革新自治体(かくしんじちたい)とは、日本共産党・社会民主党(旧日本社会党)など、革新勢力の支援で首長となった者が務める地方自治体を指す[1]。
第二次世界大戦終結前の大日本帝国においても無産政党の政界進出は行われていたが、議会に占める割合は1割に満たず、また首長は内務省による任命か議会による選挙によって就任していたため、農民運動が盛んな農村の一部を除き、革新自治体は誕生する余地はなかった[2]。
戦後、日本社会党や日本共産党が躍進し、特にGHQの後押しで日本労働組合総評議会(総評)を組織した社会党は国政においてキャスティング・ボートを握るほどの勢力となった。特に1950年代前半はドッジ・ラインによるデフレにより地方自治体は軒並み財政難に襲われており、社会党系の県知事が次々と誕生した。特に、後に保守政党の支援団体となる医師会や農協も応援し、いわゆる労農連携が実現し、保守系野党もこれに加わることがあった[3]。
この流れは、政府が地方行政を転換し、財政の地方配分増加、農業補助金の拡大などの農業構造改善事業によって不満が収束すると、知事や大都市の市長における革新首長は減少する。国政においても、1955年の自由民主党結党以降は保守勢力の優位が成立する[4]。
1950年代後半から60年代前半までに当選していた、数少ない革新系首長としては、蜷川虎三京都府知事(1950年4月20日 - 1978年4月15日)が挙げられる。蜷川は1950年に革新知事が続々誕生したうちの一人である。しかし、自民党の基盤である中小商工業者や農民を重視するといった、本来保守政党を支持する層を取り込む政策をとることによって、7期28年間も府政を維持した。イデオロギーに政策ががんじがらめにされることがない蜷川府知事を、自民党京都府議として対峙していた野中広務は「生粋の明治人」と評している[5]。
また、北海道池田町の丸谷金保町長(1957年5月 - 1976年10月)は、財政破綻した町に十勝ワインの産業を興して財政を立て直し、町おこしの元祖として名をはせる[6]。
一方で国政における社会党は、総評の組織力に支えられており、党内右派の江田三郎が労働組合員以外への支持の浸透を図っていたが、地方支部の活動は活発にならなかった。1960年の安保闘争では岸内閣を総辞職に追い込んだものの、党中央は安保闘争にかかりきりで知事選がそっちのけとなり、前後の知事選では連戦連敗、国政でも政権交代はならなかった。江田は1960年に構造改革論を提示して左派の労農派マルクス主義と対峙したが、1962年に提示した「江田ビジョン」を巡って左派との対立が精鋭化し、社会党は深刻な党内対立に陥る[7]。
革新派の反転攻勢のきっかけとなったのは、1960年代半ばになって高度経済成長による負の遺産が明らかになってきたことにある。60年代で東京・名古屋・大阪圏の人口は3割上昇したが、政府によるインフラ整備は経済発展に必要な交通・通信網の整備や工業団地の造成など産業振興に関わるインフラが優先され、住宅・学校・病院などの民生インフラは後回しにされがちであった。また、1961年に公害の存在が明るみに出て、工業の発展と環境破壊との問題がクローズアップされるようになった。歴代保守政権の施策の負のひずみに対する反感が、革新自治体を産み出す輿論となっていったのである[8]。
1963年4月の第5回統一地方選挙では、横浜市長に社会党左派の飛鳥田一雄が当選する。この時期はまだ革新への追い風は吹いておらず、市長の当選数も前回より減らしていた。飛鳥田の当選も保守分裂の間隙をついたものあり、何より飛鳥田本人は急遽立候補させられたため、本音では乗り気ではなかった。しかし、就任後の飛鳥田は、小規模な住民集会を市の主催で開いて自身も出席し、また住宅地建設企業に学校などの社会資本の併設を要求するなど、市民を巻き込んでの民生重視の市政を運営する[9]。
革新自治体の時代が始まったのは1963年の飛鳥田の当選だと永らく言われてきたが、規模としての拡大は1967年が始まりにふさわしい。これは、63年に初当選した革新首長のうち、67年のブームの時点でその立場を貫いたのは飛鳥田のみであったため、革新首長の「1期先輩」として飛鳥田の権威付けのためにブレーンが脚色をしたのと、社会党が革新ブームに乗り遅れたのを焚き付けるために63年の飛鳥田を誇張して持ち上げたという側面がある[10]。
1967年の第6回統一地方選挙では、東京都知事に美濃部亮吉を「明るい革新都政をつくる会」(革新都民党)候補として擁立、自民・公明がそれぞれ独自候補を立てて票が割れたため、美濃部が当選した。
美濃部はその施策として、それまでの都政で日の当たらなかった老人、障害者らに対する福祉政策、無認可保育所の設置、離島対策などを行った。美濃部は特に主婦層に人気が高く、1971年の第7回統一地方選挙では美濃部が圧勝する。さらに、大阪府知事に黒田了一が就任する。この統一地方選では7知事が革新系となり、4500万人が革新首長の下で生活しているといわれた。
国政では1969年の第32回衆議院議員総選挙で社会党が大敗し、左右両派の路線闘争が始まる。江田は中道の公明党、民社党と連携する社公民路線を主張するが委員長選挙で社会主義協会派の成田知巳に敗れる。1971年の第9回参議院議員通常選挙では社公民路線の名残から社会党が公民両党から選挙協力を受けて議席を伸ばすが、社会党から両党に対しての配慮は示されなかった。翌年の第33回衆議院議員総選挙は社共両党が躍進し、公民両党は低迷した[11]。
1973年には田中内閣の積極財政に起因するハイパーインフレ(狂乱物価)が発生する。経済学者の美濃部の下には都民から物価高に対する陳情が殺到したが、都の立場ではインフレに対して対処の仕様がなく、食糧の産地買い付けという対症療法に留まった。国民の間では左派政党に対する期待が高まり、1974年の第10回参議院議員通常選挙では共産党が躍進、社会党では「左派の全野党共闘論」が方針となる[12]。 しかし、共産党の躍進は社会党の疑念を生み、特に共産党が強い地域では両党の対立を生んだ。1974年の京都府知事選では、蜷川の共産党偏重に対する反発から大橋和孝参議院議員が出馬、自民党も候補を立てずに一騎打ちとなり、僅差で蜷川が勝利した[13]。
一方、美濃部は都の財政問題に苦しんでおり、1974年の法人税引き上げに次いで、東京都議会において「財政戦争」を宣言、地方財政制度の改革を政府に対して要求した。しかしこれは自治省による猛反発(後述)を招き、更に財政問題は都民にとっては馴染みのないテーマであったために輿論の支持が広がらず、已む無く職員のベアを翌年度予算の人件費から捻出することで対応するに追い込まれる[14]。
1975年の都知事選では、共産党が同和政策を解同よりであると非難、不支持を通知し、美濃部も一旦は出馬辞退を宣言する。しかし自民党がタカ派の石原慎太郎を擁立すると支持者の間からの要望に応えて翻意、民社党が独自候補を立てたのに助けられて三選したものの、得票数は前回から落とした。また、この年の統一地方選挙では革新系の知事の多くが落選し、革新自治体は退潮となった。美濃部は首都圏革新自治体連合を結成したが、上手く機能しなかった。各首長はそれぞれ個別の政治的難題を抱えており、単一の組織の中で連携を図ることが困難であったためである[15]。
1976年11月という美濃部都政の末期には石油危機の影響を受けた税収減で都財政は赤字手前となっていた[16]。美濃部都政は、職員17万6000人から22万人へ増加させ、東京都予算の42.5%を人件費にした。これも東京都の赤字団体への転落危機の原因となっていた。美濃部都政は財政赤字を減らすため、都内下水道料金280%値上げ、都内水道料金160%値上げ、都バス・都電・分娩費用・火葬費用などの各種値上げを行った。美濃部都政期間に都の借金は9739億円増加した[17]。
1974年の田中内閣当時、革新自治体を嫌悪していた自治省が企画し、5年ほどかけて大規模な革新自治体を潰していく作戦。T.O.K.Y.Oとは、T=東京都(美濃部亮吉知事)、O=大阪府(黒田了一知事)、K=京都府(蜷川虎三知事)、Y=横浜市(飛鳥田一雄市長)、O=沖縄県(屋良朝苗知事)の5革新自治体であり、最終目標はその頂点に位置する東京都知事のポストを保守陣営が奪還することにあった[18]。革新自治体における財政問題や人件費問題などを俎上に挙げた[19]。
この時期、オイルショックとスタグフレーションにより国も地方も財政が逼迫していたが、多くのマスコミは財政問題について革新自治体に比重を置いて批判的な記事を書いていった。とくに産経新聞は記事の行間に「行革に反対する議員を落選させよう」などのスローガンを挿入するなど、露骨な革新自治体批判を展開していたが、批判の嚆矢は1975年1月22日の朝日新聞の社説「行き詰まった東京都の財政」で、都が放漫財政を行って人件費を乱費した上、福祉予算を膨張させたために都財政が逼迫したと批判したことにあるといわれる。
結果的にこのアンチ革新自治体のキャンペーンは国民に浸透しはじめ、まず嚆矢となった1978年4月の京都府知事選挙では、前回の選挙での翳りが見えた蜷川は任期限りで知事を引退して、革新府政継続を狙ったが、農林官僚出身で自民党の参議院議員であった林田悠紀夫が当選し、まず京都府政を保守陣営が奪還した。同年4月の横浜市長選挙でも、飛鳥田が日本社会党の中央執行委員長に就任した事で党内から市長退任論が惹起されたことで、飛鳥田は市長退任し後に衆議院議員に転じる事となった。後任市長には自治事務次官出身の細郷道一が当選し、飛鳥田市政の進めた横浜みなとみらい21などの「横浜市六大事業」を継続する事で実績を積み上げた。1978年に2人の革新首長が転換した事で自治省が企んだ「T.O.K.Y.O作戦」は、着実に効果を上げ始めていた。
翌1979年の大阪府知事選挙では、現職の黒田と副知事であった岸昌との事実上の一騎打ちとなり、岸が黒田を約12万票差で押さえて、革新市政からの奪還に成功する。そして美濃部都政が続いていた東京都も、高齢と都財政問題で批判が噴出していた美濃部は任期限りで退任を発表した。1979年東京都知事選挙では美濃部の後継として元総評議長の太田薫を社会党・共産党・革新自由連合が主導で擁立した一方で、自民党を中心に都政奪還を目指す候補として元内閣官房副長官の鈴木俊一を擁立。鈴木には公明・民社の中道両派などが支援する構図となった。結果は鈴木が36万票差と太田を引き離して初当選し、最大の目標とされた東京都知事の保守陣営の奪還を果たした。これにより、1978年まで革新首長だった本土の京都府知事、横浜市長、大阪府知事、東京都知事を全て保守陣営が占めたことによって結実した[20]。
1976年の第34回衆議院議員総選挙では中道の公明・民社両党が議席を伸ばし、社会党は伸び悩む。しかも江田ら社公民路線の右派の主要メンバーが軒並み落選し、協会派が党のポストを独占する。江田は社会党に見切りをつけて離党、社会市民連合を結成するが直後に急死する。公明・民社両党は少数与党となっていた自民党に接近し、自公民路線が模索される。1977年の第11回参議院議員通常選挙では社会・共産両党が議席を減らし、更にこの直後の釧路市長選挙では、党内で評価の高かった山口哲夫が自公民系の新人鰐淵俊之に敗れた[21]。
社会党では敗北の責任をとって、協会派の執行部は総退陣した。代わって委員長となった飛鳥田は横浜市長を辞任し、後任の市長には、飛鳥田の判断で公明・民社・新自由クラブが推す細郷道一に相乗りした。1978年の京都府知事選で、蜷川は不出馬。社公民三党は山田芳治を推すが、社会・民社両党は労組がまとまらず、自民党の林田悠紀夫に大敗を喫す[22]。
美濃部都政は、1977年の都議選で与党の社共公三党が敗北、自民党が復調し、新自由クラブがキャスティング・ボートを握る。美濃部は地方債の起債権が自治省に握られていることについて違憲訴訟を起こすことの同意を求めたが、新自由クラブが自治省からの働きかけを受けて反対、否決された。美濃部は自治省と労組の板挟みとなり、首相官邸に全面降伏せざるを得なかった。1979年に、美濃部都政は終わった。1979年の都知事選にて、社共両党は元総評議長の太田薫を擁立したが、自公民三党の鈴木俊一に敗れる。大阪府知事選では社共両党の不和から社会党は公明党が擁立した岸昌に自民・民社とともに相乗りして革新分裂となり、黒田が敗れてここでも革新府政が終わった。一般的にはこの1979年の統一地方選をもって、革新自治体の時代は終わったとされている[23]。
1950年から7期28年間の京都府知事知事を務め、「革新の灯台」と呼ばれた蜷川虎三も、1978年の府知事選挙への不出馬と政界引退を表明した。同年4月9日京都府知事選挙における自民党候補の当選は、「全国的な革新自治体の終わりの始まり」、「日本の政治の転換点」となった。候補を擁立した野中広務は「府政を軌道に乗せるため」として、副知事に就任した[24]。
革新自治体終結といわれる1979年から社会党は衰退が激しくなり、1980年、社公連合政権構想を締結、共産党との断絶が決定的となる。地方の首長選で社会党単独の候補が当選する見込みはなく、かといって共産党と共同推薦を行うことはもはや不可能であったため、多くの自治体では保守・中道系の候補に相乗りするか、自主投票をするという選択をとった。首長与党になって利益に与れることから前者の選択が多く、1983年の第10回統一地方選挙では市長選の6割が相乗り候補の当選となった。以降の地方首長選挙では、東京都知事選など一部の大都市選挙を除き、共産党を除く保革相乗りの候補の当選が常態化するようになる。
日本全国の革新自治体は、「支持を集めるための格好の材料」として[25]、高齢者医療費の無償化を推進した[26][27]。
日本政府や自民党は、高齢者医療費無償化の動きを「枯れ木に水をやるようなものだ」と批判していた[28]が、1971年の総理府が実施した「老人問題に関する世論調査でも、老人医療費無料化が44%で1位の世論となっていた[27]。日本政府(自民党)もこの状況に危機感を抱き[27][29]、国民の声に押されたことで[25]、田中角栄内閣は改正老人福祉法を1972年6月の国会で成立させ、高齢者医療費無償化を全国化させた(翌1973年1月施行)[26][29]。大蔵省や厚生省などは反対していたが、革新自治体に対抗しようとする自民党からの圧力に屈したとされる[29]。
基本的に日本共産党など革新系諸政党間の選挙協力による当選首長を指すが[1]、日本共産党が与党でない自治体は革新自治体に含まれないという分類もある。共産党の支持や支援などが無く、連合(日本労働組合総連合会)によるものだけでも、保革対決[30][31]とされたものも記載する。
基本的に日本共産党など革新系諸政党間の選挙協力による当選首長を指すが[1]、日本共産党が与党でない自治体は革新自治体に含まれないという分類もある。共産党の支持や支援などが無くとも保革対決と報道され、当選したものも記載する。
昭和期(主に1970年代から90年代)の主な革新系首長。
コミンテルン( - 1943年5月)