上田 栄治(うえだ えいじ、1953年12月22日 - )は、千葉県館山市出身の元サッカー選手(FW)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現在は日本サッカー協会特任理事、女子委員長を務めている。
薬園台高校から1972年に青山学院大学へ進学し、4年次の1975年には日本学生選抜に選出されて、ソウルで行われた日韓定期戦に出場[1]。卒業後の1976年にフジタ工業へ入部するが、卒業前にも日本学生選抜メンバーとして世界大学サッカー大会(ウルグアイ)に出場[1]。入部後はFWとしてプレーし、JSL通算88試合20得点を記録するなど、3度のJSL1部優勝(1977年, 1979年, 1981年)と2度の天皇杯制覇(1977年, 1979年)[1]に貢献。日本代表に選出されたことは無かったが、1979年に日本選抜Bでキリンカップ、日本選抜で北京招待国際サッカー大会へ出場[1]。1982年にはJSL選抜として大宇、ニューヨーク・コスモスとの親善試合にも出場[1]。同年引退。
引退後はフジタ→フジタSCで9年間コーチ(1983年 - 1991年)[1]を担当[2]。古前田充コーチと共に2度の天皇杯準優勝(1985年, 1987年)、古前田が監督となってからは、ニカノール・デ・カルバーリョヘッドコーチと共に1991年のJSL2部優勝[1]に貢献。その後はフロントに回ってマネジメント業務[2]やスカウトを担当し、中田英寿を獲得。中田のユベントス留学にも同行し、チームから数多くの選手を日本代表に送った。1996年にはベルマーレの統括部長代理に就任し、中田の海外移籍の窓口にもなった[2]。並行して日本サッカー協会のナショナルトレセンコーチ北海道担当(1993年 - 1996年)[1]、強化委員兼ナショナルトレセンチーフコーチ(1996年 - 1998年[3])[1]も務めた。
1999年3月からはベルマーレ平塚監督に就任し、監督就任のタイミングにあわせてフジタを退社。プロコーチとして契約を交わした[2]が、前年までの中心であった中田の抜けたチームは開幕から最下位を独走し、シーズン途中の7月で不振の責任を取り辞任。その後の平塚は古前田が代行で指揮したが、最下位でJ2に降格している。同年12月からはアジアサッカー連盟の発展途上25ヶ国の一つであるマカオサッカー協会から、コーチの派遣要請を受け入れてA代表兼ユース代表で監督に就任。日本人初の海外A代表監督として[4]、2000年にAFCアジアカップ2000 (予選)で日本代表と対戦したほか、ユース育成プログラムの策定並びに実践を行った[1]。2002年5月退任。
同年8月から女子の指導歴を持たない初の日本女子代表監督に就任し、同年の釜山アジア大会で銅メダルを獲得[4]。2003 FIFA女子ワールドカップで4大会連続W杯出場[4]、アテネ五輪出場にも導いた。
2004年9月には低迷の続いていた湘南ベルマーレ監督に復帰し、2005年の前半は昇格争いにも絡んだが徐々に失速して結局7位に終わる。2006年は第15節までの14試合で6勝4敗4分とまずまずの成績を残していたがそこから5連敗を喫し、6月8日に成績不振の責任を取り辞任した。同年9月に日本サッカー協会女子委員長[5]、2013年7月にJヴィレッジを運営する株式会社日本フットボールヴィレッジの代表取締役副社長に就任した[6]。
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