石井 幹子(いしい もとこ、1938年10月15日 - )は、日本の照明デザイナー。石井幹子デザイン事務所主宰。
日本に「ライトアップ」という文化を根付かせたパイオニア的存在であり、東京タワーやレインボーブリッジの照明を手がけるなど、日本の都市夜景に変革をもたらした人物として知られる[1][2]。
東京都出身。幼稚園から高校までお茶の水女子大学附属に通い、1962年に東京芸術大学美術学部図案計画科を卒業。デザイン会社で照明器具のデザインに携わり、1965年から1967年にかけてフィンランドとドイツの照明設計事務所に助手として勤務する。
帰国後の1968年に石井幹子デザイン事務所を設立し、1970年に開催された大阪万博、1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会の照明デザインを手がけるが、オイルショックの影響で照明デザインは電力の浪費と受け取られ日本国内では不遇の時期を過ごす一方、日本の建築雑誌で作品を見たミノル・ヤマサキの目に留まったことをきっかけ[3]に「日本に仕事がなくても、地球上のどこかにはあるはず」とオイルマネーで建設ラッシュに沸く中東をはじめ海外での仕事をこなし実績を作っていった。
1979年の国際照明委員会京都大会を前に京都タワーから夜景を見た際に、名所が暗闇で見えず、道沿いの街灯とパチンコ店のネオンばかりという光景に、世界の照明関係者にこんなお粗末な夜景を見せたくないと、京都市役所に直訴したものの担当者には全く相手にされなかった[4]ことから、1980年代は都市照明の必要性を説明するため私財を投じて日本各地を廻りプロモーション活動を行い、つくば科学万博や、横浜市のライトアップフェスティバル、ジャパンフローラ2000といった祭典のライトアップや、大阪市や函館市、姫路市、倉敷市、北九州市、白川郷合掌集落などの都市空間のライトアップを成功させる。
1989年の東京タワーのライトアップデザイン以降は内外から注目されるようになり、北米照明学会大賞を国際花と緑の博覧会・光ファンタジー電力館(1990年)とレインボーブリッジ(1994年)で2回受賞している。 現在、都市照明からレーザーアートまで幅広い光の領域を開拓し日本における照明デザイナーの先駆者・第一人者として、日本のみならずアメリカやヨーロッパを始めとして世界各国で活躍する。
国土交通省・内閣府の審議会委員を歴任し、2000年に紫綬褒章を受章、2019年に文化功労者[5]、2020年に東京都名誉都民に選ばれる[6]。2023年、旭日中綬章受章[7][8]。
長野県軽井沢に別荘がある[9]。
父はベルリンオリンピックサッカー日本代表の竹内悌三[10]。夫は法学者の石井紫郎。長女の石井リーサ明理も照明デザイナー。