左社綱領(さしゃこうりょう)とは、1954年の日本社会党左派(左社)の綱領。左社は俗称で、分裂後も左派・右派とも組織名は「日本社会党」であり、当綱領も正式名称は日本社会党綱領。
左派社会党は、1951年の分裂後も、綱領を持たなかった。そのため1953年1月第10回大会で綱領を決定することが承認された。同年4月中央執行委員会で綱領委員会設置が決定され、委員長に和田博雄、幹事役に稲村順三、委員に伊藤好道、岡田宗司、清水慎三ら15名、顧問に芹沢彪衛、向坂逸郎、高橋正雄の3名が決定された。同年6月から8月にかけて委員会討議がおこなわれ、主に稲村順三が草案を執筆した。草案は労農派マルクス主義の立場に立つものであったが、この草案に対して、清水慎三が民族闘争を重視する対案(いわゆる清水私案)を9月下旬に提出した。綱領委員会での討議の結果、清水私案は否決された。11月中央委員会では綱領委員会の草案がそのまま決定され公表された。清水私案は下部討議に付されなかったが、一部の地方組織は清水私案を印刷配布し、綱領草案とともに活発な討論がおこなわれた。1954年1月第12回大会で、綱領草案は一部修正を経て300対54で決定された。
現在の日本はアメリカ帝国主義の従属国ながら同時に独占資本主義として労働者階級と対立しており、このため民族独立と社会主義革命は同時であり(一段階革命論)その革命は武装蜂起ではなく国会活動を通じた平和革命とする。これらは労農派や社会主義協会の流れを汲む。
第一部(基本綱領)
第二部(政策綱領)
第三部(組織綱領)
左社綱領は、1955年10月の両社会党統一で廃棄され、実際に機能したのは二年たらずに過ぎなかった。しかし、左社綱領は、向坂逸郎ら労農派・社会主義協会系の学者も積極的に作成に参加し、労農派マルクス主義の理論が初めて国会に議席を持つ政党の綱領として体系化され、労農派・社会主義協会の歴史上きわめて重視されてきた。両社統一後も、社会主義協会は何回か左社綱領を印刷・配布したことが『社会主義』上の広告でわかる。ただし、向坂逸郎は左社綱領の弱点として、統一戦線論と国際関係の不十分さも指摘している。