鮫島 彩(さめしま あや、1987年6月16日 - )は、栃木県河内郡河内町(現・宇都宮市)出身[1]の元女子サッカー選手。元サッカー日本女子代表。現役時のポジションはミッドフィールダー(サイドハーフ)、ディフェンダー (サイドバック)[2]。常盤木学園高等学校出身。2022年より筑波大学大学院在学中[3]。
経歴
ユース時代
小学1年生のとき、近所に女子サッカーチームがあり、「サッカーというより鬼ごっこ」のような雰囲気に惹かれてサッカーを始める。中学校の部活ではテニス部に所属し、「絶対にサッカー選手になりたい」という気持ちはなかった[4]。ところが、後に日本女子代表となる安藤梢も在籍していた地元クラブの河内SCジュベニールに所属すると、監督の阿満憲幸の指導のもと頭角をあらわした[5]。その後U-15の全国大会に出場。実力を認められ、宮城県仙台市にある常盤木学園高等学校にサッカー留学した。1年からレギュラーに起用され、第14回全日本高等学校女子サッカー選手権大会では背番号10を背負い準優勝した。高校時代は攻撃的MFのポジションでスピードに乗ったドリブルを得意とした[6]。8度の全国大会出場、3度の準優勝を経験した鮫島は一躍注目を集め、U-18で初めて日本代表に選ばれる。しかし、母親と同じく「看護師になりたいという気持ちがあった」鮫島は、「代表練習に行くのはもう嫌で、嫌で」、また「欲がなくて、そういう高いレベルでプレーすることを望んでいなかった。」[4]
東京電力マリーゼ時代
なでしこリーグのYKK AP東北女子サッカー部フラッパーズ(宮城県志田郡三本木町、現・大崎市)が東京電力女子サッカー部マリーゼ(福島県双葉郡広野町)になる際、高校卒業後の進路に悩む鮫島に誘いをかけたところ、高校の部活や代表合宿を通して「YKKの楽しい雰囲気」を知っていた鮫島はこれを承諾し、高校卒業後の2006年にマリーゼに入団[7]。プロ契約ではないため、東京電力福島第一原発で事務員の仕事をするかたわら、練習や試合に臨んだ[8]。レギュラーを獲得するとU-20日本女子代表に選出され、AFC U-19女子選手権2006マレーシアでは、韓国戦、インド戦、中国戦でゴールを決めた。
2007年、シーズンにチームはディビジョン2に降格したが、鮫島はmocなでしこリーグ2007ディビジョン2シーズン最優秀選手賞(MVP)を受賞し、チームも優勝して1年での一部復帰を果たした。
2007年以降なでしこチャレンジプロジェクトに参加すると、2008年にはなでしこジャパンに初選出された。代表ではサイドの突破力を買われ、ミッドフィールダーから左サイドバックにコンバートされた。2009年シーズンではマリーゼでも左サイドバックとして出場している。
ボストン/モンペリエ時代
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)によって引き起こされた福島第一原子力発電所事故の影響を受け、マリーゼが活動を自粛すると[9]「このままサッカーを続けていいのか」と思い悩んだが、サッカーを続けることを選び[6]、マリーゼの練習に参加していたアメリカ人選手の誘いもあってWPSのボストン・ブレイカーズに移籍した[10]。当時のマリーゼの監督だった菅野将晃は「国内に移籍したとしてもマリーゼが気になってプレーに集中できないんじゃないかと思って、海外を薦めました」と話している[11]。東京電力でプレーしていたということで、国内移籍では受け入れ先に迷惑がかかるのではないか、という配慮もあった[6]。6月12日のスカイ・ブルーFC戦で後半はじめから途中出場したのがWPSデビューとなった。
同年6月に開催された2011 FIFA女子ワールドカップにおいても左サイドバックとして全試合でスタメンとしてプレーし、7月17日に行われた決勝戦でもアメリカ代表に勝利し優勝を決めたチームに貢献した[12]。8月10日、これまでのスポーツ界の貢献に対して、同じく栃木県出身の安藤梢とともに栃木県県民栄誉賞を授与された[13]。ロンドン・オリンピック最終予選でもチームで唯一5試合フル出場した[14]。
同年9月12日、フランスリーグ1部のモンペリエHSCと2年契約を結んだと発表[15]。当時モンペリエには宇津木瑠美も所属していた[16]。
同年12月22日、熊谷紗希と永里優季とともに、東松島市立矢本西小学校(宮城県東松島市)を訪問し、サッカー教室などで被災地の児童たちと交流した[17]。
2012年6月をもってモンペリエHSCを退団[18]。
ベガルタ仙台時代
2012年7月9日、ベガルタ仙台レディースに移籍[19]。チーム初のプロ契約選手となる[20]。
同年8月21日、仙台市から賛辞の楯が贈呈されることとなった[21]。
日本代表としてロンドンオリンピックでは6試合中5試合に出場し、銀メダルを獲得した。
2013年3月20日仙台市内で常盤木学園高校と練習試合中、後半に右足の違和感を訴えて途中交代[22]、その後リハビリで様子を見ていたが5月23日に痛みが引かないため精密検査を行った結果、右太腿の肉離れと腱損傷で全治約3カ月と診断されたと発表[23]。リハビリ中に同じ施設に通っていた冬季オリンピックスノーボード女子パラレル大回転代表の竹内智香と交流を持ち、その後竹内は2014年ソチオリンピックで銀メダルを獲得した[24]。
2014年2月28日にヒューストン・ダッシュへ半年間の完全移籍(9月にベガルタ仙台に戻る予定だった)が決まったものの[25]、2月の日本代表合宿中に再び負傷し[26]、結局ヒューストン・ダッシュとの契約はできず、同年7月29日にベガルタ仙台レディースへ復帰が発表された[27]。
INAC神戸レオネッサ時代
2015年1月、INAC神戸レオネッサにプロ契約での移籍を発表した[28]。 年末に行われた皇后杯で優勝し、自身初のクラブタイトル獲得。
2015年6月から開催されたFIFA女子ワールドカップ カナダ大会では決勝でアメリカ代表に敗れ大会連覇は逃したが、アメリカのスポーツ専門局ESPNは大会のベストイレブンに準優勝の日本から唯一鮫島を選出した[29]。
2016年、2016年リオデジャネイロオリンピックのサッカー競技・アジア予選の日本代表メンバーに選出されたが、チームは予選3位となり五輪出場権を逃した[30]。
2016年シーズン、2010年以来6年ぶりとなるリーグのベストイレブンに選出された[31]。
2017年シーズン、2年連続でリーグのベストイレブンに選出された[32]。
大宮アルディージャVENTUS
2021年1月13日、INAC神戸レオネッササポーターに約900文字のメッセージを残し、大宮アルディージャVENTUSに移籍した[33]。
2024年5月23日、2023-24シーズンをもって現役引退することをクラブ公式サイトを通して発表した[34][35]。
引退後
5月26日に行われた引退会見にて今後について明確なビジョンは今の時点ではなく、いろんなことにチャレンジしていきたいと公言[36]。また、「裏方や集客に関することに昔から興味があるので、そういうことに触れていけたらいいなと思う」とも語っている[36]。
所属クラブ
個人成績
クラブ
代表
主な出場歴
試合数
- 2021年4月8日現在
ゴール
タイトル
クラブ
代表
個人
主なメディア出演
テレビ番組
- あの試合をもう一度!スポーツ名勝負「なでしこ初優勝ドイツ大会2011」(NHKBS1) リモート出演 2020年5月30日[43].2020年5月29日付、2020年12月29日閲覧
- S☆1PLUS(2021年9月22日、TBS)
CM
雑誌掲載
- 週刊サッカーマガジン 鮫島本人によるコラム「サメトーーク」掲載(2012年)
脚注
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
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