浅岡 朝泰(あさおか ともやす、1962年4月6日 - 2021年10月6日)は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW(右ウイング)、MF(右ウイングバック)、DF(右サイドバック)。
筑波大学卒業後、1985年より日本サッカーリーグ1部の日本鋼管サッカー部に入部。俊足を活かしたドリブル突破と正確なセンタリングが持味で、そのシーズンに新人ながらアシスト王を獲得した。
1985年から1987年シーズンまで3年連続リーグ戦2位、1986年度に天皇杯全日本サッカー選手権大会準優勝、1987年にJSLカップを制覇し、同サッカー部の上位進出に貢献した。また日本代表にも選出され、ソウルオリンピック予選など8試合に出場した[1]。
1988年、サッカー日本代表に右ウイングバックとして選出され、同年にはブンデス・リーガ入りが報道されたが、読売サッカークラブへ移籍。同チームでは、フォワード、右サイドバックとして活躍した。1992年に右足靱帯断裂の怪我を負い[2]、1993年に現役を引退[2]。Jリーガーは叶わなかった。
1994年、第72回全国高校サッカー選手権大会のハイライト番組(日本テレビ系)に出演し、「浅岡朝泰のチェックでござる!!」と題した解説コーナーを担当した。
2003年より帝京大学可児高校サッカー部の総監督に就任した[2] が、2004年に大腸癌が見つかり2007年まで闘病生活を送った[2]。2007年より大阪商業大学大学院、2009年より岐阜大学大学院博士課程にそれぞれ進学した[2]。2009年にはFC堺の監督を務めた。
2012年7月時点でヴィズミックモデルエージェンシー(名古屋事業部)FC disport(名古屋市、愛知郡周辺にてスクール展開)に所属していた。
2021年10月6日、59歳で死去[3]。
・JSLオールスターサッカー 1回出場(1987年)
その他の公式戦
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