松浦 敏夫(まつうら としお、1955年11月20日 - )は、神奈川県横浜市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
1980年代の日本において突出した190cm・80kgの恵まれた体躯と俊足を兼ね備えたストライカー。長身を活かしたヘディングだけでなく、ポストプレーや両サイドへ流れてのチャンスメイクやアシスト役も務めていた。
神奈川県立横浜緑ケ丘高校、早稲田大学(同期に西野朗)を経て、1978年に日本サッカーリーグ1部の日本鋼管に入部。チームの先輩・藤島信雄と共に中心選手として活躍、1980年代前半にはJSL2部降格も味わったが、1部復帰後は2シーズン連続得点王 (1986-87, 1987-88) の活躍を見せ、中堅チームである日本鋼管の3シーズン連続準優勝に貢献した。
日本代表では1981年のジャパンカップで代表デビューを飾り、1987年のソウル五輪アジア予選を始め国際Aマッチ22試合出場6得点を記録した。しかし日本代表では同じポジションに「アジアの核弾頭」の異名で呼ばれた原博実(大学の3年後輩)がおり、レギュラー定着には至らなかった。
1991年に現役引退し、同サッカー部の監督を務めていたが、1993年限りで廃部となった為、監督職を退いている。
2015年4月時点でJFE建材の取締役を務めている[1]。また、Jリーグのマッチコミッショナーを長年務め、委員長にも選任された[1][2][3]。
・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 4回出場(1979年、1986年、1987年、1988年)
・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 2得点(1986年、1988年)
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