佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年(大正12年)11月5日[1] - )は、日本の小説家[2]。大阪市生まれ、西宮市育ち。小説家・佐藤紅緑と女優・三笠万里子の次女として出生。異母兄に詩人・サトウハチローと脚本家・劇作家の大垣肇[3]。甲南高等女学校(現 甲南女子高等学校)卒業[4]。
父親と同様[要出典]「憤怒の作家」と言われ、社会を鋭く批判する姿勢から「男性評論家」と呼ばれていた[5][6][7]。
1923年11月5日(戸籍上は11月25日)、佐藤洽六(筆名 ・佐藤紅緑)とシナ(元女優の三笠万里子)の次女として、大阪市住吉区帝塚山で出生した。父親は先妻のはるを棄て、シナと再婚していた[3]。1925年に「私の故郷」と呼ぶ[8]兵庫県武庫郡鳴尾村(現西宮市)に転居。小学校時代は大衆小説の大家である父親に送られてくる雑誌の恋愛小説を読みふけっており、算術は苦手であったという[要出典]。1936年4月、神戸の甲南高等女学校に入学。スポーツや演劇でクラスの人気者になる。女学校卒業後に太平洋戦争が勃発したため、防火演習や防空壕掘りなどをして、花嫁修業はせず、無為な青春時代を過ごす[9][10]。
1943年12月、最初の夫となる森川弘と見合結婚し、長野県伊那市で暮らす。夫は陸軍航空本部勤務であり、飛行場設営隊の主計将校として陸軍伊那飛行場へ赴任。同地で約5か月の新婚生活をおくる。翌年11月、静岡県静岡市清水区の興津に疎開中の佐藤紅緑と三笠万里子の隠居用の邸で長男を出産。その後夫の実家のある大井町(岐阜県恵那市の旧大井町)で敗戦を迎えた。なお、この年に次兄が広島で被爆死、三兄がフィリピンで戦死している。復員した夫、長男とともに千葉県東葛飾郡田中村(現柏市)で帰農生活に入る。1947年に長女を出産[3][11]。
夫は軍隊で原因不明の激しい腹痛に悩まされ、軍医に鎮痛剤としてモルヒネを打たれていた。そのために夫はモルヒネ中毒にかかっていた。モルヒネ中毒は戦後も治癒せず、それが原因で夫と別居することになる[11]。
両親への手紙に記載された田中村の生活(嫁ぎ先の愚痴など)を読んだ父親に「面白い。嫁になどやらずに作家にすればよかった」と褒められていた。実家に出戻ってきた際に上記を思い出した母に作家になることを勧められ、父の友人であった加藤武雄に師事した[9]。1950年に同人雑誌「文藝首都」に参加。同人仲間に北杜夫、田畑麦彦、なだいなだらがいた。同誌に処女作『青い果実』が発表され、同作で文藝首都賞を受賞した。1951年 に『宇津木氏の手記』、1952年に『冷焔』、1954年に『埋もれた土地』を発表。当時は同人仲間とよく街を歩きまわっていたという[9]。
なお、1949年に父親の佐藤紅緑と、1951年 に夫の森川弘と死別している。森川との間に生まれた子供は婚家の両親が引き取った[3]。
1953年に母親との衝突がきっかけで長野県の伊那谷の鉱泉に約一カ月滞在。同人仲間の田畑麦彦が訪れ、関西地方まで共に旅行をしたことで親しくなる。実家からの自立を目指して聖路加国際病院で庶務課員、病院ハウスキーパーとして働き始めるが、1955年に退職(作家以外の仕事に就いたのは、後にも先にもこのときだけであった)。1956年に田畑麦彦と再婚し一女を設ける。田畑と暮らしていた渋谷区初台の家を売却。さらに、母親の世田谷区上馬の家も売却し、世田谷区太子堂で、母親と同居を開始[3]。新居は文学仲間のサロンとなった[12]。1957年に田畑、川上宗薫らと同人誌「半世界」を創刊した。1960年『文學界』に掲載された『冬館』で文壇に認められる[2]。1962年には自伝的小説『愛子』を刊行。 1963年度の上半期は『ソクラテスの妻』で、下半期は『二人の女』で芥川賞候補となった。『ソクラテスの妻』の執筆をきっかけにエッセイを依頼され[12]、以後はエッセイの注文も増えた。
田畑麦彦は 第1回文藝賞を受賞した小説家であったが[13]、結婚後は事業に力を入れるようになっていった(田畑の父親は実業家の篠原三千郎で、東京急行電鉄の創業者・五島慶太の右腕であった縁で同社の社長を務めたこともある[要出典])。佐藤は田畑とともに産業教育教材販売会社「日本ソノサービスセンター」を設立し、事業はいっときは軌道に乗ったが、田畑の「特殊な金銭感覚」が禍し、1967年12月に倒産した。夫婦は大きな借金を背負うこととなり、債権者に追われ、原稿料が会社の債務返済に消えていく日々が続いた。佐藤は借金返済のために多数のジュニア小説を執筆した。1968年1月、「きみを借金から身を守るために偽装離婚しよう」「借金の火の粉が妻に降りかからないための偽装離婚」という夫の説得を受け入れ離婚に至る。しかし、佐藤は借金を肩代わりし[14]、返済のため御意見番としてワイドショーに出演したり講演をしたりと忙しく働き続けた。なお、田畑は銀座で飲食店を経営する女性と密かに入籍していた[要出典]。
1969年、45歳の時に、借金返済で東奔西走した経験をモチーフとした短編小説『戦いすんで日が暮れて』 が直木賞を受賞する[15]。
1979年4月、『幸福の絵』を刊行し、女流文学賞を受賞[16]。1989年7月より、自身のルーツである佐藤家をモチーフとした『血脈』を別冊文藝春秋に連載開始。父・佐藤紅緑、異母兄・サトウハチローなど佐藤家の子孫たちに伝わる「荒ぶる血」が引き起こす破滅的な人生を描いた群像劇・大河小説である。『血脈』は佐藤のライフワークとなり、十数年かけて完成された。2000年、『血脈』で菊池寛賞を受賞[2]。高齢となっても執筆意欲は旺盛であり、2014年には91歳で作家人生最後の作品と位置付けた長編小説『晩鐘』を刊行し、紫式部文学賞を受賞[17]。この小説は元夫の田畑をモデルにしたものであった。
小説のほかにも、身の回りの人物や事件をユーモラスに描いたエッセイを多数執筆しており、「娘と私」シリーズ等が知られている。中でも娘・響子と共に、タイ、インド、エジプト、ギリシア、イタリア、イギリスへ23日間外国旅行した経験を記した『娘と私のアホ旅行』が著名である。佐藤のエッセイストとしての一面を評価した堀川とんこうは、随筆春秋(堀川の実母堀川としが1993年に創設したエッセイを専門とする純文学の同人誌)の"指導者"を佐藤に依頼し、引き受けた[18]。2020年には自身の希望により随筆春秋誌上に佐藤愛子奨励賞が新設され、唯一の審査員を務めている[19]。その後も『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(2021年)などのエッセイを発表している。2023年には『九十歳。何がめでたい』の映画化が公表された[20]。
2017年4月に旭日小綬章を受章した[2][21]。
出典: [29]