植木 繁晴(うえき しげはる、1954年9月13日 - 2024年4月11日)は、神奈川県川崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィルダー、フォワード。上武大学ビジネス情報学部教授、同大学サッカー部監督。
略歴
神奈川県立新城高等学校、日本大学を経て、1977年に日本サッカーリーグ(JSL)のフジタ工業(現-湘南ベルマーレ)に入部。フジタ工業の3度のJSL優勝、2度の天皇杯制覇に貢献した。
1987年限りで現役引退後はフジタ工業のコーチ、Jリーグ入りを目指してフジタから名称変更されたベルマーレ平塚のサテライト監督を歴任、1995年には監督代行を務めた。この年のアジアカップウィナーズカップで優勝し12月にアジア月間最優秀監督に選ばれた。1996年の途中には前任のトニーニョ・モウラの辞任を受けベルマーレ平塚監督に就任、1998年まで務めた。当時FWとして起用されていたプロ2年目の中田英寿を、トップ下にコンバートしたのは植木である。
1999年からは2000年まではモンテディオ山形の監督を務めるが、ここでは目立った成果を出せずに終わる。2004年は当時JFL所属だったザスパ草津の監督を務め、3位となって目標のJリーグ参入を果たした。2005年は草津のGM補佐となっていたが、2006年から監督に復帰、さらに大西忠生社長兼GMが急死したためにシーズン途中からGMも兼務。J初年度に5勝しか挙げられなかったチームに少しずつプロ意識を植え付け、3年目の2008年にはシーズン中盤までJ1昇格争いに絡むなど、地道な強化に成功した。この年限りで草津監督を勇退。
2009年よりザスパ草津の取締役兼ゼネラルマネージャーに就任。2011年4月より代表取締役兼ゼネラルマネージャー。2014年2月まで務めた[2]。
2014年より上武大学サッカー部監督に就任[3]。
2024年4月11日、群馬県前橋市内の病院で病気のため死去[4][5]。69歳没。
所属クラブ
個人成績
経歴
代表歴
試合数
指導歴
- -1991年 フジタ:コーチ
- -1995年 ベルマーレ平塚:サテライト監督
- 1995年11月-12月 ベルマーレ平塚:監督代行
- 1996年9月-1998年 ベルマーレ平塚:監督
- 1999年-2000年 モンテディオ山形:監督
- 2001年 日本大学:コーチ
- 2002年-2003年 ザスパ草津:総監督
- 2004年 ザスパ草津:監督
- 2005年 ザスパ草津:GM補佐
- 2005年 日本大学:コーチ
- 2006年-2008年 ザスパ草津:監督
- 2006年8月-2014年2月 ザスパ草津:GM(※)
- 2014年3月- 上武大学:監督[6]
※2006年8月より2008年まで監督・ゼネラルマネージャーを兼任
監督成績
年度 |
所属 |
クラブ |
リーグ戦 |
カップ戦
|
順位 |
試合 |
勝点 |
勝利 |
引分 |
敗戦 |
ナビスコ杯 |
天皇杯
|
1995 |
J |
平塚 |
- |
- |
2回戦
|
1996 |
11位 |
11 |
|
4 |
- |
7 |
準決勝 |
準々決勝
|
1997 |
8位 |
32 |
49 |
18 |
- |
14 |
予選リーグ |
準々決勝
|
1998 |
11位 |
34 |
42 |
16 |
- |
18 |
予選リーグ |
4回戦
|
1999 |
J2 |
山形 |
7位 |
36 |
48 |
15 |
4 |
17 |
1回戦 |
準々決勝
|
2000 |
10位 |
40 |
33 |
11 |
2 |
27 |
1回戦 |
2回戦
|
2004 |
JFL |
草津 |
3位 |
30 |
62 |
19 |
5 |
6 |
- |
準々決勝
|
2006 |
J2 |
12位 |
48 |
42 |
9 |
15 |
24 |
- |
4回戦
|
2007 |
11位 |
48 |
42 |
7 |
21 |
20 |
- |
4回戦
|
2008 |
9位 |
42 |
53 |
13 |
14 |
15 |
- |
4回戦
|
- 1995年は11月より監督代行として。
- 1996年は9月より(順位は最終順位)。
その他
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
監督歴 |
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NEC山形 / モンテディオ山形 |
- 加藤勝一 1984 - 1989
- 田代正信 1990 - 1993
- 杉澤直樹 1994
- 石﨑信弘 1995 - 1998
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モンテディオ山形 | |
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