宮本 征勝(みやもと まさかつ、1938年7月4日 - 2002年5月7日)は、茨城県日立市出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。サッカー日本代表として44試合に出場し、1968年のメキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した。
来歴
茨城県立日立第一高等学校でサッカーを始め、1956年の第35回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝し、得点王および最優秀選手に選出された。
1957年、早稲田大学第二商学部に入学。在学中は早稲田大学ア式蹴球部に所属し、在学中の1958年にサッカー日本代表に選出され、同年12月の香港代表戦で初出場した。
大学卒業後、1961年から長沼健や大学の先輩・八重樫茂生ら代表選手の揃った古河電気工業サッカー部(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)に入団した。
1959年のムルデカ大会から1972年ミュンヘンオリンピック予選まで日本代表として活躍。国際Aマッチ44試合に出場し1得点[1]。その強靱な体力と背番号から、当時の人気漫画のヒーローになぞらえて「エイトマン」のニックネームで呼ばれた[2]。
1968年の1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技で開催国のメキシコ代表を破り、アジアでは初めての銅メダルを獲得。1974年に現役を引退した。
1978年から1982年まで早稲田大学、1983年から1988年度(1989年3月)まで本田技研工業の監督を歴任。
なお89年1月に開催された1989 FIFAフットサル世界選手権(現:FIFAフットサルワールドカップ)に出場した日本代表は、約一名(=入社2年目北澤豪と同い年、成人式犠牲の国士舘大学2年で後に本田技研に就職せず日産自動車やJリーグ開幕以降は横浜マリノスで活躍する野田知)を除き同部の選手で構成されていた。
1992年から1994年まで日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の鹿島アントラーズの初代監督に就任し、1992年のJリーグカップでベスト4、1993年のJリーグ・サントリーシリーズ(第1ステージ)で優勝、同年の第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会で準優勝の成績を残した。宮本の退任後、2015年に石井正忠が就任するまでの間、鹿島の監督を務めたのは全てブラジル人(監督代行を2度務めた関塚隆を除く)であり、宮本は21年間にわたって鹿島のクラブ史上唯一の日本人監督だった。
1995年に清水エスパルスの監督に就任。その時に、鹿島アントラーズから吉田康弘、サントス、森岡隆三が加入した。Jリーグの監督としての通算戦績は、64勝46敗。
2002年5月7日、茨城県水戸市で肺炎のため死去した[2]。
2005年5月、第1回日本サッカー殿堂として表彰された。
所属クラブ
個人成績
指導歴
監督成績
年度 |
所属 |
クラブ |
リーグ戦 |
カップ戦
|
順位 |
試合 |
勝点 |
勝利 |
引分 |
敗戦 |
JSL杯/ナビスコ杯 |
天皇杯
|
1983 |
JSL1部 |
本田技研 |
8位 |
18 |
14 |
4 |
6 |
8 |
2回戦 |
ベスト8
|
1984 |
5位 |
18 |
19 |
7 |
5 |
6 |
ベスト4 |
ベスト8
|
1985 |
3位 |
22 |
28 |
8 |
12 |
2 |
ベスト4 |
2回戦
|
1986-87 |
9位 |
22 |
20 |
6 |
8 |
8 |
ベスト4 |
ベスト8
|
1987-88 |
8位 |
22 |
20 |
6 |
8 |
8 |
ベスト4 |
ベスト8
|
1988-89 |
9位 |
22 |
27 |
7 |
6 |
9 |
2回戦 |
ベスト8
|
1992 |
J |
鹿島 |
- |
ベスト4 |
ベスト8
|
1993 |
準優勝 |
36 |
- |
23 |
- |
13 |
予選リーグ |
準優勝
|
1994 |
3位 |
22 |
- |
16 |
- |
6 |
1回戦 |
-
|
1995 |
清水 |
9位 |
52 |
- |
25 |
- |
27 |
- |
1回戦
|
- 1994年はサントリーシリーズ(第1ステージ)のみ。
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 44試合 1得点(1958-1971)[1]
得点数
# |
年月日 |
開催地 |
対戦国 |
スコア |
結果 |
試合概要
|
1 |
1965年3月25日 |
シンガポール |
シンガポール |
4-1 |
勝利 |
親善試合
|
著書
出典
関連項目
外部リンク
|
---|
特別掲額 | |
---|
投票 | |
---|
委員会推薦 (特別選考) | |
---|
委員会推薦 (チーム) | |
---|
委員会推薦 (協会会長) | |
---|