大西 忠生 (おおにし ただお、1943年4月18日 - 2006年6月29日) は、京都府京都市出身[2] のサッカー選手(DF)、サッカー指導者。
来歴
紫野高校時代は山城高校の釜本邦茂・二村昭雄と共に「京都三羽ガラス」と称された[3]。1967年に京都教育大学を卒業し、JSLの三菱重工へ入部[4]。「バッファロー」[3] や「ハードタックルの忠」の異名を取り[2]、日本代表としても1970 FIFAワールドカップ・予選に出場[1]。
引退後は日本B代表コーチ(1975年 - ?)、東芝コーチ(1980年)→監督(1981年 - 1985年)、日本電装監督(1990年 - ?)を務めた。東芝監督時代は石崎信弘・川勝良一を指導し、1年目にはJSLカップ優勝に導く。2年目の1982年にはリーグ2位となり入替戦に挑戦するが、本田技研に敗れ今回も1部昇格を果たす事は出来なかった。1996年よりセレッソ大阪の統括専任部長に就任し、取締役チーム統括部長兼普及育成部長(1997年 - 1999年)→代表取締役副社長(2000年 - 2001年[5])を務めた。2002年にはザスパ草津のゼネラルマネージャーに就任し、肺癌と闘いながらチームのJリーグ昇格に尽くした。GM業と並行して2002年から2004年まで尚美学園大学監督も務め[6]、2005年からは草津の仕事に専念し、同年11月からは代表取締役社長に就任[5]。
2006年6月29日、神奈川県横浜市で死去[5][7]。
所属クラブ
- 1960年 - 1963年 京都市立紫野高等学校
- 1963年 - 1967年 京都教育大学
- 1967年 - 1974年 三菱重工
個人成績
代表歴
出場大会など
試合数
日本代表 | 国際Aマッチ |
その他 | 期間通算 |
年 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1969 |
1 |
0 |
2 |
0 |
3 |
0
|
1970 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0
|
通算
|
1 |
0 |
3 |
0 |
4 |
0
|
出場
No. |
開催日 |
開催都市 |
スタジアム |
対戦相手 |
結果 |
監督 |
大会
|
1. |
1969年10月10日 |
ソウル |
|
オーストラリア |
●1-3 |
長沼健 |
ワールドカップ予選
|
指導者歴
- 1975年-? 日本B代表:コーチ
- 1980年 東芝:コーチ
- 1981年 - 1985年 東芝:監督
- 1990年-? 日本電装:監督
- 1996年 セレッソ大阪:統括専任部長
- 1997年 - 1999年 セレッソ大阪:取締役チーム統括部長兼普及育成部長
- 2000年 - 2001年 セレッソ大阪:代表取締役副社長
- 2002年 - 2006年 ザスパ草津:ゼネラルマネージャー
- 2002年 - 2004年 尚美学園大学:監督
脚注
外部リンク