■ ― 区 / ■ ― 市 / ■ ― 町・村
地理院地図 Google Bing GeoHack MapFan Mapion Yahoo! NAVITIME ゼンリン
国分寺市(こくぶんじし)は、東京都の多摩地域中部に位置する市。1964年(昭和39年)11月3日市制施行[2]。
市は東西約5.68km、南北約3.86kmにわたって広がり、大部分が武蔵野段丘の平坦面上である。
東京都の中央部に位置し、富士本3丁目には日本数学検定協会が実験的に求めた東京都の重心[注釈 1]があり、近くの富士本90度遊園に看板がある。[3][4][5]
市域の大部分を占める高台上の平坦地である武蔵野台地と、国分寺崖線を境に一段低い立川台地、および高台を刻んで流れる野川上流の谷でできている。国分寺崖線は「ハケ」とも呼ばれ、大昔立川台地の形成期に多摩川が武蔵野台地を浸食してできた浸食崖である。上流は武蔵村山市残堀付近から始まり、市内西町5丁目(高さ約5m)、光町1丁目(高さ約11m) 、西元町(高さ約12m)及び東元町1丁目と南町の境(高さ約16m)へと続き、さらに野川の東岸に沿って大田区丸子橋付近まで伸びている。また、「お鷹の道・真姿の池湧水群」(名水百選に選定)と言われる湧水群があり、ハケ下の野川に流れ込んでいる。
海底時代、陸北時代、武蔵野台地形成時代、立川台地形成時代を経て現在の地盤ができ、表土から下へ関東ローム層、砂礫層、そして岩盤(連光寺互層)となる。
大化の改新後、武蔵国の国府が府中にあり、その府中宿より北上する官道(東山道武蔵路)で当地につながっていた。
741年に聖武天皇の命により建立された国分寺(武蔵国分寺)がこの地にあったことに由来する。
2005年の夜間人口(居住者)は115,238人である。市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は95,649人で昼は夜の0.83倍の人口となり、夜間に比べて昼の人口は2万人弱ほど減ることになる。平成22年国勢調査によれば、東京都特別区部への通勤率は32.7%である。
通勤者・通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者38,106人、市外から市内へ入る通勤者は19.607人と通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く、学生でも市内から市外に出る通学生は7,826人、市外から市内へ入る通学生は6,736人と学生でも昼は市外へ流出する人数のほうが多い[6]。なお、国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人おり、この項の昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に若干の誤差は生じる。
国分寺市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。また、それ以外の区域では町名地番整理が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部である。
郵便番号
市外局番等
特記なき場合『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み』などによる[7]。
国分寺市では1963年(昭和38年)に建設された旧本庁舎が耐震性の問題から閉鎖・解体され、以後は庁舎が分散する状態となっていた[8]。そこで「国分寺市新庁舎建設基本構想」(2019年3月)及び「国分寺市新庁舎建設基本計画」(2020年8月)を策定し、泉町の都有地を購入して新庁舎(地下1階、地上5階)を建設し、2025年(令和7年)1月6日に移転した[1][8]。これにより市内の公共施設内に分散して配置されていた部署の執務室も新庁舎へ移転した[1]。
多摩信用金庫(本店・立川市)を指定している。これは、同庫の直接の前身である多摩中央信用金庫を指定していたものを継承したため。
(産業別事業所数上位5位まで。カッコ内は構成比。2001年10月1日現在)
(産業別就業者数上位5位まで、単位・人。カッコ内は構成比。2001年10月1日現在)
国分寺町警察署は1951年に小金井警察署(当時:小金井町警察署)と共に自治体警察を廃止統合されたため、同署が両市を管轄している。
「恋ヶ窪駅#当駅付近が舞台になっている作品」も参考にされたい。
本多 | 東恋ヶ窪 | 東戸倉 | 本町
北町 | 並木町 | 新町 | 戸倉 | 富士本 | 西恋ヶ窪 | 日吉町 | 高木町 | 光町 | 西町
南町 | 泉町 | 東元町 | 西元町 | 内藤
立川市 | 武蔵野市 | 三鷹市 | 府中市 | 昭島市 | 調布市 | 小金井市 | 小平市 | 東村山市 | 国分寺市 | 国立市 | 狛江市 | 東大和市 | 清瀬市 | 東久留米市 | 武蔵村山市 | 西東京市
八王子市 | 町田市 | 日野市 | 多摩市 | 稲城市
青梅市 | 福生市 | 羽村市 | あきる野市
瑞穂町 | 日の出町 | 檜原村 | 奥多摩町