組織令 第2条第1項第8号および第5条第2項[ 5] で一貫してこの表記が用いられているほか、国会議員の質問主意書に対する政府答弁書[ 6] 、2002年 竣工の新官邸の整備計画に関する閣議了解[ 7] 、他省の主催行事の場所表示などに用例がある。日本国憲法 下の政令 ・府 省令 における表記は全てこの「総理大臣官邸」となっている。
通称
外国の首脳官邸 には、アメリカ合衆国 の「ホワイトハウス 」、フランス の「エリゼ宮 」、ロシア の「クレムリン 」、イギリス の「ナンバー10 」、フィリピン の「マラカニアン宮殿 」など独特の愛称を持つものが多い中、日本の総理大臣官邸にはそれがない。各国の官邸では法令で定められた正式名称とは別に、愛称の方が一般に使用されている場合がほとんどである。中には正式名称が明文化されていない国や、そもそも不明という国もある。また、愛称が公式名に昇格した例も少なくない[ 注釈 4] 。1階に首相 や内閣官房長官 が記者会見 が行う記者会見室、4階に閣僚 の集合場所として使用される閣僚応接室、閣議 が行われる閣議室、首脳会談 などに使用される特別応接室、5階に首相執務室、首相応接室、官房長官室、官房副長官室などが置かれていることから、「首相官邸」は内閣官房 の通称としても使用されている[ 8] [ 9] 。なお、「首相官邸」の呼称は公文書での用例はほとんどないものの、報道機関 などではよく使用される表現である。また、官邸の公式サイト も開設当時から「首相官邸ホームページ 」という表記になっている[ 10] 。日本のように「総理大臣官邸」といったような硬い公式名が使用されているのはむしろ少数派となっている[ 11] 。
しかし、小泉政権 の頃から従来の Prime Minister’s Office of Japan という直訳[ 12] や Official Residence of the Prime Minister といった意訳[ 13] に替えて、一般名詞が固有名詞化した「官邸」の語をそのままローマ字 表記にした Kantei を積極的に日本国外に向けて発信し始めるようになった。今日この Kantei は、アメリカ合衆国 ではホワイトハウス の公式サイトにも頻繁に登場するほどの汎用語となっている。なお、官邸の公式サイトでの英語表記は Prime Minister of Japan and His Cabinet となっている[ 14] [ 15] 。
建屋と機能
官邸各フロア
総理大臣官邸(中央左上)の航空写真。同じ敷地内の総理大臣公邸 (中央右下)に隣接し、庇で繋がっている(2009年4月27日撮影)
初期の総理大臣官邸としてどの建物が使用されていたのか定かではないが、1929年に旧総理大臣官邸が完成してからはそこに内閣総理大臣の執務の拠点が置かれた。老朽化に伴い新たな官邸の建設を決定し、1999年から2002年にかけて建設され、現在の官邸が2002年に完成し、2002年4月22日から使用されている。
地上5階、地下1階建ての鉄骨鉄筋コンクリート 構造で、震度7 にも耐えられる設計となっている。最上階となる5階には内閣総理大臣、副総理 、内閣官房長官 、内閣官房副長官 の執務室、4階には閣議 室、内閣 執務室、首脳会議 室、特別応接室が置かれ、この2層に執務機能が集中している。3階は事務室 と玄関 ホール 、2階にはレセプションホール と貴賓 室が設けられている。1階は記者会見 室や記者クラブ など広報関係の施設がある。地階は危機管理センター となっている[ 16] 。また、内閣府 庁舎へとつながる地下トンネル があり、屋上にはヘリポート が設置されている[ 注釈 5] 。2014年8月には、官邸前庭にあった循環式の人工池が、設備老朽化のため埋め立てられ、ヘリポートとしても使用できる緑地となった[ 17] 。
官邸では閣議 や国家安全保障会議 など、国政上重要な会議が開催される[ 18] 。この他にも外国 元首 など首脳 との会談や功労者に対する表彰の場として使用される[ 19] 。
傾斜地に作られているため、西側の入口は1階だが、東側にある正面の出入り口は3階となっている。組閣後の閣僚記念撮影が行われる「大階段」は3階から2階に降りる階段である[ 20] 。同敷地内には、総理大臣公邸 、官房長官公邸 、内閣宿舎、危機管理用臨時宿泊施設などもある[ 16] 。官邸と公邸は庇でつながっている。
テロ対策 として、建設工事の際に山王パークタワー やキャピトル東急ホテル といった高層建築物 が新官邸に隣接していることが問題となり、官邸からは、高層ビルに面した側から窓を取り除く設計変更の上、高層ビルに対しては官邸に面した窓が開かないよう改修を要請した。さらに、敷地は高さ5メートル以上のコンクリート 製防護壁 で囲まれている。官邸内の警備は通常、官邸警務官が行っているが、官邸警務官はあくまでも官邸職員なので、拳銃 などの武器 の携帯は認められていない。その他にも官邸の警備は総勢100人ほどの「警視庁警備部警護課総理大臣官邸警備隊 」が行っている。官邸の周辺警備は、警視庁 警備部 機動隊 の9つの大隊が持ち回りで担当し、銃 と警杖 を装備し、官邸前の道路に移動式の金属 製バリケード を設置するなどしている。拳銃以外の銃器は付近の特殊車両に装備してあるが、その種別については極秘事項となっている[ 21] 。
官邸内に飾られる絵画 や彫刻 は、官邸事務所の所蔵品だけでなく、文化庁 経由で無償で借り受けた日展 入選作などが含まれている。
官邸内には食堂 があり、職員は外出せずに食事が可能である。このほか、官邸内には医務室があり、総理の健康管理のために医務官 や看護官 も常駐している
総理大臣公邸とはインターネットを経由しない専用回線 で結ばれている[ 22] 。
危機管理センター
現在の官邸の地下には、危機管理センターが設けられており、2002年4月16日から運用されている[ 23] 。官邸危機管理センター 、内閣危機管理センター などと称される[ 24] 。
1995年1月の阪神・淡路大震災 発生時に当時の村山内閣 は、情報の集約と迅速な震災対応を欠いた。また、同年3月のオウム真理教 による地下鉄サリン事件 では、改めて危機管理体制の未整備が露呈した。96年2月、第1次橋本内閣 は、内閣官房に危機管理チームを設け、内閣官房 6室の官僚 が、正 副官房長官 とともに、緊急事態発生時の対応に当たることとした。そして同年5月には危機管理センターを首相官邸内に設け、24時間態勢で情報集約に当たることとした[ 25] 。正式名称は内閣情報集約センター で、緊急事態発生時には、首相や閣僚が同センターに参集することになる[ 26] 。同センターは内閣情報調査室 のメンバー5個班20人が、24時間体制で運用を行っている。大規模災害 やテロ などの緊急事態に備えて警察庁 、消防庁 、海上保安庁 、気象庁 、自衛隊 とのホットライン も設置されている。通常、大規模災害や近隣諸国の軍事的な動きで招集され、「対策本部」が設置される。本部長は内閣総理大臣 で、「内閣危機管理監 」も置かれている。総理大臣 以下、官房長官 や担当大臣 、有事であれば統合幕僚長 らとともに、関係省庁スタッフを仕切るのが内閣危機管理監である。内閣危機管理監は代々、警察官僚 が起用されることが慣例となっている[ 21] 。
同センターは、各省庁 ・通信社 ・民間公共機関 から収集した情報を一元的に集約し、内閣総理大臣・内閣官房長官 ・内閣官房副長官 ・内閣危機管理監 などに即時連絡することにより、大規模災害 やテロ などの緊急事態に対し、内閣の初動体制を確立している[ 27] 。内閣情報集約センターは、95年1月の阪神・淡路大震災に際して政府の対応がひどく立ち後れた反省から、首相官邸内に設けられた[ 28] 。98年4月には、内閣危機管理監 たる内閣官房副長官 相当職を設けた。2001年4月以降、同センターは内閣危機管理監、内閣官房副長官補の指揮下にある[ 25] 。
緊急事態発生時には、内閣危機管理監が状況に応じて、同センターに情報連絡室 、官邸連絡室 、官邸対策室 を設置する[ 29] 。設置後、状況に応じて情報連絡室から官邸対策室に改組されることもある。対策室等の設置後、状況によっては、内閣 に政府 の対策本部 が設置される[ 30] 。同センターの幹部部屋は、政府として実質的に災害対応の指揮を取る場所であり、中央に内閣危機管理監 、事態対処・危機管理担当官房副長官補 、防災担当大臣 、原子力規制庁 、自衛隊 、消防庁 、警察庁 などの各府省庁幹部などが並ぶ円卓があり、フロントには各種情報が流れる巨大スクリーン があり、幹部席の後ろに内閣参事官 の席が並び、ヘッドセット を装着した内閣官房職員 が常駐している[ 31] 。大規模災害時にも、これら機能が喪失されないように耐震安全性 が確保され、電気・ガス・水道などの断絶にも対策が講じられている[ 32] 。
概略
四階の特別応接室(背後の壁は可動式のパーティション。奥は首脳会議室になっている。よく見ると、中央から二つに割れており敷居に乗っているのが分かる) 安倍晋三 とディック・チェイニー 、2007年2月21日
敷地の広さ:4万6000平方メートル
建物大きさ:敷地 90メートル × 50メートル、高さ35メートル
延床面積:2万5000平方メートル
構造:地上5階、地下1階
建替え閣議決定:1987年(昭和62年)、第3次中曽根内閣 当時
建設起工式:1999年(平成11年)5月22日、小渕第1次改造内閣 当時
新官邸開館(テープカット):2002年(平成14年)4月22日、第1次小泉内閣 当時
建設費:435億円(総工費:約700億円)
設計:建設大臣官房 官庁営繕部
ギャラリー
歴史
初期の官邸
首相官邸ホームページによると、「元は太政大臣 官舎。内閣 制度創設期から旧官邸が完成した1929年まで使用された。西洋風の木造2階建て」とされている[ 33] 。建坪は723.229坪(約2,390㎡)と、1890年頃の大臣官舎の中でも最大級を誇った[ 34] 。1923年(大正12年)の関東大震災 では、隣接する中華民国 公使館が火災に見舞われるものの、官舎は危うく難を逃れた[ 35] 。ただ太政大臣官舎の詳細について調査した論文(藤木、2007年)[ 36] では、太政大臣官舎は1878年(明治11年)より当時太政大臣だった三条実美 が居住し、1885年(明治18年)の内閣制度発足に伴い内大臣 となった三条の公邸に転用、さらに1888年(明治21年)より枢密院 の事務所として使われていたとされている。またそもそも太政大臣官舎は「煉瓦造2階建ての洋館と後に増築された和館から成る、和洋館並列型様式」であることが判明しており、建築様式が異なっているほか[ 36] 、場所も現在の国会議事堂 の前庭付近に所在していた[ 36] 。
このため旧官邸の建設以前に使われていた建物については不明確な部分が多い。
旧官邸
竣工当時の旧官邸(1929年3月)
大正 末期から昭和 初期にかけて流行したアールデコ 、表現主義 などの建築様式を取り入れた文化的にも価値があるといわれる建築。旧帝国ホテル 本館などの設計で知られるフランク・ロイド・ライト のデザインに似ていたため、ライト風とも呼ばれたが、実際に設計したのは、当時大蔵省 営繕管財局工務部工務課第二製図係長だった下元連 である。
旧官邸の建物は敷地内を曳家 工事により移動し改修を施された上で2005年(平成17年)から総理大臣公邸 として利用されている[ 37] 。
敷地の沿革
官邸の敷地は、17世紀 後半、敷地内南側が越後村上藩 内藤家 中屋敷 であり、敷地内北側は旗本 屋敷から信濃飯山藩本多家 上屋敷 、丹後峰山藩 京極家 上屋敷へと移り変わった。明治維新 後、一時、一橋徳川家 が使用し、明治3年 に鍋島家 の所有となった。鍋島邸は関東大震災 により大きな被害を受け、復興局 へ売却された。1926年 (大正15年)、震災復興に伴う中央諸官衙計画の一環として、旧鍋島邸跡地(旧麹町区 永田町二丁目一番地)に総理大臣官邸を新設することとなった。旧官邸は1929年(昭和4年)に完成。当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれており、門には表札 がかかっていた。
概略
1929年(昭和4年)3月18日竣工
鉄筋コンクリート4階建(地上3階・地下1階)
延床面積:7000平方メートル
設計:大蔵省営繕管財局(担当:下元連)
逸話
表に旧官邸をあしらった内閣制度創始100周年記念500円白銅貨幣
総理執務室前では記者 の張り番取材 が行われていた。現在の官邸では警備 の関係上、取材スペースと執務エリアは分離されている。また、副総理 執務室も存在したが、「天井が低く、圧迫感がある」ということで余り使われることはなく、歴代の副総理のほとんどは総理府 に執務室を置いていた。
重大事件が起きると官邸内にある小食堂 が“危機管理センター ”に使われた。現在の官邸には専用の「危機管理センター」が設置されている。
1階の西階段は、組閣 時に閣僚が記念撮影をする場所として広く知られた[ 20] 。1993年、約40年ぶりの政権交代 で官邸の主となった細川護熙 は、自民党政権 の牙城だった総理官邸に、さまざまな新風を持ち込んだ。組閣後の閣僚記念撮影では、恒例の1階西階段の赤絨毯には見向きもせず、中庭の芝生の上で新閣僚がワイングラス を片手に懇談後、閣僚を生け垣の前に並ばせて記念撮影を行った[ 38] 。総理執務室では壁が殺風景だとして、壁紙を隅から隅まで貼りかえさせてもいる。内閣総理大臣や内閣官房長官 の記者会見 を、演台の後方に立ったままプロンプター を使って行う欧米式に切り替えたのも細川だった。
東條英機 在任中は、ラジオ演説を行うための部屋があった。太平洋戦争 (大東亜戦争) 開戦時の演説もここで行われたと言われている。戦争中には総理らが官邸を脱出するための地下トンネルがあった。また、60年安保 で官邸がデモ隊 に包囲されたとき、岸信介 はこのトンネルから脱出したと、戸川猪佐武 の『小説吉田学校 』には書かれている。一部には「掘り替えまでして残されていた」という説もあったが、実際には高度成長期 の地下鉄 工事や周辺の都市再開発 で取り壊されていたという。
他の役所と違って室名表示がなかったことや、官邸内が迷路のような構造になっていたため、歴代の内閣総理大臣 が官邸で迷うことがしばしあった。
ギャラリー
事件
五・一五事件直後の官邸の日本間の玄関
旧官邸
旧官邸の正面玄関の硝子に残る直径1センチ程の弾痕のような穴
現官邸
非常時の官邸機能
災害対策本部予備施設
東京都立川市 にある立川広域防災基地 内には、内閣府 の災害対策本部予備施設が設置されている[ 45] 。東京湾 北部を震源とする南関東直下地震 など、大規模災害発生時に内閣総理大臣を本部長とする国の緊急災害対策本部 を設置する際、官邸、中央合同庁舎第8号館 、防衛省 (中央指揮所 )のいずれもが被災して緊急災害対策本部として使用不能である場合には、都心から西に約30キロメートル離れた災害対策本部予備施設に緊急災害対策本部が設置され対策の臨時拠点となるため、官邸の機能も一時的に避難する可能性がある[ 46] 。
脚注
注釈
^ 内閣総理大臣官邸 並びに内閣総理大臣及び内閣官房長官の公邸
^ 1979年以前の用例はなく1990年以降2007年9月まで26件あり。なお1978年から1995年にかけて「総理官邸」とした例が9件、「内閣総理官邸」とした例が1件ある。
^ 他省の主催によるものを含め内閣総理大臣による各種の表彰に関する文書で「内閣総理大臣官邸」17件、「総理大臣官邸」2件、「首相官邸」2件、「総理官邸」1件の使用例が日本国憲法下の2007年9月までの官報で確認される。また、自治省時代の地方自治関係文書で「内閣総理大臣官邸」20件、「総理大臣官邸」7件、「総理官邸」3件の使用例が官報で確認される。日本国憲法下の法令(府省令以上)中での登場例はなかったが、一般に公的組織では正式な呼称を用いるのが原則であり、官職の正称に官邸を加えたこの表記がもっとも公的な性格を有したものと言える。したがって、官邸の正式名称は「内閣総理大臣官邸 」である。
^ アメリカ合衆国大統領 府の正式名称は当初「行政府官邸」(Executive Mansion) というものだったが、その塗装の色調から「ホワイトハウス」という愛称が早くからあった。そこで1906年の増築を機会にこの愛称を公式名にして「ワシントン・ホワイトハウス」(White House – Washington) と改称している。
^ 時折陸海空自衛隊ヘリコプターの離着陸訓練が行われている。
^ かつて行われていた内閣発足後の国務大臣 の就任会見でも使用された。また、菅直人 総理大臣は度々この色のカーテンも使用した(例:[1] 、[2] 、[3] )
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
名前は内閣総理大臣 、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣 、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。 カテゴリ