連島地区(つらじまちく)は、岡山県倉敷市水島地域西北部にある地区である。旧浅口郡連島町の内、現在狭義の水島地区に該当するエリアを除いた地区である。
なお当ページでは便宜上、大字の一部である連島町の名を略して説明している箇所もある。
高梁川下流の河口付近東岸にある連島山塊とも呼ばれ、太平山などの山頂をもつ独立丘の周辺と、その南部に広がる平野部に相当する。山塊周辺の山麓部は古くからの集落が多いが、平野部は水島臨海工業地帯のベッドタウンとして宅地・道路が開発され、住宅地やロードサイド店舗が多く立ち並ぶ一方、鶴新田や江長・北面など田畑も多く残っている地区もある。また、丘陵部も大型住宅地が造成され、地域全体の人口は現行の倉敷市施行時に比べ激増している[1]。
古くは周囲は海域で、連島山塊は備前国児島郡西端に属し、児島の属島である連島(都羅島)という島嶼であった。和名類聚抄等に記載されている都羅郷は、連島を中心とする一帯に比定されている[1]。
児島郡北西地区では、東の藤戸湊に対し西の連島湊とし、高梁川の河口に近い内海湊として栄えた[2]。
中世になると都羅島庄(つらじましょう)という都羅郷を元にしたものとされる荘園があったとされ、応永20年の東寺文書に児島郡にある細川氏の所領として記録が残る[1]。
なお、都羅郷および都羅庄のその詳域は不明である。『大日本地名辞書』では、当地の他に東隣の福田や、児島地区南部をふくむ一帯と推定している。一方、『荘園志料』では、連島のみに比定している[1][3]。連島の表記は中世後期頃から散見されるようになったとされる[4]。
戦国時代は毛利氏の配下となる。中世後期頃になると、『吉備の穴海』の西北部で、連島北部から高梁川河口までの間に広がる『阿知の海』が、高梁川の沖積作用により浅くなり干潮時には干潟が広がるようになる。天正期に宇喜多秀家が命じて行われた干拓を皮切りに、江戸時代にかけて徐々に干拓による新田開発が進行し、陸地が南下していった。高梁川が現在の総社市清音古地で東西に分岐した、八幡山山塊を北端とするデルタも南下していき、17世紀前半、寛永6年の西阿知沖新田・連島北面新田の干拓により、ついに連島は陸地化。前述の八幡山を北端とするデルタの南端部となり、東西高梁川に囲まれた酒津・水江・中島・西阿知・片島などと同じ川中島地帯の一部となった。これにより連島北側は漁業地帯から農村地帯へ変化するが、南側は海に面し、また東西両高梁川河口部という地になったので港町としてはまだ機能していた。なお、この頃に備前国児島郡から備中国浅口郡に移管された[2](その他に戦国時代に移管されたという説もある[4])。
その後、18世紀以降になると連島南側も新田開発の拠点となり、江長新田・大江新田・茂浦新田・亀島新田・西之浦新田・鶴新田などが開発され、港町・漁村から農村地帯へ変貌した。これらの新田は備中南東部の平野部と同様に全国屈指の綿花の栽培地となり、それに関連する手紡糸なども生産された。かつての水夫や漁夫は連島商人として全国を行商するようになり、綿関連の商いを行い活躍した。他にもイグサなども全国有数の栽培地であった[2]。
近代になると、綿作の衰微し、それに伴い手紡糸などの綿加工業も衰えたが、これらの新田は、高梁川の後背湿地帯であることを利用し蓮田が多く誕生。レンコン栽培が盛んに行われ、同じく江長地区などでは明治・大正期の高梁川改修による東高梁川廃川地を利用したゴボウも生産されるようになり、広く県内外に流通。現在では連島レンコン、江長ゴボウ、連島ゴボウなどとしてブランド化されている。その他ではショウガなども栽培されている[2]。
また、現在は衰退しているが、湿地帯のアシを原料とした連島すだれの生産も農家の副業として広く行われていた。その後ビニール製にシフトした[2]。
近世以降、連島の所領の変遷はめまぐるしく変化しており、それは明治になっても同様で、合併・分村を繰り返す。明治36年に、連島・西之浦・亀島・鶴新田の各村が合併して新しい連島村となり、ようやく連島がひとつとなる。明治45年4月1日の町制施行を経て、昭和28年6月1日に旧倉敷、昭和42年2月1日に現倉敷市となり現在に至る[5]。
明治・大正期の高梁川改修による東高梁川廃川地は西半分が連島町分で、河口部は東半分の福田分と両地沖合の干拓・埋立による新開地と併せて一体化した都市計画が行われ、狭義の水島エリアを形成した。特に旧河口部廃川地は市街地を形成し発達した(詳細は水島地区を参照)。現在は連島とは別地域として扱うことが多い。
後述の西之浦の南に広がる平地で、近世における干拓地である。
水島の他地域同様に市街化が著しいが、一方で農地も未だ多く存在し、工業地としてしられる水島管内で随一とも言える農業地となっている。古くから土地質を生かして栽培されたレンコンが特産品となっている。
山塊西部を占める地区で、高梁川の東岸に当たる。対岸には玉島の上成・乙島がある。かつて連島町(連島村)の役場が置かれるなど、連島地域の中枢的な地区である。
水島工業地帯が造成されると宅地が多く造成され、人口が増加。特に南西部に川崎製鉄の巨大社宅が建設され、鶴の浦の大字が新設された。これにより新たに西部(弁財天地区・鶴の浦など)を学区とする霞丘小学校が設置された。
亀島・亀島新田・連島中央・神田からなる。
連島山塊中部の矢柄の南方に広がる平地で、近世の干拓地である。地区南端部に亀島山という丘(標高約30m)があり、かつては島であった。地名はこの山(島)に由来する。
なお同じ旧亀島村域である矢柄も当エリアに含むこともある。
連島山塊の中部に位置し、山の南と北に広がっている。南側が矢柄の中心地区なので北側(北面地区)は事実上の飛び地の状態である。歴史的背景も考慮し、北面は後述の北面のページで記述する。
地名は、源平水島合戦のときに那須与一が扇の的を射た矢の柄が流れ着いたことに由来するといわれ、宝島寺は、そのときの矢を宝としたという伝承に基づく寺院といわれる[4]。
連島および連島1〜5丁目からなり、連島地域の東部にあたり、山塊東部とその周辺の平地からなる。連島町新設以前の連島村および明治初期の大江連島村(おおえつらじまそん)に概ね相当。
狭義の連島にあたり、広義の連島との混同をさけるため、このエリアを連島東小学校から校名の連島東と呼ばれることもあり、他に東連島と呼ばれることもある(略表記として連東、東連とも)。
なお丘陵北部は地図上は繋がっているが、地理的に事実上の飛び地の状態で、学区も別であり、歴史的経緯もあり別地域(北面)とされることも多い(北面参照)。
詩人・薄田泣菫の出身地で、生家が残る。
連島山塊北側一帯の地区で、現在は北面という大字はない。しかし、西之浦・矢柄・連島の山の北側は、それぞれ北面という小字となっている。住所表記上は連島・矢柄・西之浦と続いているが、山があるため実際は事実上の飛び地となっている。そのため連島・矢柄・西之浦の南側地区とは特徴が異なっており、学校も連島北小学校として別学区を形成している[4][1]。
昭和53年に、人口の急増に伴い設置された旭丘小学校の学区に相当する。上記連島(連島東)のうち江長と新興住宅地の鶯丘を中心にした地区。他、連島北学区の大浦や、近隣地区である福田(浦田)・西阿知・中島・大高(福井)などもわずかであるが学区に含まれる。
平成24年9月末現在[6]。