倉敷市(くらしきし)は、岡山県の南部に位置する市。白壁の町並みが残る倉敷美観地区、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋などで知られる。中核市・保健所政令市に指定されている。
概要
岡山県下では県庁所在地で東に隣接する岡山市に次いで第2位(中国地方では第3位)となる約47万人の人口を擁し、岡山市や周辺自治体と共に岡山都市圏を形成している[注 1]。また、備中県民局の本庁が置かれ、県西部(高梁川流域圏)の中枢都市としての機能も有する[1]。
市中心部の倉敷川沿いの一帯は江戸時代に幕府直轄領(天領[2])になったのを機に繁栄し、和洋織りなす白壁の町並みが今も美観地区として保存され、県内有数の観光の街としての顔をもつ。一方、瀬戸内工業地域の中核都市として、水島地区を中心に、臨海部には石油コンビナートなど重化学工業地帯(水島臨海工業地帯)が形成されており、市内の製造品出荷額(2023年)は4兆5000億円超に上るなど[3]、西日本を代表する工業都市の一つでもある。製造品出荷額では、倉敷市だけで岡山県内の約45パーセントを占め、全国の市町村で第2位である(1位は愛知県豊田市の14兆円)[4]。
倉敷市の発足は昭和初期の1928年で、その後1967年に旧倉敷市・児島市・玉島市が新設合併したことにより2代目となる現在の市が成立した。さらに旧3市や現在の市が周辺町村の編入合併を繰り返し市域を拡げてきたため、現在の市は地理や歴史、文化の異なる多様な地域で構成され、核となる市街地も各地に分布する。主要な地域としては行政と観光の倉敷、重化学工業地帯のお膝元・水島、学生服とジーンズのメッカ・児島、貿易港と新幹線駅を有する玉島などがある。
→3市合併前の初代・倉敷市の詳細は
歴史の節、もしくは
倉敷地域を参照
地理・地勢
市域は岡山県の南中央部に位置し、市の中西部を高梁川が北から南に流れ瀬戸内海に注いでいる。平野の多くは干拓地や沖積平野で占められ、児島地域を除き比較的平坦である。市内には児島、亀島山、玉島、連島など「島」の付く地名が多いが、それらの地域は元来文字通り「島」であり、干拓により陸続きになって今の市域が形成されている。
山陽新幹線・山陽本線・山陽自動車道・国道2号が東西に横断し、山陰地方を結ぶ伯備線、四国を結ぶ瀬戸大橋(瀬戸大橋線・瀬戸中央自動車道)も市内を経由しており、交通・物流の結節点としての重要な地位を占めるに至っている。
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阿智神社境内より倉敷市街を望む
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水島コンビナート
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瀬戸大橋
主な自然地形
- 主な山岳
- 種松山 - 258.4 m 倉敷 粒江
- 大山 - 143.7 m 倉敷 生坂
- 向山 - 100.0 m 倉敷 向山
- 大平山 - 161.9 m 水島 連島矢柄
- 鴨ヶ辻山 - 283.9 m 水島 呼松
- 弥高山 - 307.6 m 玉島 陶
- 鷲羽山 - 133.5 m 児島 下津井田ノ浦
- 竜王山 - 203.4 m 児島 味野
- 王子が岳 - 227.8 m 児島 唐琴
- 由加山 - 273.1 m 児島 由加
- 仙随山 - 269.9 m 児島 田の口
- 鷲峰山 - 399.2 m 真備 妹(せ) ※市内最高峰
- 主な河川
- 高梁川 - 110.7 km:一級河川(源流 新見市花見山) ※岡山三大河川の一つ[5]。
- 小田川 - 40.2 km :一級河川(源流 広島県神石高原町)
- 倉敷川 - 13.6 km:二級河川(美観地区を起点とする汐留川、旧源流は酒津・高梁川)
- 里見川(玉島) - 13.3 km:二級河川(源流 浅口市鴨方町 妙見山)
- 小田川(児島) - 5.4 km:二級河川(源流 児島柳田 石鉄山)
- 下村川(児島) - 2.16 km:二級河川(源流 児島上の町)
- 郷内川(児島) - 5.15 km:二級河川(源流 林・木見、倉敷川へ合流)
- 岡山平野
- 児島半島
- 水島灘
気候・環境
温暖で晴れの日が多く雨が少ない瀬戸内海式気候に属する反面、高梁川による豊富な水資源の恩恵で水不足になることは稀である。冬から春にかけては、中国大陸から流入する黄砂に見舞われることもある。また冬には積雪の観測される日も年に1~2回程度はあるが、大雪は極めて少ない。
太平洋高気圧に覆われる夏季には瀬戸内海沿岸特有の「凪」が発生し、気温が35度以上の猛暑や熱帯夜になる日もある。また、瀬戸内海を隔てて南方に位置する千数百メートル級の急峻な山々が連なる四国山地により台風が直撃することが滅多に無く、直上を通過しても四国山地で勢力が弱められて甚大な被害とはならない場合が多いのも特徴。
大部分が沖積平野と干拓地である平野部は河川や海の水面との差があまりない低地が多く、明治時代まで東西に分かれていた高梁川が度々氾濫を起こす水害の多い地域であった。しかし、大正時代に用水路の整備とともに改修工事が行われ現在の形に一本化された後は大規模な水害が減少した。
近年発生した顕著な気象災害として、2004年の台風集中上陸による高潮などの被害、2018年の平成30年7月豪雨(西日本豪雨)による真備地区での大規模水害が挙げられる[6][7]。
倉敷[8]の気候
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月 |
1月 |
2月 |
3月 |
4月 |
5月 |
6月 |
7月 |
8月 |
9月 |
10月 |
11月 |
12月 |
年
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最高気温記録 °C (°F)
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16.1 (61)
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22.5 (72.5)
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23.8 (74.8)
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30.5 (86.9)
|
32.6 (90.7)
|
35.2 (95.4)
|
36.8 (98.2)
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37.1 (98.8)
|
36.0 (96.8)
|
32.4 (90.3)
|
26.1 (79)
|
20.6 (69.1)
|
37.1 (98.8)
|
平均最高気温 °C (°F)
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9.2 (48.6)
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10.0 (50)
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13.6 (56.5)
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19.3 (66.7)
|
24.4 (75.9)
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27.3 (81.1)
|
30.9 (87.6)
|
32.2 (90)
|
28.4 (83.1)
|
23.1 (73.6)
|
17.1 (62.8)
|
11.5 (52.7)
|
20.6 (69.1)
|
日平均気温 °C (°F)
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4.6 (40.3)
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5.2 (41.4)
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8.5 (47.3)
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13.9 (57)
|
19.1 (66.4)
|
22.9 (73.2)
|
26.9 (80.4)
|
27.9 (82.2)
|
23.9 (75)
|
18.0 (64.4)
|
12.0 (53.6)
|
6.7 (44.1)
|
15.8 (60.4)
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平均最低気温 °C (°F)
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0.3 (32.5)
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0.6 (33.1)
|
3.5 (38.3)
|
8.6 (47.5)
|
14.0 (57.2)
|
19.1 (66.4)
|
23.6 (74.5)
|
24.4 (75.9)
|
20.1 (68.2)
|
13.5 (56.3)
|
7.3 (45.1)
|
2.4 (36.3)
|
11.5 (52.7)
|
最低気温記録 °C (°F)
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−5.4 (22.3)
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−8.0 (17.6)
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−3.5 (25.7)
|
−0.8 (30.6)
|
3.1 (37.6)
|
9.8 (49.6)
|
16.0 (60.8)
|
17.1 (62.8)
|
8.9 (48)
|
2.7 (36.9)
|
−0.9 (30.4)
|
−4.1 (24.6)
|
−8.0 (17.6)
|
降水量 mm (inch)
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34.4 (1.354)
|
42.4 (1.669)
|
78.2 (3.079)
|
82.5 (3.248)
|
101.9 (4.012)
|
149.8 (5.898)
|
154.1 (6.067)
|
81.3 (3.201)
|
133.0 (5.236)
|
93.6 (3.685)
|
51.2 (2.016)
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40.4 (1.591)
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1,042.2 (41.031)
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平均月間日照時間
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152.5
|
144.5
|
175.7
|
189.8
|
199.2
|
143.1
|
173.0
|
206.5
|
155.2
|
166.7
|
149.7
|
145.8
|
2,001.3
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出典1:気象庁[9](平年値の統計期間:1991-2020年)
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出典2:気象庁[10]
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市勢
- 面積:355.63 km²
- 人口:480,007人
- 世帯数:216,317世帯
- 人口密度:1,349.73/km²
(令和3年11月末日の登録人口による)
人口
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倉敷市と全国の年齢別人口分布(2005年)
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倉敷市の年齢・男女別人口分布(2005年)
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■紫色 ― 倉敷市 ■緑色 ― 日本全国
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■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性
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倉敷市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年)
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374,385人
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1975年(昭和50年)
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417,750人
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1980年(昭和55年)
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432,171人
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1985年(昭和60年)
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443,721人
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1990年(平成2年)
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445,059人
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1995年(平成7年)
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453,618人
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2000年(平成12年)
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460,869人
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2005年(平成17年)
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469,377人
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2010年(平成22年)
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475,513人
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2015年(平成27年)
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477,118人
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2020年(令和2年)
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474,592人
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総務省統計局 国勢調査より
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近隣都市との関係
当市は岡山都市圏に含まれ岡山市とは人的交流に加え行政面でも密接な関係をもち、全体的に岡山への通勤・通学者が圧倒的に多い。しかし、両市は過去に県主導で行われた合併構想を破談にしており、かつて倉敷市は代官所が置かれた天領、岡山市は外様大名の城下町であったという中心地域成立の歴史的違いによる対抗心も根強いものがある。なお、児島地域は岡山市と同じ旧備前国、江戸時代は岡山藩の支配下におかれ、交通の便も岡山市の方が良いなど繋がりが強く、本社の移転や最初の出店は岡山市内に構えることが多い。
また、県境を越えて西にある福山都市圏や、瀬戸大橋(瀬戸内海)を越えた対岸の高松都市圏との交流も少なくない。市内の地域によって事情は異なるが、地理的な位置関係からJR山陽本線沿線の玉島地域・倉敷地域は福山、南の児島地域は高松への通勤・通学者もいる。
隣接している自治体・行政区
香川県(海上で隣接)
歴史
各地域の沿革の詳細は、倉敷・水島・玉島・児島・庄村・茶屋町・船穂町・真備町の各ページを参考のこと。
古代 - 中世
市内の最も古いとされる遺跡は紀元前2万年ごろ先土器時代の鷲羽山遺跡で、この当時瀬戸内海は陸地であったと推測されている。1万年前に氷期が終わり海水面が上昇、6000年前までに海になった。なお、中津貝塚、福田貝塚、船元貝塚などといった、学史的に著名な遺跡が多く存在している。
もっとも早く村として形成されたとされるのが吉備路の南に位置する現在の庄地区北部で、この周辺はかつて「吉備の津」と呼ばれ吉備国の海の玄関であったことから、紀元前100年ごろの上東遺跡(じょうとういせき)に楯築遺跡(たてつきいせき)や王墓山古墳群、6世紀ごろに土器を生産した二子窯跡に加え650年ごろに作られた日畑廃寺跡など多くの遺跡が集中している。
現在の倉敷市一帯は3世紀から律令国になるまでは吉備国、飛鳥時代7世紀後半の壬申の乱をきっかけに行われた吉備分割後は旧児島郡に含まれる地区が備前、それ以外は備中になった。備中国の中枢および国府は共に倉敷市の北に隣接し備中国分寺のある総社市に置かれていたと推測され、高梁川を隔てた西に位置する真備地区一帯を拠点としていた吉備国の有力氏族・下道氏(しもつみち)出身の吉備真備が活躍したのは奈良時代8世紀後半ごろである。
倉敷地域の倉敷美観地区周辺は吉備の穴海(児島湖と児島湾の原型)と呼ばれた内海に浮かぶ鶴形山と向山によって形成された鶴形島(円亀島、阿智島)を起源とする。8世紀末・平安時代初めごろには既に陸続きになり、周辺は阿智潟と呼ばれる干潟であった。10世紀中ごろ、藤原純友の乱の後、小野好古が鶴形山に南に城を築き中世まで小野氏が支配したと云われる。倉敷の名前が登場するのは近世になってからであるが、以前より水夫(かこ)の港が現在の船倉町辺りにあったとされる。水夫達は周辺で行われた数々の戦いにかり出され、水軍として活躍したといわれている。なお、中世の高梁川河口は現在の水江・船穂町柳井原・船穂町水江付近である。
児島地域は吉備児島(または備前児島)と呼ばれた離島の西側にあたり、『古事記』や『万葉集』などに書かれた古くから海上交通の要衝であったためヤマト王権の時代に屯倉が置かれた。奈良時代に建立された熊野十二社権現の寺社地や通生荘(かよおのしょう)の荘園などが存在し、本州と四国を結ぶ中継地として機能していた。藤原純友の乱・源平合戦藤戸の戦い・南北朝の戦いなどに関わり戦国時代には政治軍事上の要地として豪族の争奪戦が行われるなど、度々戦乱の舞台にもなった。『太平記』に登場する児島高徳は当地の出身であるとする説がある。
玉島地域の平野は江戸時代初めごろまで七島・柏島・乙島(おとしま)などの島々に囲まれた甕ノ海(もたいのうみ)という内海であった。八島から道口一帯は甕ノ泊(もたいのとまり)といわれた天然の良港で中世から備中国の海の玄関になり、古墳時代 - 室町時代に陶(すえ)から亀山周辺で生産された須恵器(亀山焼)という甕(かめ)などの土器を出荷していた。また、玉島旧市街地周辺の海は『万葉集』で"玉の浦”と読まれ、場所は源平合戦・水島の戦いで舞台になった乙島と柏島から北に位置する七島に囲まれた一帯と推測される。
『和名類聚抄』(平安時代の辞書)によると7世紀の律令制によって定められた現在の倉敷市内にあたる行政区域は大まかに次の通りとされる。
- 備中国
- 窪屋郡 - 阿智郷(阿知、万寿、帯江地区)、大市郷(大内、川入、酒津、水江)、美簀郷(祐安、西岡、浅原)
- 都宇郡 - 深井郷(二子、松島、上東、山地)、駅家郷(矢部、日畑)
- 下道郡 - 河辺郷(川辺)、曾能郷(岡田、市場)、八田郷(箭田)、邇磨郷(二万)、呉妹郷(妹)、穂北郷(陶)、秦原郷(辻田)
- 浅口郡 - 間人郷(柏島、乙島、黒崎)、船穂郷(船穂)、阿智郷(西阿知地区)
- 備前国
- 児島郡 - 児島郷(林、木見、串田、曾原、福江)、都羅郷(連島、福田、下津井、ほか)※連島は備中国浅口郡へ移管
※括弧内は近辺と推定される現在の地名
近世
倉敷一帯の島々は豊臣政権の五大老であった宇喜多秀家が始めた干拓が江戸時代以降も続き、やがてそれらの島々が陸続きになり現在の平野が形成された。なかでも小豆島に匹敵する大きさの吉備児島は児島半島となった。江戸時代に入り幕藩体制下ではかなり複雑な統治がされており、場所によって様々な領地が入り乱れている。天領である倉敷代官所領の他、備中松山藩・岡山藩(鴨方藩・生坂藩などの支藩を含む)・浅尾藩・丹波亀山藩・岡田藩他の大名領に加え、知行処(旗本領)や寺社領などがあった。
天領になった倉敷旧市街は高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ内陸の港町になり、1614年備中松山城の城番で備中代官であった小堀政一が陣屋を構えた後、代官所(支配所)がおかれた。その後、倉敷が商人の町として発展したのは港の機能より年貢米の集積地としてであった。倉敷代官所は商人たちの自治を認め優遇したことで人口も増加し、領地は名目上5万石であったが、実質は10万石以上の領地を支配した。なお、倉敷代官所は現在の倉敷アイビースクエアのある場所に置かれ、美観地区の蔵屋敷はこれによって富を得た商人の蔵である。
児島地区は岡山藩の支藩である天城池田家支配の下、古くからの産業である塩田に加え、周辺の新田で栽培された綿花を使った機織りが盛んになり、藩はそれらに専売制を取り入れ財政の柱にすえる。やがて機織りによって作られた製品が地場産業となり、真田紐や足袋などといった名産品を生み出し“繊維の町・児島”の素地を形成していく。沿岸の港のうち下津井は北前船の寄港地、田の口と下村(現下の町)は瑜伽大権現と四国金刀比羅宮を結ぶ港として繁栄した。
玉島地区の甕ノ泊は備中松山藩藩主の水谷勝隆・勝宗親子と岡山藩による干拓で瀬戸内海側に面していた乙島や柏島と陸続きになった。その後、水谷氏により高瀬通しと呼ばれる水路が作られ、下流の玉島新田と阿賀崎新田は高梁川上流から高瀬舟によって運ばれてくる物資を北前船に載せる積出港として発展した。やがて“玉島湊”として全国に知られるようになるが、1693年水谷氏断絶後は幕府に領地の多くが接収され、備中松山藩領として残った羽黒神社周辺を除き倉敷代官所、岡山藩、丹波亀山藩などによって細分統治された。
年表
- (645年 - 大化の改新)
- (794年 - 平安遷都)
- (1603年 - 江戸幕府開府)
- (1941年(昭和16年) - 太平洋戦争開戦)
地名の由来
現倉敷市の名称は、全国的にも観光地として知られる倉敷美観地区の周辺一帯の旧地名「倉敷村」に由来する。倉敷という地名は、中世に支配地の年貢米や貢納物を領主へ送るために、周辺の支配地からそれらを集めておく場所であった「倉敷地」に由来しているとする説が地元の歴史家の間では有力とされる。倉敷村はかつて倉敷地であったといわれている。倉敷地は「蔵屋敷が立ち並んだので、『蔵屋敷』地が転訛して『倉敷』地となった」といわれ、また「倉とは船蔵屋敷あるいは水夫屋敷のことを指す」ともいわれる。倉敷村が誕生したのは戦国時代 - 安土桃山時代の間(1565年 - 1585年)であるといわれ、「蔵敷」「倉輔」などとも書かれることもあった。江戸時代に幕府代官所が置かれ陣屋町となり、また物資の集散地になり、川港として栄えて豪商の蔵が建ち並び商家町として繁栄。現在の美観地区周辺の基礎が生まれた。
なお、倉敷地は全国各地にあったが、倉敷市同様に現代まで倉敷地に由来する地名が残っている例がある。たとえば同じ岡山県内の美作市林野も戦国時代ごろから倉敷村と呼ばれた。なお、こちらも江戸時代に天領となり代官所があった。1918年(大正7年)美作の英田郡倉敷町は旧郷名の林野郷(はいのごう)に由来する林野(はやしの)町に改名し備中の都窪郡倉敷町に倉敷の名を譲った形となった。現在も林野から吉野川(吉井川支流)下流の美作市巨勢(こせ)に下倉敷という字が残っており、宇野バスが運行する路線に下倉敷のバス停があるなど、倉敷地の名残は現在も残っている。
市域の変遷
明治時代に郡役所が置かれた倉敷、味野、玉島の各村が周辺の村々を吸収し、大規模河川や山地によって隔てられたこれらの地域がそれぞれ市制を布き市域を拡大してきた。
1961年(昭和36年)、三木行治岡山県知事により岡山市・西大寺市・旧倉敷市・児島市・玉島市・玉野市・旧総社市を含む33市町村が合併する岡山県南百万都市建設計画が提唱され、協議会によりすべての市町村議会において合併合意にまで至った。
しかし、倉敷・岡山・児島の3市の首長は合併申請を行わず、高橋勇雄倉敷市長の失踪(これは三木県知事や森清企画室長の圧力に加え、合併推進派が用意したと思われる男女の議会傍聴席占拠行為、「中国新報」という赤新聞の発行などによる倉敷市長他関係者の誹謗中傷を新聞記事にして無料配布するなど、調印式前後に高橋市長自身が身の危険を感じたことによる失踪)、そして3市の脱退と三木知事の急逝により結局実現には至らなかった。
百万都市合併構想が頓挫した後、自治省事務次官の救済案の提示により岡山市を中心とする備前ブロックと旧倉敷市を中心とする備中ブロックの二つに分けてブロック毎に段階的な合併する方向に方針転換した。その後、合併協議会に加わっていた旧倉敷市・児島市・玉島市の旧3市が合併することとなったが、そのきっかけとなった理由は、それら旧3市で臨海工業地帯の工場用地にまつわる領有権争いを互いに回避したいとの思惑があったためと言われている。つまり、岡山県南百万都市建設計画問題の発端ともなった水島臨海工業地帯が旧3市の区域内にあり、倉敷市水島・児島市・玉島市各地区の海や川など当時の3市の境界線がぼんやりと定まらないなか、領有権争いの勃発を合併により未然に防いだとされる。
結果的に、現在の倉敷市は都窪郡・浅口郡・吉備郡(旧下道郡)・児島郡と広範囲の地域に及んでいる。
※旧倉敷市・児島市・玉島市の合併関係はそれぞれの項目を参照
旧倉敷町
現在の岡山県倉敷市の中心市街地に概ね該当する区域に加え、現在の同市向山や新田を含む範囲を管轄していた。
前身となる倉敷村は、古くは吉備の穴海の西部にあたる阿知の海と呼ばれる海域にあった現在加須山から続く丘陵となっている島嶼にあった港町であった。早い時期より海洋交通の拠点となり、加子浦に指定されている。文禄・慶長の役には加子役銀を上納、近世初頭の島原の乱では浦手御用をつとめたという記録もある[18]。
中世末期、宇喜多秀家が家臣の岡利勝に命じ、阿知の海を干拓したことにより陸続きとなり、倉敷村は運河における河港となる。近世に干拓が引き続き行われ、周囲一帯は平野となり、運河は汐入川となり、倉敷村はその最上流となる(現在の倉敷川)[18][要ページ番号]。
近世初頭には備中松山の外港として、物資の集散拠点として繁栄。また出張陣屋も建てられ、陣屋町としても発展する。その後、幾度の領地変遷を経て天領(幕府直轄地)となった。寛永19年(1642年)には「倉敷代官」が派遣され(倉敷支配所)[19][20]、延享3年(1746年)には代官所建物が完成した[21]。
明治になると、倉敷県の管轄となり、県庁所在地となる。その後、小田県(深津県)を経て岡山県に管轄が変遷。1876年(明治9年)には、村南部にある向山や新田などの枝村や周辺村の飛地を併合。翌年には窪屋郡役所が村内に設置される。1887年(明治20年)に町制施行し、倉敷町へ改称。1900年(明治33年)には郡統合により都窪郡に所属が移った[18]。
1927年(昭和2年)に都窪郡倉敷町・万寿村・大高村の3自治体が対等合併し、新しい倉敷町を新設。翌1928年(昭和3年)に市制施行して倉敷市(旧)になり、のち周囲の町村を次第に編入合併していき、1967年(昭和42年)に倉敷・玉島・児島の3市が合併し、新しい倉敷市を新設し現在に至っている[18]。
歴代首長
(旧)倉敷町長一覧
代
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氏名
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就任年月日
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退任年月日
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備考
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1
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植田年
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1889年(明治22年)7月19日
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1891年(明治24年)6月30日
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倉敷村長
1891年6月16日町制施行
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2
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小山慎平
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1891年(明治24年)7月24日
|
1893年(明治26年)7月14日
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3
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植田年
|
1893年(明治26年)8月1日
|
1910年(明治43年)12月7日
|
|
4
|
木村和吉
|
1910年(明治43年)12月13日
|
1918年(大正7年)12月12日
|
|
5
|
原澄治
|
1918年(大正7年)12月18日
|
1924年(大正13年)5月21日
|
|
6
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関藤碩衛
|
1925年(大正14年)4月21日
|
1927年(昭和2年)3月31日
|
1927年4月1日倉敷町廃止
新倉敷町発足後も町長に就任
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参考文献 - 倉敷市史 第11冊(永山卯三郎編著 名著出版 1974 1207頁)
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旧倉敷市
1927年、都窪郡倉敷町(初代)・万寿村・大高村の3町村が新しい倉敷町(2代)を新設。翌1928年に岡山県内で岡山市に次いで2番目に市制施行し、倉敷市(初代)となった。その後、幾度かの周辺との編入合併を行う。1967年に周辺の児島市・玉島市と新設合併を行い、新しい倉敷市(2代、現行の倉敷市)となり、旧・倉敷市は消滅した。
現在の倉敷地域と水島地域を合わせた地域が旧・倉敷市の範囲である。
歴代首長
(新)倉敷町長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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初 |
関藤碩衛 |
1927年(昭和2年)4月1日 |
1928年(昭和3年)3月31日 |
旧・倉敷町から引き続き町長就任
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(旧)倉敷市長一覧
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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初 |
関藤碩衛 |
1928年(昭和3年)4月1日 |
1929年(昭和4年)1月6日 |
新・倉敷町から引き続き市長就任
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2-3 |
平松俊太郎 |
1929年(昭和4年)7月27日 |
1937年(昭和12年)7月26日 |
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4-6 |
古屋野橘衛 |
1937年(昭和12年)7月27日 |
1946年(昭和21年)11月25日 |
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7 |
金子藤一郎 |
1947年(昭和22年)4月5日 |
1949年(昭和24年)1月6日 |
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8-11 |
高橋勇雄 |
1949年(昭和24年)2月20日 |
1964年(昭和39年)9月25日 |
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12 |
大山茂樹 |
1964年(昭和39年)11月5日 |
1967年(昭和42年)1月31日 |
新・倉敷市初代市長
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参考文献 - [23] [24]
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歴代市議会議長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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初 |
古屋野橘衛 |
1928年(昭和3年)4月21日 |
1932年(昭和7年)2月24日 |
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2-3 |
林源一 |
1932年(昭和7年)2月24日 |
1936年(昭和11年)4月11日 |
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4 |
古屋野橘衛 |
1936年(昭和11年)4月22日 |
1937年(昭和12年)7月26日 |
退任後の翌日に市長就任
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5 |
船曳貞治郎 |
1937年(昭和12年)8月5日 |
1938年(昭和13年)10月23日 |
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6 |
小野奏次郎 |
1938年(昭和13年)11月4日 |
1942年(昭和17年)8月5日 |
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7 |
安居じん太郎 |
1942年(昭和17年)8月16日 |
1943年(昭和18年)7月23日 |
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8 |
白神種二 |
1943年(昭和18年)9月11日 |
1947年(昭和22年)3月19日 |
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9 |
高橋勇雄 |
1947年(昭和22年)5月19日 |
1949年(昭和24年)1月27日 |
退任後の2月20日に市長就任
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10 |
神崎松次 |
1949年(昭和24年)2月28日 |
1951年(昭和26年)4月29日 |
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11 |
三宅為一 |
1951年(昭和26年)5月8日 |
1955年(昭和30年)1月8日 |
|
12 |
山本一郎 |
1955年(昭和30年)1月8日 |
1955年(昭和30年)1月21日 |
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13-14 |
三宅為一 |
1955年(昭和30年)2月21日 |
1961年(昭和36年)2月13日 |
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15-16 |
尾高源十郎 |
1961年(昭和36年)2月13日 |
1967年(昭和42年)1月31日 |
新・倉敷市初代市議会議長
|
参考文献 - [24]
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行政
倉敷市は2011年(平成23年)3月「都市計画マスタープラン」[25]を策定し、その中で「地域別まちづくりの方針〈地域別構想〉」[26]として、人口・面積規模が大きく一定の生活圏の広がりを有している本庁(倉敷)および水島・児島・玉島支所の各管轄エリアを「地域」、先の4エリアより人口・面積の規模は小さいが身近な生活圏を担っている庄・茶屋町・船穂・真備支所の各管轄エリアを「地区」と設定。市内を4地域4地区に分けて街作りの方針を掲げている[25]。
上記の8エリアのうち倉敷・水島は2エリア合わせて旧倉敷市域に相当し、他のエリアは各支所管内が各旧自治体域に相当している。なお、8エリアの単位呼称は場合や組織により変わることもあり、地域・地区と呼び分けずに、地域または地区もしくは他の呼称を統一したり、単位呼称をつけずに呼んだりと、弾力的に呼称されている。
またエリア分けも組織などにより複数のバリエーションがあり、例えば「4地区」を近隣の「地域」に含み、庄・茶屋町を倉敷、船穂・真備を玉島に含むこともある。また他にも、倉敷と水島を併せて旧倉敷市域という意味で「倉敷」として扱う場合もある。
市長
- 現職市長
- 伊東香織(いとう かおり、2008年(平成20年)5月19日 - 。第6代市長。5期目。)
- 2008年4月27日に行われた市長選には、現職市長の古市健三(59)、元総務省国際部多国間経済室長・前倉敷市収入役の伊東香織(41)、市議会議長の秋山正(53)の3名が立候補、日本共産党は独自候補の擁立を断念した。投票の結果、伊東が次点の古市を8,220票上回り当選。中四国地方で初の女性市長となった(肩書き・役職や年齢などは当時のもの)。
- 2012年4月22日に行われた市長選には、現職市長の伊東と、市民団体「私たちの倉敷市政をつくる会」代表世話人・元京都府大山崎町議会議員で日本共産党推薦の矢引亮介(41)の2名が立候補。投票の結果、伊東が矢引を圧倒的な大差(99,157票差)で破り再選を果たした。
- 歴代市長(3市合併後)
(+印は在職中死去)
代 |
氏名 |
在職期間 |
備考
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初代 |
大山茂樹 |
1967年3月5日 - 1979年3月4日 |
旧倉敷市長から留任
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2 |
滝澤義夫 |
1979年3月5日 - 1991年3月4日 |
最後の玉島市長、倉敷市助役を歴任
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3 |
渡邊行雄+ |
1991年3月5日 - 1996年4月1日 |
元・水島ゴム用品社長、在任中に死去
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4 |
中田武志 |
1996年5月20日 - 2004年5月18日 |
市職員から助役を経て、チボリ公園誘致推進派として当選
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5 |
古市健三 |
2004年5月19日 - 2008年5月18日 |
元県議会議長、児島地区出身
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6 |
伊東香織 |
2008年5月19日 - 現職 |
総務省元国際部多国間経済室長、倉敷市前収入役
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市役所組織
倉敷市役所も参照
行政区域が倉敷・児島・玉島・水島・庄・茶屋町・船穂・真備と8区分される。
倉敷地区には本庁があり、残りの7地区にはそれぞれ支所が配置されている。また、児島・玉島・水島の3支所は総務課・税務事務所・市民課・福祉課・国保介護課・産業課・建設課などが設けられている。
主要な組織(局)のみ記載(2011年(平成23年)4月1日現在)
- 本庁
- 市長公室
- 企画財政局
- 総務局
- 市民局
- 環境リサイクル局
- 保健福祉局
- 文化産業局
- 建設局
- ボートレース事業局
- 出納室
- 消防局
- 水道局
- 議会事務局
- 教育委員会
- 外局(選挙管理委員会、監査事務局、公平委員会、農業委員会)
- 倉敷駅前連絡所
- 水江市民サービスコーナー
- 西阿知市民サービスコーナー(旧西阿知出張所)
- 藤戸市民サービスコーナー(旧藤戸出張所)
- 児島支所
- 下津井市民サービスコーナー(旧下津井出張所)
- 郷内市民サービスコーナー(旧郷内出張所)
- 玉島支所
- 水島支所
- 福田市民サービスコーナー(旧福田出張所)
- 連島市民サービスコーナー(旧連島出張所)
- 庄支所
- 茶屋町支所
- 船穂支所
- 真備支所
警察
消防
倉敷市消防局(都窪郡早島町・浅口市金光町地域の消防業務も受託している)
- 倉敷消防署
- 水島消防署
- 児島消防署
- 玉島消防署
- 真備分署、北出張所、勇崎出張所、西出張所(浅口市金光町)
- コンビナート火災対策
- 石油コンビナート等災害防止法に基づいて、水島消防署に3点セットが配備されている。また、水島消防署とコンビナート内に、岡山県防災資機材センターがあり、消防車両が配備されている。また、企業が共同で消防車両を配備している。定期的に、岡山県石油コンビナート等防災計画に基づき、総合防災訓練が訓練が行われている。
財政
1990年代半ばまで倉敷市は工業地帯や児島競艇場などからの潤沢な収入により、地方交付税を受けない非交付団体であった。そのため市役所を始め豪華な施設や過剰と思われるような道路を建設するなど市民から不評の声も少なくなかった。人口増加も横這い傾向にもかかわらず都市計画は見直されず、市街地のスプロール化を招き、下水道に代表される公共事業費が膨らみ財政を圧迫した。[要出典]
その結果、長引く景気の低迷による収入の減少に従い、地方交付税交付団体となる。
現在は支出の削減に取り組んでいる。例えば、行政施策を3年のローリング方式により毎年度見直しし緊急を要しない事業の削減、借金である市債の発行の抑制、施設の管理などの外部委託による市職員の削減などである。しかし、地方分権の一環による税源移譲は刻々と進まず、地方交付税交付金の激減と市債の償還によって現在も苦しい財政状況にある。
平成29年度当初予算[注 4]
総額(歳出と歳入の合算) ― 356,776,964千円(102.0)[27]
- 一般会計 - 175,243,790千円(105.0)
- 特別会計 - 130,522,01千円(101.6)[注 5]
- 財産区会計 - 51,828千円(86.4)
- 企業会計 - 50,959,332千円(93.7)[注 6]
歳出 - 175,243,790千円(105.0)[27]
- 公債費 - 17,373,849千円(103.1)
歳入 - 175,243,790千円(105.0)[27]
- 自主財源 - 95,451,277千円(104.1)
- 依存財源 - 79,792,513千円(106.1)
- 地方交付税 - 11,600,000千円(92.1)
- 国庫支出金 - 30,073,395千円(107.0)
- 市債発行額 - 15,096,300千円(133.1)
財政調整基金 - 11,070百万円(159百万円増、平成30年3月31日現在)[28]
市債残高 - 172,814,479千円(177,289千円増、平成28年度)[29]
財政力指数 - 0.865(平成29年度)[29]
※括弧内は前年比。
議会
市議会
- 定数:43人
- 任期:2021年(令和3年)2月1日 - 2025年(令和7年)1月31日[30]
- 議長:中西公仁(未来クラブ)
- 副議長:塩津孝明(新政クラブ)
会派名 |
議席数 |
議員名(◎は代表者)
|
未来クラブ
|
8 |
◎大橋賢、赤澤幹温、片山貴光、中西公仁、原田龍五、矢野周子、山畑滝男、若林昭雄
|
くらしき創生クラブ
|
7 |
◎三村英世、荒木竜二、伊東裕紀、北畠克彦、難波朋裕、森守、守屋弘志
|
公明党倉敷市議団
|
7 |
◎梶田省三、井出妙子、生水耕二、仙田貴孝、中西善之、新垣敦子、薮田尊典
|
新政クラブ
|
5 |
◎大橋健良、大守秀行、塩津孝明、瀧本寛、松成康昭
|
新風くらしき
|
5 |
◎日向豊、芦田泰宏、尾﨑勝也、中島光浩、平井俊光
|
日本共産党倉敷市議会議員団
|
4 |
◎末田正彦、田口明子、田辺牧美、三宅誠志
|
青空市民クラブ
|
3
|
◎藤井昭佐、小郷ひな子、齋籐武次郎
|
無会派議員
|
4 |
秋田安幸、塩津学、時尾博幸、藤原薫子
|
計 |
43 |
|
岡山県議会(倉敷市・都窪郡選挙区)
- 定数:14名
- 任期:2019年(令和元年)5月15日 - 2023年(令和5年)5月14日
議員名 |
会派名 |
備考
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高橋戒隆 |
自由民主党岡山県議団 |
|
山田総一郎 |
公明党岡山県議団 |
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千田博通 |
自由民主党岡山県議団 |
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吉田徹 |
公明党岡山県議団 |
|
中塚周一 |
自由民主党岡山県議団 |
|
秋山政浩 |
民主・県民クラブ |
党籍は無所属
|
柳田哲 |
民主・県民クラブ |
党籍は無所属
|
佐古一太 |
無所属 |
|
須増伸子 |
日本共産党岡山県議会議員団 |
|
小田圭一 |
自由民主党県議団 |
|
蓮岡靖之 |
自由民主党岡山県議団 |
|
鳥井良輔 |
民主・県民クラブ |
党籍は立憲民主党
|
渡辺英気 |
自由民主党岡山県議団 |
|
遠藤康洋 |
自由民主党岡山県議団 |
|
衆議院
- 任期 : 2021年(令和3年)10月31日 - 2025年(令和7年)10月30日(「第49回衆議院議員総選挙」参照)
倉敷市にある出先機関
岡山県の出先機関
- 岡山県備中県民局本庁舎
- 岡山県備中保健所 - 総社市と早島町を管轄。倉敷市内は倉敷市保健所が管轄。
官庁出先機関
法務省
財務省
厚生労働省
農林水産省
国土交通省
防衛省
裁判所
- 政令指定都市以外で、簡易裁判所が3箇所あるのは倉敷市だけである。
主な医療機関
他
経済
商業
一部の地区を除いて主要市街地が山や川で地理的に分断され独立しているため、それぞれの地区に核(商店街など)となる部分が存在する。ところが、近年の車社会の影響でロードサイド型の店舗が乱立し始め、それぞれの地区の核がなくなりつつある。特にイオンモール倉敷の開業は倉敷地域を中心に市内各商業地域に深刻な影響を与えた。
- 小売業年間商品販売額 4958億円(2009年度)※括弧内は地区の小売販売額
- 倉敷地域(2416億円)
- 人口の郊外流出に伴い、JR倉敷駅周辺では2000年ごろから約2キロメートル北の水江地区へのイオンモール倉敷の出店、ダイエーと三越の撤退が相次ぎ、2008年に倉敷チボリ公園の閉園、2010年にJR倉敷駅ビル「ルブラン」が閉館するなど、商業地としての機能の衰えが目立っている。小売業の中心はイオンモール倉敷と南の笹沖周辺へと移り、倉敷駅周辺の人通りも減少傾向にある。
- こうした中、2003年より倉敷商工会議所が運営するくらしきタウンマネージメント機関という組織が、「倉敷屏風祭」などのイベントの開催、「チャレンジショップ」の開設などを実行。また、2005年より、江戸時代に開かれていた定期市の賑わいを再現しようと“くらしき朝市実行委員会”を組織し、毎月第3日曜日に倉敷駅前の倉敷センター街商店街(BIOS)において朝市「三斎市」を開催している[31]。「地産地消」の主旨のもと、毎回多彩なイベントと「ワンコイン・グルメ」などを催し商店街の活性化を試みている。
- 2008年3月の天満屋倉敷店の三越跡への移転により地価の下落にようやく歯止めがかかり、2011年には、倉敷チボリ公園跡地にイトーヨーカドーが運営するアリオ倉敷と三井不動産が経営する中国地方初の三井アウトレットパーク 倉敷が開業。JR倉敷駅周辺の活性化が期待されている。
- 中庄地区では1990年代から大型店の出店も相次ぎ、市内で最も変化が激しい。それに伴う自動車交通量の増加で旧2号線の渋滞が慢性化している。
- 水島地域(892億円)
- 倉敷地区に次ぐ経済規模にもかかわらず中心部の商店街は常盤町歓楽街を残し衰退している。大型店の相次ぐ撤退、郊外には中小スーパーマーケットが分散乱立している。2009年にイオンタウン水島が開業した。
- 児島地域(624億円)
- 廃止された下津井電鉄児島駅のあった味野地区からJR児島駅 - 国道430号東沿線へと街の中心が移動しているが、1988年のJR児島駅開業以来、駅西口の未利用地が街の一体的な発展を停滞させている原因の一つになっている。
- 児島駅に隣接するショッピングモールと天満屋ハピータウン一帯では児島駅前商店街連盟が主催する朝市「三白市」が毎月最終日曜日に開催[32]。また、味野商店街では空き店舗に地域内外からジーンズメーカーが直営店舗を出店し、「児島ジーンズストリート」と名づけられるなどの動きがある。
- 玉島地域(543億円)
- 旧市街地から数キロ北に離れたJR新倉敷駅南側の成長が著しい。一方、旧市街地は古い港町の面影を残す観光地への脱皮を模索している。
- 庄地区(243億円)
- 人口1万5千人、旧2号線沿いのロードサイド店舗が中心、倉敷と岡山の中間に位置し中庄地区の一部分を含むため人口規模の割りに小売販売額が多い。
- 茶屋町地区(78億円)
- 人口1万5千人、JR茶屋町駅を中心にベッドタウンとして市内で最も人口増加している地区で、徐々に商業集積が進んでいる。
- 真備地区(148億円)
- 川辺の国道486号沿いに中型スーパーマーケットが密集し、人口2万3千人の規模としては激戦地である。
- 船穂地区(14億円)
- 人口7千人、地区内に鉄道駅はなく、さらに主要幹線道路から逸れているため、商業地区が形成されていない。
工業
- 水島地域と玉島地域に跨る臨海部の水島臨海工業地帯には日本有数のコンビナートが形成される[33]。石油化学、鉄鋼、自動車などを中心とした工場が建ち並ぶ。全体から見ると小規模なエリアではあるが、児島地区の塩生と宇野津の砂浜を埋め立てて造成されたC地区にも、主に石油化学系の事業所や造船所などが立地する。製造品出荷額は県全体の約50パーセントになる。
- 水島臨海工業地帯の主な事業所
- 石油 - ENEOS水島製油所
- 化学 - 三菱ケミカル水島事業所、三菱ガス化学水島工場、クラレ倉敷事業所、旭化成水島製造所
- 鉄鋼 - JFEスチール西日本製鉄所倉敷地区、東京製鐵岡山工場
- 機械 - 三菱自動車工業水島製作所、住友重機械工業岡山製造所
- 南東部の児島地区は繊維工業が盛んである。特に厚手の織物が主製品で、学生服・企業や官公庁など事業所の制服(ユニフォーム)は生産高日本一を誇る。また、国産ジーンズ発祥の地でもあり、大小さまざまなメーカーがひしめき合う。
主な工業統計(2005年)
- 製造品出荷額 39,440億円(水島工業地帯 - 36,040、岡山県全体 - 72,955)
- 品目別内訳(億円)
- 石油 - 12,181
- 鉄鋼 - 8,568
- 化学 - 7,062
- 自動車、他 - 6,710
- 繊維 - 916
- 食品 - 671
- 金属 - 496
- 地区別内訳(億円)
- 倉敷・水島 - 27,137
- 児島 - 2,737
- 玉島 - 1,054
- 船穂 - 252
- 庄 - 181
- 真備 - 140
- 茶屋町 - 69
農業
主な農業統計(平成17年)
- 総農家戸数 8,785戸(内:生産農家4,680)
- 経営耕地面積 3,373ヘクタール
- 農業算出額 1,206千万円(内訳:米穀類 25パーセント、果物類 30パーセント、野菜類 17パーセント、養鶏 19パーセント、他 9パーセント)
地区別の主な名産
※かつて倉敷市は藺草栽培とそれを原料に畳表・花筵の生産が行われ全国でも有数の産地であったが、現在は僅かしか行われておらず多くが中国産などの輸入品によって上記の二次製品が作られている。
水産業
主な水産統計(平成15年)
- 漁業就業者 904人(内:児島 700、玉島 120、倉敷・水島 60)
- 漁獲高 魚類 670トン、貝類 709トン、藻類養殖 2,143トン)
主な水産物
漁港
- 二種 - 大畠漁港(おばたけ)、下津井漁港、沙美漁港(以上、県管理)
- 一種 - 通生漁港(かよお)、呼松漁港、勇崎漁港、小原漁港(呼松は県、以外は市の管理)
本社を置く企業
※太字は上場企業
倉敷市ゆかりの企業
※太字は上場企業
交通
鉄道
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)
- 四国旅客鉄道(JR四国)
- 水島臨海鉄道
- 井原鉄道
バス
一般路線バス
以下の各社が運行する。
高速バス
道路
- 高速道路・有料道路
- 一般国道
自動車のナンバープレート
倉敷市内において、2006年10月10日以降に車庫登録する車両には「倉敷」ナンバーが交付されている。従前の地域名は「岡山」であったが、いわゆるご当地ナンバー制度の開始に伴い、倉敷市などの同制度の導入により、変更されたものである[34]。「倉敷」ナンバーは倉敷市のほか、笠岡市・井原市・浅口市・浅口郡里庄町・小田郡矢掛町の3市2町にも導入されている[35]。
教育
大学
- 国立
- 私立
短期大学
- 公立
- 私立
高等学校
- 公立
全日制
定時制
- 私立
中高一貫校
- 公立
- 私立
中学校
- 公立
倉敷地域
水島地域
児島地域
玉島地域
船穂地区
真備地区
小学校
- 公立
倉敷地域(庄、茶屋町を含む)
水島地域
児島地域
玉島地域
船穂地区
真備地区
特別支援学校
- 岡山県立倉敷琴浦高等支援学校
- 岡山県立倉敷まきび支援学校
- 倉敷市立倉敷支援学校
各種学校
専修学校
学校教育以外の施設
独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構立
公立
- 岡山県立南部高等技術専門校(旧:倉敷高等技術専門校、職業能力開発促進法に基づく職業能力開発校)
インフラなど
電気
- 中国電力
- 玉島発電所 - 火力発電所(石油3機)、120万キロワット。
- 水島発電所 - 火力発電所(石炭2機・天然ガス1機)、72万キロワット。主に工業地帯に供給
都市ガス・供給区域
供給戸数 49,000戸
上水道
給水人口辺りの普及率 99.91パーセント(2015年度)[36]
水道管理事業者
- 倉敷市水道局 - 水島営業所・玉島営業所・児島営業所・真備出張所
給水事業体および供給地区(全て高梁川から取水、配水量は倉敷市分)
- 倉敷市水道局(配水量 24,154,437立方メートル)
- 片島水源 - 連島、水島
- 福井水源 - 天城、粒江
- 上成水源 - 船穂、玉島
- 真備水源 - 真備
- 備南水道企業団(倉敷市、早島町 配水量 26,032,530立方メートル)
- 岡山県南部水道企業団(倉敷市、岡山市、玉野市 配水量 17,278,693立方メートル)
下水道
処理人口辺りの下水道普及率 80.6パーセント(2020年3月31日時点)[37]
- 倉敷市下水道部
- 倉敷下水処理場
- 児島下水処理場
- 水島下水処理場
- 玉島下水処理場
- 児島湖流域下水道
- 岡山県児島湖流域下水道浄化センター(玉野市東七区)
通信
電話
市外局番は倉敷MA(086(市内局番は420 - 489、520 - 529、552、553、691、697、698))である。
なお、真備町については、2009年6月1日より総社MAから倉敷MAに編入され、以降、倉敷市真備町と総社市との相互通話は隣接扱いとなった。
- 0866-91 → 086-691
- この局番はKDDIに割り当てられており、倉敷市真備町については086-691とし、総社市については0866-37に変更された(加入者番号が大幅に変更)。
- 0866-97 → 086-697
- この局番は2つの収容局(真備・総社豪渓)で使用されていたため、倉敷市真備町については086-697と桁ずらしで対応し、総社市については0866-95に変更された。
- 0866-98 → 086-698
- この局番は1つの収容局(真備)で使用されているため、単純な桁ずらしで対応。
- 真備町内のひかり電話(0866-31)およびNCC各局の市内局番(0866-91(KDDIの一部)を除く)は倉敷MAの市内局番に移動し、加入者番号が大幅に変更となった。
郵便
- 倉敷郵便局:710-00xx、710-08xx、710-85xx、710-86xx、710-87xx、701-01xx(701-010x - 011x、0192 - 0195のみ)、710-01xx、710-11xx、710-13xx
- 2006年9月11日までは、710-01xxは天城郵便局、710-13xxは箭田郵便局の番号だった。
- 2015年3月2日までは、710-11xxは茶屋町郵便局の番号だった。もともと710-11xxは1987年10月26日まで川辺郵便局が使用していた番号で、箭田郵便局・総社郵便局に集配業務が移管されたため欠番となっていた。その後、2007年3月5日に地域区分局の変更によりそれまで709-11xxを使用していた茶屋町郵便局が710-11xxに変更された。
- 2018年3月12日までは、701-01xxは吉備郵便局(岡山市北区)の番号だった。同日、岡山市北区域(701-010x - 011x、0192 - 0195を除く区域)の集配業務が岡山中央郵便局へ、倉敷市域(701-010x - 011x、0192 - 0195の区域)の集配業務が倉敷郵便局へ移管された。
- 児島郵便局:711-09xx、711-85xx、711-86xx、711-87xx
- 水島郵便局:712-80xx、712-85xx、712-86xx、712-87xx
- 玉島郵便局:713-81xx、713-85xx、713-86xx、713-87xx、710-02xx
- 2018年10月9日までは、710-02xxは長尾郵便局の番号だった。
放送
地上波テレビ局
倉敷地域は岡山本局(金甲山)を受信。それ以外の地域は水島、児島、玉島、玉島南、総社、岡山北、西讃岐などの各中継局を受信。
CATV
ラジオ局
- エフエムくらしき 82.8 MHz- コミュニティFM局。種松山送信所と児島・総社中継局があり、市内全域で受信できる。
- 岡山エフエム放送 76.8 MHz(岡山本局)80.4 MHz(笠岡局)- 県域FM局。
- RSKラジオ 1494 KHz(岡山本局、笠岡局)91.4 MHz(RSK岡山FM)- 県域中波局。
- 岡山シティエフエム 79.0 MHz- コミュニティFM局。ケーブルテレビや電波で受信できる。(電波に関しては東部地域など)
- エフエムゆめウェーブ 79.2 MHz- コミュニティFM局。笠岡中継局から発射しているため西部地域・南部地域などで受信できる。
新聞
地方紙
全国紙
出版
名所・旧跡・観光スポット
観光地
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倉敷地域
児島地域
玉島地域
船穂地区
真備地区
主な市内観光地の年間訪問者数
- 市全体 555.1万人(倉敷市統計書平成22年度版)
- 内訳 - 美観地区 314.7万人、鷲羽山 148.5万人、王子が岳 40.6万人、由加山 26.9万人、円通寺 5.1万人
祭事・催事
特産品
工芸・工業製品
- ジーンズ:オーダー 、本藍染め手織り - 児島
- 帆布:「倉敷帆布」 - 倉敷(郷内地区)
- 竹集成材 - 倉敷
- 酒津焼 - 倉敷
- 羽島焼 - 倉敷
- 倉敷はりこ:首振り飾り虎 - 倉敷
- 倉敷ガラス - 倉敷(小谷眞三によって創始)
- 備中和紙 - 倉敷
- 倉敷緞通 - 倉敷
- イ草製品:手織り、緞通、豆タタミ 、花ござ - 全域
文化・施設・スポーツ
商工団体
スポーツチーム
音楽団体
- 倉敷管弦楽団
- 倉敷市民合唱団
- 倉敷市民吹奏楽団グリーンハーモニー
- くらしきコンサート
- 倉敷音楽祭実行委員会
- 倉敷音楽交流会
- 倉敷ジュニアフィルハーモニーオーケストラ
- 倉敷アカデミックウインズ
その他各種団体
- 倉敷地区ウエルカム観光ガイド連絡会
- 倉敷善意通訳会
- 倉敷日墺協会
- 倉敷市国際交流協会
- アムネスティ倉敷
- 倉敷国際親善協会
文化施設
倉敷地域
水島地域
- ライフパーク倉敷
- 市民学習センター
- 情報学習センター
- 科学センター - プラネタリウム
- 埋蔵文化財センター
- 図書館
- 水島公民館
- 水島図書館
- 倉敷市環境教育スクエア 水島愛あいサロン
- 水島勤労福祉センター
児島地域
玉島地域
- 玉島文化センター
- 玉島公民館
- 玉島図書館
- 玉島市民交流センター
真備・船穂地区
公園・スポーツ施設など
倉敷市を舞台にした作品
映画
映画ロケ
ドラマ
小説
漫画
アニメ
楽曲
ゲーム
倉敷市出身・ゆかりの著名人
政治・行政
社会活動家
経済
学術
文化・芸術
芸能
マスコミ
スポーツ
その他
脚注
注釈
- ^ 1995年国勢調査まで、倉敷市を中心とした倉敷都市圏は独立した都市圏として統計が取られていたが、2000年国勢調査より倉敷市から岡山市への通勤率が10パーセントを超えたため、岡山都市圏が倉敷都市圏を合一して、地域が拡大し、統計上人口が増加した形となった。
- ^ 慶応4年9月8日に明治への改元の詔書が出されたが、慶応4年をもって明治元年とするとしているため慶応4年1月1日に遡って改元された。
- ^ a b 明治5年12月3日の改暦ノ布告までは、旧暦を使用していたため西暦とは日付がずれる。
- ^ 括弧内は前年比(%)。
- ^ 下水道や健康保険などの特定事業関係
- ^ 競艇や市民病院などの独立採算関係
- ^ a b c d e f g h 『真備町史』には役場の産業課が発行している「観光案内」に挙げられている名所・名木として、「吉備寺および吉備公廟」「吉備公墳墓」「大塚古墳」「穴門山神社(高山様)」「堂応寺宝篋印塔」「大池の弁天様」「猿掛城跡」「石井邸のしだれ桜」「真神邸の五葉松」「金剛寺址の榎」「弾琴祭」「二万のブドウ」「箭田のタケノコ」が記載されている[38]。
出典
参考文献
- 倉敷市史研究委員会 『新修倉敷市史』 倉敷市発行、山陽新聞出版 1998年。
- 西藤秀男 『新修倉敷今昔物語集』 勁草書房 2002年
- 真備町史編纂委員会 『真備町史』 真備町 1979年。
- 岡山市百年史編纂委員会 『岡山市百年史』 岡山市 1991年。
- 巌津政右衛門『岡山地名事典』(1974年)日本文教出版社
- 岡山県大百科事典編集委員会『岡山地名事典』(1979年)山陽新聞社
- 下中直也『日本地名大系第三四巻 岡山県の地名』(1988年)平凡社
関連項目
外部リンク
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注: 順位は令和2年国勢調査時の市域人口による。 |
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